考 日本人

               岩生 百子

 先日、テレビを見ていたら、大学生の就職活動において、最近は「カジュアル面接」なるものを取り入れている企業が増えつつあると紹介していた。

 カジュアル面接とは、面接時の服装が、いわゆるリクルートスーツを着用しなくてもよいということで、服装からその個性を見出したいという主旨で行われるようになったらしい。

 取材を受けている学生たちは、多少戸惑いもあるようだったが、自分らしさを演出するための服装選びに一生懸命だった。ある学生は「春らしさと爽やかさをPRしたい」と行っていた。また、「プリント柄のブラウスで自分らしさを表現したつもりだ」とコメントしている方もいた。どの方も「面接」という場を考慮して、全く場違いな選び方はなかったし、よいのではないかと思った。が、私はこの面接のあり方を否定するつもりはないが、それ以前のところで、もっと考えなければならないことがあるような気がする。

 表向きのことばかり変えても、内面の深いところは何も変わっていないように思えてならない。自分の人生の「信念」とでもいうか、そのようなものが希薄に思えてならない。

どの業界でもそうだが、日本人は、本当の本質は、なぜか、「今までのやり方」に固執している方が多いように思える。固執というより、変化を恐れるがゆえに、新しいことをやろうとする者の足を引っ張るという方が適切な表現かもしれない。その恐れの心を何かにかこつけて理屈を言っているだけ。

昨今、新聞やテレビを賑わせているライブドアの堀江社長に対しても、私はどちらの味方をするわけでもないが、新しい挑戦を仕掛けてきたものに対して、もっとその上を行くような、斬新で新しいアイディアで対抗すればいいのに、大きく変化することを恐れて、阻止しよう、守ろうとする手段ばかりを考えているようにしか思えない。

 また、私はつい先日も、教育関係の方とお話しする機会を持ったのだが、ある中学校長が嘆いていたことは、学校長がいくら教育改革を進めようとしても、それを実践する先生方がなかなか理解を示さないということであった。

 「これまでは、このやり方でやってきた」とか、「これがこの学校の伝統あるやり方なのだ」とかおっしゃって、生徒指導にも当たられるようである。具体的に言うと、生徒を上から押さえつけ、規制を与えることで、物事を大事に至らないようにする。起こった問題に対して、なぜそこに至ったかという原因と結果、自分自身のあり方を考える時間を与えない。問題解決に時間をかけないというのがその理由と見受けられるが、それは、教師の都合であって、生徒側からすればいい迷惑である。そういう指導が、現代必要とされている「生きる力」に繋がるかどうか。

 いつの時代からの伝統が行われているのかはわからないけれど、現代の日本社会は確実に変化している。そのスピードも加速度を増し、日々、注意して見守っていなければ、時代の流れの中に取り残されそうな激変の時代である、しかし、それと問題のスピード解決は、次元が違う話である。今の時代だからこそ、自ら考える時間をもっと取るべきではないだろうか。

 日本の伝統は、もちろん大切に残して行かなければならないものもある。しかし、これだけ教育改革が叫ばれ、これからの子どもたちのために、何をすればいいのか論議されているにもかかわらず、その実践となると何もなされていないのが現状のような気がする。

 「どうしたら子どもたちは変わってくれるのでしょう?」という声もよく聞くが、子どもたちを本当に変えたいと思うなら、自らが変革、向上しなければならないと私は思う。

 地域の小中学校では、「あいさつ週間」というのがあって、その週間だけは、毎朝、校門で「おはようございます」と、大声で連発しているが、その期間が終わってしまったら、誰も挨拶などしない。

 これも学校長の憂える言葉だが、職員室で、教師自身あいさつもしない、回りを無視してパソコンに向かっている方もいるそうだ。ここまでくると、教師の資質以前、社会人としての常識を問われるが、大人がしないことを、子どもはしなくて当然である。

 伝統を重んじた教育をしているというのであれば、私たちが幼い頃には、あいさつするということは親が躾けることとして当然だったし、常識であった。あるときだけ「伝統を重んじる」と言うのは、ただのご都合主義でしかない。

私の父は、「あいさつひとつできない人間にろくな者はいない」と言って私を育てた、だから私が偉い言っているのではない。そんなことは常識の範囲であって、その常識を実施するための週間をわざわざ設けなければならないという世の中になったということに憤りを感じるのである。あいさつは、その相手の存在を認め、敬う心のはじめの一歩だ。その「心」が欠如してしまったのだろうか。

これは私の持論であるが、日本人は「自由と平等」に対する認識を間違えている方が多いのが原因ではないかと思う。

自由には必ず責任がついて回ることを知らない。勝手気ままに生きることが自由だと勘違いしている。例えば、何でも子どもの自由だからと、外泊しようが他人に迷惑をかけようが放ったらかしにしている親。その親も、夫婦間の干渉しないからとお互いに勝手気ままに生きている。まさに家庭崩壊である。今の日本社会において、言論も自由であるし、法に触れない限り、何をしてもいいだろう。しかし、自分がやったことには必ず責任がついて回るのだということを、大人がそれぞれ自覚しなければならない。そして、そのことを、子どもたちにも教えなければならない。

また、平等について言えば、私が高校生の頃は、先生や、一年でも上の先輩は絶対的存在だった。「○○先輩」と呼び、街中で出会っても、頭を下げあいさつした。親に対しても、自分を養育してもらっている感謝の気持ち、または、それまで生きてきた人生の先輩としての尊敬の気持ちは持っていた。年齢差や上下関係、または男女の違いを考えないというのことが平等ではない。人生を多く生きてきた人の経験には、それだけの意味があると思うし、課長や部長に昇進した方には、そこに至った道筋はどうであれ、それだけの価値がある。男には男にしかできないこと、また良さがあるし、女にしてもそうである。父親が父親としての役割を果たし、母親は母親としての役割をきっちり果たす。平等とは、その人の働きを認め、感謝すること。その生き方を尊重し、受け止めることではないかと私は思っている。

それは、法律を定めたり、改革したりすることで変わるのではなく、それぞれがしっかり自覚し、行動できたときに始めて世の中が変わるのではないだろうか。

このままではいけないと、いろいろな業界で訴え続け、真剣に取り組み、活動していらっしゃる方もたくさんいる。だから、私は日本の国がもっとすばらしい国になると信じてもいる。

しかし、はっきり言って、何とかの改革案とか法律が制定されるなどの話には、もう、うんざりしている。それで日本の国がよくなるのであれば、もうとっくによくなっているはずだ。実際、そうやって表向きに体裁を整えたとしても、ご都合主義の思想家たちは、組織や自分の立場を守るために、都合のよいところだけをつまみ食いして実行しているだけではないか。

 自由主義国アメリカの成功者には、信心深い人が多いという。その人たちは「自分のして欲しいことを人にしてあげなさい」と言っている。逆に言えば、「自分が嫌だと思うことは人にしてはいけない」ということだ。私は宗教を信じているからそういう心境になるということを言いたいのではない。ただ、彼らは、大きな宇宙(=神?)あるいは自然の恵みの中で、自分も生かされているということを認識しているのだと思う。だから、感謝の気持ちの上でそのような言葉が言えるのではないかと思う。

 神話の国の日本。かつて、日本人も、神や自然と近しく生きていたはずである。その中で、家族、組織が存在していた。しかし、現代の日本人は、お正月だけ初詣をし、窮地に陥ると神頼みをする人が多い。それもやはり、言ってみれば利己的なご都合主義だ。本当は、うまく行っている時ほど、感謝の気持ちで祈らなければならないのではないか。 

 もうそろそろ、突っ走るのをやめて、それぞれが自分自身を見つめ直す時期が来ているのではないだろうか。

 今の仕事は、金銭欲ではなく、本心自分がやりたいことなのか?

 今の言動は、自分の欲からではなく、本心、相手を思いやってのことなのか?

 誰かのせいにして、自分の生きてはいないか?

 本当に心から楽しんで生きているか?

 大人たちが自ら本気それを考えた時に、今まで作り上げた上辺の理屈が生きてくる。子どもたちも変わる。本当に過ごしやすい国になるのではないかと思う。

そして、そこから自分自身の「信念」が生まれ、個性が光る。その個性をお互いに尊重し、認めることができるのではないだろうか。


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