叫び

 

               岩生 百子

 

 この四月から、次男が通う中学校の校長が新しく赴任してきた。

 組織の長が変わるということの重大な影響力というものを、私は、子どもを通じて目の当たりにすることとなった。


 私は息子の中学で起こっているできごとを、今ここで、親の感情でぶちまけることは本意ではないので、何があったかを事細かに述べるつもりはないが。思えば、このところマスコミにさわがれている三菱自動車の問題にしても、突き詰めて考えれば、原因は組織の考え方・体質=長たる者の考え方・体質が、表面化されたことではないだろうか?

 物品販売の会社であれば、消費者がその製品を買わなければそれで済む話であるが、学校という組織が与える影響は、子どもたち自身の命、将来、もっと言えば日本の未来にも関わる事だということを、教育者達はもっと認識して欲しい。

 先日も、小学校六年生女子のショッキングな事件があったばかりだが、これも大人の問題である。今の教育への警鐘であると、私はとらえている。

 こういう信じられないような事件が起こると、たいていの教育者は考える。問題が大きくなってからでは遅い。常日頃、小さな問題から対処を怠らなければ、新聞沙汰になるようなことは決して起こらないと。

 確かに、私もそう思う。ただ、それには、日頃から、ひとりひとりの子ども達が何を考え、どう生きていきたいのかということを的確に把握した上でのことだと思う。

「小さいトラブルでも、事細かに事情を聞き、速やかに解決しなさい」

 息子の通う中学校の校長は、教師達にそう言って指導しているという。私は、そのことは大変すばらしいことだと思う。が、では、これを受けて、現場ではどのように行われているかというと…

ある小さな事件が起こった。関係していた子ども達はもちろん全員、別室へ呼び出される。そこへ四〜五人の教師で事情聴取。私は少しだけその様子を垣間見る機会があったのだが、まるで、犯罪者に対する警察の取調官のような口調の教師もいた。

ひとつの「結果」に対して、関わった子ども達はその人数分だけの動機や考え方、行動に至った経緯があるはずだ。教師は当然、ひとりひとりに尋ねている。

「なぜ、このようなことをしたのか?」

 子ども達はそれぞれ答える。うまく話せない子に教師は、紙に書けと指示する。が、教師達には、対処の仕方のマニュアルでもあるかのように、あるいは、もう筋書きができているかのように、子どもの言うことには耳を貸さない。

「事実から逃げてはいけません」

 などと言い、自分たちが満足できる回答が得られるまで、ネチコチと「説得」する。刑事ドラマの犯罪者が、「うそをつけ。本当はこうなんだろう」と圧力をかけられ、誘導尋問されている場面を思わず想像してしまう。警察より悪いのは、下校時間をとっくに過ぎるまで、未成年者の「身柄を拘束」しておきながら、保護者には何の連絡もしない。保護者は、時間になっても帰ってこない子どもを心配しているというのに。

 子ども達は思う。どうせ何を言っても信じてもらえない。話をねじ曲げられてしまう。早く帰りたいのに。そして、結局、教師が納得することを話し、

「すいませんでした」

 とりあえず、謝る。

 満足した教師達は、それから保護者に連絡を入れる。小さな事件を、さも早期発見により、非行に走るところを阻止したと言わんばかりに、意気揚々と顛末を話す。これを針小棒大というのだろう。その間に、本当に困った大事件を計画している、あるいは実行している生徒がいたらどうするんだろうと、私などは考える。

 しかし、その教師の言葉を信じる親もいる。

うちの子はいつもいつも、こんなことで学校に残らされ、問題児なのかもしれないと、まじめに思うかもしれない。それで、子どもを叱る。もう、先生に注意されるようなことはしてはいけませんと。本当のところ、子どもはどのような思いか聞きもしないで。

 こういうやり方で、子ども達が心から納得し、反省しているわけがない。

「大人は、何を言っても聞いてくれない。信じてくれない。わかってくれない」

 これが子ども達の叫びなのだ。

 教育とは、こういうことなのか? 教師達にこのことを指摘すると、みんな口をそろえて言う。

「私たちは一生懸命やっています。それを理解してください」

 一生懸命やって当たり前だ。世の中のほとんどの人はみんな、「自分なりに」一生懸命生きている。これが一生懸命でないのであれば、もう世も末だ。

 私は、方向性や、やり方の問題を言っているのだ。一生懸命やるだけで物事うまくいくというのであれば、誰も苦労はしない。この世の中、うまくいっている人にはうまくいっている理由がある。それが方向性ややり方の問題なのだ。 

本当に子どもたちのことを思っているというのであれば、ひとりひとりの声にもっと耳を傾け、十把一絡げにこうだときめつけるのではなく、ひとりひとりに対しての対応があっていいと思う。

 また、小さな事件とはいえ、すぐに解決するもの、少し日を置いてわかってくるもの、さまざまなのに、性急にすべて、その時一挙に解決しようというのにも無理がある。子どもたちは、オートメーションに乗っている製品ではない。生きている一つの命、魂なのだ。その魂をもっと、尊重して欲しい。

「いい子になりなさい」

 大人達は子どもに言う。「いい子」とはどんな子なのだろう?

 今の教育が行っていることは、大人にとっての都合のいい子製造所でしかないと思う。

 もしかしたら、そんな育ち方をしてきた教師達にしても、校長にとって都合のいい教師になろうとしているのではないか。

 校長に言われたことを忠実に守ろうという所だけに視点が行き、校長が満足する対処の仕方を実行し、子ども達の心の叫びにも全く気づいていない。

 人権無視もいいところである。自由主義の日本において、そして、こんなにも人権問題が叫ばれている中で、公然と行われている。

 そして、子ども達を疑うところからスタートさせているではないか。

 こういう行為が、小さいトラブルから芽を摘もうという試みであるにも関わらず、逆に子どもたちに不信感ばかり募らせ、信頼関係からほど遠い距離においているのではないだろうか? 

 もちろん、すべての教師がそうだと言っているわけではない。一握りの教師ではあるが、そういうことを十分わかた上で子どもたちと接しているから、子どもたちに信頼されており、人気がある。でも、そういう教師は、上司や同僚からは、反逆児か変わり者として通っている方が多い。

 今は心の時代だ、ゆとりの教育だと、もっともらしい顔をして理屈だけ言う人がいるけれど、私は、こういうことが度々起こると、心を無くした時代だと切実に感じてしまう。

 子ども達のために何をすればよいのか、頭ではなく心で感じ、考えて欲しいと思う。

 人はみな、誰かにとって都合のいい人になるために生まれてきたわけではない。自分がこの世に存在することに感謝し、何のために生きているのか、真剣に自分の内面を見つめ、自分らしく個性的に、楽しく生きるために存在しているのだ。

「先生方は、なぜ教師になろうと思ったのですか? 今、子どもたちと共に生活し、心から楽しいですか?」

 苦虫を噛みつぶしたような顔をしながら、重箱の隅をつつくような非合理的な生徒指導をしている教師に、私は、そう尋ねてみたい。

 自分が楽しいと思えないのなら、子どもたちも楽しい学校生活を送っているわけがない。

 子ども達には、大いなる夢を描き、それに向かってキラキラと輝きながら、伸び伸びと生きて欲しい。それぞれの「人生の成功」を手にして欲しい。

非行防止対策もいいけれど、一番大切なことは、そうできるような環境を提供し、ずっと信じて応援し続けなければならないのではないだろうか? 

 私ごときが、声を大にしてこういうことを言ったとしても、世の中が急変するわけではない。しかし、私は私のできることで、微力かもしれないけれど、自分の子どもを含め、未来ある子どもたちのために、本物の「心の時代」を追求し、実現させたいと思う。

今、子どもたちには、「どうせ、世の中、こんなもんさ」とあきらめたりして欲しくはない。自分自身の人生を深く考え、自分をプラスの方向に向け、まっすぐ成長していって欲しいと心から願っている。

そして、私自身、もっともっと自分を磨き、成長し続けなければならないと思っている。その姿を見せ続けていくことが、今の私にできることなのだ。

 

 

 

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