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                    縁の花

     (魂が成長する心と心のネットワーク誌)

           第200号

       武田信玄天下取り物語

      ∞「今、信玄公が、縁の花で復活する理由」∞

 今から、縁の花を通して、戦国時代、甲斐の虎と呼ばれていた英雄、武田信玄公が、インターネットの世界で復活します。

 正直言って、ワクワク・ドキドキします。

 武田信玄公が、これからどんな活躍をして、434年来の念願、上洛を果たす事になるか、それは紫陽花にも分かりません。

 それを知っているのは、あの世で、御屋形様(信玄)と一緒に、ずっとあれこれ考えていた武田家の英霊達だと想います。

 紫陽花は、それをただ文章に出させて頂くだけなのです。

 また、紫陽花は、この記念すべき200号で、ずっと前から、「武田信玄天下取り物語」を書く事は決まっていたと想います。

 何となくそんな予感がします。

 魂として生まれる前から、前世武田勝頼として、多くの英霊と一緒に書く約束をしていた気がするのです。

 何故なら、武田家の英霊や紫陽花にとって、この号を書く事は、大きな大きな意味があります。

 というのも元亀(げんき)三年、(1571年)武田信玄は、長年の念願だった、天下取りに向けて、2万7千もの大軍を発しました。

 その軍が、一気に京都を目指したのか、まず、三河・遠江の徳川を破って、尾張・美濃を攻略するつもりだったのかは分かりませんが、武田軍は破竹の勢いで進み、三方ヶ原の戦いで、徳川軍を破り、上洛の軍は順調に進んでいました。

 信玄が、このまま生きていたら、織田信長を破っていた可能性は高かったのです。

 しかし、信玄は陣中で病になって、結局、武田軍は、上洛を諦めて、空しく兵をひきあげています。

 この時の信玄と言う大国柱を失った武田家臣団の嘆きはすごかったと言います。

 この時代、甲斐・信濃の兵にとって、信玄公は、まるで神様だったのです。

 誰もが、しばらく、ショックで何も考えられなかったと言われているのです。

 またその後の武田家は、跡を継いだ武田勝頼と、武田家臣団との結束が保てず、3年後、家臣の反対にもかかわらずに長篠の戦で、大敗北した事で、多くの有能な家臣を亡くし、一気に凋落の道を進みました。

 その時から、もし、信玄公が生きていたら、織田信長などに負けなかったのに、信長を討って、今頃は、上洛していた、武田家は、天下を取れていたという想いは、重臣だけでなく、一兵の兵まで持っていた共通の想いになりました。

 跡を継いだ勝頼自身も、父、信玄に対して、反感する気持ちは持っていましたが、内心ずっとそう想っていたのです。

 そして武田家は、その想いを持ったまま、信玄が亡くなってから、わずか10年で呆気なく滅亡しています。

 織田信長、徳川家康は、勝頼の敵ではなく、最後まで、武田家臣団の結束を保つ事ができずに、武田家は、滅んだのです。

だから、前世、武田勝頼の魂の一部を持つ紫陽花が、今から縁の花で、シミュレーション小説を書く事は大きな大きな意味があります。

 だって紫陽花が、信玄公がもう少し生きた世界を、文章で書く事で、それを皆さんが読んで貰う事で、21世紀の今、形として現す事が(多次元宇宙)できるからです。

 その中で、見事、武田信玄が、皆さんも納得する形で、天下を取る事ができたら、多くの「武田家の英霊達」が、喜んで、納得して、想いを消す事ができます。

 初めて、お屋形様さえ生きていたら、悔しい、無念という想いを消して、この世に残っている武田家の英霊も、すべて、感謝してあの世に帰る事ができるのです。

 少なくても、紫陽花はそう信じているのです。

 これが、紫陽花が、第200号を書く大きな理由なのです。

 ですから、紫陽花は、縁の花が、とうとう200号まで来て、今から書けること、心から感謝したいと想います。

 今から、大いに多くの武田家の英霊と楽しみたいと想うのです。

 しかし、それだけでは、武田家の英霊達は、よくても、縁の花の読者や、他の多くの英霊達は、面白くないと想います。

 紫陽花は、この号は、皆が、参加できないといけないと想うのです。

 それで、紫陽花は、何故、今、武田信玄公が、復活するのか、その意義を皆さんに述べたいと想います。

 まずは、今回の戦の大義を知って欲しいと想うのです。

 何故なら、紫陽花は、戦国時代に信玄公が蘇って、活躍しても、それが今の世の中でいきなかったら、まったく意味がないと想います。

 人類にとって、本当に大切なのは、21世紀になった今日の日本や世界です。

 この434年後の今の日本に、大きな影響を与えなかったら、シミュレーション小説の醍醐味、意義はないと想うのです。

 ですが、その反面、これは難しい命題です。

 もし、織田信長が本能寺の変から生き残り、明智光秀を討って、見事天下統一を実現させたら、秀吉のような失敗はせずに、正しく海軍力を理解して、外国にもその領土を広げただろうとか、鎖国などの政策は取らず、織田政権は、日本を開国して、世界との交易に力を入れただろうなんて言われていますが、実際のところはもちろん分かりません。

 織田信長が、日本以外の国に対して、どうしようとしていたのか、はっきりとは分からないのです。

 また、よく言われているように、歴史に、もしと言う言葉はありませんし、東洋と西洋は、600年周期によって、交互に繁栄しています。

 あの時代、東洋の国は、西洋である欧米の植民地になる事は、避けられない運命だったと想っています。

 それを一人の英雄が止める事は不可能なのです。

 それに、紫陽花は、日本の歴史は、織田信長から豊臣秀吉に移り、徳川家康によって、江戸時代を迎え、長く繁栄した事は、結果的によかったと確信しています。

 もし、織田信長が長生きして、日本が海外に出て、欧米諸国と争って、アジア諸国を植民地にして、覇権国になったとしたら、たぶん、今頃は、スペインや英国のように、この時代に大きな影響力は残せなかったと想います。

 覇権国の力が継続するのは、100年〜200年というのは、歴史が証明する事実です。

 あの時の日本が、海外に出たら、日本語を普及させることができても、やがて、独立したアジア諸国に恨みをかって、今頃は、世界第2位の経済大国にはなれなかったと想います。

 没落していた可能性が高かったのです。

 しかも江戸時代は、鎖国していて、欧米諸国から科学の分野で大きく遅れを取ったと言う暗いイメージがありますが、200年以上も戦がなく平和で、自給可能な持続社会を形成し、日本文化を大きく発展させたという功績もあります。

 日本人は、鎖国政策をしていた為に、優秀な人材が海外に出ず、溜まりに溜まった力を、明治以後、一気に出したので、世界の歴史に登場する事ができたと想うのです。

 ですから、日本の国で言えば、欧米諸国の植民地にもならず、経済発展もできたので、オールよかったと想います。

 大東亜戦争では、多くの英霊が人柱となってなくなりましたが、そのおかげで今日の日本の繁栄があると想うのです。

 ただ、他の多くのアジア諸国が、それでよかったかと言えば疑問です。

 あまりにも長い年月、欧米の植民地になって、多くの人民が苦しみ死んでいます。

 アジア各国の歴史を詳しく知らない紫陽花が、戦後、独立できたからよかったとはとてもいえないのです。

 しかも、アジア諸国は、日本を含めて、今も、西洋諸国に対して、科学で劣っていたといういろんなコンブレックスから抜けきれないでいます。

 21世紀の大切な時代でも、大きな主導権を握っているのは、欧米諸国で、残念ながらアジアではありません。

 中国が登場したと言っても、世界に貢献するというよりも、世界を混乱させているようで、とても良いとは思えないのです。

 だけど、それでも世界の歴史が、いい方向に進むのであれば、紫陽花としても何も言いませんが、残念ながら、そうはなっていません。

 冷戦後、アメリカ一国主義になって、世界は、イラク戦争や京都での温室効果議定書が破棄されるなど、アメリカ一国に振り回されています。

 このままでいけば、冗談ではなくて、ハルマゲドン(最終戦争)の世界になるかもしれません。

 紫陽花は、そんな危機感を持っているのです。

 しかしながら、この事に対して、紫陽花は何もできませんし、日本の国も、まるで、米国の支配されている国で、殆ど、何もできないのが現状です。

 言われている事をしているだけなのです。

 だから紫陽花は、今回の200号「武田信玄天下取り物語」のシミュレーションの世界で、それを何とか変える事を願って書きたいと想います。

 それが、この200号を書く、本当の目的です。

 というのも日本が、こんな国になったのは、大東亜戦争で米国に負けて、連合国、米国に占領されたからです。

 それで、見事な占領政策で、骨抜きにされてしまいました。

 米国のおかげで、豊かになったなどのいい事もたくさんありますが、自信をなくし、日本人として持っていたいいものもたくさんなくしてしまったと想うのです。

 ですから紫陽花は、今から、米国との戦争に負けても、何とか占領されない日本を造りたいと想います。

 日本に、それだけの国力があって、米国としても、そこまでできなかった国にしたいのです。

 でも、それをするには、明治以後では遅すぎます。

 もう欧米の力がアジアに浸透して、手遅れです。

 その前に、日本を開国して、活気のある国にして、太平洋の島々を支配し、東南アジア諸国とも同盟して、台湾や、朝鮮にも影響力を持っているアジアの盟主にしたいと想います。

 日本の力があったので、東南アジアは、欧米の植民地化を防げたという事にしたいのです。

 そうすれば、米国と戦争して、負けたとしても、占領までは防げます。

 具体的にいえば、太平洋の島々、遠くはソロモン諸島や、ギルバート諸島を支配し、トラック諸島、マリアナ諸島をがっちり固めている日本に対して、米国としても、トラック諸島までで、日本を占領することまではできずに、戦後を迎えたいう事にしたいのです。

 それなら、日本は、今の時代にも、日本人として、世界に発言できます。

 米国に対しても、独立国として、おかしい事はノートいえるのです。

 そしてそんな日本にするには、日本人が、世界から見ても、とても輝いていた時代、戦国時代に戻らないといけません。

 この時、日本は、鉄砲の生産量は、一国で、ヨーロッパ諸国が持っている全量と同じだといわれていましたし、軍隊の力でも、戦の経験が豊富で、世界でも一番強かったのではないかと言われています。

 そんな日本に、江戸時代の鎖国はさせず、海外との貿易をさせて、経済大国日本を目指させたいのです。

 ですが、かといって、紫陽花は、織田信長や豊臣秀吉のように、朝鮮に攻め込んで、中国やアジア諸国を植民地させたいわけでもありません。

 そんなことをしたら、今の日本はないと想うのです。

 理想は、日本は、江戸時代のような鎖国政策は取らずに、開国して、貿易はどんどん栄えますが、アジア諸国に対しては、欧米のような植民地政策はとらず、アジアの国々と連携して、欧米諸国と対決していたと言うにしたいのです。

 しかし、ここで問題なのは、果たしてそれが、あの時代の日本で可能かという事です。

 紫陽花自身、徳川家ではとても難しいと想います。

 でも、では他の大名なら、それが可能かといったら、それも難しいと想います。

 鎖国したのは、その当時、それなりの大きな理由があって、どこの大名が政権を取ったとしても一緒だと想うのです。

 だけど、紫陽花は、武田家に対して、開国の願いを託したいと想います。

 それが武田家のDNA、遺伝子です。

 何故なら武田家は、今の山梨県、甲斐の国を本拠にしていました。

 甲斐には、海がありません。

 ずっと海のない領国で、500年も存続してきたのです。

 だから武田信玄にしても、海に対する憧れは非常に強かったと言います。

 三国同盟を破棄してまでも、今川家に攻め込んで、駿河を領国にしたのも、何としても海が欲しかったからですし、信玄が大切にしたという船の模型さえ残されています。

 ずっと、海を得て、貿易を盛んにして、国を豊かにする事を願っていたのです。

 紫陽花は、その武田家が持つ、DNAに賭けてみたい気がするのです。

 しかも、武田家は滅亡しましたが、信玄が実施した政治、政策は、信玄を尊敬する徳川家康によって、大きく実を結ぶ事になります

三方ヶ原の戦いで、信玄に惨敗した徳川家康は、甲斐・信濃を領国にした時に、武田の家臣を多く召抱えて、信玄の政策を真似たといわれているのです。

ですから、江戸幕府は、武田家がしていた政策をたくさん実施しています。

武田家には、名百年も平和を続けた江戸時代のノウハウがあります。

紫陽花は、それに賭けたいです。

武田幕府であれば、武士の領地に対する欲望や不満を抑え、貿易によって、日本国を栄えさせ、アジア諸国とは、植民地化ではなく、友好国として供に手を結べたと信じたいのです。

それが、紫陽花が、バーチャルの世界、多次元宇宙で、武田信玄を復活させる理由なのです。

ただ、それが、皆さんの中で、武田贔屓すぎるという批判があれば、それは甘んじて受け入れたいと想います。

紫陽花も、正直苦しいとは想いますが、何せ、前世、武田勝頼です。

ご理解お願いします。

 

 

            ∞「ビスマルクという人物」∞

「武田信玄天下取り物語」を、今の日本や、世界を大きく変える事を願って書きますと宣言しました。

 日本と言う視点ではなくて、アジアの視点で書きたいと想うのです。

しかし、そうなれば、欧米の人には、不公平になります。

 シミュレーションの世界なので、書こうと想えば、何でも書けますが、そんな事は、したくありません。

 全世界の合意で、歴史を変えたいのです。

 それでこれからの未来ですが、10年後、紫陽花は、古来から預言されていたように、ハルマゲドンの世界になったという事で、この物語を始めたいと想います。

 2012年に、恐れられていたように、人類は、核戦争を起こして、滅亡の危機を迎えます。

 米国とイスラエルに対して、EC、ロシア、中国が戦い、人類は滅亡の危機を迎えるのです。

 核爆発の影響もあって、人口が大幅に減少してしまうのです。

 しかし、それでも日本は何とか生き残り、科学を残す事に成功します。

 そして20●●年に待望のタイムマシンを開発する事にしたいと想います。

 日本だけでなく、欧米の優秀な科学者も集って、タイムマシンを成功させるのです。

 それで歴史を変える、大掛かりなプロジェクトが組まれたのです。

 また、そのプロジェクトには、日本人だけでなく、欧米や、アジア、アフリカの、多くの学者が集められて、世界的な規模で行われます。

 世界中の歴史が調べられ、スーパーコンピューターによって計算されて、何とか歴史の修正をしようとするのです。

 でも、この計画は、なかなか作成する事はできませんでした。

 一番簡単なものは、ハルマゲドンが起こる前、21世紀にタイムマシンで登場して、人類にその愚かさを伝える事ですが、それで当事者である米国やイスラエル、EC、ロシア、中国、各国の指導者が納得するとは限りません。

 下手をしたら、未来人とは認められないのかもしれないのです。

 しかも、時間に対しては、そんな大きな修正を一度にすれば、大きな反動が来る事も分かった事にします。

 下手をしたら、今、現在が吹っ飛んでしまう事が分かったのです。

 それで時間をかけて、変更する事が考えるようになりました。

 人類の歴史を徐々に変えて、ハルマゲドンの危機を乗り越えた後、世界の歴史が、争いのない未来の方向に進む事ができたら、タイムマシンによって、今、地球にいる2億人の未来人は、過去の歴史に戻って、供に住む事が計画されたのです。

 しかし、それだけに、失敗は許されません。

 時代の修正は、何度もできない事も分かってきましたし、下手をしたら、歴史をもっと悪くする可能性が高い事も分かってきたのです。

 チャンスは、何度もないのです。

 だから世界中の科学者、歴史研究家が、何度も必死に計算して、注目したのは、日本の戦国時代でした。

 欧米のアジア侵略をある程度防ぐ事ができる国は、日本しかなかったのです。

 だけど、それでは織田信長が長生きしたり、秀吉の朝鮮侵攻が成功したりしたらそれでいいかと言ったら、そんな事もありません。

 日本の歴史が大きく変わってしまいます。

 それでは、未来人にとって、大きく困るのです。

 それで研究家が選んだのは、武田信玄の存在でした。

 海外の研究者には、黒澤監督の映画、影武者の主人公といっても、分からない存在でしたが、研究が進む事に、武田信玄の存在に引かれたのです。

 でも、武田信玄を選んだとしても、信玄を使って、どう歴史を修正するか、それは至難の技でした。

 武田信玄に、すべての真実を話しても信用するわけがありませんし、武田信玄に会う事さえ本当に難しいです。

 しかも武田信玄の性格さえ、心理学者に調べさせても、資料が少なく、はっきりとは分からなかったのです。

 しかし未来人は、武田信玄を選びました。

 歴史を修正させるプロジェクトが動き出したのです。

 また、その中で選ばれたのは、意外にも日本人ではなく、ドイツ人のビスマルクという医者でした。

 というのも、この時代、スペイン人、ポルトガル人が、キリスト教や鉄砲と供に、日本に来ていました。

 この一人として入る事ができたら、かえって、日本人よりも疑われる事がありません。

 少しおかしい事があっても、外人なら疑われる可能性が少ないですし、身元がはっきりしなくても、不思議ではありません。

 外人で、スペインやポルトガル、英国、オランダといった国ではない、その当時、存在しなかったドイツの地方にいたプロシャ人である、ビスマルク医師が選ばれたのです。

 そうすれば、他の外人との接点も防げると考えたのです。

そして、そんなビスマルク医者に託された使命は、本来なら三方ヶ原の戦い以後、病気で死んだ信玄を生かす事でした。

 病気を治す事だけが、ビスマルク医師の任務で、信玄に未来の情報を教えたり、その時代に何かしたりする行為は、一切禁止されていたのです。

 しかも、それをビスマルク医師は、主に一人でしないといけませんでした。

 未来人が、何人もかかわると、この時代の人達に、疑われるという危険なリスクが増やしてしまうことになるので、それはできませんでした。

一端、タイムマシンで過去に来たら、もう、未来から指示を貰う事もできません。

 すべて一人でしないといけないのです。

 だから、ビスマルク医師には、この時代のいろんな情報が教育されていました。

 言葉も、ある程度日本語ができるようになっていましたし、この時代のいろんな日本の知識も与えられていました。

医学の技術も、この時代の、西洋の医学の技術だけでなく、日本の東洋の医学も教わっていました。

その上に、未来の心理学なども身につけていて、西洋のフェシングの技術もありました。

日本の歴史に関しては、あえて、知らされていませんでしたが、一種のスーパーマンでした。

スパイとしても一流だったのです。

ですから、未来の命運は、すべてビスマルク医師に任されました。

と言うのも、もし、ビスマルク医師が、信玄に会って、信玄という人物が、未来人の想像したような人物ではなかったら、この計画は実施しない事になっていました。

地球が生きているというガイア説も、未来では実証されていて、信玄という人物が、地球という大いなる意志から愛されなかったら、歴史の変更ができない事も分かっていたからです。

その時には、中止する事も、ビスマルク医師は、未来人達からすべて任されていたのです。

しかし、その反面、ビスマルク医師が、未来を変更しなかったら、次の人物が、新しい人物を選んで、実行する事はできますが、コンピューターの計算でも、確率が相当低くなります。

 ビスマルク医師には、大きな期待と何よりも大きなプレッシャーがあったのです。

 

 

          ∞「信玄とビスマルク医師の縁」∞

 永禄十一年、(1568年)12月6日、武田信玄は、三国同盟を破棄して、駿河の今川家を攻めました。
 今川義元を失って、落ち目になっていた今川家を滅ぼして、駿河を手に入れ、長年の夢だった、海、港を手に入れたかったのです。

 しかし、その想いは、途中から、うまくいかなくなりました。

 信玄が、家康を甘く見て、大井川を境に今川領を切り取るという約束を反故にして、信濃高遠城代、秋山信友を天竜川沿いに南下させて、遠江を侵略した事で、家康を激怒させてしまい、北条家、徳川家の挟み撃ちを招く結果になってしまいました。

 武田家は、不利な形になって、一端、駿河を手放さないといけないようになりつつあったのです。

 そんな信玄の元に、一つの不思議な話が、まいこんだのは、12月23日でした。

 何と一人の異人が、清水の港に現れて、領主との面談を求めて来たというのです。

 しかも、面談した役人によれば、その外人は、たどたどしいですが、日本語も話せ、年で言えば、30歳で、自分の事を、ビスマルクだと名乗っているそうです。

 信玄の元に、そんな情報がすぐに届いたのです。

 また、信玄は、その話に興味を持ちました。

 伴天連、異人が、日本の堺という都市などに来ている事や、種子島を伝えた事は、信玄もよく知っています。

 織田信長が、キリスト教なる、外人の宗教の普及を許し、いろんな最新の技術などを手に入れている事も聞いていました。

 異人なるものが、どんな人間なのか、関心もあったのです。

 しかも、信玄には、その異人が、来たことは、今、窮境にあっている自分にとっては、駿河が手に入る吉兆のような予感もしていました。

 異国から海を通じて、異国人が来た事は、縁起のいい事だと喜んだのです。

 でも、信玄は慎重です。

 お気に入りの、武藤昌幸などの若手の家臣に、別段、怪しい所がないか、3日間尋ねさせ、一様、辻褄があっているという事で、やっと会う気になりました。

 徳川家・北条家との戦で、異人どころではありませんでしたが、会って話をしてみたかったのです。

 またその面談で、ビスマルクは、自分の母親は、漁師の娘で、ある時に難波したところを、外人の船に救われた事、母親は、フィリピンというところで、外人の父親と結婚して、自分が生まれてきたこと、日本語は、母親から学んだこと、母親の故郷である駿河の国で、住みたいこと、自分は、キリスト教を普及する伴天連ではなくて医者だという事、この土地で、医師として働きながら、東洋の医学も勉強したいことなどを、たどたどしい日本語で説明しました。

 未来で、多くの専門家が、念入りに考えていたとおりの事を言ったのです。

 そしてその試みは、見事に成功しました。

 信玄は、自分に対して、堂々と言うビスマルクという人物を一遍に気に入りました。

 ビスマルクという人物は、有能で、仕えると判断したのです。

 だから、信玄は、このビスマルクという人間を、密かに召抱える事にしました。

 キリシタンという異国の宗教を普及しようとしているのなら問題ですが、医者なら、国内の坊主達も、反対しないだろうと判断したのです。

 こうして、ビスマルクは医師として、武田家に仕える事になりました。

 信玄は、ビスマルクに医師としてではなくて、外国の情勢や、船のこと、鉄砲のこと、いろんな事をゆっくり聞きたかったのです。

 しかし、その当時の信玄には、ビスマルクと長い時間話す余裕はありませんでした。

 すぐに駿河に侵攻した北条との戦に出かけ、ビスマルク医師は、一足先に、駿河は危険だという事で、甲斐の国に密かに運ばれたのです。

 こうして、ビスマルクは、最初の計画どおり、見事に、甲斐の国内に入る事ができました。

 また、この事は、未来人達にとっては、一番の難関を突破した事を意味しました。

 何故なら、海のない武田家に、異国の人間が、入り込む事が可能な時期は、信玄が、駿河に侵攻した、わずかの時期しかありませんでした。

 この時期を逸すると、再び、駿河を有した元亀一年(1570年)まで待たなくてはなりませんが、翌年の元亀3年には、信玄は上洛を目指して軍を起こし、1年後の天正元年(1573年)4月12日に亡くなったとされています。

 元亀一年では、遅すぎます。

 少なくても、信玄の病気を治すには、病気になる5年前には、医師として入る必要があったのです。

 だけど、海のない武田領に、外人が入るのは至難の技でした。

 京都などの他国から入国するのは、異人では目立ちすぎて不可能ですし、他国の領主が許す可能性も低いです。

 この時期しか、信玄と直接、縁はもてるチャンスはなかったのです。

 ですから未来人達は、何度も念入に計算しました。

 信玄の性格、武田家の情勢をスーパーコンピューターで計算し、シナリオライターまで使って、どうしたら自然の形で、ビスマルク医師が、信玄と会えるか、それを考えていたのです。

 しかし、甲斐に入れたからといって、ビスマルクが、簡単に信玄の治療ができたかと言ったら、そんな事はありません。

 信玄には、お抱えの板坂法印などの侍医団がいます。

 慎重の信玄は、身元がはっきりと分からないビスマルク医師に、すぐに自分の身体を診察させる事はなかったのです。

 だけど、その事はビスマルク医師にも分かっていました。

 武田家の医師の一人として、献身的に最初は、目立たないように、この当時分かっている西洋の医学を使って、武田家の医師として働いていたのです。

 でも、それも1年もすれば、ビスマルク医師の治療は、大きな評判を生んで、信玄を診る事ができるようになっていました。

 信玄は、ビスマルクの言う異国の話に関心があって、招く事も多く、信玄の身体を診るチャンスがあったのです。

 また、その事は、ビスマルクをほっとさせました。

 信玄は、膈(胃が物を受けつけず吐き戻す病気。膈の病。)でした。

 現在の医学では、結核や胃癌だと考えられていました。

 この事は、信玄の医師である板坂法印や、御宿堅物などが膈と診たてていますし、残していた資料などでも、間違いないとされていましたが、100%の確証はありませんでした。

 ですから、もし信玄が、膈(結核、胃癌)ではなくて、他の難病であれば、ビスマルク医師は、あきらめないといけませんでした。

何故なら、難病の治療をする事は、戦国時代の医学では不可能です。

 ビスマルク医師が、信玄一人を連れ出して、隠しているタイムマシンの中で、治療ができれば別ですが、何の説明もなく、それをするのは不可能にちかいです。

 信玄の治療を、残念するしかなかったのです。

 だけど、膈(結核、胃癌)であれば、抗生物質や胃癌を治す薬があれば、治す事は可能です。

 この時代不治の病でも、未来人からみれば、簡単な病気でした。

 未来からの薬を、信玄に飲ませる事ができたら、信玄は間違いなく助かるのです。

 そしてそんな未来人のシナリオは、うまくいきました。

 ビスマルク医師の人柄を観察していた信玄は、自分の医師団に、ビスマルク医師も入れて、板坂法印、御宿堅物らと一緒に治療に当たらせ、ビスマルク医師は、異国の最新の医学で発明された、万能な薬という事で、ある飲み薬を紹介する事に成功しました。

 ごく限られた分だけ、ビスマルク医師は、持参しており、試しに、2、3人の重病の患者に試して、治った事で、信玄にも、万が一の時には採用される事になりました。

 信玄に万が一の時があった場合は、信玄の医師団は、国内の薬だけでなく、異国の南蛮の薬も使うつもりでいて、板坂法印は、ビスマルクから万能薬を貰っていたのです。

 こうして、ビスマルク医師の大きな任務を果たせました。

 ビスマルク医師は、ほっとしたのです。

 また、その薬も、信玄が上洛の軍を起こす前に使われる事になりました。

 元亀三年、いよいよ武田軍を西に向けるという時に、信玄は病になり、なかなか回復しなかったので、抗生物質を飲んだからです。

 これで、信玄の病、膈は完全に治りました。

 信玄は、実際の歴史と同じ、病で計画より2日遅れの10月3日に、武田全軍を、西に向けたのです。

 

 

            ∞「徳川家康攻略」∞

 武田信玄は、歴史と同じ日、元亀三年(1571年)10月3日に上洛の軍を進めました。

 また進路は、歴史どおりでした。

 本隊2万2千は、信濃から伊奈谷を南下して、青崩峠、兵越峠を10月10日に越えて、遠江に入り、別働隊として山県昌景を大将とする一隊は、伊奈谷から東三河、もう一つの別働隊である秋山信友には、東美濃を攻略させて、織田軍を牽制させています。

 武田軍は、破竹の勢いで進み、徳川家康の城を次々と落とし、やがて、浜松城の有力な支城、二俣城を囲むと、2ヶ月間かけて落としています。

 その後、信玄は、浜松城で籠城しようとしている徳川家康を、三方ヶ原に誘き出す事に成功させると、12月22日、有名な三方ヶ原の戦いで大勝しています。

 武田家の戦死者が400人に対して、徳川・織田軍は、1200人で、多くの有能な家臣も死んでいます。

 歴史は、まったく同じだったのです。

 しかし、その後、歴史は大きく変わりました。

 本来の歴史であれば、三方ヶ原の戦い後、信玄の体調が悪くなって、武田軍は前進を止めました。

 三河にある野田城攻略に1ヶ月間ちかくもかけて落とした後、死期を悟って、4月には武田軍を引き上げさせて、途中の駒場で4月12日に息を引き取ったのですが、今度の歴史では、異国人のビスマルクが渡した魔法の飲み薬のおかげで、健康の心配は、まったくありませんでした。

 城主である菅沼定盈以下、300人が守る野田城を一気に攻撃して、1週間で落としました。

 それで菅沼定盈300人は、みな殺しになりました。(御免なさい)

 信玄は、三方ヶ原の戦いでの勝利を有効に使って、多少の損害、200人の犠牲を覚悟して、野田城を落としたのです。

 また、その信玄の戦略は、功をなしました。

 野田城の兵が、全滅した事で、徳川家、織田家の兵は、武田軍をますます恐れるようになったのです。

 ですが、その反面、信玄にも誤算はありました。

 最初の計画では、信玄が作り上げた信長包囲網を担う、朝倉、浅井連合に、織田軍を近江の国で、張り付けにして貰った上で、信玄は、一気に尾張・美濃を横断して、信長がいる近江に行くつもりでした。

 浅井・朝倉軍2万と、武田軍で挟み撃ちを狙ったら、織田軍は、戦う前に逃げてしまいます。

 その後、軍を引き返して、尾張・美濃を占領するつもりでした。

 尾張・美濃を抑えたら、三河の徳川も抵抗を諦めるだろうとよんでいたのです。

 でも、その戦略は、朝倉家が、約束を破って、12月2日に越前に帰った事で、崩壊していました。

 信長が、軍を近江から引き上げたので、信玄も戦略を練り直したのです。

 ですが、病であったら、朝倉家の裏切りに落胆しただろう信玄も、健康なら、大丈夫です。

 朝倉家に期待した自分の甘さを反省すると、今度は、武田軍が、織田信長を誘い込む計画に変更しました。

 そして信玄は、その後、1月3日には、本隊を二つに分けると、勝頼に1万を預けると吉田城、本隊は、1万5千で三河の本城、岡崎城を囲む事にしました。

 気力が充実している信玄は、一気に勝負に出たのです。

 しかも、信玄には前から考えていた秘策がありました。

 それは、箕輪城を譲渡する事で、西上野半分、8石を割譲する条件で、北条家から、2万もの大軍を借りる事でした。

 徳川家康と織田信長連合の強固さを感じた信玄は、武田家単独で戦う事の不利を感じていて、いざという時には、北条氏政から2万もの軍を借りる約束を密かに取り付けていました。

 北条氏政も、いくらでも兵を出すと言っていた手前、嫌とはいえません。

 信玄は、徳川家をある程度痛めつけた上で、新たに北条家の軍を借りる予定でいました。

 最初から、2万の北条軍が加わっていたら、家康が出てこない事が分かっていたのです。

 だから野田城を攻略した後、北条家に2万の援軍を申し込んだのです。

 それに対して、様子を見ていた北条氏政も決断して、すぐに大軍を送ると約束してきました。

 上杉謙信は、越中に目が向いていますし、雪なので、大軍で攻めて来る気配がありません。

 1月15日には、2万の軍隊が、弟の氏照に率いられて、送られてきたのです。

 そんな北条軍を交えて、岡崎城、吉田城を囲み、織田軍が救援にこないといけない状況を作リ、一気に得意の野戦で、信長との決着をつけようとしたのです。

 でも、武田を恐れる信長は、出てこようとはしませんでした。

 徳川家康の依頼でも、三河に兵を向けませんでした。

 武田軍2万7千だけでなく、北条軍、2万も三河に入った以上、家康が何も言っても、戦うわけにはいかなかったのです。

 しかし、信玄は、その事も読んでいました。

 北条家からの援軍、2万の中で、5千人で、高天神城を囲ませ、後の1万5千を、勝頼率いる1万と合流させて、2万5千の大軍で、吉田城を攻略しました。

 信玄は、本国から金掘衆を呼び寄せると、勝頼に、二の丸を落させ、後は一気に力攻めをしました。

 吉田城も、たまらずに1ヶ月後の2月3日は落ちたのです。

 また、その後、今度は、家康の嫡男信康が3千もの兵で守る、岡崎城も、風前の灯火でした。

 武田・北条軍は、5万です。

 落城は、時間の問題になっていたのです。

 その上に、信玄は、織田軍が救援に来ない事に不満を持っている徳川家の心理を利用して、徳川家康が、憤慨して、すでに信長を裏切っているという噂を広めさせました。

 信長が、岡崎に救援に来たら、徳川も武田と一緒に戦うというつもりだと言う噂を広め、家康を精神的に追い詰めさせました。

 家康が、その気がなくても、信長がその噂を信じていたら、いつか首を取られる可能性があります。

 家臣に信用されていないと言う、信長の持っている弱点を上手についたのです。

 それで家康も、とうとう信玄に降伏しました。

 このまま信長についていても、いつかは殺されてしまうと不安と、姉川の戦なので、織田家の為に戦ってきたのに、いくら要求しても、援軍を出そうとしない事に腹を立てていて、ついに家臣の説得に応じました。

 徳川家も、武田家についてのです。

 そしてその事は、信玄を喜ばせました。

 信玄は、家康の武将の能力を買っていて、実は、何とか味方にしたいと考えていました。

 家康の家臣にも根回しをして、家康を説得するように動いていて、それが成功したのです。

 家康は、三河一国安堵を条件に、武田家の家臣になったのです。

 具体的には、吉田城と浜松城を交換し、落城寸前の岡崎城の包囲網を解き、高天神城を開放させたのです。

 こうして実際の歴史では、後に織田信長に嫌われて、自害した家康の長男、信康は生き残る事ができました。

 家康は、長男、信康を救う事ができたのです。

 さあ、それで、徳川家も加えた武田軍は、新たに1万の軍を加え、新しく武田に加わった、遠江の兵も加えて、その軍は、6万ちかくになりました。

 2月20日、一気に尾張に侵攻したのです。

ですが、そんな徳川家康の裏切りに激怒した信長ですが、頭の中は冷静でした。

 信玄が、尾張に侵攻する事は覚悟していて、守りを固めていました。

 清洲城には、重臣柴田勝家や佐々成政で5千、小牧城には、丹羽長秀と前田利家を入れて4千、犬山城には、佐久間信盛で4千、勝幡城では、滝川一益で4千という兵力を配置していました。

信頼できる武将で尾張を固めていたのです。

しかも美濃に対しても、岐阜城に信長、信忠親子で、1万2千、大垣城にも、氏家直正と安藤守就、兵4千で守りを固めさせていました。

信長は、あくまでも、野戦を避けて、各城で籠城する事を狙ったのです。

また、その信長のもくろみは、成功しました。

6万の大軍とはいえ、兵農分離が進んでいない武田・北条軍は、あまり長い期間、兵を動かすのは無理がありました。

特に、武田軍は、10月からなので、もう、そろそろ、一端国内に兵を引き上げる必要がありました。

3月が過ぎたら雪解けで、越後の上杉謙信もやがて動く可能性もあります。

信玄は、3月20日までには、4千の守備隊を残した武田全軍と、約束通りに、北条の兵5千を残した北条軍、1万5千を国内に戻すつもりでした。

わずか1ヶ月間では、期間が短すぎて、そんなに大きな戦は無理だったのです。

だから信玄は、6万の全軍を小牧城に集中させて落とし、山県昌景に兵9千を預けると、小牧城を守らせ、後は全軍を引き上げさせたのです。

でも、信玄は、この1ヶ月間で、尾張の領土内にある20万石も手に入れる事ができました。

この事は、信玄には大きな収穫でした。

尾張は豊かな国です。

信玄は、武田家が織田家に比べて、経済的にも大きく劣る事を自覚していました。

尾張という経済的にも豊かな土地を、20万石も得る事はできたのは、今後の事を考えたら大きかったのです。

 

 

               ∞「信長の逆襲」∞

信長は、武田軍が、4月までには引き上げる事は分かっていました。

兵農分離が進んでいない、武田軍は、農業が忙しくなる時期には、兵を動かす事はできません。

天才信長には、武田軍の弱点は分かっていたのです。

しかし、信長は、武田軍が、引き上げても、本国尾張の東部分になる20万石を取り戻そうとはしませんでした。

奪われた小牧城には、武田の重臣、山県昌景が守っています。

三河には、徳川家康がいます。

残念ですが、もはや、奪回は難しいと判断したのです。

ですが、信長も、信玄に負けない人物です。

尾張は、無理だと諦めると、まず、信玄の動きを見て、自分に反旗を企てた足利義昭がいる二条第を攻めて、降伏させると、泉の堺で幽閉しました。

将軍義昭が、二度とかってな事ができないようにしたのです。

その上で織田信長は、近江、浅井家に軍を向け、小谷城を攻撃する決心をしました。

小谷城を、4万の大軍で攻撃したのです。

しかし、信玄の大勝で勢いづいている浅井軍も、5千もの兵で必死に守っていました。

簡単には、落ちない雰囲気だったのです。

でも、これは信長の罠でした。

信長は、浅井の救援に来る朝倉軍を狙っていました。

信玄は、朝倉義景には、油断せずに、軍を動かすように注意を促していましたが、信玄の大勝に気をよくしていた朝倉軍は、まさか、織田信長が、自分達を狙っているとは想っていませんでした。

小谷の西方の大獄山に陣とっていた朝倉軍は、織田軍の急襲に、不意をつかれ、もろくも崩れ、その後も、持ち直す事はできませんでした。

織田軍は、小谷城の包囲を解くと、全軍で、余呉にいる朝倉本隊を一気に攻め、それを抜くと、朝倉全軍を崩壊させました。

木之本、塩津と抜いて、朝倉の本領、越前の敦賀城、金ヶ崎城を落とし、朝倉家は、呆気なく滅亡しました。

朝倉義景は、拠点にしていた一乗谷から脱出しましたが、頼る所はなく、一族の朝倉景鏡に裏切られて死んでしまったのです。

こうして、朝倉家は、わずかの間であっけなく滅亡してしまったのです。

しかも、織田信長は、越前を重臣、柴田勝家に任せると、すぐに南下して、小谷城の浅井長政を攻めました。

信玄も驚く電光石火の大技でした。

どうする事もできなかったのです。

だけど、信玄も、信長の行動力に舌もまきながらも、打てる手は敏速に打ちました。

甲斐の国に戻らずに、本来なら死去した場所の近くの信濃の吉岡城で指揮をとっていた信玄は、すぐに情報が得られ、朝倉家が滅亡すると悟った瞬間に、小谷城の浅井長政に使者を派遣して、今は、大軍を動かした後なので、軍を動かせないが、9月には、必ず救援をするので、自分を信じて、籠城をするように言いました。

武田家の軍が、3万が小谷城に入っても、当面困らないように、領地内にあるだけの食糧を、小谷城に運ぶように言っていたのです。

織田信長が、そんな小谷城の浅井長政を囲んだのは、その後すぐでした。

小谷城を一気に落として、信玄が上洛しようとしている拠点を潰したかったのです。

もし、小谷城を落として、浅井家も滅ぼせば、越前、近江が完全に手に入り、十分に信玄と戦えると判断していたのです。

ですから織田家の攻撃は、熾烈を極めました。

背後に、朝倉家の軍がいないので、何も気にする必要はありません。

5万の大軍で、5千人で篭もる小谷城を必死で、攻撃したのです。

でも、後がない浅井長政も必死でした。

家臣にも、武田軍が必ず、救援すると約束したと言っているので、希望もあります。

織田軍の猛攻を何とか防いでいました。

難攻不落の小谷城は、家臣が結束していたら、そう簡単に落ちる城ではなかったのです。

そしてそんな織田信長が、焦る中で、信玄は、浅井長政との約束を守って、一部の家臣の反対を押し切って、少し早い目の8月には、軍を動かそうとしたのです。

ですが、8月であれば、上杉謙信の南下の心配もあるので、全軍は出せません。

3月まで、大軍を動かしていたので、財政的にも大変です。

武田家で2万が限度だったのです。

だから信玄は決死の覚悟でした。

後継ぎの勝頼に、甲斐、信濃の守りを任せ、重臣の高坂弾正と山県昌景の言う事をよく聞くように厳命しました。

その上で、信玄は、武田家の家臣団の前で、正式に世継ぎを勝頼に指名し、家臣団が勝頼に一致団結して支えるように言いました。

主な家臣には、内々で、勝頼を頼むと頭を下げたのです。

また、この事で、武田家は、勝頼の元で一致団結する事ができました。

何故なら、本来の歴史では、病の為に、信玄は、武田家の跡を勝頼に正式にゆずらずに、信勝が16歳に成るまで、陣代として、後見するように指名したという大きなミスを犯しました。

その為に、勝頼は、武田家の家臣団に、正式な跡目とは受け入れられず、最後まで、家臣団と結束する事ができなかったのです。

でも、健康な信玄は判断を誤りませんでした。

正式に跡を任せた事で、勝頼にも焦りは生まれず、武田家臣団との結束を固める事ができました。

武田家臣団は、信玄の時と同じように、勝頼にも忠誠を尽くしたのです。

しかも「自分が死んだら、上杉謙信と結んで、天下を目指せ。信長には、ゆめゆめ油断するな。侮って戦うな」という遺言状さえ、信玄は残しました。

信玄は、死ぬ覚悟で、浅井長政救出の軍を出したのです。

しかし、そんな信玄にも、十分に勝算はありました。

その一つが、内々で婚姻していた勝頼と北条氏政の妹、氏康の六女を、急がせて6月に結婚させた事です。

これで北条家との関係を強固にしたのです。

その上に、信玄には、徳川家という切り札がありました。

というのも信玄は家康に頭を下げて、徳川家、1万も動員する事にしました。

武田家の守りは、勝頼に任せると、合計3万の大軍で、東美濃から一気に、小谷城を目指したのです。

また、この信玄の目論見は、成功しました。

信長自身、大軍を動かしたばかりの信玄が、すぐにこれだけの大軍を動かせるとは想っていませんでしたが、十分に用心はしていました。

その時には、小谷城の近くに、強大な柵を立てて、武田の騎馬隊の攻撃を防いで、5万の大軍の数にものをいわせて、武田軍を破るつもりでした。

ここで武田軍を破れば、背後にいる美濃の兵と挟み撃ちをする事ができます。

信玄の首どころか、武田軍を壊滅できると想っていたのです。

だけど、戦は、信玄の方が上手でした。

信玄は、美濃にある各城、堂洞城などを攻撃もせずに、堂々と進むと、岐阜にある城下町を焼き、小谷城にむかって、慎重に進みましたが、小谷城の近くの所で、信長が柵を作って、待ち構えていると知ると、そこでの戦を避けて、別なルートを取ろうとしました。

信長の望んでいるところで、戦をするという愚かな事はしなかったのです。

だから、信長も、武田・徳川軍と決戦する事はできませんでした。

柵は、すぐに立てる事はできません。

このまま、戦になれば、武田・徳川軍と野戦をする事になります。

野戦では、いくら5万と3万で数では有利とはいえ、信長には、信玄に勝てる自信はありませんでした。

姉川の戦では、浅井家8千人に対して2万3千人と数では圧倒的に多かったのに苦戦し、たった6千人の徳川の兵に助けられています。

その時に、徳川家の三河武士の強さ、認識しています。

その徳川家が1万もいる上に、戦国最強と恐れられている武田軍が2万もいます。

期待の新兵器鉄砲も柵がなければ、有効に使えません。

5万の軍でも勝てる気がしなかったのです。

ですから信長は、小谷城の包囲網を解き、一端武田・徳川軍を小谷城に入れてから、武田軍の兵糧がつきた頃に戦を仕掛ける事に作戦に変更したのです。

だけど、信玄はその事も読んでいました。

まず、小谷城の包囲が解けると、7千の兵を東美濃に戻して、2万3千で小谷城に入って、浅井長政と対面して、長政の妻、市を交えて、お互いの無事を喜びあいました。

浅井長政は、約束を守って、自分を命懸けで救ってくれた信玄に感動して、一生忠誠を尽くす事を約束し、市は、本来の歴史とは違って、長政とずっと末永く暮らす事ができたのです。

でも、これで戦が終わった訳ではありません。

信玄には、秘策があって、長政に、このままでは、小谷城を放棄して、自分と一緒に、甲斐に帰らないといけないという厳しい現実を言いました。

その後、信玄は秘策を告げて、長政を本当に驚かせました。

2日後には、小谷城に信玄率いる8千人と浅井家2千人を残すと、後の浅井長政、徳川家康には、武田信廉を総大将にした2万の大軍で、朝倉家のあった、越前の国に侵攻させる事にしたのです。

何故なら、越前の国は、柴田勝家が任されていましたが、まだ、4ヶ月間しか治めていませんし、苛酷の事をしていたので、朝倉家の家臣の恨みを買っていました。

その上に、本願寺の一向宗が、信玄の要請で動いていました。

それで越前の国では、信玄の侵攻にあわせて一向宗が立ち上がり、もう収拾がつかなくなっていました。

柴田勝家は、まったく動けなかったのです。

そこに武田軍が、手筒山城、金ヶ崎城を抜くと、越前に入ったのです。

柴田勝家は、奮戦空しく、一向宗に討たれてしまい、織田軍は壊滅しました。

織田信長自身、こんなにあっけなく、越前が奪い返されるとは想わなかったのです。

しかも、信長が頼みにした上杉謙信も、動きませんでした。

将軍義昭を幽閉した事で、上杉謙信は、信長に怒りを覚えていました。

隠していた朝倉義景の首で、酒を飲んだという噂も聞こえてきました。

信玄自身も、今までのやり方を反省して、謙信に密かに和を乞うています。

その上に、北条からの援軍3千を含めて、海津城には、重臣の高坂弾正が5千人で固めていますし、信玄と一緒に向かった7千人の兵も、戻ってきています。

また勝頼も、油断する事なく、動きを見張っています。

北信を攻めたら、勝頼に妹を嫁がせた北条氏政も黙っていません。

武田家に援軍2万を出す約束になっています。

さすがの上杉謙信も、この信玄の万全の守りでは、動く気にはなれませんでした。

あっさり信長の依頼を断りました。

以後、謙信は、しつこくせまる信長を無視するようになったのです。

だから上杉謙信が動けば、織田軍も、東美濃から、木曽に攻め込んで、挟み撃ちを考えていた信長の構想は実現できなかったのです。

そして信玄は、見事、越前の国を取る事に成功しました。

信玄は、その越前を弟の信廉に任せました。

真田信綱、昌輝兄弟や、馬場信春も、信廉を補佐する事になっていたので、万全でした。

越前の一向宗には、一切手を出さないという条件で、石山本願寺の顕如とは話がついていたのです。

さあ、こうして信玄の作戦は、大成功でした。

2ヵ月後、越前から戻ってきた武田連合軍は、越前の兵、1万も加えると、3万5千人になっていて、信玄は、そこで、帰国しました。

東美濃では、武田勝頼が1万で待機しています。

信長は、岐阜城を守る事で精一杯でした。

何もする事ができないまま、信玄は殆ど兵を失わないまま、帰国する事ができたのです。

 

 

        ∞「尾張・美濃攻略戦」∞

小谷城の浅井長政を助け、越前を手に入れた事で、戦は信玄優位に進みました。

一端潰れた信長包囲網は、復活しました。

しかも頼りにならなかった朝倉家は崩壊して、そこに弟の武田信廉がいます。

小谷城の浅井長政も、信玄に忠誠を誓っています。

織田包囲網が乱れる心配はもうありません。

信玄は、ゆっくり戦略を練る事もできたのです。

それに、信玄の健康は万全でした。

もし、健康が優れなかったら、焦りもあって、すぐに軍を動かしたと想いますが、健康に不安はありませんでした。

今更ながら、自分の命を救ってくれたビスマルク医師に感謝していたのです。

でも、ここで信玄は、一つ気掛かりな事がありました。

それが、自分が近江に行っている間に、ビスマルク医師が消えていたという報告です。

医師として信玄の同行を望まなかったビスマルク医師は、信濃にいました。

信玄の病気が治ると、侍医団から離れて信濃の国で、医師としてひっそり生活していたのですが、ある日、山にある植物を取りに行って帰って来なかったという事でした。

山で道に迷い、脚を踏み外したのではないか、役人はそう報告していました。

遺体は発見されていませんが、外人であるビスマルクが、生きていけばすぐに分かります。

神隠しにあったとしかいえないのです。

だけど信玄は、ビスマルク医師は、生きているような気がしていました。

遠くで、自分の事をみている気がしていたのです。

しかも信玄は、ビスマルク医師は、以前から、この世の人間と違う事をすでに見抜いていました。

異人というのではなく、もっと別な存在です。

仏が、人間の姿になって、自分をもう少し生かしてくれたのではないか、そんな気がしていたのです。

それが、信玄が、ビスマルク医師の願いを聞いて、待医団から外し、信濃に行く事を認めた大きな理由だったのです。

しかし、信玄には、いつまでもビスマルク医師の事を考えている暇はありませんでした。

信長との戦で、多忙だったのです。

また、そんな信玄が、次に狙ったのは、織田家の本領、尾張・美濃でした。

ここを占領してしまえば、織田家の命運はつきてしまいます。

何としても取る必要があったのです。

しかし信玄は、それに対して慎重でした。

武田家は、豊かな尾張20万石を手にしたといっても、経済力では大きく織田家に劣っていました。

織田家は、京都という大都市や、商人の都市、堺を抑えています。

経済的には遥かに豊かです。

それに比べて、武田家は、国内にあった金山は掘り尽くしていて、財政的には豊かとはいえません。

度重なる大きな戦で、武田家の財政は大変です。

信玄は、冷静に、民の疲労をみていたのです。

だから信玄が、次に戦を仕掛けたのは、天正3年の6月でした。

じっくり1年をかけたのです。

そしてそんな信玄が、まず目指したのは、一向宗がいる尾張・伊勢の境にある、長島でした。

信玄は、まず、武田家全軍で、再び小谷城に進み、そこから一気に京都を取ると言う動きを見せる事で、織田軍を牽制して置いて、密かに長島に、北条水軍の協力を得て、武田・北条連合水軍の力で、食糧をたくさん入れる事に成功していました。

長島を兵糧の拠点にしたのです。

船を使う方が、陸上よりも物質をたくさん運べることを正しく理解していたのです。

その上で信玄は、北条1万の援軍を得た5万の大軍で、長島を押さえている尾張にある勝幡城を攻撃しました。

勝幡城は、滝川一益が、5千の兵で守っていましたが、何としても落とすつもりでした。

何故なら、この勝幡城は、清須城に比べたら、落としやすい城で、全軍で総攻撃すれば、落とす事が可能です。

まず、勝幡城を落として、ここに兵糧をいれて、じっくり尾張を支配するつもりでした。

一気に、1万で篭城している岐阜城の織田信長を攻めても、落ちないだろうと冷静に判断していたのです。

また、勝幡城は、信玄の目論見どおり、1ヵ月半後、何とか武田軍の猛攻の前に落ちました。

何と言っても死を恐れない一向宗達の力が大きかったです。

一向宗達は、多くの仲間を殺していた滝川一益を許そうとはしなかったのです。

また、その後信玄は、今度は、佐久間信盛が、4千の兵で守っている犬山城を攻めました。

織田家の嫡男、織田信忠が、7千人の兵で守っている清須城を落とす事は困難だと判断したのです。

でも、そんな信玄に対して、信長も黙っていませんでした。

長島に対しては、志摩の九鬼嘉隆に命じて、武田・北条水軍を破るように厳命したのです。

けれど、信長の思惑とは違って、九鬼嘉隆は、船の数では、2倍近くあると想われる武田・北条水軍に勇ましく戦いましたが、大敗すると全滅してしまいました。

信玄は、密かに毛利家まで動かして、村上水軍の援助も得ていて、3倍の兵力の差があって圧勝したのです。

また、犬山城に関しても、信長は必死で、鉄砲隊を集め、かき集めた3万の軍勢で救援に向かいました。

清須城の信忠も4千の兵を率いて駆けつけてきたのです。

その上で、信長が取った手は、前回と同じ、長列の柵を陣の前にひく事でした。

信玄が、勇んで攻撃したら、鉄砲隊の餌食にするつもりだったのです。

だけど、信玄はそんなに単純ではありませんでした。

犬山城が落ちるまでは、信長に対して攻撃しようとはしませんでした。

信長を無視して、犬山城攻略に専念して、3週間後、見事、佐久間信盛を降伏させたのです。

そしてその後、信玄は、竹で作った楯を前に置いて、信長に戦を仕掛けたのです。

これが世に言う犬山の戦いだったのです。

でも、この戦いでも、信玄の勝利でした。

信玄は、鉄砲隊の前に、突撃するような愚かな事はしませんでした。

初戦では、様子を見る為に、竹の楯で守りながら、慎重に兵を柵に突っ込ませていたので、損害は大きくありませんでした。

それで信長の鉄砲隊による三段撃ちを理解すると、その後は雨がふるまで、攻撃しようと想いませんでした。

人数でも5万対3万5千と圧倒的に多いですし、背後から敵に攻撃される心配もありません。

本来の歴史、長篠の戦で、武田勝頼が敗戦したのとは事情が違います。

信玄は、雨で鉄砲を使えなくなった時、総攻撃をするつもりだったのです。

しかし、信長もそれも分かっていました。

夜、密かに兵を引いて、見事に、近くの鵜沼城や岐阜城に撤退しました。

信玄も、そんな信長の動きは読んでいて、夜戦を仕掛けようとしましたが、柵に残っていた鉄砲隊に阻まれ何もできなかったのです。

でも、これは武田家の勝利でした。

信玄は、その後、兵2万を、急いで清須城に向けると、本隊は、鵜沼城の近くにある堂洞城、猿啄城を落としました。

東美濃を完全に支配し、岐阜城の喉元に刃を向けたのです。

また、その後、信玄は、今回の最後の仕上げとして、本隊3万も清須城に向けました。

岐阜城には、無傷な織田軍が、2万もいます。

大垣城には5千、浅井長政を食い止める為に、横山城には、秀吉が1万7千の兵で守っています。

まずは、兵が減った清須城を攻略して、尾張全土を支配したかったのです。

しかもここで、信玄を驚かす報告がありました。

犬山の戦で、信長と別れた信忠が、わずかの家臣と馬を飛ばして清須城に駆けつけたというのです。

信玄は、この信忠の勇ましさに感服したのです。

だけど戦は、信忠が奮戦しても、武田家への流れは、変わりませんでした、

信玄は、損害を恐れずに猛攻を仕掛けました。

信忠も、3千の兵で必死に防ぎましたが、5万の武田軍は、数に頼って攻撃し、落城は目の前でした。

落城も時間の問題だったのです。

しかし、ここで信玄に想いもよらない事がおきました。

信玄の五女、とても可愛がっていた松姫が、信忠の命を助けるように命乞いをしました。

松姫と信忠は、武田家と織田家が戦う前は、婚約していました。

それが壊れた後も、松姫は、まだ会った事もない信忠を慕っていて、他の縁談を拒んでいました。

信玄が、信長の養女徳姫を離縁した後、家康の長男信康との結婚を勧めても、駄目でした。

そんな松姫が、信忠が死ぬなら、自分も死ぬと言い出したのです。

それで信玄も困ってしまったのです。

でも、信玄は、それで松姫のいう通りにするような甘い男ではありません。

信玄は、信玄なりの策があったのです。

それは、信忠を許して、臣下に加える事でした。

松姫の願い通り、松姫と信忠を婚約させたら、織田家は動揺します。

信長に逆らって、信忠に従おうとするものも出てくると読んだのです。

だけど、信忠は、そんな信玄の策略も読んでいて、降伏を勧める信玄の申し入れを受け付けようとはしなかったのです。

信忠は、死ぬ覚悟をしていたのです。

それで信玄は諦めたのです。

でも、それでも松姫は諦めませんでした。

松姫は、ビスマルク医師とは武田家の中では、一番親しく、わずかの間、助手として医学の事も学んだ事もあって、人の運命は、人の意志で変わる事を教わっていました。

信忠との婚約が破談になった時も相談し、励まされた事もあります。

松姫は、それを想い出して、死ぬ覚悟で、信玄に、使者として、信忠に会う事を必死で懇願し、ついに無理やり実現させると、初めて、信忠と会う事ができたのです。

しかも松姫は、命懸けで、信忠を説得しようとしていて、さすがの信忠も、驚いてしまいました。

松姫は人質にされる事も覚悟していたのです。

それでも一緒に死にたいと言っていて、信忠は、その処置に困ってしまいます。

まさか、武士として女性を人質にする事もできません。

その上に、松姫は噂どおり綺麗な女性で、信忠自身、松姫の美貌にも引かれていました。

家臣も、織田家の存続を願って、この婚約を勧めました。

信玄も、信忠が清須城を開城すれば、松姫と結婚させて、織田家の存続を認める約束をしたのです。

でも、それでも信忠は、父親を裏切ろうとはしなかったのです。

だけど、その事を知った信長が、将来の織田家の事を考えて、あえて怒って、織田家から、信忠を勘当した事で、自体は動きました。

織田家から勘当されたら、仕方がありません。

信忠は、父、信長の気持ちを察して、降伏を決断すると、松姫の為に、武士としての意地を捨てる決心をしたのです。

こうして清須城は開城しました。

信玄は、尾張を支配する事に成功したのです。

また余談として、勝頼も、亡き母、諏訪の姫に仕えていた、望月誠之助と面談する事ができました。

望月誠之助は、諏訪家から離れた後、転々としていましたが、今は織田家に仕え、信忠と一緒に、清須城に篭っていました。

勝頼は、母から、望月誠之助の事を聞いていて、密かにその事を調べていたのです。

だから勝頼は、驚く望月誠之助に対して、「自分は、小さい頃に母を亡くしているので、母の事をよく覚えていないので、あの頃の母の事を話して欲しい」と頼み、望月誠之助と、一日中、諏訪の母の話をしました。

大いに盛り上がったのです。

その後、勝頼は、自分の側近の一人として望月誠之助を召抱えました。

望月誠之助は、以後、勝頼の重臣の一人として、歴史に登場する事になるのです。

 

 

                ∞「信玄の上洛」∞

豊かな尾張を完全に得た事で、信玄は、経済力も得る事ができました。

尾張は、米だけでなく、商業も豊かです。

信玄は、信長がしていた楽市楽座の政策も認めました。

信玄自身、商業に理解があったのです。

しかし、そんな信玄に対して、尾張を失った信長は、大変でした。

畿内の大和にいる松永久永や摂津の本願寺も反抗を強めました。

延暦寺などの仏教徒も、反乱しました。

信長に恨みを持っている人間は多く、もう畿内の信長の影響力は大きく落ちました。

兵力も集らなくなっていたのです。

でも、信長は最後まで諦めませんでした。

岐阜城に1万で籠城しました。

他には、大垣城では、明智光秀が5千、横山城には、秀吉が7千、佐和山城では、蒲生賢秀が3千で、信玄と最後まで戦うつもりだったのです。

しかし、もう勝負はついていました。

尾張・美濃半国を得た信玄の兵力は、武田家単独で、5万になります。

これに、浅井・徳川・北条を合わせたら、3万にもなります。

その上に、雪で今は無理でも、春になれば、武田信廉も、1万の兵力を楽々と動かせます。

翌年の1月、信長が篭城する岐阜城には、8万の大軍が集められたのです。

この全軍で、信玄は、猛攻を加えたのです。

だけど、信長も簡単には降伏しませんでした。

鉄砲隊を集め、必死で防ぎました。

難攻不落の岐阜城は簡単には落ちなかったのです。

しかし、他の城は違いました。

羽柴秀吉も明智光秀、蒲生賢秀も、分散した武田連合軍が襲ってくると、最後には抵抗を諦めて、降参しました。

信忠によって織田家の存続が約束させられた事が大きかったのです。

こうして信長は、ついに裸同然になりました。

追い詰められてしまったのです。

そしてそんな中で、ついに信長は死を覚悟すると、岐阜城に火を放つと、「人間五十年」の歌を歌うと滅びました。

遺体は、発見されませんでした。

信玄は、信長の名誉を重んじて、遺体は捜させなかったのです。

こうして、信長との戦いは終わりました。

信玄は、やっと大きな重荷を降ろす事ができたのです。

また信玄は、その後、いよいよ上洛しました。

その軍勢は、10万にもなりました。

そんな信玄に逆らう存在は、畿内にはありません。

信玄は、念願の上洛を果たす事ができました。

長年憧れていた京の都で、天皇に会う事もできたのです。

しかし、信玄の仕事は、それで終わりという訳ではありませんでした。

その後も、いろんな仕事が山積みでした。

まず、堺に幽閉されている将軍義昭をどうするかという問題がありました。

信長が死んだ事で喜んだ義昭は、すぐに信玄に会いたがっています。

でも、信玄としては、会うつもりはありませんでした。

会えば、義昭が、将軍職を要求するのは間違いありません。

信玄も、信長を倒すまでは、義昭の呼びかけを、戦の大義名分にしていた手前、無下に断る事もできません。

密かに、堺の商人に手をまわして、押し込める事を依頼していました。

信玄は、義昭の口を封じる事にしたのです。

しかもこれは見事に成功しました。

義昭は、堺から1歩も出られず、武田家の家臣に密かに監視されて、使者も出せず、やがて歴史から忘れ去られてしまいました。

武田家は、10年後、足利義昭に3万石を与え、家臣にしたのです。

また、次の問題は、本願寺の一向宗達でした。

信玄も、信長と同じように、一向宗達を、このまま好きにさせるつもりは毛頭ありませんでした。

宗教が、政治の世界にかかわる事も許すつもりもありませんでした。

年貢も治めさせ、民として何の特権も与えるつもりはなかったのです。

だけど、今は、まだ早いと信玄は判断していました。

一向宗が、上杉謙信や毛利家と手を結ぶ事を恐れ、当分は、一向宗とは争わない事にしていました。

武田家が、天下を取れば、本願寺光佐を説得して、大阪から引かせ、宗教の自由を保障する代わりに、政治には参加させないつもりだったのです。

そしてもう一つ信玄のした事は、拠点を甲斐から、他の場所に移す事でした。

というのも、甲斐は、山国で、海がなく、交通には不便です。

信長がしたように、拠点をもっと便利な場所に移す必要があったのです。

でも、信玄は、信長のように、本拠地を、次々と大きく移動する事を嫌いました。

甲斐の国から離れたくなかったのです。

それで信玄が選んだ土地は、駿河の駿府でした。

ここに小さいですが新しい躑躅ヶ崎館を建てると、甲斐から移り住む事にしたのです、

でも、信玄の本当の狙いは、北条家には漏れるのを恐れて、誰にも言いませんでしたが、関東にありました。

天下を取れば、北条家と交渉して、関東の土地を譲って貰うつもりでした。

甲斐・信濃からあまり離れたがらない信玄にとっては、本拠地は、関東の中心になる江戸あたりが最適だと想っていたのです。

また、信玄は、商業にもちろん力をいれていました。

海を通して、海外の国と交易して、国を豊かにする事は、信玄の憧れです。

ビスマルク医師からも、世界の広さ、ヨーロッパ諸国の豊かさを聞いています。

しかも突然姿を消したビスマルク医師は、ヨーロッパ人の素晴らしさと同時に、恐ろしさも伝えていました。

信玄の方から熱心に聞いたのです。

それで、南蛮のイスパニア人やポルトガル人が、弱い国を植民地にしている事も、信玄は知っていたのです。

だから、信玄は、堺を支配して、国内や海外との交易を推し進める事にしました。

信長の代わりに、今度は信玄が堺を抑え、商業に関しては信長と同じように奨励しました。

財源を年貢や金山から、商業に移す事を考えていたのです。

こうして信玄の新しい天下取りの構想は固まってきました。

百姓に関しては、今までの武田家のやり方を全国に広め、商業のやり方は、信長がしていた楽市楽座や関所の廃止も推し進め、従来の武田家の特定の商人を優遇するやり方は古いので改めるつもりでした。

商人には競争させて、どんどん海外の国とも交流して、新しい技術を教わって、国を強化して、民を豊かにしたいと想っていたのです。

そして、その構想を持って信玄は、天下取りに邁進しようとしたのです。

ですが、その矢先、驚くべき報告がありました。

長年の宿敵、上杉謙信が倒れたというのです。

だけど、それに対して、信玄は世間を驚かせる意外な行動を取りました。

謙信に対しての憎しみは消えていたのか、信玄は、長年のライバルの死に涙すると、3日間、家臣にも喪に服する事を命じたのです。

また、この事でも、本来の歴史とは違う事を、上杉家にもたらしました。

何故なら、上杉謙信は、信長が将軍義昭を監禁した事に腹をたてて、信長の依頼を断って、武田を攻めようとしませんでした。

そのおかげで、信玄は、信長の戦いを有利に進める事ができたのです。

しかも、その後、信長の決着が付いてからも、上杉謙信は、武田だけでなく、関東の北条家、越中の一向宗も攻めようとしませんでした。

信玄の実力をよく知っている謙信は、もう戦をする愚かさを悟っていました。

越中を攻めたら、信玄は何万という軍勢で攻めてくる事は分かっています。

戦をせず、おとなしくする事が、最高の戦略だという事を理解していたのです。

でも、その事は謙信にとって大きな幸運を呼びました。

戦を何年もしなくなった事で、ストレスがなくなり、謙信が倒れた時の症状が軽くすみました。

酒の飲みすぎが祟って、脳卒中で意識をなくしましたが、3日後、意識を回復すると、声を出すこともできました。

実際の謙信は、自分の意志を伝える事ができず、景勝と景虎で後継ぎを巡って争いが起きましたが、今の歴史では自分の後継ぎを指名する事ができました。

家臣の意見も聞いて景勝を後継ぎにして、北条家からの養子である景虎に対しては、東上野を与え、景勝の言う事をよく聞くように諭しました。

上杉家での跡目相続は起きなかったのです。

だから信玄も、上杉家に介入する事は止めました。

謙信は、景勝には、武田家と和を結びように遺言していて、信玄もそれを承諾しました。

信玄は、長年ライバルだった、上杉家の存続を願っていました。

将来、義を重んじる上杉家は、武田家にとって頼りになると確信していました。

上杉家を滅ぼす事など、信玄にはできなかったのです。

 

 

              ∞「信玄天下を取る」∞

上杉家との和睦もなった事で、信玄の天下取りの道は急速に進みました。

翌年、信玄は、中国の毛利家を攻めました。

しかし、この戦いは、最初から決まっていました。

信玄には、武田家だけでなく、上杉家・北条家など多くの味方がいます。

毛利家自身、勝てるとは想っていなかったのです。

でも、毛利家も、戦う事なしに、降伏する事はできませんでした。

領土の安堵を約束してくれるのなら別ですが、そんな事は不可能です。

事前の協議でも信玄が出した条件は、長門・周防・石見・安芸の4カ国だけで、苛酷を究めました。

これでは今迄命懸けで戦っていた家臣が納得しません。

どうしても戦う必要があったのです。

また、その事は信玄もよく分かっていました。

信長なら別ですが、信玄は、毛利家を滅ぼすつもりはありませんでした。

毛利家の事情も理解して戦を進めたのです。

だからこの戦いはあっけなく進みました。

信玄は、毛利軍が守る、各城に関しては、守備隊を置いて、監視させる事にして、直接、毛利家の吉田郡山城を5万の大軍で攻めました。

それに対して、毛利輝元は3ヶ月間篭城しましたが、やがて降伏しました。

家臣が負けを納得してくれたら、それでよかったのです。

こうして、毛利家の戦いは終わりました。

信玄は、そんな毛利家に対して長門・周防の二カ国しか与えず、見事に、毛利家を押さえる事にしました。

その代わり、信玄は、輝元との約束通りに、毛利家の家臣、全員をそのまま引き受けました。

信玄は、これで毛利家にも温情を与え、恨みを消したのです。

また、その後の戦いも、武田家にとっては、苦戦する戦いはもう日本では起きませんでした。

毛利家を家臣にした事で安心したのか、体調を崩した信玄の代わりに、後継ぎの武田勝頼に戦を任せると、武田軍は、四国征伐・九州征伐をしました。

四国の長曽我部家や九州での島津家は、毛利家より楽でなく、本格的に戦いましたが、武田軍は強かったです。

四国、九州の武士にも負けませんでした。

武田武士は、日の本一、日本一を証明したのです。

そして勝頼は、武田家と勇敢に戦った敵である、長曽我部家には土佐一国、島津家には、薩摩・大隈の二カ国を与える温情で報いました。

信玄は、勝頼に、両家を滅亡するのではなく、残すように言っていました。

恩を売っておけば、両家も武田家に忠誠を尽くすと判断していたのです。

こうして西日本の平定は終わりました。

信玄は、東に目を向けたのです。

また、その後、信玄は、かねてから考えていた通り、本願寺光佐を説得して、大阪から引かせ、今後、宗教の自由を認める代わりに、政治に参加しない事を約束させると、いよいよ東北平定に動きました。

あっさり東北の伊達家を降伏させると、全国を平定したのです。

そしてその後、信玄は、最後の仕事して、北条氏政を説得して、武田家と北条家の合併を成功させました。

それで、北条本家は、伊豆、相模の2カ国だけになりましたが、北条の家臣団は、すべて武田家が引き受けました。

その代わりに、北条本家は、親戚として、別格扱いにしました。

信玄の名の元に、以後、北条本家は、何をしても、永遠に自由と言う、唯一のお墨付さえ与え、繁栄を約束したのです。

それで、氏政・氏直親子は、勝頼や、妹である勝頼夫人の説得もあって、渋々、それに応じました。

信玄の天下人としての力を十分に理解している北条家は、武田家と争うような愚かな事はしなかったのです。

こうして、信玄は、見事に天下を取りました。

天下人になったのです。

だけど、その後、信玄は、安心したのか、すぐに亡くなりました。

病は、何かは、その当時の医学では分かりませんが、多くの家臣に見守られて亡くなりました。

実際に亡くなる年よりも、10年ちかく生きる事ができ、この当時では、長生きしたのです。

また、その後、政権は、信玄から勝頼に任されました。

信玄は、勝頼を後継者に指名していて、武田家臣団にも、何の不満もなかったのです。

しかも信玄は、後々の事も勝頼に指示していて、勝頼は忠実に実行しました。

本拠地を駿河から、関東の江戸にしましたが、城は築きませんでした。

春から夏は、甲斐の躑躅ヶ崎館、秋から冬は、新しく建てた江戸の花館を行ったり来たりして行政を司りました。

信玄は、将軍として後を継ぐものには、甲斐の武将としての気概をいつまでも無くさない事を望んだのです。

いえ、それは武田家だけではありませんでした。

勝頼は、信玄が亡くなった2年後、日本中の大名に命じて、すべての城を破城させました。

「人は城、人は掘り」という信玄の名言を、勝頼は、全国の大名に実施させたのです。

 これは、信玄が、これからますます武器が発展していけば、やがて城など必要がなくなる事を理解していて、商業を豊かにしないかぎり国を保てない事を教える為に、実行するように命じていた事だったのです。

 その上で、信玄は、家臣に大きな領地を与えない代わりに、大名の取り壊しなどはできるさけ、武士が浪人する事はさけるようにも言っていました。

 武士が失業して、不満を持つ事を恐れたのです。

 ですから、武田家のその後も安泰でした。

 武田家は、比較的、身分を肯定せず、民を大事にして、暴君を生み出す事はなかったのです。

 しかも武田家は、秀吉のような急成長の組織ではなかったので、武士の不満を押さえて、朝鮮や明に侵攻する事もありませんでした。

 国内の戦は、天下を統一させた事で、終わらせたのです。

 また勝頼も、ビスマルク医師の影響もあって、海外にも関心がありました。

 信玄が言っていたように、国を閉ざさず、開国する道を選びました。

 長崎、神戸、大阪、名古屋、清水、横浜にも外人達専用の町を造り、交易を盛んにしました。

 キリスト教に関しては、布教に一切協力しませんでしたが、信者を強引に取り締まる事はしませんでした。

 その為に、キリスト教は、日本では、そんなに普及する事はなかったのです。

 

              ∞「その後の日本」∞

武田家は、信玄の後は勝頼、勝頼の後は信勝が継いで、その後もずっと明治維新が起きるまで続きました。

その間、国内では、戦は一度も起きませんでした。

一揆があっても、ずっと平和だったのです。

しかし、海外の国とは違いました。

日本は、戦国時代の頃から出ていた日本人の活躍によって、東南アジア諸国に日本人町を造っていました。

積極的に海外に出ていたのです。

武田政権は、それを鎖国によって閉ざさなかったので、日本人町はますます発展しました。

日本と東南アジアの交易は盛んだったのです。

でも、それは東南アジア諸国を植民地としようとしたイスパニアやポルトガルとの争いを意味しました。

日本は、東南アジアやルソン(フィリピン)を巡って、戦う事になったのです。

だけど、この戦いで、武田幕府は、イスパニア・ポルトガル連合軍に負けました。

船の技術では、まだまだヨーロッパ諸国の技術に、日本は及びませんでした。

ルソン沖の海戦で、敗れてしまったのです。

けれど、陸戦では善戦しました。

日本人の鉄砲の技術は優れていて、数でも、アジアでのイスパニア・ポルトガル両軍が持っている総数よりも多かったからです。

ルソン島にいる民族とも同じ黄色人種という事で、手を結ぶ事ができました。

白人を追い出すという共通の目的で、日本人としてではなく、フィリピン人として見事、イスパニア人を追い出す事に成功しました。

それでフィリピンは独立を勝ち取ったのです。

日本も、イスパニアやポルトガルと同じように、それも認めたのです。

しかもそれは東南アジア諸国でも同じでした。

海戦で負けた事で、日本は軍隊を送れませんでしたが、東南アジアに住む日本人は、勇敢に戦いました。

同じアジア民族と手を積極的に結ぶ事で、その抵抗は激しく、やがてイスパニア、ポルトガルは、植民地化を諦めました。

その後、イスパニアの代わりに、覇権国になったオランダ、英国も、東南アジアを狙いましたが、敗戦から立ち直った日本の力で諦めました。

何故なら、イスパニア・ポルトガル両国に負けた信玄の孫になる3代目信勝は、歴史に残る名君で、日本を大きく改革しました。

これからの海外との戦は、武田家とかではなく、日本として戦わないと勝てないという事を認識すると、各藩の武士を集め、軍隊を結成しました。

統一国家日本の誕生です。

藩の存在は認めても、軍隊や経済や外交などは、日本国として、統一する事に成功したのです。

そしてそんな新しい日本は、ヨーロッパを見習って、陸軍、海軍を造り、特に海軍の強化に務め、東南アジア諸国に関しては、日本も、ヨーロッパも手出ししない、植民地にしない協定を作る事に成功します。

日本の力を恐れるヨーロッパ諸国は、日本の海外の進出をそれで防ぐ事にしたのです。

こうして日本は、東南アジア諸国に感謝され、多くの資源を東南アジア諸国から得る事で、経済力を高めました。

英国と言っても、インドまでで、実際の歴史にあったシンガポールや、マレーシアなどの植民地かは、新しい歴史では不可能だったのです。

しかし、その反面、それは清国では違いました。

清国は、東南アジア諸国と違って、日本の力を認めようとはしませんでした。

いつまでも、自分達が、中心だという意識が消えず、交易していた英国とアヘン戦争を起こし負けてしまったのです。

こうして、ヨーロッパ諸国の清国の侵攻が始まったのです。

それに対して、清国がヨーロッパ諸国の植民地になる事を恐れた日本は、やがて武田家、第15代将軍、武田信正の、大政奉還の決断で明治維新が起こり、ヨーロッパを見習った民主主義国家新生日本は誕生しました。

欧米を見習って、議会が造られ、上院は藩主がなりましたが、実際に政権を動かす下院では、選挙で議員が選ばれるようになりました。

藩も廃止されて、県が生まれたのです。

日本は、それを無血の状態で実施して、欧米を驚かせました。

一つの奇蹟を起こしたのです。

しかも、その新生日本は、日本だけでなく、アジア諸国の独立を願い、清国を援助しようとしたのです。

でも清国は拒み、やがて清国は、いつまでも近代化しようとしない事に、ごうを煮やした日本政府によって、革命が起きて、崩壊しました。

日本は、革命政府を助ける為に、日清戦争を起こし、中華民国を誕生させました。

その代償として、正式に中華民国に、朝鮮国と台湾の独立を認めさせました。

これで、日本は朝鮮と台湾と自由貿易をする事ができたのです。

でも、それで中華民国の危機が去った訳ではありませんでした。

大国、ロシアが中華民国の満州、朝鮮を狙ってきたのです。

また、それに対して、日本は、英国と日英同盟を結び、中華民国や朝鮮とも軍事同盟を結ぶ事で防ごうとしたのです。

でも、黄色人種を侮っているロシアは、引かず、満州を巡って、中露戦争は起きました。

日本は、朝鮮と共に、中国の要請でロシアと戦う事になったのです。

だけど、この戦いで、「中・朝・日」アジア軍は、ロシアに勝つ事はできませんでした。

日本は、海軍の戦いでは、日本海海戦の奇蹟で、東郷平八郎大将が、ロシア海軍を全滅させ、世界を驚かせましたが、陸軍の戦いでは、2師団しか派遣しませんでした。

あくまでも中心は、中華民国でしたが、まだまだ近代化しておらず、ロシアを打ち破る事ができず、負け続けていたのです。

しかし、ロシアも、勝つ事もできませんでした。

日本(2師団)・朝鮮(1師団)は強く、中国には無尽蔵の人的資源があります。

結局米国の仲介で、ロシアは満州から撤退し、中国は戦争に勝てなくても、外交の勝利で、満州を守る事ができたのです。

日本も、多くの兵士の命を犠牲にせずに、目的を達する事ができたのです。

 

          ∞「新しい世界」∞

ロシアの脅威を、日本・朝鮮・中華民国の力で防いだ日本に、次に脅威になったのは、米国でした。

米国と日本は、太平洋を挟んで対立していました。

本来の歴史では1853年6月3日ペリー提督が、日本に来航していますが、同じ頃、米国の大使が、日本にやって、日米安保条約を求めているのです。

しかし、それは砲艦外交ではありませんでした。

米国も、日本の国力を認めていました。

日本は鎖国をせず、開国する事で、ヨーロッパの科学技術から遅れず、近代化にも成功しています。

太平洋の島々にも、多くの日本人が移住して、遠くは、何とソロモン諸島やギルバート諸島にまで進出していました。

そんな日本と米国といえども、戦争する事は不可能でした。

民主主義国の米国は、国民が許さない戦争は仕掛ける事はできなかったのです。

だから米国が来た目的は、日本との国境を決める相談でした。

ハワイ諸島を巡って、日本と米国は争う可能性があって、その調整が行われました。

日本の領土は、米国との協議で、ソロモン諸島、ギルバート諸島までとして、ハワイ諸島は、米国、オーストラリアは英国、ニューギニア島はドイツが支配する事にその時になりました。

欧米の国力をよく知っている日本は、譲歩する事で、戦争を避けたのです。

しかし、その後も、日本と米国は、争う運命から逃れる事はできませんでした。

フロンティア・スピリットに溢れる米国は、西へ、西へ、アジアへと進出したがっていて、それを日本が堰きとめていた事が我慢できなかったのです。

だけど、日本の力は、世界の七つの海を支配するという英国さえ尊重する程でした。

東南アジア諸国と連携して、軍事力だけでなく、経済力でも豊かです。

米国は、独立国であるフィリピンにさえ、入る事はできなかったのです。

また、そんな中で歴史は進み、第一次世界大戦を起きてしまいます。

この戦争で、アジアでは、ニューギニア島やサモア諸島を支配していたドイツが、英国に負けて、英国の領土になりましたが、日本は英国の同盟国として味方したので、大きな戦争に巻き込まれる事はなかったのです。

だけど、次の第2次世界大戦では違いました。

日本は、世界恐慌の後、米英両国が行ったプロック経済化で苦しんでいました。

それに対抗する為に、ドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶという間違った政策をしてしまいました。

米国は、そんな日本に対してついに牙を向いて、英国を誘って、日本と東南アジアの関係に、圧力をかけようとしました。

東南アジアの市場の開放を要求し、露骨な要求をしました。

インドネシアの石油に対しても、裏から圧力をかけて、日本に輸出しないようにしました。

それが、うまくいかないと、インドネシアが日本に輸出すれば、戦争を仕掛けるというようなむちゃくちゃな脅しもかける事で石油の輸出を止めさせ、ついに日本は、歴史と同じ年、太平洋戦争を起こす事になりました。

初戦で、日本は、堂々と宣戦布告した後、機動艦隊による航空攻撃で、ハワイ沖海戦で大勝利して、ハワイ諸島を占領さえしているのです。

しかし日本は、この戦争で結局、米国に負けました。

米国の力は、日本の想像以上に強かったのです。

だけど、ビスマルク医師や、未来人が計算したように、米国も日本に無条件降伏まで追い詰める事はできませんでした。

日本は、日中戦争をしていませんし、東南アジアとも関係が深い事もあって、本来の歴史の時に比べても、遥かに経済力がありました。

シーレーンを守る軍艦や、潜水艦も多く、空母も本気になれば、ある程度造れました。

しかも航空機に関しても、ゼロ戦などに代わる新戦闘機も、間に合せる能力があって、レーダーなどの科学技術でも欧米に負けませんでした。

その上に、何よりも、長年の歴史があるソロモン諸島、ビスマルク諸島、ギルバート諸島・・・

などの太平洋の島々の日本軍の守りも、鉄壁で、米軍に相当の犠牲を強いました。

米国は、予想以上の戦死者の数に驚き、マリアナ諸島まで進む事はできませんでした。

結局、トラック諸島を占領する戦いで、大きな犠牲を出した事で、日本と停戦しました。

トラック諸島にも、日本軍は、地下に大きな秘密基地を作って、多くの航空機を隠しているので、米国も仕方なく攻撃して、大きな損害を出してしまったのです。

こうして、日本は、米国に占領される事なく、第2次世界大戦を終える事ができました。

核兵器に関しても、日本も開発していて、米国はどうする事もできなかったのです。

こうして日本は、本来の歴史とは違って、戦後、米国にコントロールされる事はなかったのです。

ですから日本は、戦後は、経済大国だけでなく、軍事力も、ある程度維持していました。

国連の常任理事国としても活躍しました。

しかも、米国とも戦後は、友好を深め、お互いに市場を開放する自由貿易をする事で、繁栄する事ができたのです。

だけど、日本は、米国に対しても、独立国として、自国の利益を考え、反対する事は反対しました。

アジア諸国のリーダーとして、その発言力は重みがありました。

欧米諸国が招くハルマゲドンの運命にも、東南アジア諸国と結んで、防波堤になったのです。

終わり。

 

エピソード

ビスマルク医師の存在は、長い間、誰にも注目されませんでした。

あえて隠されていたのです。

しかし、ビスマルク医師が、密かに、高坂弾正に、書物を書く事で、武田家の歴史を後世に残す事を勧めた事によって誕生した甲陽軍鑑に、謎の医師という事で少しだけ紹介されていました。

そこで信玄の病が、南蛮から来たある医師の薬で治った事は書かれていました。

その薬が何だったのかは、ずっと武田家の研究者や歴史学者には、話題になっていたのです。

でも、真相は、長い間、誰にも分かりませんでした。

ビスマルク医師、未来人は、何も痕跡が残らないようにしていたのです。

だけど、いよいよ人類の未来が危なくなった時に、ビスマルク医師の存在は、注目を浴びることになりました。

未来人として再びビスマルク医師も、多くの人と一緒にやってきたからです。

しかも未来人は、日本にも、最終戦争の愚かさを訴え、日本国は、世界で一番先に、その未来人の言葉を受け入れました。

何故なら、武田家の存在は、戦後の日本でも大きな影響力があったからです。

その武田家の秘宝の中には、ビスマルク医師の残した手柄や指紋、筆跡も残っていました。

ビスマルク医師は、「遠い未来に、きっと必要な時が来る」と松姫に託していて、それはこの時に始めて披露される事になりました。

松姫は、それを忠実に守り、ずっと武田家の中で、隠されていたのです。

だからビスマルク医師が、未来人として現在に来た時に、武田家は、その秘宝と、今、現れたビスマルク医師の手形、指紋、筆跡が、完全に一致すると、未来人の存在を、科学的に認めました。

それで、日本は、アメリカと完全に離れて、立ち上がったのです。

それでは縁の花の皆さん、第200号「武田信玄天下取り物語」お読み頂いて「ありがとうございます」

2005年 2月5日

   縁の花 第200号表紙「武田信玄天下取り物語」
         (表紙は縁の花の顔であり、花でもあります。魂を込めて書いています。)

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