第四章 天使の造った宗教、仏教

 

 

★法華七喩  火宅の喩え

 

 

 

例えば、ある人に、古くて倒れかけた大きな家があり、

その土台は崩れ落ちて、柱の根元が腐っていたとせよ。

         中略

その家には五百人以上の人が住んでいた。

そして、多くの小部屋があって、汚物が満ち溢れ、見るも汚らわしかった。

たるきはすべて崩れ落ち、壁も塀も壊れて落ちた。

         中略       

かの家は大きく高く、しかもぐらついていて、このように恐ろしく、

古びてこわれ、荒涼としていた。この家がある人の財産であるとせよ。

かの人がその家のそとにいたとせよ。

そして、家が突然に燃え上がったとせよ。

幾千の火焔があたり一面に燃えひろがり、家の四方が火につつまれた。

        中略

幾千の火焔が一面に拡がって、かの家このように恐ろしかった。

この家の持主である、かの人は屋外に立って、それを眺めていた。

彼は自分の子どもたちが家の中で玩具に心を奪われて遊んでいて、

何も知らない愚かな者のように、遊びに夢中になってたわむれている。

彼は子供たちに家の欠点を告げる、

「おい坊やたち、物凄い火難だよ。ここには、いろいろなものがせい棲み、またこの火だ。

火難が続いて起こるし、激しいよ。

毒蛇や、残酷な心のヤクシャやクンバ−タどもが数多く棲息し、猛獣どもも、犬や狼の群れも、また鷲などが食物を探し求めている。

火事が起こらなくても最高の恐ろしさなんだ。

このように、どれもこれも火難であるのに、火がまた四方に燃え上がった。」

このように諭されたにもかかわらず、子どもは、遊びに夢中になり、父の言葉を考えず、また気にもとめない。

かの人はそのとき考えよう、「子どものことを思うと、わたしは心配でたまらない。

子どもを持ったとて、その子を失えば何になろう。いま子どもを焼き殺してはならない」と。

彼は手段を考える「子どもたちは玩具に夢中になっている。ここには遊ぶ道具は何もない。

しかも、子どもたちはこのように愚かである。」

 彼は子どもたちに言った、

「坊やたち、御聴き。わたしはいろんな乗物を持っているだよ。

鹿や山羊や立派な牛が繋がれていて、高くて大きくて、奇麗に飾り立ててあるんだよ。

それらの車は、家の外にあるんだよ。

さあ、走って出てきて、それで遊びなさい。

おまえたちのために、わたしが作らせたのだ。

さあ、一緒に出てきて、それで好きなだけお遊び。」

子どもたちはこのような乗物のことを聴き、元気を出して急いで走り出た。

みんなが戸外に出た途端に、子どもらは苦難を免れることができた。

  法華経  譬喩品

(法華経は、すべて「法華経」  坂本幸男 岩本裕 訳注から引用させていただく。)

 

古くて今にも倒れそうな家があった。

その中には多くの人が住み、多くの小部屋もあった、また汚物も満ち溢れていた。

その家の主人が外に居る時、大火が起こる。

中には自分の子ども達が居る。

中の子ども達は愚かで、火事のことさえ知らず楽しく遊んでいる

火事だけでも恐ろしいのに、化け物どもの争いも始まった

そこで主人は子どもたちを火事から救うため方便を使って子どもを救おうと考える。

そこで主人は外には面白いおもちゃがあるよと言って子ども達を火事から救い出す。

 

古くて今にも壊れそうな星、地球があった。

その中には多くの人が住み、多くの国もあった、また環境汚染も進んでいた。

彼らの祖先は地球の外に居て、核戦争を免れた。

地球の中には子ども達、過去の人々がいる。

彼らは愚かで1999年の火事、核戦争のことすら気づかない。

核戦争だけでも恐ろしいのに、地球内全面戦争、悪魔の地球侵略まで始まった。

なんとか彼ら地球人を助けたい、そこで彼らは巧妙な手段(方便)を使って子供達を助け出す。

この話はまさに1999年の地球を暗示してはいないだろうか。実は、これは聖書ではない。

これは、お経なのだ、仏教教典なのである。この教典はシャカの死後恐ろしい時代が来ると説く末法思想の最も強い法華経である、妙法蓮華経である。

この章では、この教典を使ってこの説の正しさを証明してみたい。

また、この教典にも、1999年の核戦争のことは、法華経の御利益を述べている部分でさりげなく述べられている。

 

完全な「さとり」に到達した阿羅漢の、かの尊きシャ−キヤ ムニの言葉に従い、

かの教え、読誦させ、奨励し、思索し、記憶し、また他の人々に解き明かした。

良家の息子よ、汝のこの福徳の蓄積は、火によって焼き尽くすことも、水によって流し去ることもできない。

  法華経  薬王菩薩本事品

 

さらに一層の難事といえば、余が入滅した後の時世に、

誰かがたとえ一瞬の間でも、この経典を語ることである。

劫火にこの世が焼けつくすとき、枯れ草の荷を背負うて、

燃える火の真中を歩く人があったとしても、それは難事ではない。

  法華経  見宝塔品

 

悪意のある者が誰かを殺そうと、火坑に落としこんだとしても、

アヴァロ−キテ−シュヴァラを心に念ずれば、水をかけられたように、

火は消える。

  法華経  観世音菩薩普門品

 

吐く火の物凄く怖しく、まなざしに毒をもつ蛇どもに囲まれようと、

アヴァロ−キテ−シュヴァラを心に念ずれば、その時かれはただちに無毒となる。

  法華経  観世音菩薩普門品

 

なお、最初の文では、火、水の順で出てくるが、火とは1999年の核戦争であり、水とはその後に起こったポ−ルシフトで極地方の氷が解けて地球全体を覆った大洪水を暗示している。

 

★仏教の悪魔も悪魔的未来人だった

 

天使的未来人がタイムマシ−ンを完成し過去に帰ってみると、地球は別の未来人のグル−プに乗っ取られその住民は、奴隷にされていた。永遠の生命を持つ悪魔的未来人のもとで、永遠に輪廻転生を繰り返す憐れな奴隷にされてしまったのだ。

 

かれらの身体にはヤクシャが入りこもう。

かれらは貧乏となり、痩せ衰えて、いつも他人の使用人となって、こきつかわれよう。

かれは数々の苦痛を受け、庇護を受けることなく、世の中を放浪しよう。

かれらがこの世で誰かに使われる身となっても、その人はかれらに何も与えようとはしない。

また、たとえ施しを受けても、かれらは直ちにそれを失うであろう。

悪行の果報は実にこのようである。

  法華経  譬喩品

 

彼ら悪魔的未来人は、我々過去の人々に何も真実は伝えず、何も与えてはくれなかった。

彼らは地球を乗っ取り、我々をただの労働力として見なしたのだ。その労働力のもと彼らはよりよい生活をしているのだ。

これは預言というよりも警告なのだ。もう21世紀はそうなっているのだ。

 

かれらは幾百万の例話や因縁を用いて、幾千万の人々に教えを説く。

かれらは心に歓喜を生じて教えを語り、多くの求法者たちを教え導く。

軍勢を率い戦車を従えた悪魔を討ち、教えの太鼓を打ち鳴らす。

わたしは見る、仏の息子らのある者は、仏の教戒に驚嘆し、

人間、神、ヤクシャ・ラ−クシャサに崇められてもおごらず、平静に行動に終始する。

また、他の者たちは森林に隠居して、身体から光輝を放ち、

地獄に堕ちた衆生を救い上げ、そしてかれらを鼓舞して「さとり」に導く。

  法華経  序品

 

またかれらの弱点や欠点を探しあさる悪意のある悪魔が姿を現さないように、

また悪魔の息子たちとか、悪魔の眷族の天子たちとか、悪魔の娘たちとか、

悪魔の  従者たちとか、さらには悪魔にかしずく輩が姿をあらわさないように努め、

わたくしはかれらに安穏な生活をさせ、かれらに対する攻撃を防ぎ、

かれらを襲う毒物を消すでしょう。

  法華経  普賢菩薩勧発品

 

「この良家の息子は「さとり」の壇に赴き、この良家の息子は人を堕落さす悪魔の車を征服し、

教えの車輪をまわし、教えの太鼓を打ち鳴らし、教えの螺貝の音をひびかせ、

教えの雨を降らせ、教えの獅子座に登るであろう。」

  法華経  普賢菩薩勧発品

 

良家の息子よ、汝のこの福徳の蓄積は、幾千の仏によっても、

それを発揮することはできない。

汝は汝を狙う悪魔を殺し、良家の息子よ、恐怖の戦いにうち勝ち、

茨のような敵を征服したのだ。

  法華経  薬王菩薩本事品

 

悪魔の眷族や神や、竜、ヤクシャ、ガンダルヴァ、クンバ−タンどもが襲撃の機会を得ないように、余はそれを汝に委ねよう。

アヴァロ−キテ−シュヴァラを心に念ずれば凶悪な敵軍は直ちに撤退しよう。

  法華経  観世音菩薩普門品

 

彼は悪魔とヤクシャを征服するであろう。

この教えの法螺貝を吹き鳴らすであろう。

この教えの太鼓を打ち鳴らし、生死の大海を渡るであろう。

  法華経  薬王菩薩本事品

 

そのとき、わたしは「あれは悪魔ではない。

世間の庇護者が真の修行を示されたのだ。

ここには悪魔たちの住む場所はない」と知りました。

  法華経  譬喩品

 

悪魔的未来人の地球侵攻を食い止めるために、預言や、宗教が人間に与えられたのだ。しかし、人間はこれを受け入れなかった。

 

もし、良家の息子よ、この三千大世界に悪漢とか敵とか盗賊とか武器を手に持つ輩が充ち溢れている場合、ひとりの隊商長が隊商の大部隊を引率して、評価できないほど高価な貴重品をもって旅行するとしよう。

かれらが旅行している途中で武器を携えた盗賊や悪漢や敵どもを見たとしよう。

そして、盗賊などを見て怖れおののき、慌てふためいて、自分達がどうしようもないことを知ったとしよう。そして、その隊商長が商人の各人に、

「諸君、怖れることはない、怖れることはない。

われわれに安心を授けられる偉大な志を持つ求法者アヴァロ−キテ−シュヴァラを、

われわれは声を揃えて一緒に叫ぼう。

そうすれば、諸君はたちどころに盗賊や敵どもの恐怖から免れることができよう。」

  法華経  観世音菩薩普門品

 

我々は、三千大世界を行く旅人なのだ、隊商なのだ。それをグランドクロスのころには、盗賊である悪魔的未来人が待ち受けているのだ。天使的未来人たちはそうならないように預言や宗教を与えた。しかし人間はこれを受け入れなかった、理解できなかったのである。

実は、いくら求法者アヴァロ−キテ−シュヴァラ(観世音菩薩)の名を呼んだところで救われないのだ、人間は預言や宗教教典の本当の使い方を知らないのだから。

 

この不幸な人間はあらゆる不幸にさいなまれ、眼を奪われたかのように楽しみが少ない。

苦悩を終わらせる方法を知らず、苦悩を脱れるために精進もしない。

過悪は長いあいだにわたって増大し、天上の衆さえも堕落に身を委ねる。

  法華経  化城譬喩品

 

元の時間の世界では我々は核の炎で焼かれ、今回も悪魔的未来人の奴隷にされてしまう。

苦悩を終わらせる方法も知らず、苦悩を終わらせる努力もしなかったからだ。

堕落した天上衆、悪魔がもうすぐ地球にやって来るのだ。

 

 

UFOが飛び回る教典、法華経

 

私も多くの預言書、宗教教典を読んできたが、法華経ほどUFOの記述がなされている教典もないと思う。空には、光輝くUFOが乱舞しているのだ。どのように書かれているか覗き見てみよう。

 

天上のマ−ンダ−ラウァ花の雨が降り、太鼓が叩かれて鳴り響いた。

神々も、ヤクシャたちも、空中に住む聖霊たちも、

この人間の最高者()に供物を捧げた。

すべての国土はその瞬間に、震動した。

まことに驚異であり、不思議だった。

  法華経  序品

 

そこで、僧たちよ、これら五十、千万億のブラフマンたちも、

それぞれに自分自身の天上の楼閣に登り、

スメ−ル山に等しい量の天上の花弁を手にして四方を歩き回り、

尋ね歩いて西北の方角に赴いた。

  法華経  化城喩品

 

また、そのとき、南方にある五十・千万億の世界の中で、

数多くのブラフマンの楼閣が光彩も鮮やかに映えて燦然と輝き、

はげしくきらめき、熱して火花を放った。

そのとき、僧たちよ、マハ− ブラフマンたちはこのように考えた。

「これらブラフマンの楼閣は、光彩も鮮やかに映えて燦然と輝き、

火花を放った。

これは、いかなることの前兆であるのだろうか。」

その威光によって、これらの楼閣はこのように光り輝くのか。

  法華経  化城喩品

 

偉大な志を持つ求法者たちのさしかける宝石づくりの傘蓋の列が、

ブラフマンの世界に至るまで空高くつらなっていた。

  法華経  分別功徳品

 

天上の花、光り輝くブラフマンの楼閣、宝玉づくりの傘蓋とは、UFO以外の何者であろうか。

しかもこれがUFOであることを悟れとまで書かれているのだ。

 

かの賢者は、この世界にいるままで、天上の神々の間にある花、

マ−ンダ−ラヴァ花とマンジュ−シャカ花を、また、パ−リジャの樹の花を嗅ぎわける。

天上の乗物がどのようで誰のものであるか、豪壮なもの、粗末なもの、また中程度のもの、

華麗なものがどこにあるかを、彼はここに坐ったままで臭覚の力で嗅ぎ分ける。

彼は天上の楽園を、スダルマ−会堂とヴァイジャヤタン宮殿にいる神々を知る。

彼はここに居て、天子たちの匂いを嗅ぎ、かれらの匂いによって、かれらを識別する。

かれらがどこで仕事をし、どこに立ち、どこで聴く、あるいはまた、どこに行くかを知る。

多くの花で身を飾り、花環やその他の装飾で飾りたてて、盛装した天女たちが、

どこで遊び戯れ、どこに行くか、かの求法者は、匂いによって知る。

上は宇宙の頂に至るまで空中に車を走らせる神々、ブラフマンやマハ ブラフマンたちが、

どこに居て瞑想し、あるいは瞑想から立ち上ったかを、

彼は地上にいるままで、匂いによって知る。

  法華経  法師功徳品

 

賢者は、天上の花、天上の乗物とは何か、空中に車を走らせる神々、ブラフマンが誰かを嗅ぎ付けなければならないのだ。これこそ未確認飛行物体、UFOであり、タイムマシ−ンだったのだ。そしてそれらを操る天子、ブラフマンこそ未来の地球人、現在まで宇宙人と思われていた人々だったのだ。

余談ではあるが仏が乗っている蓮の花も、お寺に行くと上からぶら下げられている傘、天蓋も、寺の屋根に付けられている宝珠もなんとUFOをあらわすものだったのだ。シャカが悟りを開いた時、天の神々は天の花、傘を空に撒き散らし、シャカに教えを説くことを請願したと言う。世に言う梵天(ブラフマン)勧請である。これは東南アジアの南伝仏教から日本の大乗仏教の教典まで記されている。

その時、シャカが坐るその上空には無数のUFOが乱舞していたのであろう。

法華経には天の花、傘に譬えられる円盤型だけではない、その母船となる葉巻型UFOも登場するのだ。

 

そのとき、世尊の面前に、集まっていた会衆の面前に、

高さ五百ヨ−ジャナで、幅もそれにふさわしい七宝づくりの塔が地中から出現した。

色とりどりで美しい塔は地上に現れると、空中に高くそそりたった。

               中略

四種の会衆はこの大きな宝塔が空中に浮かんでいるのを見て、狂喜した。

  法華経  見宝塔品

 

この地中から出現し、空中に浮かんだ塔とは葉巻型UFOではないであろうか。ちなみにヒンズー教の寺院の塔は、天空の神々の乗り物、ビィマーナを意味する物である。

そう、このUFOは、彼らの祖先が地球を破壊したがために閉じ込められた無間地獄から時空を超えてやって来たのだ。その後この塔は、多宝塔如来と入滅したはずのシャカを乗せて飛び回ることになる。そしてこの空中の楼閣が出現した理由をこう述べている。

 

まこと、これらの色とりどりな楼閣は、前世の所業によって築かれたもの。

  法華経  化城喩品

 

UFOが出現した理由は、前世、前の時間の世界であのような不要人類抹殺計画という所業をしてしまったからではないであろうか。これがすべての因縁の始まりではなかったのか。

 

★従地涌出品−地獄からやって来た聖者たち

 

時空の狭間、地獄からやって来たのはUFOだけではない、その乗員である天使的未来人も当然やって来たのである。

 

世尊がこの言葉を語るやいなや、このサハ−世界はあたり一面に亀裂が生じて割れた。

その割れ目から幾千万億という多くの求法者があらわれてきた。

かれらの身体は金色で、偉大な人物の具えるべき三十二の吉相を具えていた。

このサハ−世界に寄りかかっていたが、世尊のこのような音声を聴いて、

大地の下から現れ出たのである。

        中略

かれらは出現するたびに、空中にとどまったままで、その中に尊きプラブ−タ ラトナ如来が入滅して尊きシャ−キヤムニ如来と一緒に獅子座に坐っている大宝塔に近づいた。

  法華経  従地涌出品

 

従地涌出品に記された地の割れ目から現れた求法者たちを地涌(千界)の菩薩と呼ぶ。彼らこそ我々の子孫、天使的未来人である。その証拠に従地涌出品の最後はこんな話でしめくくられている。

 

例えば、世尊よ、一人の青年がいるとしよう。

元気溌剌とした若者で、頭髪は黒く、最高の若々しさを具えていて、

生まれて二十五年であるとしよう。

彼が百歳の人々を息子であると紹介し、

「良家の息子たちよ、これらの人々はわたしの息子である。」

と言うとしましょう。

「この人は、われわれの父で、生みの親である。」と。

世尊よ、この人の言葉は信じられず、世間も信用しないでしょう。

  法華経  従地涌出品

 

彼らは時空を超えてやって来た我々の息子、子孫であり、しかも数千歳、いや数えられない歳月を活き抜いてきた年上の息子なのだ、それだけでなく我々の教師なのである。

息子が父親の師であるといった話が妙荘厳王本事品に記されている。

その話とは、息子である王子達は、如来の弟子であり、王は他のバラモン(僧侶)の弟子であった。

父親である王は息子達に如来に会いに行くのを禁止する。

そこで王子達は奇跡を父に見せて如来の正しさを父に示す。

そして父は言う。

 

世尊よ、わたしのこの二人の息子は、わたくしの先生であります。と申しますのは、

二人が神通力を示したことによって、わたくしは大きな邪見から転向しまして、

如来の教師の教戒に安住し、成熟させられるとともに、

導き入れられ、そして如来に見まえるように促されました。

世尊よ、わたくしのこの二人の息子は、わたくしの善き友人で、

わたくしの前世における善根を思い出させるために、

わたくしの家に息子となって生まれたのであります。

  法華経  妙荘厳王本事品

 

これは、二人の息子、天使と悪魔が我々の息子、子孫であることを暗示する物語ではないであろうか。

その証拠に彼らが行った奇跡とはこうである。

 

空中に登った両人は寝床を用意し、空中を歩きまわって、空中に塵 を巻きおこし、

空中にて下半身から水の奔流を放出し、上半身から火焔を噴き出させた。

  法華経  妙荘厳王本事品

 

陰謀を実行した人々は天に寝床を設けたのではなかったであろうか、上から火で攻撃し、地殻変動を起こして下、大地を水びたしにしたのではなかったのか。

聖書にも、各地を放浪して財産を使いはたした息子を父(神)は快く受け入れるという放蕩息子の話があるが、実は法華七喩の中にも全く同一の窮子の喩えと言う話が載っている。

地涌の菩薩とは地獄から涌き出た天使的未来人のことであった、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩といっても同じことなのであろう。なおチベット密教には神々の住む地底王国シャンバラ伝説があるが、これもまた彼ら天使の世界を意味しているのであろう。

我々、人類は何も知らないでこの宇宙に自分達しかいないと思ってきた。そうではなかったのだ、お互いの存在をもう認め合わなければならないのだ。

 

僧たちよ、かの尊き如来が完全な「さとり」に達したときに、

十方のそれぞれの方角において、五十・千万億の世界が六種に震動し、

また大きな光明がそれらの世界を照らし輝かした。

すべての世界の中に困苦につつまれた暗黒の裂け目があり、

そこでは日月のように偉大な神通力と威光をもつ非常に輝かしいものでも、

光で照らすことはできず、色彩でもって色を表すことはできず、

また、輝きでもって照らし輝かすことができなかった。

ところが、そのとき始めて、そのような場所に大きな光明が現れた。

これらの裂け目に生まれたものたちは、このとき始めて、

お互いにそれぞれの姿を見て、お互いに、

「なんだ、この世には、自分のほかにも生まれていた輩がいたのか。

まこと、この世に存在するものは、ほかにも生まれていたんだな」と、

このように認め合うのだ。

そして、これらすべての世界において、ブラフマンの世界に至るまであって、

天上の宮殿、楼閣は、六種に震動するとともに、

大きな光明によって照らし輝かされたのであって、

神々の神威を威光をもっても、それをとめることはできなかった。

  法華経  化城譬喩品

 

数え切れないほど多くの求法者もあの巨大宝塔も地の割れ目、裂け目から涌き出たと記されていた。彼らはこの「困苦につつまれた暗黒の裂け目」からやって来たのだ。すなわち数え切れないほど多くの求法者(天使的未来人)は巨大宝塔(UFO)に乗って、困苦につつまれた暗黒の裂け目(地球を破壊してしまい閉じ込められた無間地獄(暗黒の宇宙空間)からやって来たのだ。

 

★人間は天使的未来人を受け入れなかった

 

今の我々の時間の世界ではその痕跡も見られないが、悪魔が地球を侵略する直前の地球に天使達は降りて来た。そして人類に真実を伝えたのだ。

「もうすぐ悪い未来人が来て地球を乗っ取り、あなたがた地球人を奴隷にしてしまう」と。

誰がこんなことを信じえようか。

「何を言うか化け物どもめ、きさまらこそ地球を征服するつもりだろう」と追い返えされてしまったのだ。

 

それは何故かといえば、すべての世間の人々が聴きたがらない教法を聞かせようと欲して、

完全に「さとり」に到達された阿羅漢の如来は、このような驚嘆すべき奇蹟を現し、

光明を放って前兆を示されるからだ。

  法華経  序品

 

この言葉を聴いて、世尊が長老シャ−リプトラにこのように言った。

「シャーリプトラよ。もう、よせ。そのわけを説明して、何になろう。

それは何故かといえば、神々も世間の人間も人々も恐れおののくであろう。」

  法華経  方便品

 

世の多くの弟子たちはこのように手段を用いて衆生を苦悩から解放する。

もしすべての修行を解き明かすならば、

無知な人々は気が狂うだろう。

  法華経  化城譬喩品

 

地球を独占しようとした人々は誤まって地球を破壊してしまい、その子孫がタイムマ−ンを開発し過去の地球を乗っ取ってしまった。そして別の未来人のグル−プが地球人と協力して地球を取り返したがっているなんて真理を誰が信じただろうか。

彼らはさらに過去に戻って警告した、しかし過去に戻れば戻るほど彼らの言うことは理解されなかった。少なくとも彼らの正体はスペ−スシャトル計画、宇宙ステ−ション計画、SDI計画が出そろうまで分からないのだから。

 

★方便品−宗教は巧妙な手段

 

過去の人々は我々とは完全に違うのだ、彼らには教育が必要だ。そこで考え出されたのが預言と宗教であった。人間はただ物質文明だけ発達させて、あのような破局を招いてしまったのだ。人間たちに他人を憐れむ気持ち(慈悲、仁、隣人愛)を植え付けなければならない。

そして人間も彼らの崇拝する神や仏の言うことなら聞いてくれるだろう。

この時、この心やさしい未来人たちは、人間を訓練する調教師、悪い神および人間の教師になったのだ。悪い神、悪魔的未来人に自分達の愚かさを悟らせるという任務も彼らは背負ったのだ。

 

最もよく世間を知る者であり、人間を訓練する調教師であり、神々および人間の教師であり、

仏であり、世尊であった。

  法華経  薬王菩薩本事品

 

キリスト教的に言えば、彼らは天使になったのである。彼らの目的はたった一つ、地上天国、神の国を造ることである。仏教的に言えば、永遠の生命を得たと言う意味では彼らは悟りに達し如来になったといえる、しかし彼らは地球を手に入れてはいない。この意味では完全に目的を達してはいない。そこで菩薩として自分達と一緒にその彼岸に衆生(我々)を渡すことである。地球人と共に地球を悪魔の手から取り返し永遠に幸せに暮らせる世界、仏国土を築くことなのである。

 

それは何故かと言えば、如来は唯ひとつの目的・唯ひとつの仕事のために、

この世に出現するからである。

それは、偉大な目的であり、偉大な仕事なのだ。

如来の偉大な目的、唯ひとつの偉大な仕事とは、一体何であろうか。

それは如来の智慧を発揮して人々を鼓舞するためであって、

そのために如来はこの世に出現するのである。

如来の智慧を人々に示すためであり、またそれを人々に理解させ、分からせるためであり、

また如来が智慧を発揮する道程を人々に理解させるために、世尊はこの世に出現するのだ。

  法華経  方便品

 

彼らの智慧を人間に理解させることこそ彼らの目的だったのだ。そのために彼らはシャカやイエス、多くの預言者、聖者を地上に送った。もちろん、彼らが直接来たわけではない、彼らの前世の人間を操っつて、彼ら意図を人間に伝えたのだ。

 

ブッタが語ったもろもろの言葉と詩頌、過去の出来事、本生譚と奇蹟物語を、

因縁譚を、また歌ならびにブッダの示唆を語り、幾百の素晴らしい比喩を用いよう。

幾千万の多くの仏のもとにて修行せず、いやしいことを楽しむ無知な輩に、

生死の回転(輪廻)に巻きこまれて苦悩にさいなまれる輩に、

余は「さとり」の境地を約束しよう。

  法華経  方便品

 

彼らは、前の時間から現在、未来にわたる出来事を物語、詩、歌、因縁話に例えて我々に残したのだ、宗教教典、預言として。

これは、無知な我々を悪魔の下で永遠の奴隷として使えている我々を助け出し、協力して地球を奪回するためである。そして 時空の輪廻、悪循環を止めるために。

 

世間の主であり、人間どもを済度したまう仏たちに会うのは、善いことである。

実に、仏たちは三界に存在するものどもを苦悩より解放したまう。

あまねく見はるかす世間の王()は十方を見わたしたまい、

不死に至る門を開いて、多くの人々を済度したまう。

  法華経  化城譬喩品

 

そして聖書と同じく人間に不死を与えることさえ約束して。

 

例えば、僧達よ、ここに広さ五百ヨ−ジャナの人跡未踏の密林があって、

そこに大勢の人々が到達したとしよう。

         中略

一人の案内人がいたとしよう。

ところでかの大勢の人々は途中で疲れ果てた上に、

密林の不気味さに怖れおののいて、このように言うとしよう。

「君、案内人よ、われわれは疲れ果てて、不安に怖れおののいているんだ。

引き返そうじゃないか。人跡未踏の密林は非常な遠くまで広がっている」と

そのとき、僧たちよ、巧妙な手段に通暁しているかの案内人は、

人々が引き返そうと思っていることを知り、このように考えるとしよう。

「これは駄目だ。この憐れな連中は、

このままではラトナドゥヴィ−パに行けないであろう」と。

彼はかれらを憐れんで、巧妙な手段を用いるとしよう。

その密林の真中に、百ヨジャ−ナあるいは二百ヨジャ−ナないし

三百ヨジャ−ナの向こうに、彼が神通力で都城を造るとしよう。

こうして、彼は、人々にこのように言うとしよう。

「諸君、怖れてはならぬ。怖れてはいけない。

あそこに大きな町がある。あそこで休もう。

諸君たちがしなければならないことがあるなら、あそこで用を足しなさい。

安心して、あそこに滞在するがよろしい。

あそこであそんで休んで、仕事のある人はラトナドゥウィ−パに行くがよい。」

そこで、僧たちよ、密林に入りこんだ人々は不思議に思い、いぶかりながらも、

「われわれは人跡未踏の密林を通り抜けたのだ。安心して、ここに逗留しよう。」

と思うであろう。

また、助かったと思うであろう。

「われわれは安心した。気分が爽快になった」と思うであろう。

そこで、かの案内人は人々にこのように言うとしよう。

「諸君、こちらへ来てください。ラトナドゥウィ−パは直ぐ近くだ。

この都城は、君たちを休息させるために、わたしが造ったのだ」と。

まさしく、このように、僧たちよ、完全に「さとり」を達成した如来は、

おまえたちの、またこの世に存在するすべての者たちの案内人である。

  法華経  化城譬喩品−法華七喩  化城の喩え            

 

 

彼らの目的を達成するための巧妙な手段として彼らは宗教を造ったのだ。時が来た時真実を公開することにした。そして宗教や預言を残した者が天使的未来人であり、彼らと協力すればお互いに救われるのだという事実が公開されたのだ。

だから法華経では、方便が強調されるのだ。

まさか、自分達が信仰してきた神や仏が宇宙人、未来人だなんて。

またもや人間はこれを受け入れなかった。ある者はそんな馬鹿げたことは信じられないと言い、ある者は自分の信仰する神や仏がそんな宇宙人や未来人のはずがないと信じ、そしてほとんどの人はそんなことには感心さえもたなかったのだ。

 

そこで、世尊はそのとき次の詩頌を語った。

ここで教えを説いて何になろう。

この智慧は微妙で、追求しがたい。

多くの愚か者が、うぬぼれの心を起こし、

教えが説かれても理解せず、それを捨てよう。

  法華経  方便品

 

これはうぬぼれのために生じた悪い根性のため、かれらは得ていないものを得たと思い、

達成していないものを達成したと思っていたからである。

かれらは自尊心を傷つけられたと思って、その集まりから出ていったのであった。

  法華経  方便品

 

如来は時代の堕落の際に出現するのである。

あるいは人々が堕落した際に、あるいは妄想のために悪徳が栄える際に、

あるいは邪見が横行する際に、あるいは寿命が短くなった際に出現する。

このように、時代が混乱し堕落した際に、貪欲で善根の少ない人々に、

如来たちは巧妙な手段を用いて、唯ひとつの仏の乗物に乗るように鼓舞する如来の所業を聴かず、 理解せず、悟らない者がいるであろう。

かれらは、声聞でもなければ、阿羅漢でもなく、また独覚たちでもないと悟るべきである。

  法華経  方便品

 

また、宗教を信じている人ほど信じられないようである。神や仏をぼうとくするのもいいかげんにしろ、自分達の信仰する宗教や本尊こそ最高で自分達は悟りを開いたのだとうぬぼれ(上増慢)を起こして。

法華経を信仰する人々は言うであろう。これはシャカの説法を聞いて悟りを開いた聞声、独り修行をして自分だけ悟りを開いた独覚の悟りは本物ではなく、法華経を広める菩薩道こそが真の悟りなのだと、その立場から聞声、独覚を批判したのだと。はたしてそうであろうか、法華経はそんな心の狭い教えではない、生きとし生ける者がすべて仏となるという尊い教えである。法華経の教えを回避せず受け入れるものは誰でも悟りに達するのだ。これを二乗作仏と言う。

 

また、僧たちよ、声聞の車に乗る人々であれ、

独覚の車に乗る者であれ、これらの貴公子たちが説く教えを拒まず回避しない者があれば、

かれらはすべて速やかにこの上なく完全な「さとり」を得るであろう。

そして、かれらはすべて如来の智慧に到達するであろう。

  法華経  化城譬喩品

 

我々は人間だけで我々の時間の世界の歴史を造ってきたわけではない。地球の外にいる人々こそこの歴史を造ってきた本当の主役だったのだ。

 

「汝は愚かである。自分に智慧があると思うてはならぬ。」と同じである。

汝が牆壁の中に囲まれているときには、

愚かな汝は、外で行われていることを知ることはできない。

内部にいる者は、外にいる者が何をしたか、何もしなかったかを、知らない。

愚かな汝は、どうしてそれを知ることができようか。

わずかに五ヨジャ−ナ離れたところで、大きな声が叫ばれても、

汝はそれを聴くことはできない。

まして、さらに遠くからの声を聴くことはできぬ。

汝に対して悪意のある者と好意をもつ他の者とを、

汝は見分けることはできない。

汝の自惚れは何処から生じるのか。

  法華経  薬草譬喩品

 

地球の内部に居る人間は自分達だけで真理を悟れはしない。地球の外で何がおこなわれているかすら知らないし、そして地球の外にいる誰が人間に悪意を持っているか、誰が好意を持って人間にこのようなことをしてきたのかさえ知らないのだ。

そして彼らは、他の世界から我々地球人の兆しを見守っているのだ。

 

余は他の世界に居住していても、かの良家の息子に、時々は顔を見せよう。

そして、彼がこの経説の字句を忘れるようなことがあれば、

彼がそれを読誦するときに、余はそれらの字句を繰り返して述べるであろう。」

そのとき、世尊は次の詩頌を唱えた。

気おくれをかなぐり捨て、この勝れた経典を聴け。

それを聴くことは誠にえがたく、それに傾倒することもえがたい。

例えば、水を探して、ある人が荒地に井戸を掘るとしよう。

そして、掘っているとき二度三度乾いた土が出てくるのを見たとしよう。

それを見て、彼は考えよう、

『水は遠い。乾いた土がここから出てくるのが、水の遠い証拠だ』と。

だが、潤って柔らかい土が出てくるのを二度三度見て、

『ここは水に遠くない』と、彼は確信しよう。

  法華経  法師品−高原鑿水の喩え

 

★法華一乗

 

このように法華経は東洋の聖書なのだ、聖書は西洋の法華経なのだ。両者は全く同じものだったのである。両者にはその優劣はない。少なくともキリスト教、仏教、イスラム教は彼らが地球を奪回し、地球人を救済するという目的でつくられたのである。イスラム教の開祖マホメットも言っているではないか。

 

あれ(キリストの出現)はたしかに時(最後の審判)の前兆。

お前たちのこと(最後の審判が来るということ)だけは決して疑うなよ。

ゆめゆめシャイターン(サタン)なぞに邪魔されてはならぬ。

彼はお前たちの公然の敵。

  コーラン  光りまばゆい部屋飾り

 

さらに我らはかの者ども(『旧約聖書』の予言者たちを指す)の跡に続けてマルヤムの子イーサー(マリヤの子イエス)を遣わし、それよりさきに(啓示された)律法の固めとなし、

またこれに福音書を授けた。これは正しい導きと光明とを含む(聖典)であって、

それよりさきに(啓示された)律法の固めとなり、

神を懼れかしこむ者どもへの導きとなり戒めともなる。

されば福音の民(キリスト教徒)たるものは、アッラーがこの(聖典)に示し給うたところに拠って裁き事をすべきであって、およそアッラーが啓示し給うたもので裁き事をなさぬ者は、すべて邪曲の徒である。

さらに我らはお前(マホメット)に真理の書(コーラン)を下し与えて、それに先立って啓示された聖典(律法と福音)の固めとなし、確かめとなした。

  コーラン  食卓

 

アッラーさえその気になり給えば、

お前たち全部を一個の宗派にしてしまうこともおできになったはず。

  コーラン  蜜蜂

 

勿論、アッラーさえその気になり給えば、

汝らをただ一つの統一体にすることもおできになったはず。

だが、汝らに(別々の啓示を)授けてそれで試みて見ようとの御心じゃ。

  コーラン  食卓

 

いろいろな宗団が現に守っている祭祀はみなそれぞれに我らが設てやったもの

  コーラン  巡礼

 

また彼ら、自分たちの中から警告者が出たというので吃驚し、

全然信仰心のない者どもに至っては、

「これはたしかに大山師の妖術つかいにちがいない。

何ということか、これほど沢山の神々をたった一つの神に纏めてしまうとは。

いや、まったく恐れいる」などと言う。

  コーラン  サード

 

宗教が全くアッラーの(宗教)ただ、一条になる時まで、彼らを相手に戦い抜け。

  コーラン  牡牛

 

法華経でよく三乗という言葉が使われる。一般にこれは聞声、独覚、菩薩を指すものであると考えられて来たが、本当は世界の三大宗教を指しているのではないであろうか。いや、すべての宗教や神話を指しているのだ。ギリシア神話、インド神話、北欧神話、アメリカインディアンの神話、また中国の神話にもそれらしいものが見られる。中国の神話では、世界を支える四本の柱が折れ、天の一部が地上に落ち、大地は裂けて傾いた。そして川や海の水が溢れて大洪水となった。一方、炎々たる猛火が燃え広がり、地上に末期的な大混乱を引き起こした。この時、人の頭と蛇の体をした女禍と伏儀が世界を修復して世を救ったのだ。そしてこの女禍と伏儀が手にしているものは何とコンパスとL型定規である。コンパスとL型定規とは建築の設計に使う道具だけでなく、フリーメーソンのシンボルにも使われるものである。四本の柱(クランドクロス)の時、天から火と洪水で世界を破壊したあの蛇、フリーメーソンの子孫が、コンパスとL型定規を手に持ち世界の再建、新しい世の設計を計画していることを意味しているのだ。女禍と伏儀とは、聖書のアダムとイブであり、大工のイエス・キリストその人だったのである。その上、女禍と伏儀が雌雄同体の二重螺旋の蛇であるのは、彼が生殖能力を失い、二重螺旋構造のDNAを操作し永遠の生命を得たことを暗示していたのだ。

 

(中国神話の女禍と伏儀)

 

 

(フリーメーソンのシンボルに描かれたコンパスと定規 新潮社「石の扉」より)

 

また古代エジプトの宗教やインドのヒンズー教には、三人の最高神がいるのは唯一の教えを大きく三つに分けたことを暗示しているのではないであろうか。そう言えば、古代エジプトの宗教、オシリスの審判、ミイラの死後の復活は、キリスト教そのものではないか、またインドのビシュヌの化身クリシュナの生涯はイエスとの類似点がかなりみられる。イエスもオシリスもクリシュナも同じものだったのだ。そして法華経では結局、三乗はどれとも違う唯一乗になると説くのである。すべての宗教は一つになるのだ。

 

未来において、如来たちは、

教えにはいる幾千億という数多くの入口を説くであろう。

これらの教えの指導は常に変ることなく、

もろもろの教えの本性は常に光り輝いている。

このことを知って、人間の最高者である仏たちは、

余の唯ひとつの乗物を解き明かすであろう。

  法華経  方便品

 

真実の教えであるこの経典を護持する者は「さとり」の壇において熟慮された、

人間の最高者()の神秘を速やかに理解するであろう。

彼の理解の速さは無限であり、風のように、どこにいても妨げられない。

この傑出した経典を護持する者は、経典とその意義とを説明することができる。

指導者たちの語った、もろもろの経典の微妙な意義とその関係を常に知悉し、

指導者の入滅したのちに、彼は諸経典の真実の意義を知る。

彼は、月のように、また太陽とひとしく輝く。

彼は世を照らし悦ばす者である。

彼は大地を歩きまわって、あちこちで、多くの求法者たちを奮いたたせる。

従って、賢明な求法者たちは、この世でこのような恩寵を聴き、

余が入滅したあと、この経典を護持して、必ずや「さとり」に到達するであろう。

  法華経  如来神通力品

 

我々は今、仏の神秘を理解したのではないだろうか。

教典とその意義を説明できるのではないであろうか。

聖書や法華経などのもろもろの教典の微妙な意義とその説明とその関係を説明することが出来はしないか。

 

雲が水をあたり一面に降らせるように、仏の語った教えには差別がない。

しかし、大地に生い茂る薬草のように、仏の神通力は前に述べたように多彩である。

この喩えを示したことによって如来の巧妙な手段を知れ。

如来は唯ひとつの教えを説くが、水滴のように種々さまざまの説明をする次第を知れ。

  法華経  薬草喩品−法華七喩 三草二木の喩え

 

 

★大乗仏教は後世の作か

 

 

 

ここであなたは言うかも知れない、大乗仏教はシャカの説いた仏教ではないと、その大乗仏教の教典を根拠にするのはおかしなことではないかと。大乗仏教の成立は、どう考えても時間が経ちすぎているからである。大乗仏教の成立は、シャカの死後数百年は経っているからである。

この質問に答える前に仏教について少し勉強しておこう。仏教の開祖はシャカ族の王子、ゴ−タマシッダルタである。彼は、生後7日で母を失い、叔母によって育てられる。29歳の時、王子としての何の不足もない生活、妻子を捨て、悟りを求めて出家する。しかし難行苦行をしたが悟ることはできず、苦行の無力さを知った後、35歳の時、ブッダガヤの菩提樹の下で明けの明星を見て悟りを開く。その時、天の神々は天に花々を撒き散らし、傘を広げ、神々の空中の楼閣を輝かせたという。しかし彼はこの彼の悟った法、真理はあまりにも超越しすぎていて、彼はその法を説くのをやめようとした時、天の神、ブラフマンが降りてきてシャカに懇願するのだ、あなたが法を説いてくれないと大変なことになると。世に言う梵天勧請である。

 

世尊は教えの車輪を回したまえ。

仏は教えの車輪を回したまえ。

世尊はこの世に平安の境地を示したまえ。

世尊は衆生を救済したまえ。

世尊はこの世に恵みを垂れたまえ。

世尊は、悪魔もブラフマンもともに住み、沙門と婆羅門のいずれを問わず、

人間の住むこの世に教えを示したまえ。

そのことは、多くの人々に幸福と安楽を授け、

世間に憐れみを垂れ、多くの人々の利益となり、

神と人間たちの幸福と安楽に役立つであろう。

  法華経  化城譬喩品

 

シャカは思い直して法、教えを説くことにした。鹿野苑で彼は初めて、5人の友に教えを説いた、教えの車輪を回したのだ。これを初転法輪と言うのだ。法輪とはインド古来の車輪型の武器で、シャカの教えが世に広まっていく様を車輪に譬えたというのだ。そして仏教のシンボルともなった。また、シャカが生まれた時、シャカを見た仙人がこの子は転輪聖王になるか、偉大なる聖者になるかどちらかだと預言したのを思い出す。

転輪聖王とは、戦車の車輪を転して各地を征服する偉大なる王、覇王を意味する。

私は仏像が持っている法輪を見た時ある物を思い出した。それは宇宙ステ−ションである、くるくる回転させて疑似重力を出すスペ−スコロニ−と呼ばれるものである。

預言によれば、1999年には、元の時間の世界ではこの型の宇宙ステ−ションが完成していたようである。思い出して欲しい、我々の歴史もこの車輪を、スペ−スコロニ−を回転させることから始まったのだ。転輪聖王とは、スペ−スコロニ−の車輪を回転させて地球を征服しようとした陰謀を実行した人々のことだったのだ。

そしてシャカの説法も車輪を回すことから始め、それを仏教のシンボルとしたのだ。

その後、衆生救済のためインド各地を教えを説いて歩いた。

80歳の時、旅の途中で病に倒れ、遂に弟子たちの見守るなか息を引き取る、入滅する。

彼の弟子達は彼の教えが失われないように教典を編纂する。これが南伝仏教(上座部仏教、根本仏教)の教典となったのだ。しかし100年もすると教団内に争いが発生する。修行によって個人の解脱を説く仏教では一般の民衆には広まらないと考えた革新派は、保守波を批判して抗争が発生したのだ。彼らは後にこの教団を離れ大乗仏教を形成することになる。

そして彼らは彼らの教えの根拠として大乗仏教の教典を編纂したのだ。

彼らは自分たちだけが修行で救われるんだと説く保守派を小乗と批判し、自分達が正当であり多くの民衆を救う大きな乗物、大乗と名のったのである。

これでは、法華経はシャカの教えではないと言われてもしかたないではないか。

確かにそうである、大乗仏教を説いた人々は南伝仏教に負けないようにご利益でいっぱいの偽の教典を作成したのだ。しかし実は教典を書いたのは彼らではない、教典を書いたのは天使的未来人(地涌の菩薩)である。天使的未来人は最高会議でどんな教典や預言を制作したらよいか話し合い教典の母体(原簿)を用意し、それをテレパシ−で彼らの前世の人間に書くように送信したのである、書いている当人でさえ何を書いているか分からない内に。

 

最高会議(天上で神と天使らが世界経綸について行う会議)でどんな議論が行われたか、

わしは知らぬ。自分がただの警告者に過ぎないということだけ、お告げで知らされておる。

  コーラン サード

 

我らはこれをアラビア語のクルアーン(『コーラン』)にしておいた、お前たちにもわかるように。

その(内容)はすべて我々の手元にある啓典の母体(天にある啓示の原簿である)に載っているいと高くいと賢きもの。

   コーラン  光りまばゆい部屋飾り

 

このようにして多くの教典や預言書は人間に与えられたのだ。今の日本に伝わっていてその内容が聖書や他の預言書と同じならば、それは天使的未来人、シャカ達が書いたものなのである。

 

あなたがたも、夜が明け、明けの明星がのぼって、あなたがたの心の中を照らすまで、

この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。

聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず、第一に知るべきである。

なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、

人々が聖霊に感じ、神によって語られたものだからである。

  聖書  ペテロの第二の手紙  1章

 

 

★如来寿量品−永遠の生命

 

シャカは菩提樹の下で悟りを開いたのではなくそのずっと前から悟りを開いており、彼が死んだことさえ方便なのだ。彼の本体は無限の寿命を持って、今でも生きていて教えを説き続けているという驚くべき教えを述べているのが法華経の如来寿量品なのだ。これを久遠実成と言う。

 

そして、かの世尊は虚空の中にとどまって常に教えを説き、

幾十万という多くの求法者と幾十万という多くの弟子たちを導くであろう。

  法華経  授記品

 

これも当然なのだ。あの菩提樹の下で悟りを開いたシャカは確かに死んだかもしれない、しかし彼を操っつていた彼の来世である本当のシャカはこの大地をこなごなにした遠い遠い昔、元の時間の世界で悟りを開いて、今でも無限の寿命を持ち虚空のUFOの中から我々を見まもっているのだ。

 

「われわれもまた、世尊よ、如来が完全に平安の境地に入られたとき、

この教説を説きましょう。

世尊よ、肉体を隠したままで空中にいて、声を出しましょう。

そして、善根を植えない者たちに、善根を植えさせましょう。」

  法華経  如来神通力品

 

彼は霊的レベルで存在しているのではない。

ちゃんと肉体を持ったままで空中のUFOの中に隠れているのだ。

 

そこで、尊きシャ−キャ ムニ如来と、

完全な平安の境地に入って完全な「さとり」に達した阿羅漢の尊きプラブ−タ ラトナ如来とは、

塔の中にある獅子座に坐っていた。

どちらも微笑をうかべ、開いた口から舌をだした。

そしてブラフマンの世界にまで達したが、

この二つの舌から幾千万億という多くの光が放たれた。

  法華経  如来神通力品

 

かれらは幾千の光明を放ちつつ、舌を全世界に伸ばした。

この神通力を見た人々は驚嘆し、かれらはすべて最高の「さとり」を求める心を起こした。

仏たちは一斉に咳ばらいをし、また指をはじく音を立てる。

かれらはこの音を世界に、十方における世界に知れ渡らせ。

恵みを垂れ憐れみ深い仏たちは、

「どうすれば、仏が入滅したのち、衆生たちは悦んで、

この経典を護持するであろうか」と、

あれこれと奇蹟の功徳を示す。

  法華経  如来神通力品

 

昔の人々はこんな奇跡をありがたいと思って読んでいたなんて思わず笑ってしまったが、これにも意味がある。彼()は塔、母船である葉巻型UFOの中から舌を全世界に伸ばし言葉を全世界に伝えていたのだ。

 

考えられないほどの幾千万億劫の昔、その長さは未だかって知られないが、

そのとき余は最勝の「さとり」に達し、それ以来いつも余は教えを説いている。

多くの求法者たちを鼓舞し、「さとり」の智慧に安住させた。

幾千万劫のあいだ、幾千万億という人々を、余は成熟させた。

          中略

「あのとき、この世で余は入滅したのではない。僧たちよ。

あれは余の巧妙な手段なのだ。

余は繰り返し繰り返し人間の世界にいるのだ。

他の国土の人々から崇め尊ばれたときは、余はかれらにも最勝の教えをひろめるのだ。

汝らは余の言葉を信ぜず、この世の庇護者は入滅したと信じた。

  法華経  如来寿量品

 

彼らは前世の人間を繰り返し繰り返し輪廻転生させて、仏や、神や、預言者として振る舞わせてきたのだ。如来である未来人は菩薩(人間修行をしている求道者)である前世の人間を操って教えを伝えていたのだ。菩薩は変身して衆生を導くと言われるのはそういう意味だったのだ。

だから彼らは他の国でも崇められているのだ、創造神(ヤハウェ、エホバ、アッラー)とキリスト、仏(シャカ、毘盧遮那仏、阿弥陀仏、弥勒菩薩、、、)、各民族の神々として。古代エジプトでは死者の魂を裁く神オシリス、南北アメリカ大陸では再来を約束した有翼の蛇神アステカ文明のケッアルコアトルとマヤ文明のククルカン、、、ビラコチャ、ワラコチャ、ウィケペコチャ、コン、コンティチ、コンティキ、イラティキ、スヌパ、タパク、トゥパカ、イリャ、タルパカ、ラパチャ、パチャカン、ボカチ、シューム、コスタス、ヴォタン、グクマサ、、、、、、、、、、インディアンホピ族の救世主 パハナ。

また、ヒンズー教でも、魚に変身して人間の始祖マヌを洪水から救ったビシュヌは、この世の終わりには救世主カルキとなって剣を持ち白い馬に乗って現れ邪悪な者を一掃すると言う。まさにこれは黙示録の中のイエスの姿そのものである。

 

またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。

それに乗っているかたは「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。

          中略

その口からは諸国民を打つため、鋭いつるぎが出ていた。

彼は鉄のつえを手にもって諸国民を治め、また全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。

  聖書  ヨハネの黙示録  19章

 

彼らは全世界に舌を伸ばしたのである。彼らは世界中で色々な名で崇められているのである。

その後この如来寿量品にはこんな話が出てくる。

 

例えば、学識があって賢明であり、知性ゆたかで、あらゆる病気に勝れた手腕のある、

ひとりの医者があっるとしよう。

そして、この人に、十人、十一人、二十人、四十人、五十人とか、あるいは百人という、

多くの息子がいるとしよう。

この医者が外国へ行ったとき、彼の子どもたちがみな毒物にあてられたとしよう。

毒物に焼かれて地上をのたうちまわったとしよう。

こうして、子どもたちが毒にあてられて苦しんでいたときに、

かれらの父親の医者が外国から帰ってきたとしよう。

子どもたちの幾人かは意識が転倒していたが、幾人かはそうでなかったとしよう。

かれらはすべて苦しみながらも父を見て、喜んで、彼にこう言うとしよう。

「お父さん、お帰りなさい。ご無事で、よく帰られました。

わたしたちの災難を救ってください。毒を消してください。

お父さん、わたしたちの生命を助けてください」と。

そこで、かの医者は、毒に焼かれて苦しみにさいなまれ、

地上をのたうちまわっている息子たちを見て、色も香りも味も勝れた、素晴らしく効く薬を用意して、石臼で磨りつぶし、息子にのませるために、

「子供たちよ、色も香りも味も勝れた、すばらしくよく効く、このお薬を飲みなさい。

このよく効く薬を飲めば、すぐ毒が消されて楽になり、病気が癒るよ。」と、

このように言ったとしよう。

その場合、かの医者の息子たちの中で意識の転倒していない者たちは、薬の色を見、香りを嗅ぎ、味を味わって、直ちにその薬を服用しよう。

そして、薬を服用した者はみな苦しみから解放されよう。

ところが、意識の転倒している息子たちは、父を悦び迎えて、

「お父さん、お帰りなさい。ご無事で、よく帰られました。あなたはわたしたちのお医者です」と、このように言いながらも、かれらは用意されたその薬を飲まないであろう。

それは、何故かと言えば、かれらは意識が転倒しているために、

用意された薬は色の点でも気に入らず、香りでも味でも気にいらないからである。

そこで、かの医者はこのように考えよう。

「この子どもたちは毒のために意識が転倒している。

かれらはこのよく効く薬を飲まず、わたしの処方を喜ばない。

わたしは巧妙な手段を用いて、子どもたちに、この薬を飲まそう」と。

そこで、かの医者は子どもたちに巧妙な手段を用いて薬を飲ませようと思い、

このように言うとしよう。

「わたしは年をとってしまった。よい子どもたちよ、わたしは老衰して、死期も近づいた。

だがおまえたちのために用意した、よく効く薬だ。

飲みたいと思うなら、この薬を飲みなさい。」

彼は巧妙な手段を用いて、このように子どもらに指示を与えて、他国へ出かけた。

そこへ行ったのち、病気の子どもたちに、彼が死んだと告げさせたとしよう。

そのとき、こどもは非常に嘆き悲しむであろう。

「われわれの父であり生みの親であり、また保護者で、われわれを慈しんでくれた、

ただひとりの人だったのに、亡くなってしまった。

今や、われわれは頼る人がない身の上となった。」

かれらは頼る人のいなくなった自身を省みて、また庇護者のいない自分の身の上を考えて、

繰り返し悲しむであろう。

そして、繰り返し嘆き悲しんでいるうちに、かれらの転倒していた意識がもとに返るであろろう。

そして、色・香り・味を具えたその薬を、色も香りも味もあるものと気づくであろう。

こうして、そのとき、かれらはその薬を服用しよう。

そして、薬を服用したかれらは、その苦しみから完全に解放されよう。

  法華経  如来寿量品−法華七喩 良医の喩え

 

元の時間の世界では父なる神の命を受けた天使的未来人が居なかったために、我々は毒を飲んでしまった、毒に焼かれてしまったのだ。父なる神の命を受けた天使的未来人が地球に帰ってみると、今度は悪魔的未来人に征服され苦しんでいた。そして薬を飲むように説得したが、何人かは彼らの言うことを理解して救われたが、他の人々はそんなことあるものかと彼らの申し出を拒否した。

そこで彼らはシャカを送り仏は死んだのだと気を動転させてこの薬を飲ませよう、彼らの申し出を受けさせようと言うのだ。

しかし、我々はこれを拒否してしまった。

 

また、熟達した人々のよく調合した薬がかれらに与えられても、

かれらの病気はその薬のためにかえって進み、その病気は決して癒えることはない。

かれらは他の人々から盗まれ、また騒動や乱闘に巻き込まれ、争いが起こされる。

また、他の人々に財産を奪われて、罪の報いがその上に落ちかかる。

彼は地上に教えを垂れる王者の仏を見ることはなく、

仏としての余の指導を捨てて、教えを聴きえないところに住む。

愚かな彼は教えを聴くこともなく、唖者となり、また知覚のない者となろう。

このように「さとり」を捨てて、彼は決して心の平静を得ることはない。

ガンジス河の砂の数のように数多くの幾千億劫のあいだ、

彼は愚鈍な者となり不具者となる。

これがこの経典を捨てた罪の報いである。

地獄が彼の遊園地であり、環境の悪い土地(地獄)が住居となり、

彼はこの世では常に驢馬や豚や山犬や地面を嗅ぎまわる犬の間に暮らす。

  法華経  譬喩品

 

こうなるともうどんな薬も効かない、法華経や聖書の本当の意義を悟れなかったのだから。あなたは、宇宙人や未来人の救いと言う薬では、その色や香り、そして味も気にいりませんか。

 

★一天四海皆帰妙法−日蓮の秘密

 

この法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。

  日蓮御書  撰時鈔

(日蓮御書は、ことわりのないかぎり「日蓮」 責任編集 紀野一義から引用させていただく)

 

法華経と言えばやはり法華宗(日蓮宗)の宗祖、日蓮について語らなければならないであろう。私はある時、日蓮のスペルに悪魔的未来人を意味するシーレン(CHYREN またはCHIREN)が含まれていることに気づいた。

 

NI(否定の接頭語)+CHIREN=反シーレン

 

日蓮とは、反悪魔的未来人といった意味だったのだ。そして彼の生涯を調べてみるとやはり出てきた、UFOが。その事件を竜口の法難と言う。竜口の法難とはこうである。法華経の信仰をしきりに勧める日蓮をうるさく思った鎌倉幕府は竜口で日蓮の首をはねようとした。その時、満月の様な光りの玉が飛来して日蓮を救ったという話である。もちろんこの光りの玉こそ現代風に言えばUFOである。そして竜口という地名も、法華経が説かれたとされる霊鷲山と同様に意味深である。

また、日蓮と言えば元(大元、蒙古、モンゴル人)が日本に攻め込んだ事件、元寇(蒙古襲来、他国侵逼難)を預言したことも有名な話である。

 

世はみな正法にそむき、人ことごとく悪に帰している。

ゆえに善神は国を捨てて去り、聖人もこの国を見すてて帰らぬ。

それゆえ魔来たり、鬼来たり、わざわい起こり、難おこる。

  日蓮御書  立正安国論

 

これも表面上は元寇の預言であるが、その真の意味はもし法華経に従わなければ、我々の世界を守っている善神である天使的未来人は我々の世界を捨て去り、聖人も我々の世界を見捨てて行ってしまうぞ。後は大元の神が遣わす魔、鬼(悪魔的未来人)が来て災い、難が起こるだけだぞという意味である。

そう言えばノストラダムスのアンゴルモアはモンゴルを暗示すると言う説もあったが、確かにアンゴルモアにはその意味も含まれていたのである。

元寇とは、天魔(悪魔的未来人)の地球侵略の譬えだったのである。

 

法華経は一文一句であっても、耳にふれる者は即座に仏になるものと思い、

いたく第六天の魔王もなげき思うゆえに、てだてをこらして難をなし、

経を信ずる心を捨てさせようとたばかる。

  日蓮御書  四恩鈔

 

私は日蓮もイエスやシャカ、ノストラダムスと同様に未来から言葉という種をまき(下種)にやって来た特殊工作員であったと思っている。かつて不要人類抹殺計画が実行されたのが1999年、ノストラダムスの大予言、「諸世紀」が書かれたのが1555年、日蓮が生まれたのが1222年、当然彼も普通の人間ではなかったのであろう。

 

疑っていう。正法・像法の二千年のあいだに、地涌千界の菩薩がこの世界に出現して、

この法華経を弘められるのか、と。答えていう。しからず、と。

  日蓮御書  如来滅後五五百歳始観心本尊

 

日蓮などの地獄から涌き出た菩薩、地涌(千界)の菩薩、天使的未来人がこの世に法を広めていたのである。しかし彼の言うように日蓮の教えのみが正しくて他の教えは間違っているというのは、方便であると思う。

 

濁った世の悪比岳は、仏が方便として時に応じ相手に応じて説かれた教えを知らず

  日蓮御書  立正安国論

 

日蓮は確かに聖人、天使的未来人が派遣した特殊工作員ではあったとは思うが、彼の言うことはあまりにも過激で、彼の他宗非難もここまでくると不要人類抹殺計画の選民思想と変わらなくなってしまう。

 

建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等の寺塔を焼き払って、

かれらのを由比ガ浜で切らなければ、日本国はかならず滅びるであろう

   日蓮御書  撰時

 

法華経の敵ならばこれを殺す者は第一の功徳と説かれてある。

いわんや供養するなど論外である。

   日蓮御書  秋元御書

 

自分だけが正しいものとして、「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」などと他宗を非難し、迫害を受けるとこんなことまで口走っていたがために、さらなる苦難、法難にあったのだ。確かに彼は聖人ではあったが、彼の生涯は地涌の菩薩すなわち天使的未来人の歴史のひながたになっているような気がするのだ。

あまりにも過激な選民思想のために、幾多の陰謀にあい自分が焼き殺されそうになったり、海に一人置き去りにされたり、あげくの果てには北の地、佐渡に流されたのである。

あまりにも過激な選民思想のために、陰謀を実行し火で人々を焼き殺し、宇宙の海に置き去りにされ、あげくの果てに未来(北)に流されたのである。

天使たちはほとんどの宗教に「自分達だけが正しい」、「自分達が一番正しい」とする選民思想を与えたのだ。そしてその信者たちはそれがあるからこそ自分の宗教を広めてきたのである。

キリスト教(ユダヤ教)、イスラム教は、互いに聖地(地球)を奪いに来る悪魔の役、聖地を奪った悪魔の役を演じているが、その言わんとしていることは全く同じだったように、天使たちは時が来るまで各宗教、宗派を競わせてきたのだ。

 

我ら(アッラーの自称)は彼らの間に復活のその日まで果しなく続く敵意と憎悪を播いてやった。

  コーラン  食卓

 

真理はお前の主から下されるもの。ゆめゆめ疑念をもったりしてはならぬぞ。

各人はそれぞれ疑念をもったりしてはならぬぞ。だから汝らは互いに競って善行にはげむがよい。

汝らがどんな所におろうとも、アッラーは(最後の審判の日)汝らを全部ひとつところに集めたまう。

  コーラン  牡牛

 

その証拠に、日蓮のライバルであった法然、親鸞、一遍などの説いた阿弥陀信仰の阿弥陀仏とは、無量光、無量寿すなわち、無量の寿命を持った光の友、天使的未来人のことである。

 

大国と各派が受難を受け

メソポタミアから立ちあがるだろう

川の近くに光の友がいて

それは法を敵から守るだろう

  諸世紀3-61

「ノストラダムス予言原典  諸世紀」 大乗和子

 

西方浄土、西洋の王イエス・キリストも自分が無量の光、無量の命、すなわち阿弥陀仏であることを宣言しているではないか。

 

イエスは、また人々に語ってこう言われた、

「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、

やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」

   聖書  ヨハネによる福音書  8章

 

人が臨終を迎える時、阿弥陀仏が天から雲に乗ってやって来て極楽浄土へ連れて行くのだ。

人類が終末を迎える時、無量の寿命を持った光の友が天からUFO(雲)に乗ってやって来て極楽浄土へ連れて行くのである。

それに何かの呪文を唱えるといった方法論においては、日蓮の教えも阿弥陀信仰も大差はないではないか。また彼らが唱えろと言った呪文「南無妙法蓮華経」、「南無阿弥陀仏」とは、「法華経にお任せします、従います」、「阿弥陀仏にお任せします、従います」といった意味である。法華経の内容や無量の寿命を持った光の友に従わなければならないのではないでしょうか。

私は、なにもイエスやシャカ、マホメット、ノストラダムス、日蓮だけが天使的未来人ではないと思う。今日の大宗教、宗派を築いた者の多くは、実は未来から派遣された特殊工作員だったのではないかと思うのだ。これは何も伝統宗教だけではない、新興宗教においてもその教義からそうとしか思えないものも多い。

 

アッラーは天使の中から使徒をお選びになり、

また人間の中からも使徒を選び給う。

  コーラン  巡礼

 

また、かりに我らが(使徒)を天使にしたところで、

やはり人間(の形)にして(下界に遣わした)はずだから

  コーラン  家畜

 

しかし私が迷ったのは、キリスト教に比べてこの仏教の多様性は何なのだろうということである。南伝仏教、大乗仏教、密教、阿弥陀信仰、法華経、禅、、、、、

仏道をならうということは、自己をならうということなり。禅の究極の悟りとは、自己の中に宇宙の本質(仏性)を見、自己の力を知り、強く活き抜くことだと思う。また禅だけではなく日蓮も同じことを凡夫の一念三千世界と表現している。

だからその答えは、人類全体が目ざめるのにはこのくらいの多様性と奥深さが必要だということだと思う。

 

佐渡の国より弟子どもに内々に申した法門がある。

この法門は仏よりのちに世に出られた迦葉、阿難、竜樹、天親、天台、妙楽、伝教、義真などの大人師は知っていても心のうちに秘して、口より外に出されなかった。

そのゆえは仏が「わが滅後、末法の世に入らぬうちは、この大法をひろめてはならぬ」と制したためである。日蓮はその使ではないけれども、末法というその時刻にあたっておるうえ、思いのほかにこの法門をさとることができたので、聖人が世に出られるまでの序分として、大略申すのである。

ところで、この法門が一度世に出ると、正法、像法の世に論師、人師の申したところの法門は日が出てのちの星の光、巧匠の出たあとに、拙い者がよくわかるようなものである。

このときには正法、像法の時代の寺々の仏像や僧などはみな霊験が消え失せて、ただ大法のみが一閻浮提に流布すると説かれている。

  日蓮御書  三沢鈔  

 

まして末代にはこれに百千万億万倍にも増した大難があるというのを、どうして忍ぶことができようと案じくらしていたが、「聖人は未萌(いまだおこらぬ先)を知る」と申して、三世のうちの未来を知るのをまことの聖人と申すのである。しかるに日蓮は聖人ではないが、今の代になって日本国が亡びるであろうことをかねて知っていたが、これこそ仏の説かれた「滅度ののち」の経文に符合しているのである。

  日蓮御書  三沢鈔  

 

第五の五百歳である闘諍の時、悪鬼が身に入った大僧らが国じゅうに充満し、

そのとき一人の智者が出現する。

  日蓮御書  撰時

 

末法に法華経の行者がかならずあらわれるであろう。

  日蓮御書  椎地四郎殿御書

 

愚者が法華経を読み、賢者がその義を談ずるときには、国も騒がず災難も起こらぬ。

しかし、聖人出現して仏のごとく法華経を談ずるとき、一国も騒ぎ、

仏の在世のときにも増した大難が起こると思われる。

いま日蓮は賢人ではない。まして聖人などと思いもよらぬ。

  日蓮御書  上野殿御返事

天下万民諸乗一仏乗となって、妙法ひとり繁昌するであろうとき、

万民一同に、南無妙法蓮華経と唱えたてまつれるならば、吹く風も枝をならさず、

雨は大地を砕かぬ。代はさながら伏儀 ・神農の世となり、今生の不祥の災難をはらい、

長生の術を得、人や国の上に不老不死の通理あらわれるであろう時を、おのおのごらんあれ。

  日蓮御書  如説修行鈔

 

日蓮、末法に生まれて、上行菩薩のめられるべき妙法を先立ってほぼひろめ、

上行菩薩がつくりあらわされるべき本門寿量品の古仏である釈迦仏、

迹門宝塔品のとき涌出したもうた多宝塔仏、

涌出品のとき出現したもうた地涌の菩薩をまず作りあらわしたことは、

日蓮の分際にはすぎたことである。

  日蓮御書 諸法実相鈔

 

第五の五百歳に一切の仏法が滅びるとき、上行菩薩に妙法蓮華経の五字を持たしめて、

正法をそしる救われざる者・白癩病のやからの良薬にしようと、

梵天・帝釈・日天・月天・四天王・竜神などに仰せつけられた金言であるから、虚妄であるはずがない。

  日蓮御書  撰時

 

道心ある人々は、これを見聞きして悦ぶがよい。正・像法二千年に生まれて大王になるより、

後世を思う人々は、末法の今の民であることこそ幸いなのである。

  日蓮御書  撰時

 

正法千年も像法千年も、法華経の利益は諸経にすぐれているだろう。

しかりといえども、月の光は、春夏にあたる正・像二千年よりも、

末法にいたって光りすぐれるのである。

  日蓮御書  薬王品得意

 

そのうえ、仏説には悪世末世と時を指定したもうて、

末代の男女に法華経を贈られたのである。

これこそ唐船のごとく大いなる一乗経というものである。

  日蓮御書  乙御前消息

 

★宝珠の喩え

 

  法華七喩−髻中の明珠の喩え

例えば、武力によって覇王となった王が、戦士たちに数々のものを与えるとしよう。

          中略

しかし、かの王は、誰か戦士の一人が武勲をたてたとき、驚嘆して、

「よくぞ、でかした」と言って、王冠を脱いで、宝珠を与えよう。

それと同じく、仏であり教えの王者である余は、忍耐の力を持ち、

理智を豊富に蓄えており、世の幸福を冀って憐れみ深い余は、

教えによって、一切の世間を統治する。

人々が迫害されているのを見て、余は幾千万億の教法を語る。

この世において煩悩を滅して清浄となった人々の勇気を知って、

幾百千万の経説を語る教えの王者であり偉大な医者である余は、

人々が「さとり」に至る力をもつことを知る賢者として、

頭飾りの宝珠のような、この経典を説く。

  法華経  安楽行品

 

法華経とは一部の宗教が言うような心の狭い教えではなく、それは確かに仏(未来人)が我々のために与えてくれた王位を示す宝珠であった、すべての人々が仏になること、すべての人々が未来人と同じ王、仏となることを預言したすばらしい教典であった。

 

法華七喩−衣裏繋珠の喩え

例えば、世尊よ、ある男がひとりの友人の家に行き、酔いしれるか睡りこんだとき、

その友人が「この宝玉がこの男の役に立つことがあればよい」と念じて、

値段がつけられないほどに高価な宝玉を彼の衣服の端に縫い込んだとしましょう。

ところで世尊、かの男は座から立ち上がって、出て行ったとしましょう。

彼は他の土地に行くとしましょう。

彼はそこで貧乏になり、食物や衣服を得ることが困難になったとしましょう。

非常な努力をしましたにもかかわらず、僅ばかりの食物も得られませんでしたが、

彼はそれに満足して、少しも苦にしていなかったとしましょう。

そのとき、世尊よ、この男のかつての友人で、彼の衣服に非常に高価な宝玉を縫い込んだ男が、再びこの男を見て、このように言うとしましょう。

「おい、君。君はどうして貧乏になり、食物や衣類を手に入れることができなくなったのだ。

ねえ、君、君が安楽に暮らせるように、君がどんな欲望でも満足させるのに十分なほど、

非常に高価な宝玉を君の衣服の端に縫い込んでおいてあげたが、あれはどうしたのかね。

ねえ、君、あの宝玉はわたしが君にあげたのだ。

だから、あのように、ねえ、君、宝玉を衣服の端に縫い込んであげたんだよ。」

  法華経  五百弟子受記品

 

我々の友人である天使的未来人は、我々の服にこっそりと宝玉(宝珠)を縫い込んでくれたのである。法華経には竜女がシャカに宝珠を捧げて仏と成ったという話が出てくる。この竜女も、竜(悪魔)の娘(子孫)である天使的未来人のことだったのである。天使的未来人は、我々の救われる方法をすでに我々に教えてくれていたのである。そんなこととはまったく知らずに、、、、、、、、、、

我々は、彼らの好意を無にしてはならない。イエスが言うように、豚に真珠にしてはならないのである

   

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