縁の花

     (21世紀に咲く智閥の花)  

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           武田勝頼の復活

      第5章「天王山の戦い」

   仁科盛信の決断二

羽柴秀吉の軍が来る。仁科盛信は、その意味を瞬間に理解していました。もし、羽柴秀吉に、明智光秀が敗れたら、武田軍が、尾張を占領したとしても、すぐに、羽柴秀吉や徳川家康に攻め込まれて、撤退しないといけないことになる。三日天下に終ることを理解していたのです。

 だから、仁科盛信の行動は、敏速でした。明智光秀には、自分が、美濃に入っている武田軍1万以上を率いて、すぐに駆けつけるから、それまで、決戦を待って欲しいという返事を使者に伝えると、勝頼にそのことを伝える使者を出し、十二日の日に、清須城と小牧城の守りに、伊那軍、二千を残すと、清須城に到着した、諏訪、高遠、3千の軍を、自ら率いて、鶏沼城に引き返すと、中信の三千、北信の二千、飛騨、越中の二千の合計1万の軍が到着するのを待って、美濃で、武田軍に降伏してきた三千の兵を率いて、十四日には、明智光秀の待っている坂本城に向けて、合計、1万三千の軍を向けました。尾張、美濃は、後は、勝頼にすべて任せるという決断をしたのです。

 また、その仁科盛信の決断は、正解でした。不利と分かっていても、天王山のちかくの山崎あたりで、羽柴軍を向かえ討つ覚悟をしていた明智光秀は、十二日に、仁科盛信の返事を聞くと、十三日の、どうしても秀吉が、京に行くには進まないといけない、天王山付近での決戦は避けて、一旦、坂本城まで、本軍を引く決断はしました。勝龍寺城に五千の兵を残して、羽柴軍を、自分が戻ってくるまで、何とか食い止めるように命令を出して、すぐに坂本城に兵を引いたのです。

 ですから、明智光秀と仁科盛信は、十八日に、坂本城あたりで、合流すると、十九日に、京都に入り、二十日、秀吉の猛攻を凌いだ勝龍寺城に入ると、いよいよ二十日、羽柴秀吉率いる織田軍四万に対して、二万九千と兵は少ないですが、天王山の近くの山崎というところで、決戦することになりました。本来なら、1週間早い、十三日、三万五千対、一万六千という不利な局面で戦わないといけない局面を、武田軍、仁科盛信の大きな決断のおかげで、明智光秀は、戦せずによかったのです。


 しかも、その戦いで、左翼を任された武田軍、仁科盛信の活躍は、戦国時代、最強と恐れられた武田軍そのものでした。特に、武田軍の先陣を務めた、諏訪、高遠軍、三千は、昔は勝頼、今は、仁科盛信が、指揮していた直属の部隊だけに、士気は非常に高く、迫ってきた池田恒興、丹羽長秀、織田信孝軍を相手にしませんでした。四倍の兵で、攻撃されても崩れなかったのです。それで戦いは、明智軍の優勢になりました。劣勢だった正面を任された斉藤利三の隊や、津田信春、伊勢貞興の隊も、息を吹き返しました。迫ってくる、羽柴秀長、中川清秀、高山右近の隊を押し返したのです。

 でも、その後に見せた仁科盛信の攻撃は、羽柴秀吉を恐怖に落としました。仁科盛信は、自ら率いた、馬場昌房率いる中信の兵三千と高坂昌信の率いる北信二千、合計五千も高遠、諏訪軍の援軍に向けると、倍もあった、池田恒興、丹羽長秀、織田信孝の軍を、完全に崩壊させました。馬場昌房も、高坂昌信も、父親である、武田家の重臣、馬場信房、高坂弾正の名に恥じない活躍を見せました。その猛攻で、池田恒興と丹羽長秀は、危うく、討たれそうだったところを免れましたが、織田信長の三男、織田信孝は、負傷して、しばらくは、動けない重症を負う事になったのです。こうして、最初の天王山の戦いは、明智軍の勝利になりました。羽柴秀吉の率いる織田連合軍は、もう少しで、崩壊寸前でした。それを防いだのは、武田軍の野戦の強さを恐れる羽柴秀吉が、合戦を、昼の一時頃から仕掛けた為でした。明智、武田、連合軍は、暗くなったので、合戦を停止したのです。

 

 

羽柴秀吉の撤退
 
 20日の晩、天王山で、羽柴秀吉は大きな苦衷の中にいました。山崎での戦いは、昼から行われ、兵力的には圧倒的に多いはずの羽柴秀吉率いる織田連合軍は、明智軍、武田軍に敗れました。それは、すべて武田軍の強さによるものでした。後、少し、夜になるのが遅くなったら、間違いなく、武田軍は、羽柴秀吉の本陣を突いて、羽柴軍は、崩壊しているはずでした。辛うじて、崩壊は免れて、兵を天王山にまで、引くことができたのです。

 しかし明日になれば分かりません。緒戦の勝利に勢いづいている明智軍、武田軍が、攻めてくることは分かっています。それを緒戦の敗戦で、兵も多くなくしている羽柴秀吉に、防ぐ自信はありませんでした。羽柴秀吉の率いている連合軍は、寄り集まりで、一つにまとまっているわけではありません。明日になったら、逃げ出す兵もいる可能性があります。しかも、秀吉の痛手は、信長の三男、織田信孝が負傷したことでした。そのことで、織田家の武将で、秀吉を批判するものもいました。秀吉軍は、苦しい立場にいたのです。

 その上に、羽柴秀吉に恐怖を与えたのは、仁科盛信の存在でした。羽柴秀吉は、初めて聞く、この男の名前に、信玄の面影を感じました。山崎の戦いでみせた武田軍は、長篠の戦以降に見せた武田軍とはまったく違っていました。甲斐、信濃の兵は、尾張の兵、五人に匹敵するという話もありましたが、あれは嘘ではない。羽柴秀吉は、明日、再び、武田軍と戦っても、勝てる気はしなかったのです。

 だけど、それでは、ここで戦いを避けて撤退したら、今度は、明智光秀を討つチャンスが来るか、どうかも分かりません。秀吉が負けたとなれば、明智軍に加わらなかった、若狭の長岡親子や、大和の筒井順慶は、間違いなく、明智軍に加わります。その上に、河内、和泉の領地も明智光秀に取られる可能性が高いです。堺を、明智に握られることは、秀吉も避けたかったのです。しかも、この山崎の敗戦を知れば、和議に応じた毛利家もどうなるか分かりません。明智と結んだら、挟み撃ちにあった羽柴軍は、大きな危機を迎えることは、自明の理だったのです。

 と言って、では、明日、もう一度決戦をすれば、今度は、完全に敗北して、二度と立ち直れない可能性も高いです。仁科盛信の率いる武田軍がいるかぎり、勝てない、それは戦国時代の優れた武将である、秀吉が肌で感じたことだったのです。その上に、それは、他の武将も同じ思いでした。実際に戦った、丹羽長秀、織田信孝の兵だけでなく、武田軍強と言う思いは、全軍に蘇っていました。信玄健在の頃、恐れていた武田軍が復活、信玄が復活した感じでした。どの武将も、明日、再び、野戦で、決着をつけようとは言わなかったのです。

 それで、夜の軍義で、秀吉は、天王山から徹底を決断しました。夜のうちに、軍を下げて、富田城まで撤退する事にしました。ここで、守りを固めるつもりでした。軍師である黒田孝高の「武田軍もいつまでもこの地にはいないでしょう。美濃、尾張に、徳川家康、柴田勝家、北条も動く可能性も高いので、仁科盛信もすぐに兵を戻すでしょう」という進言が大きくものを言いました。仁科盛信が、引いた後、もう一度、明智軍と戦う決断をしたのです。

 

 

      羽柴秀吉の誤算
 
 二十日の晩、羽柴秀吉は、軍を引きました。それに強く反対するはずの信長の乳兄弟、池田恒興は敗れ、信長の三男、信孝は重症で動けません。反対する武将は、いませんでした。信長に謀反を起こした明智光秀憎しよりも、武田軍の恐怖がそうさせたのです。


 しかし、羽柴秀吉には、何故、京都を越えた天王山まで、武田軍が来ているのか、信じられない思いで一杯でした。もし、武田さえ、いなければ、自分が、明智光秀を倒して、天下人になれたという思いをなかなか消せませんでした。 信長だけでなく、信忠も亡くなったと知った時、それを目指そうと思ったのです。それは、目の前にあるはずだったのです。

 何故なら本来なら、一週間前、羽柴秀吉は、明智光秀の軍と、同じ、天王山と淀川の狭い土地、山崎で戦うはずでした。十二日まで、両軍は、そう想定していました。しかも戦えば、兵力的に有利な羽柴秀吉が、有利だったのです。

 でも、土壇場で、光秀は、勝龍寺城に、五千の兵を残して、坂本城に撤退しました。決戦を避けたのです。だけど、この時点でも、秀吉は慌てませんでした。坂本城まで引いても、明智光秀に援軍が増えるはずではありません。京都を押さえ、羽柴秀吉勢が、迫れば、日和見を決め込んでいる畿内の多くの勢力も、自分の味方をするのは明白でした。長岡親子や、筒井順慶にも使者を送っていて、自分の味方する可能性が高く、ますます羽柴秀吉に有利になるはずでした。

 だから不利を承知で、明智光秀は、山崎で、決戦を望むつもりだったのです。でも、そんな秀吉が、勝龍寺城に迫ったとき、信じられない情報が届きました。何と、武田軍が、岐阜城を越えて、近江に入ったという知らせでした。これは、中国を大返した、羽柴秀吉を大いに驚かせました。羽柴秀吉が、中国から徹底できたのは、ある程度、明智光秀の謀反を内心察知していたからです。

 それと同じことが武田家も察知していたのか、それとも明智光秀から事前に知らされていたのか、分かりませんでしたが、本能寺の変の後、四日後の六日には、もう信濃を出て、十一日には、清須城を落とし、十二日には、尾張を占領したという武田軍の動きは、自分と同じ大返しでした。長篠の戦以後、恐れなくなった武田家の恐怖が、再び蘇ったのです。

 しかも、その武田家を率いる勝頼の弟、仁科盛信は、すごい勢いで、明智光秀に合流する動きをみせていると言います。このときに、秀吉は、明智光秀が何故、坂本城に兵を引いたか、理解しました。武田軍の強力を期待し、再び、自分に挑んでくることが分かったのです。

 また、その仁科盛信の敏速な動きは、畿内の武将達に、寸時に伝わっていました。結局、日和見を決め込んでいる長岡親子、筒井順慶は動かず、自分の元には、信長が、討たれたと知って、逃げ出した丹羽長秀、織田信孝の兵、五千が戻ってきたぐらいでした。ここに、羽柴秀吉の目論見の大きな誤算が生まれたのです。

 そしてその誤算は、月々と大きな誤算を呼んで、羽柴秀吉は、一旦、兵を、天王山、山崎まで戻さないといけないはめになりました。もうすぐ、明智光秀が、武田軍を連れて、戻ってくると信じている勝龍寺城の兵の士気は高く、羽柴秀吉が、猛攻を仕掛けても落ちませんでした。羽柴秀吉は、勝龍寺城を残して、明智光秀と未知の武田軍とは、不利な体制で戦をしたくなかったのです。

 だけど、この時点でも、羽柴秀吉は、戦は勝てると思っていました。兵力では、圧倒的に有利ですし、地理的にも、天王山を抑えて、有利だったからです。でも、それも仁科盛信率いる信濃の兵の強さが打ち消しました。特に、軍神、諏訪大明神を信じる、諏訪、高遠の兵は、とても同じ人間とは思えませんでした。羽柴秀吉は、そんな武田軍に脅威を覚えながら、空しく撤退していったのです。

 

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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

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