縁の花

     (21世紀に咲く智閥の花)  

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           武田勝頼の復活

    第6章「 明智光秀と仁科盛信」
          明智光秀と仁科盛信
六月二十一日、明智光秀は、天王山に上に登ると、撤退していく羽柴秀吉軍を見ていました。
 側には、側近の斉藤利三と、仁科盛信がいました。「勝った」明智光秀は、天王山から、引き上げていく羽柴秀吉軍を見ながら、その実感がやっと湧いてくるのが隠せませんでした。この山崎での戦いは、後の天下人を決める大きな戦いだということがよく分かっていたのです。

 また、この戦いに勝利した意味は、明智光秀にとって、本当に大きかったです。羽柴秀吉に勝利したことで、当面の大きな、最大の脅威から免れることができただけでなく、日和見している自分の娘、お玉が嫁いでいる親戚になる長岡忠興や、本来なら与力になる筒井順慶も、この結果を知れば、自分の元に駆け込んでくることは、間違いないです。その時には、明智光秀は、心良く許すつもりでした。筒井順慶で一万、長岡親子で、四千の新たな兵が持てる計算をしていたのです。

しかし、もし、この結果を知っても、自分の味方にならないときは、軍を派遣して、すぐに攻撃する覚悟も決めていました。秀吉の脅威を打ち破り、背後を、武田軍が守っているので、明智軍には、その余裕がありました。兵力も、時間もあったのです。しかも、秀吉が守っている摂津は無理でも、河内、和泉に対しては、すぐに兵を出して、治めることは簡単でした。河内、和泉で新たに五十万国、一万以上の兵を計算することができますし、和泉にある黄金の都市、堺を手に入れることもできます。財源、お金と、鉄砲も、持つことができるのです。

そして、明智光秀は、それはすべて、武田信玄の息子、武田家の副将、自分の側にいる仁科盛信のおかげだという事もよく分かっていました。もし、十二日に、すぐに駆けつけるという仁科盛信という返事がなかったら、自分は、一週間前、この天王山の地で、逆に破れ、明智一族や、嫁いだお玉に悲惨な運命が待っていたのではないか、明智光秀は、冷静にそう判断していたのです。その意味で言えば、仁科盛信には、本当に心から感謝していたのです。

でも、同じ武人として、明智光秀は、仁科盛信の力量も恐れていました。まだ若い仁科盛信に、信玄公の再来を感じていました。清須城から、自分が出した使者の言葉で、すぐに戦況を正しく理解した頭のよさ、すぐに軍を動かしたすばしこさ、何よりも、戦う前から、すでに相手に脅威を与える、甲斐、信濃の兵の強さ、味方にすれば、頼もしいですが、敵にすれば、こんなに恐ろしい存在はいません。何故、主君だった織田信長が、信玄率いる武田家を恐れていたのか、よく分かったのです。

しかもその武田家は、本能寺の変以後、驚異的な速さで、美濃、尾張に侵攻して、尾張を支配し、今、岐阜城も占拠して、美濃も治めようとしています。これで、新たに百十万石は得ることができます。従来の武田の領地である、甲斐、信濃、駿河、上野を加えたら、二百五十万石にもなります。一躍、大大名です。その武田軍が、自分の敵になったら、それを考えると、戦国時代の性、不安もあったのです。

でも、今は、明智光秀にとっても、武田家にとっても、お互いを必要としていました。明智光秀には、北陸の柴田勝家という敵もいますし、秀吉も油断できません。武田家にも、徳川家康という敵がいます。力を合わせる必要があったのです。その後の天下の事は、仁科盛信や、武田勝頼と話し合って、決めようと明智光秀は決めていたのです。

ただ、明智光秀にも一つだけ分からない事がありました。それは、何故、仁科盛信や、武田家は、こんなに早く、軍を動かせたということです。明智光秀は、事前に本能寺の変を、武田に知らせていませんでした。自分自身、信長を討つと、最終的に決めたのは、本能寺の変の直前で、機密保持の為、誰にも知らせませんでした。でも、武田は、それがわかっていたように、すぐに軍を動かしていました。それが、不思議で仕方がなかったのです。

 

明智光秀と仁科盛信二
 
それで、明智光秀は、仁科盛信に、六月十八日に、近江の坂本あたりで、武田軍を迎える時に聞いています。羽柴秀吉の中国大返しも驚きましたが、武田の大返しにも本当に驚いたからです。しかし、仁科盛信は、明智光秀の、「どうしてそんなに早く軍を動かせたのですか」という問いに、多くは語ろうとはしませんでした。「ただ、諏訪大明神、武田八幡大菩薩のご加護、お告げがあったからだ」としか言いませんでした。仁科盛信が、本音は、藁にもすがる思いで、何かが信長に起こることを期待していたという本当の事を言ったのは、後の話だったのです。
 
 しかし、そのことを詳しく話さなかった仁科盛信の判断は、明智光秀に大きな影響を与えました。明智光秀は、本能寺の変を起こす前、神仏に何度も願っていました。「自分が、信長を討つのは、天下を取りたいという野心の為でなく、天皇家を守るためです。」と訴えていたのです。その願いが、遠く、甲斐、信濃の武田家の神に伝わって、神が、武田軍を使わせてくれたのではないか。そんなことを思っていたのです。

 また、仁科盛信、武田勝頼は、神のお告げはないですが、心から、明智光秀に感謝し、支えるつもりでした。六月四日には、明智光秀の使者が到着したという報告が来ると、仁科盛信は、すぐに駆けつけ、本能寺の変を知ると、直ちに使者を明智光秀に派遣しています。明智光秀の援軍の要請にすぐに応じると約束し、心から明智光秀の決断に賛同の意を表し、武田家を、信長の脅威から救ってくれた明智光秀に感謝しました。仁科盛信は、明智光秀を武田家の恩人と、心から遇するつもりだったのです。

 そして仁科盛信は、その言葉どおりの行動を示していました。事前に、何かあったら、兵を動かせるように、槍や刀、鎧などの武器も、伊那の吉岡城に集めていたので、通達が来ると、兵は、重いものを持つ必要がなく、翌日の六日には集まることができました。武田家の持っている馬が、重い荷物を運んでくれていて、大きな力を発揮してくれたのです。
 
 しかもそれ以降も、仁科盛信は、毎日、使者を、二、三人派遣して、自分の動きを伝えさせていました。六日、美濃に出撃したこと、七日に、岩村城、明智城を抜けて、岐阜に目指していること、十一日には、清須城を奪ったこと、全部報告していたのです。信長に謀反を起したことで、織田家中から孤立して、味方のいない光秀に対する心遣いを忘れなかったのです。
 
 その上に、勝頼もまた、同じように、明智光秀に、遠く甲斐から、使者を派遣してくれていました。徳川家康に、本能寺の変の事が漏れることを恐れて、使者は、東海道ではなく、甲斐、信濃という遠回りをして派遣するか、武田水軍に護衛させて、堺にまで、使者を送らせていました。明智光秀との連絡を大切にしていたのです。

 それは、本能寺の変以後、自分が考えていたよりも遥かに支持されなかった明智光秀にとって、本当に涙が出るぐらい嬉しいことでした。不安を持っている家臣にも、仁科盛信や、武田勝頼の知らせを伝えることで、安心させることができました。もうすぐ、武田軍、二万が到着するという言葉は、説得力があったのです。

 しかしそんな明智光秀も、仁科盛信が、清須城を奪った後、すぐに駆けつけてくれるとは思っていませんでした。もし、仁科盛信が、武田家のことを考えているだけなら、自分の援軍として駆けつけずに、岐阜城を攻撃して、尾張、美濃の支配を完全なものにしてしまうはずでした。でも仁科盛信は、あえてそうせずに、自分の為に、美濃、尾張の攻略を、中断して駆けつけてくれました。仁科盛信に、自分と同じ天下を想う気持ちがあることを、その事実が示していました。明智光秀は、仁科盛信に脅威を感じながらも、心から味方として、信頼していたのです。

明智光秀と仁科盛信三
 
天王山に、明智光秀と一緒に登っていた仁科盛信は、羽柴秀吉の軍が引いていくのを見ながら、今後のことを考えていました。羽柴軍を破ったことで、西側の当面の危機は去りました。摂津の富田に、兵を引いた羽柴軍が、すぐに引き返して、明智軍に挑んでいることは、考えらませんでした。いくら秀吉でも、戦線を立て直す必要があります。

その間に、山崎の戦いで勝利したことで、明智光秀には、日和見している畿内の武将からの援軍が期待できます。仁科盛信は、明智光秀に会って、共に戦い、その武将としての力量もはっきり分かりました。明智光秀が、自分の野心だけで、信長に謀反を起こした人物でないこともよく分かりました。丹後の長岡親子、大和の筒井順慶が、参陣することは時間の問題だと想ったのです。


 また、明智光秀が勝ったことに気を良くして、摂津富田に兵を向けず、河内、和泉に六千の軍を向けようとしている考えにも賛同しました。今、摂津富田に軍を向けて、富田城を落とせず、秀吉軍と膠着しているところに、北陸の柴田勝家や、徳川家康に攻められたら、大変なことになります。

 

ここは、有力な武将がいないので、簡単に取れる河内、和泉を手に入れて、味方の兵の数を増やして、天王山で守りを固めることが最善の策です。天王山と淀川の狭い地域で、守りを固めたら、羽柴秀吉でも、易々とは軍を突入できません。ここは、天王山から出ずに、守りを固めるべきでした。それを実行している光秀の武将としての力も、冷静に評価していたのです。

 しかし仁科盛信は、この天王山にいつまでもいるつもりはありませんでした。勝頼からは、使者が何人も来て、岐阜、尾張の戦況は詳しく報告されていました。それによると、仁科盛信の軍が、明智光秀の援軍として向かったことを知った徳川家康は、再び、軍を尾張、美濃に向けて迫っているとのことでした。しかも柴田勝家も、越中から軍を引いて、出陣の用意をしているとのことでした。新たな戦が始まろうとしていたのです。

 だから仁科盛信は、明智光秀に、現状を伝えて、天王山の戦場を離れる了解を得ようとしました。本能寺の変を起こしてくれたことで、武田家を救ってくれた義理を返したと判断していたのです。でも、武田軍の強さを知った明智光秀は、なかなか最初は承知しませんでした。徳川軍の動きは、明智光秀にも伝わっていますが、今、武田軍が引いたら、再び、羽柴軍が引き返してくるのではないかと恐れたのです。
 
でも、結局、仁科盛信の、再び、羽柴秀吉が戻ってきたら、駆けつけるという言葉と、明智光秀の希望、馬場昌房の率いる中信と、高坂昌信率いる北信の兵、合計五千は、天王山に残すという条件を承知したことで、明智光秀も、納得しました。徳川家康の脅威は、明智光秀も、取り除く必要があったのです。明智光秀は、中信、北信、五千の強力な武田軍を得るだけでなく、武田軍が裏切った時には、その兵を万が一の時には、人質として使えることで、しぶしぶ承知したのです。そんな抜け目のなさも、明智光秀は持っていたのです。


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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

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