縁の花

     (21世紀に咲く智閥の花)  

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           武田勝頼の復活

    第4章「武田勝頼対徳川家康」

「武田勝頼対徳川家康」
 徳川家康には、何故、武田勝頼が、1万ちかくの軍を率いて、突如攻めて来たのか、理解できませんでした。事前に内通している穴山信君からも知らせはありませんでした。勝頼は、真田昌幸の意見を取り入れて、駿河の各港に、家臣を派遣していました。穴山信君の動きを用心していたのです。そのかいがあって、清水港に、明智光秀の使者が入って、信長が倒れた情報が入っても、機密を防ぐことができました。家臣は、その情報を、駿河のどの武将に知らせずに、直接勝頼に知らせたのです。

 しかも勝頼は、武田水軍を三河、遠江に派遣して、船から徳川家の使者が入ることを防ぎました。徳川家と親しい、堺の商人や、京都にいる徳川家のものから、連絡が来るのを防ごうとしたのです。
 だから、六月七日、突如、遠江に、駿河の3千の武田軍が侵攻したときには、さすがの家康も驚きました。信長が、毛利攻めをしている時に、自棄になった勝頼が、攻めてくる可能性はありましたし、その為に、家康自身、安土城で、信長の接待を受けた後、堺を見学もせずに、帰国しましたが、本当に武田軍が攻めてくるとは思わなかったのです。

 しかも、八日の日に、遠江に侵攻した本隊、六千の武田勝頼の動きも、常識外れでした。勝頼は、つい最近落とされた高天神城などの城に見向きもせず、直接、自分のいる浜松城に向かっていました。これも常識では考えられない行動なのです。

 ですから家康は、最初、猪武者の勝頼が、最後の大博打をする気になったと判断しました。浜松城にいる自分に決戦を求めに来たと判断したのです。でも、家康は、そんな勝頼の愚かさを笑いながらも、決戦するつもりはありませんでした。武田家の野戦の強さは、痛いほど分かっています。浜松城に、八千の兵を集めましたが、あくまでも篭城するつもりでした。家康は、三河の岡崎城に三千、吉田城に千と留守兵も置いて、守りに徹するつもりでした。そうすれば、諦めて、勝頼は、軍を戻すと思ったのです。

 そんな家康の元に、信長が本能寺で、明智光秀に討たれたという報告が来たのは、八日の朝でした。京都に駐在している家臣からの知らせが、やっと届いたのです。それで家康は、勝頼の狙いが、遠江、三河ではなく、尾張、美濃だということを悟ったのです。しかも、大将だった今川義元が桶狭間の戦いでなくしたことのある家康には、その勝頼の試みは、成功する予感がありました。今なら、尾張、美濃を取れる可能性が高いと思ったのです。

 だけど、家康には、すぐにはなにも考えることもできませんでした。信長の存在は、家康にとっても、偉大すぎました。しばらくの間は、呆然として、家臣に叱咤激励されて、やっと少し落ち着くことができたのです。また、そんな家康を悩ませたのは、信長の安否がはっきりしないということでした。続いて京都から来た家臣の報告では、信長の生きている可能性があるという事でした。信長の生死ははっきりしなかったのです。


これでは、家康自身、尾張、美濃に軍を入れることはできませんでした。もし、信長が生きていたら、尾張、美濃に侵攻する自分に激怒します。慎重な家康には、そんなばくちは打てなかったのです。同盟国の織田に、大義名分のない侵略は、やりにくかったのです。
しかも、武田軍は、九日には、高天神城を抜けてどんどん迫ってきています。十日の昼には、浜松城にまで来ます。今、尾張に、三河に残っている数少ない兵を、終わりに向けたら、浜松城を抜けた、武田軍に簡単に、岡崎城も取られてしまいます。

戦略家として優れている家康は、その時に、何故、勝頼が、遠江に侵攻したことが分かりました。尾張に近い、三河の兵を、浜松の自分のところに集めるつもりなのだということが分かったのです。
でも、今更、それが分かっても、家康には、何もできませんでした。信長を無くしたというショックから、その気力を奪っていたのです。いえ、家康よりも、徳川家臣に与えたショックが大きく、とても今、武田と戦をする気持ちは出てこなかったのです。その二日の判断の遅れが、大変な失敗になったのです。

 

 

 「武田勝頼対徳川家康」二
 
 だから、十日の時点で徳川家康が、考えられる策の一つは、今、浜松城に迫ってくる勝頼と野戦を交えることですが、その勇気は、とうとう出ませんでした。三方ヶ原の戦いで、信玄に惨敗した記憶は、今も残っていますし、家臣も忘れていません。信長に対しては、長男の信康を殺された恨みもありましたが、織田軍の援軍無しで、勝てるとは思えませんでした。その上に武田軍は、浜松城に千人残した七千の徳川よりも、九千と、兵が少し多いです。これで、兵の質でも、強兵といわれている三河の兵よりも、強さに勝る甲斐、信濃の武田軍と、ここで戦う事は無謀だったのです。

 でも徳川家康もやはり知将でした。すぐに信長が討たれたかもしれないという現実から、二日間で立ち直りました。結局、徳川家康が考えた策は、勝頼よりも先に、尾張に入るということでした。十日の朝、まだ武田軍が、浜松城に来る前に、三千の守備兵を残して、五千の兵で、三河の岡崎城に向かったのです。ここで新しい情報を集め、信長の生死を確かめて、武田家よりも先に、尾張の清須城を奪おうとしたのです。

 また、そんな家康の決断は、勝頼を唸らせました。物見の報告で、浜松城から、五千の兵が出たことを知って、やっと家康も、信長の死を知ったのかと思いましたが、三河に向かったその判断力には、舌を巻いたのです。と同時に、もし、後一日、知るのが遅かったらと思うと、勝頼はとても残念でした。浜松城を抜けていたら、徳川家康は、完全に動けず、武田軍が、先に尾張に入ることは間違いないはずでした。それが、失敗したことは悔しかったのです。後は、すべて、仁科盛信の敏速な行動にかかっていたのです。

 でも勝頼も、打てる手は打っていました。まず、九千の兵から、駿河の兵二千人を、駿河に戻して、駿河全体で、田中城に千、江尻城に穴山信君の兵、二千、蒲原城に千という兵を置いて、合計四千の兵で、自分達が留守にする駿河の守りを固めました。徳川軍、北条軍が、駿河に押し寄せても、三ヶ月から半年は、持ち堪えられるようにしていたのです。

 そして残りの七千の兵で、急いで、徳川家康の後を追いかけました。徳川家康が、尾張に行く事を、けん制するつもりだったのです。でも、そんな勝頼に、すぐに吉報が届きました。翌日の十一日、先に、出撃した仁科盛信が、見事、清須城を、わずか二千の兵で落としたという報告が入ったのです。その十一日は、岡崎に帰った家康が、二千の兵で尾張に入った瞬間でした。武田家は、家康よりも一日先に、清須城を落とすことに成功したのです。

 ですから勝頼は、その報告を受けると、ただちに、家康との直接の対決を避けるように、野田城から、足助城と、三河の山手を進むと、十三日に尾張の国境に入ると、十四日に、仁科盛信が占領した小牧城に入りました。仁科盛信が占領した、尾張の守りを固めることに成功したのです。

 

「仁科盛信の決断」一

 六月六日、二千の兵で、美濃に入った、仁科盛信の動きは、風林火山の風、そのものでした。六日には、もう岩村城、明智城を抜けると、一気に、岐阜城を目指し、九日には、鶏沼城にまで進むと、そこからは、南下して、岐阜城ではなく、清須城を目指しました。

 しかも、その間、織田兵の抵抗は、殆どありませんでした。織田信長が、死んだということは、織田軍の兵士、一人、一人の判断力を奪いました。何をしたらいいのか分からないまま、命を惜しんで、戦おうとしなかったのです。それで、仁科盛信は、清須城は、二千の兵でも、何とか奪えるという確信持ちました。岐阜城には滝川一益がいて、混乱しながらも、指揮を執っているのに対して、清須城には、誰も指揮を執っていないという情報が入ったからです。

 また、その仁科盛信の判断は、正解でした。3千の兵で、守りを固めていたはずの清須城は、武田軍が、清須に軍を抜けたという情報が入ると、二千ちかくの兵が逃げ出しました。後、千の兵も、十日の晩に、仁科盛信の軍が着くと、かがり火を焚いて脅かすと、七百ちかい兵が逃げ出して、残るは、三百と言う体たらくでした。尾張の兵、聞きしに勝る弱兵だったのです。

 十一日の早朝、仁科盛信は、そんな清須城に、容赦なく攻め込んで、二刻で清須城を落とすことができました。三百の兵も、結局、逃げ道を残していたので、三分の一は、逃げ出していました。そんなに苦労はしなかったのです。でも、それでも、仁科盛信は、油断はしていませんでした。常に、徳川家康の存在が、頭にありました。その家康も、また、五千の兵で、尾張に入ったという報告を聞いた時には、一足先に、清須城に入れた幸運を諏訪大明神、八幡大菩薩のご加護に感謝したのです。

 だけど、それだけではなく、仁科盛信の動きは、敏速でした。十二日には、もう一つの重要な城、信長がしばらくの間、居城にしていた小牧城にも、千の兵を送り込んで、無血で落とすことができました。小牧城の千の兵士も、清須城が落ち、武田軍が、今度は、自分達のところに来たと思うと逃げて、誰も残らなかったのです。事前に、仁科盛信が流した恐ろしいうわさが成功しました。信濃から、美濃に、どんどん長篠の戦の復讐に燃えた、武田軍が入ってきている。織田家の兵を、皆殺しにするつもりだといっていたうわさの効果が大きかったのです。

 しかし、そんな仁科盛信に、明智光秀の使者が来たのは、十日でした。明智光秀は、六日に、仁科盛信が知らせを受けて入ったという知らせを受けた時は、その敏速さに驚きながらも、何度も使者を送っては、畿内の動きを伝えてくれていました。安土城、長浜城、佐和山城を占拠し、近江を抑えたという報告も貰っていたのです。

 だけど、今度の内容は驚くものでした。毛利家と戦っていた羽柴秀吉が、毛利家との和議を結ぶ事に成功し、七日には姫路に戻って、自分の方に、軍を向けているということでした。さすがの仁科盛信も、その羽柴秀吉の大返しには驚いてしまったのです。
しかも兵の数も、羽柴秀吉は、丹羽長秀、尾張信孝、摂津の池田恒興、中川清秀、高山長房なども味方にして、兵の数は圧倒的に、明智軍を超えていると言います。何と35千から4万と言い、明智軍の2倍はあるというのです。


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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

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