くるみは何処から

 

             いわお ももこ

 

 育った環境の中で、物事の常識を「こうなんだ」と思い込んでいることがある。

 先日、夫とテレビを見ていたら、たくさん実がなっているくるみの木の下で、歓声をあげながら実を拾っている女性が映っていた。

「くるみって、木にできるもんなんやなあ。俺、大人になってから初めて知ったぞ」

 夫は、ぼそっと言った。

 物知り博士のような夫にしては、めずらしいことを言う。私が、へっ?という顔で見ると、

「小さい頃、海辺の家に住んでいて、くるみが浜辺にいっぱい落ちとったんや。手に持ちきれんくらいたくさん拾って家に持って帰ると、それをおふくろが干してくれてさ。乾いたら炒ってくれる。パンパーンとはじけて、その中の実をスプーンでほじって食べるんや。いつも、それがおやつやった。干している間、楽しみで楽しみで、早く食べたくて。でも、乾ききらんとまずくてとてもじゃないけど食べれん。あの頃からずっと、くるみは海から流れてくるもんやと思っとった。それが何年か前に、仕事で山に行った時に、上司に『これはくるみの木や』と教えられたんや。その時はじめて、くるみは木になるものなんやと知った」

「へえ、じゃあそれまでずっと、くるみは海から流れてくるものやと思っとったわけ?」

 私が尋ねると、彼は真顔で頷いた。

 どこかの山でなったくるみの実が落ちて、川や海の流れに乗り、毎年毎年、浜辺に流れ着き、彼の口の中に入っていたという物語は、とってもロマンチックで、童話にでもなりそうだわと、私はいたく感動したが、その反面、小さい頃からの環境が作り出した、「思い込み」の怖さということも考えた。

 思い起こしてみれば、私が思っていた「くるみの常識」とは、「中国の特産物」だと思い込んでいた。なぜなら、私が幼い頃、父は中国物産展で、くるみをくるみ割りの道具付きで買ってくれた。その道具も今まで見たこともないものだった。

 その後、くるみ割りの道具はあっても、くるみはなかなか買ってもらう機会がなかった。

だから、それは中国にしかない大変珍しい食べ物として私の中で定着していた。いつの頃から、そうではないと知ったのかは覚えていないが。

 そして、我が家の子どもたちはどうかというと、もしかしたら、くるみがあんなに硬い殻の中に入っているということを知らないかもしれない。くるみは、砂糖や水あめ漬けになって袋入りで売っているもの。そう思っているかもしれない。木の実だということは知っていても、あの袋に入っている形のものが、そのまま木になっていると思っているかもしれない。

 くるみの実がそこにあるという事実。しかし、環境の中で育まれた思い込み。

あなたは、そんな他愛のないことと思われるかもしれない。それがどうした?と言われればそれまでだが。

しかし、私はこの些細なできごとで、もしかしたら、もっとたくさんこのような思い込みで生きているのではないかと思った。だとしたら、本当の真実、事実を見極めていくことの重要性を感じる。これが「くるみ」だからまだいい。人生を左右するくらいの物事を、この「思い込み」で判断しているとしたら? 全く違う方向へ進んでしまう可能性もあるのではないか?

私が師と仰ぐ泣qューマンパワー五五五宮崎 代表取締役社長 藤岡穂積氏からいただいた書の中に、

「信ずるな

  うたがうな

   確かめろ」

という墨字がある。

それがどういうことなのか、ぼんやりとしか見えていなかったが、はっきりわかったような気がする。

先日、サッカー選手になりたいと言っている我が家の次男に、ある知人が、

「サッカーを本格的にするんだったら、やっぱり海外に行かないとだめだよ。知り合いの子どもが高校進学をやめて、そのかわりスペイン語を必死で勉強して、アルゼンチンに行ったよ。やっぱり海外じゃないとだめだよ」

 と言った。しかし、「海外じゃないとだめだ」というのは誰が決めた、誰の価値観なのだろう? それは、自分自身が体験し、自分自身が考えることでしかないのだ。自分の実に起きたこと、それだけが真実なのではないだろうか?

幸いなことに次男はとても頑固なところがあって、自分の進むべき道は、自分が決める。誰が何を言おうと、「参考までにありがたく受け取って…と、思いのまま行動する人だから、動じなかったけれど。彼もいつかは海外へ行きたいと思ってはいる。でも、今の目標は違うところにある。

それが成功か失敗かは誰にもわからないことだ。彼は今の環境の中で毎日の体験や、自分で得た情報の中で、今の自分の位置を作り出している。そして、彼自身が確かめていくしかないのだ。

すべて何事も同じだと思う。

誰かがこの方法でやったら業績が伸びた、成功したからといって、他の人がやって同じ結果になるとは限らない。もっとすごいことになるかもしれないし、少しやり方をかえたらいい場合もあるかもしれない。

「あの人は、この方法でどのくらい結果を出したのですか?」

と、他人のことを聞く人が時々いるが、そんなこと、本当はどうでもいいことだ。

「あの人が結果出そうと出すまいと、あなたはどうしたいのですか?」

 人がどうかは関係ない。自分で確かめるのか確かめないのか、今までの壁を壊すのか壊さないのか、それだけが重要なことだ。

「成功したいなら、成功者の真似をすればいい」と言った人がいる。しかし、それはすべて真似をするということではないはずだ。

「成功者の考え方の癖」は確かにある。だが、それを行動に移し結果を出すのは、自分自身の内面、個性、才能。人それぞれなのだ。

夫と私、同じ「くるみ」を描いても、全く違う「くるみ」でもあるのだ。一緒にテレビを見て、木になるくるみの実を確認したけれど、それでもそれをどう見て、どう感じたかは自分自身にしかわからないことだ。多分違うくるみなのだと思う。百人いれば、百人の違う「くるみ」があるのだ。

どんな「くるみ」なのか、確かめるのは自分しかない。それも今の自分。明日の自分はまた違う経験の中から、違う「くるみ」を見るかもしれないのだ。

そして、それを確かめるには、自分の内面をよく知っていなければならないのだと思う。

自分の内面。たぶん、死ぬまでに知り尽くせるものではないかもしれない。掘っても掘っても限りなく続く旅。掘り続ける限り、一刻一刻、違う自分が発掘される。まあ、この程度だろうと思った時に、人生終わってしまうに違いない。

自分はどんな人間なのだろう? 常に注意を向けて見つめ問いかけながら、進み続ける。それが生きること。

「人は、成功するために、幸福になるために生まれてきた」

そのために、魂の喜ぶ生き方をし、後悔のない人生を送りたいものだと思う。

長いようで短い、短いようで長い、自分の人生の旅路を。

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