縁の花

     (21世紀に咲く智閥の花)  

          232

           武田勝頼の復活

  縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「本能寺の変」
       天正十年六月二日

 織田家の家臣、明智光秀は、主君である織田信長に謀反を起す決心していました。しかし、その理由は、光秀以外、何人かの側近でしかはっきりとは分かっていませんでした。ただ、その謀反は、突発的なことでした。何年も前から考えていたことではなく、この二週間ぐらい前に、考えたことだったのです。

 またそれは、自分の事よりも、天皇家に対しての不満でした。織田信長は、足利将軍を追い出すだけでなく、天皇家自身を、古い体制として破壊しようとしているのではないか、明智光秀は、そう思っていました。天皇家からも、その事を本気で心配する情報も入っていました。ここで信長を殺さないと、古代からの日本の秩序、守らないといけないものが、信長に破壊されると思ったのです。

 だから明智光秀は、使命感に燃えていました。その後、自分が天下を取ることは、そんなに考えていませんでした。天皇の密かな願いである、信長を討てたら、それでよかったのです。
 また、そんな光秀に、大きなチャンスが転がりこんでいました。今、織田軍の各武将は、各地で戦っていて、信長の周りは、大きな兵を持った人物はいませんでした。

 嫡男の信忠は、わずかな手勢で、信長と一緒に京都にいますし、織田家の筆頭、柴田勝家は、上杉家、羽柴秀吉は、毛利氏、滝川一益と徳川家康は、武田家、丹羽長秀と織田信孝は、攝津にいて、毛利家に向けて、軍を動かそうとしていました。毛利家との戦いで勝利した後、丹羽長秀と織田信孝の軍勢で、四国の討つ計画だったのです。ですから、今、信長の周りには、有力な武将はいませんでした。簡単に信長を討つことは可能だったのです。

 しかし信長を討った後、どうなるかは明智光秀にも、はっきりとは読めていませんでした。ただ、各地に散らばっている有力な織田家の武将や、同盟国の徳川家康が、自分の首を取りにくることは明白でした。それに対して、自分にどれだけの武将が、ついてくれるか、光秀には自信はありませんでした。自分の与力になっている丹後の細川藤孝や、大和の筒井順慶さえ、主君を討った自分の味方になってくれるという自信はなかったのです。

 だから、明智光秀が期待していた味方は、織田家と戦っている武将達でした。中国の毛利家、越後の上杉家、甲斐・信濃の武田家などに期待していたのです。

 また、その中でも光秀が大きな期待をしたのが、中国の毛利家と、甲斐、信濃の武田家でした。今、毛利家は、自分のライバルである羽柴秀吉が戦っていますし、織田信孝、丹羽長秀の軍も攝津にいて間もなく、秀吉の援軍としてつく予定でした。この両軍で、5万にはなります。それが、自分に向けられたら、1万3千の明智軍は、一溜まりもありません。毛利家には、早く織田信長を討ったことを知らせて、羽柴秀吉の軍が、自分に向けられることを食い止めて頂き、早急に、挟み撃ちにして、織田信孝、丹羽長秀もろとも討つつもりでいたのです。

 でも、明智光秀が、もっとも期待したのは武田家でした。武田家は、信玄公の時の、往年の勢いはないですが、2万の軍隊を動かすことは可能です。背後の北条家や、三河の徳川家との戦いもあるので、どれだけの援軍を送れるかはわかりませんが、連絡して、加勢を頼めば、5千から1万の兵を送ってくれることは可能です。そんな武田家を畿内に入れることは、領地も渡さないといけないので、将来的には、不安もありますが、今の光秀には、援軍が必要でした。

 何故なら上杉家、毛利家には、直接の援軍は期待できませんが、武田家なら、当面の敵は、岐阜城を守っている滝川一益だけなので、すぐにも自分の軍と合力することは可能です。明智光秀は、そのことに期待しました。昔の武田家の名声は、まだまだ残っています。自分に、戦国最大と恐れられた武田軍がついたという事実だけでも、その効果は大きいと判断したのです。

 ですから今、明智光秀の頭にあったのは、織田信長を討った後、どうやって、細川藤孝や筒井順慶などの与力を説得し、毛利家、武田家、上杉家に、信長を討ったことを早く伝えるかでした。毛利家にしろ、武田家にしろ、距離は遠いです。少しでも早く伝えることが、自分の勝利に繋がると確信していたのです。
 

       「本能寺の変の後」
 
 明智光秀の本能寺の変は、大成功でした。1万3千人の兵で、本能寺にいる織田信長を奇襲して、見事に討ったのです。しかも、その後、六百人で、京都の二条城にいた織田信忠も討つことができました。正直、信長憎しで、信忠の事は眼中になかったので、今、明智光秀は、少しほっとしていました。もし、織田信忠が、二条城に篭らず、逃げていたら、岐阜城に逃げることは可能だったと思います。そうすれば、美濃、尾張の兵を率いて、自分をすぐに討つに来る可能性が高かったです。

 だから織田信忠も、京都で殺しておくべきでした。そのことに、気がつかなかった自分に、明智光秀は、やはり、信長を本能寺で討った自分は、少し冷静さを失っていたと改めて思いました。精神の病、今まで、心の中で、葛藤したものが、爆発した自分に気がついたのです。それで、信忠も、その後に討てた幸運に、天のご加護を感じたのです。

 しかし、そんな明智光秀に、ものすごく気になることがありました。それは、信長の首、死骸を、本能寺でいくら探してもないことです。ですから、これは、ありえないことですが、もし、信長が、本能寺から抜け出したのではないか、明智光秀は、その事を考えると、思考が止まること感じました。信長の恐怖を感じたのです。

 でも、それでも、明智光秀は、すぐに自分で考えられる手をうちました。与力の細川藤孝、筒井順慶には、何度も使者を送りましたし、毛利家、武田家、上杉家にも、何人も使者を送りました。信長を討ったことは、織田家中のものはすぐに分かります。自分も、すぐに味方になってくれる人達に伝える必要があったのです。

 また、その中で、明智光秀は、機密保持の為に、本能寺の変を起すまでは黙っていましたが、攻撃を始めた時に、すぐに何人もの使者を向けています。特にその中でも、堺にも使者を何人も送って、堺の商人の船で、毛利家や、武田家にも、連絡することも考え、使者を派遣しています。陸で行くよりも、船で、夜中も走らせたほうが、早いのではないかと考えたのです。

 特に、その中でも、中国方面は、羽柴秀吉と、毛利家が戦っていて、下手をしたら、使者が、羽柴秀吉の軍に捕まる恐れがあります。そうなったら、何にもなりません。船で行けば、羽柴軍に捕まる恐れがありません。光秀は、それに期待していました。もし、堺や大阪に、織田信孝、丹羽長秀の軍がいたら、使者を派遣することは危険なので、出来ませんが、四国攻めは中止になったので、可能だったのです。

 

     「仁科盛信の動き」
 
 武田家中の中で、本能寺の変を一番、最初に知ったのは、仁科盛信でした。仁科盛信は、勝頼と相談して、その時、信濃の伊那にある吉岡城の近くにいました。何故なら、ここなら、すぐに情報が入ります。でも、もし、上方で何かがあったとしても、距離的に遠い高遠城には、なかなかその情報が入りません。一番、早く届くのは、伊那の吉岡城あたりでした。できるだけ、織田領に近いところで、武田家の忍者から、連絡があるのを待っていたのです。

 そんな仁科盛信の元に、明智光秀からの使者が到着したのは、二日後の六月四日の昼でした。しかも、そこは父親である信玄公が、病気で亡くなった場所でした。偶然、信玄公の御霊に、祈っていた時に、その報告を受けたのです。そのとき、仁科盛信は、信玄公や、武田家の御霊の導きを感じ、心から感謝したのです。おもわず、涙したといわれているのです。

 

また、仁科盛信が、上杉家や、毛利家よりも、早く、信長の死を知ったのは、大きな幸運がありました。織田家中では誰も、明知光秀に対して、まったく警戒はしておらず、織田家中の明智光秀が、使者を派遣しても、怪しむ人物はいませんでした。明智光秀は、堂々と、使者の乗せた馬を走らせて、岐阜城や、東美濃の岩村城に派遣するというようにみせて、信濃の武田家に、つなぎをとったのです。しかも、国境でも、毛利家と戦っている秀吉軍や、上杉家と戦っている柴田勝家軍などの、勢力はいませんでした。明智光秀の使者は、簡単に武田家の国境に入れたのです。

 だから、仁科盛信は、距離的には遠いのに、何と、岐阜城の滝川一益と同じ頃に、その情報を得ることができたのです。

 また、その知らせは、事前に、何かあったら、すぐに自分に知らせるように命令していた、仁科盛信のもとにすぐに届きました。仁科盛信は、その明智の使者からの言葉と文面を受け取り、信じられない思いでした。まさか、明智光秀が謀反を起すなど、予想もしていなかったのです。晴天の霹靂だったのです。でも、信長が、急死することを願い、その時のために、最大限の準備をしていた仁科盛信の行動は、驚くほど敏速でした。

 直ちに、勝頼や真田昌幸と、事前に打ち合わせていた、信長が急死したという合図の狼煙を上げると、甲斐の新府城で待つ、勝頼に、使者の派遣を命じました。その上に、勝頼の了解も貰わずに、伊那の兵に、明日、出陣するという命令を出させ、実際に、翌朝の六月五日、伊那の兵、二千人を率いて、美濃に出陣しました。仁科盛信は、その為に、知将である真田昌幸の助言で、伊那の兵が持っている武器や鎧を、全部、吉岡城に集めていました。そうすれば、兵たちは、思い武器や鎧を持たずに、動けるので、歩くスピードが早く、一日で伊那の兵が集まることができました。だから、こんな神業ができたのです。しかもそれは、まだ織田信長が、本能寺の変で、明智光秀の謀反で打たれたことを知らない、岩村城や、明智城の兵達を、本当に驚かせる行動だったのです。

 そして、そんな仁科盛信と同じように、武田勝頼の行動も敏速でした。勝頼も、まさか信長が急死するとは、まったく信じていませんでした。でも、事前に、想定して、準備していたことは大きかったです。合図の狼煙も、準備していたので、信玄公が造った狼煙のシステムは、見事にその力を発揮して、その四日の晩、遅く勝頼は、織田信長が、何かの謀反で死んだことを知り、翌日の早朝には、甲斐国内や武田全領土に、出陣の命令を出していたのです。

 「知将仁科盛信の活躍と徳川家康の不運」
 
 六月五日の朝、岐阜城にいる滝川一益の知らせで、信長が、明智光秀の謀反で、死んだことを知った岩村城、明智城の織田兵は、針をついた大騒ぎでした。そんなことが起こるとは信じられなかったのです。でも、その事を事前に知っていたのか、武田軍は、一万という嘘のうわさを出しながら、進軍しています。どちらの城も攻撃せず、岐阜の方に進軍しているのです。

 岩村城、明智城の兵達は、そんな武田軍の行動が信じられませんでした。そんな事をしたら、岐阜城と岩村城で、挟み撃ちで、すぐに武田軍は全滅します。でも、信長の訃報を知って、初めて、岩村城、明智城の武将達も、武田軍の行動が理解できたのです。だけど、信長、信忠だけでなく、森蘭丸という主をなくした岩村城にしろ、明智城にしろ、何もすることができませんでした。以前、岩村城の兵たちは、武田家と戦って、野戦での武田軍の強さはよく分かっています。しかも、しばらく前までは、秋山信友に岩村城を落とされて、味方として戦っていました。それだけに、武田軍のどれだけの兵がいるのかも分からないまま、野戦を仕掛けても、二千の兵では、武田軍に勝てるとは思えませんでした。城を固めるしかできなかったのです。

 また、そんな岩村城、明智城の行動は、仁科盛信の予想通りでした。もし、自分の予測とは違って、織田軍が、信長の急死でも、敏速な反応をしたら、仁科盛信の軍は、全滅します。率いている兵はわずか二千です。しかし、仁科盛信は、これにすべてをかける覚悟でした。諏訪などの援軍を待たず、どんどん、織田領に、三千の軍で、進撃していったのです。

 そしてそんな仁科盛信に負けまいと、甲斐の武田勝頼も、敏速に軍を動かしていました。
同じく、六月五日の昼には、まだ集まっていない兵は待たずに、甲斐から、駿河に出撃しました。勝頼も、知将である真田昌幸の助言で、兵の武器や鎧は、甲斐と駿河の国境付近に集めていたのです。何故なら、勝頼は、事前に、信長に万が一の事があれば、甲斐、駿河の全軍で、遠江の徳川を攻めて、徳川家康をけん制して、徳川軍が、尾張、美濃に来ることを阻むということを約束していました。どうしても、距離的な近い、三河の徳川が、清須や、岐阜を、先におさえることは、防ぎたかったのです。それには、山ばかりで、なかなか集まらない甲斐の兵たちを、少しでも、早く集める必要があったのです。

 また、この策は当たりました。勝頼と、仁科盛信は、運に恵まれていました。何故なら、岐阜城の滝川一益は、同盟している徳川に、信長が本能寺の変で亡くなった知らせは送らなかったからです。一角の武将である滝川一益は、それが、何を意味するか、正確に理解していました。信長だけでなく、信忠も死んだことを知ったら、徳川家康が、尾張、美濃に攻め込んでくることを恐れたのです。 だから、滝川一益は、同盟している徳川家康にも、この事を知られるのを一日でも、送らせようとしました。明智光秀の謀反を知った、徳川家の家臣の使者が、徳川家康に知らせるのを妨害する為に、使者を見つけたら、理由をつけて、拘束するように、岐阜城、清須城の兵達に命令していたのです。

 だから、五月、京都から、信長と別れて、武田家の用心の為に、京都や、堺の見物はせずに、遠江の浜松城に帰国していた徳川家康が、信長の死を知ったのは、遅れてしまいました。
 でもそのときでは、もう遅すぎました。家康が事情知ったのは、六月八日の朝でしたが、その時には、武田軍は、もう遠江の徳川領に侵攻していたのです。

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「武田勝頼の復活」
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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

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