縁の花

     (21世紀に咲く智閥の花)  

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           武田勝頼の復活

8「甲斐・上野攻防戦」
        柴田勝家

勝頼が、大垣城で、明智、武田連合軍の勝利を聞いたのは、六月二十三日の夜でした。しかも、戦場では、仁科盛信率いる武田軍が、無類の強さを発揮して、羽柴軍だけでなく、味方である明智軍まで恐れさせたという報告も入っていました。その仁科盛信の活躍は、勝頼を満足させました。父、信玄が、築いた武田家の栄光が蘇ったことを確信しました。敵が、武田軍を恐れることが、どれだけ大きな力を発揮するか、勝頼は、長篠の戦で大敗してから、良く理解していたのです。

また、その勝利の知らせは、すぐに大きな影響を与えました。岐阜城を攻めていた家康にも、その知らせは届いたのか、二十四日には城攻めを中断すると、二十五日には、兵を引き上げていました。その軍の中には、金華山にいた滝川一益の率いる千の兵もいて、勝頼は無血で、金華山も得ることができました。岐阜城を、完全に手に入れたのです。こうして、武田は、尾張と美濃という大国を二つも、わずか一ヶ月も経過しない中で得ることができました。その領土は、明智光秀も越えて、日本で最大の大名になっていたのです。

しかも勝頼は、密かに連れてきていた人質だった信長の五男ご御坊丸を、自分の養子にすると、清須城の城主にしました。その上でご御坊丸に、尾張半国を与えました。名前も、織田信正と名乗らせて、織田家の家督を継がせることを、内外に示しました。その事を、明智光秀にも話して、了解を得られたので、発表したのです。

そしてその効果は、織田家中に大きな影響を与えました。織田家の家臣の中には、新しく織田家を継いだ織田信正の元に仕官を求めるものも現れていました。信正が、勝頼の養子とはいえ、信長の五男には違いありません。織田家の家臣も、織田家を、勝頼が存続させてくれるのであれば、仕官しやすかったのです。

しかし戦いは、まだ、これからでした。やっと、六月三十日、戻ってきた仁科盛信と合流したものの待っていたのは、新たな戦いでした。上杉家を越中の佐々成政に任せて、柴田勝家が、二万の大軍で、近江の木之本まで攻めて来たのです。柴田勝家は、秀吉の敗戦を知り、自分でしか、明智、武田には勝てないと思ったのです。それに対して、明智光秀も、早速、斉藤利三に、二万の兵を預けると、長浜城まで進めました。明智光秀は、柴田勝家よりも、羽柴秀吉の方に脅威を感じていて、丹波の亀山城から動かず、天王山に二万の兵を配置したまま、警戒していたのです。

また、武田勝頼も、明智光秀の要請を受けると、仁科盛信に、新しく兵になった尾張、美濃の兵、七千の兵を加えた一万五千の兵で、近江の明智軍の元に援軍として送りました。何故なら勝頼は、明智光秀が天王山で勝利したことの意味を、このときに心から悟っていました。もし、あの時、仁科盛信が、明智光秀の要請を拒んだり、自分の了解を得るまでと、なかなか出撃しなかったりしたら、明智光秀は諦めて、明智軍単独で、天王山で戦い、秀吉の大軍に破れて、自分も、仁科盛信も負けていないのに、今頃、羽柴秀吉、徳川家康、柴田勝家に包囲されて、尾張、信濃を手放していることになっていました。

野戦で負けることは許されない。勝頼は、明智光秀が負けることは、武田が負けたことになることを悟っていました。どうしても、明智軍には、負けさせるわけには行かなかったのです。

 

 

北条家の上野侵攻

 仁科盛信を、今度は、柴田勝家との戦いに送った、二日後の七月二日、岐阜城にいた勝頼のもとに驚くべき報告が甲斐から、送られてきました。本能寺の変を知った後も、しばらく様子を見ていた北条家がついに動いたという知らせでした。北条家は、今までずっと静観していましたが、徳川家康から、何度も、出陣の要請があると、ついに北条軍、三万を上野に向けました。わずかの間に、武田家が、尾張、美濃を支配して、北条家も凌ぐ大名になるということが、北条家の当主、氏政にとっては許せなかったのです。

 ただ、北条氏政が、上野に侵攻したのは、それだけではありませんでした。北条氏政は、勝頼が、尾張、美濃を完全に支配する前に、念願の関東支配を完成させるつもりでした。遅かれ早かれ、武田家とは、戦うなり、和議を結ぶなり、対決する必要があります。 その時に、交渉する上でも、上野、四十九万石が必要だったのです。

 また、それは、武田勝頼が、もっとも恐れていた事でした。勝頼は、手薄になっている上野、甲斐、駿河に、北条軍、徳川軍が、連合して侵略してくることを恐れていました。尾張、美濃を手に入れても、駿河、甲斐、上野を取られたら、何にもならないのです。

 しかし、勝頼自身も、そのことを想定して、ある程度の程度は、事前に打っていました。駿河には、四千、兵が空っぽになっていた甲斐にも、新府城には、嫡男の信勝に、上野の兵、三千を預けて守らせていましたし、上野にも五千の兵を配置していました。上野の守りでも、一番重要な美輪城に内藤昌豊の子供である内藤昌月が二千五百、沼田城に、真田幸隆の弟、矢沢 頼綱が千五百、同じく岩櫃城にも、真田昌幸の息子の真田信之が、千の兵を率いて守っていました。これで、半年間、北条家の攻撃を凌ぐように命令していたのです。

 しかも、勝頼は、密かに、北条家に使者を使わして、この間の間、何度も和議も求めていました。以前の、同盟を密かに申し込んでいました。何とか、北条家が攻めてくるのを防ごうとしていたのです。

 でも徳川家康も、何とか、北条家を動かすことで必死でした。尾張、美濃で、武田家に遅れを取った以上、家康の残された手は、北条軍を動かすことでした。北条軍に、甲斐、上野を攻めさせ、その間に、自分も駿河か、尾張かを奪うつもりでした。その為に、北条家に、上野と甲斐、徳川は、駿河という高条件をだしていました。それができない限り、武田軍に、両家は、このままでは滅ぼされると説得していて、北条家は、その言葉に動きました。このまま武田勝頼の思いのままにさせないという氏政の勝頼に対するライバル心、侮っている気持ちが、兵を動かしたのです。

 

徳川家康の駿河侵攻

 また、73日、北条家の上野侵攻の翌日には、三河の徳川家康が、今度は、駿河に兵を向けたという報告も、甲斐から届きました。徳川家康と、北条氏政が示し合わせての軍事行動だということが判明したのです。それで、勝頼は、甲斐の兵六千と、美濃の兵4千、合計一万の兵を率いて、ただちに帰国する決断をしました。今、ここで、上野、駿河、甲斐を失う訳にはいきません。特に、甲斐は、最初の出陣の時に、全兵、六千を引き連れているので、守りは手薄です。

それは、上野から来た三千の兵を後に入れていますが、新府城はできたばかりで、まだまだ城としては不十分なところがあります。しかも新府城の守りは、勝頼の跡継ぎ、信勝に任せていますが、まだ戦の経験は豊富ではありません。敵が、甲斐に侵攻したら、新府城を焼いて、信濃の高遠城まで引いても構わないといっていますが、信勝が、それをするかは分かりません。

要害堅固の場所に建てた新府城が、無駄、無駄落ちるとは思いませんが、守る兵の数は、三千と手薄です。勝頼にしても、真田昌幸にしても、その事が分かっていたので、尾張、美濃に侵攻に成功したら、すぐに降伏した兵を、三千程度送る予定でいましたが、徳川家康との戦いの為に、そのゆとりがもてませんでした。やっと、三日前に、美濃の兵四千を、信濃の伊那のルートから送りましたが、間に合うかどうかは分かりません。

岐阜城から甲斐に入るには、急いでも十二、三日はかかります。勝頼と真田昌幸にはしまったという気持ちがありました。北条は、どうせ、評定ばかりで、行動は起こさないだろうという勝頼、真田昌幸の油断があったのです。勝頼も、またライバルであった北条氏政を侮っていたのです。

しかし、その後の勝頼の行動は敏速でした。甲斐六千と尾張の兵四千の兵、合計一万で、すぐに少し危険ですが、三河、遠江の徳川領土のルートから、帰国を目指しました。岐阜城からなら、東海道のルートで急げば、六日で、駿河に到着します。信濃のルートよりも、遥かに早いのです。

しかも勝頼が、三河から侵攻したことを知れば、家康も迂闊には、甲斐には入れません。下手をして、駿河で勝頼と戦になったら、挟まれて全滅する可能性もあります。そんな危険はしないだろうと思っていたのです。

 

 新府城の攻防戦

七月三日、家康は、駿河に侵攻しました。羽柴秀吉が、天王山の戦いで敗れた以上、柴田勝家が、来ても、もう、尾張、美濃を武田家から奪うことは至難の業です。家康は、柴田勝家の力量を良く知っています。織田信長の元で、織田家筆頭になった人物です。武将として有能なのは間違いないです。

しかし、明智光秀や武田勝頼に勝てるかと言ったら、それは別です。圧倒的な優勢な兵力があれば別ですが、今のような劣勢だと難しいです。それは、家康にはよく分かっていました。家康は、今までずっと勝頼と戦ってきて、勝頼の武将としての力量も、高く評価していました。たぶん、柴田勝家は負けるとよんでいたのです。

でも家康は、その間に、何としても駿河を奪う必要がありました。駿河を奪わなければ、北条家との連絡が取れません。取れなかったら、今後、尾張まで手に入れた武田家とは、とても戦えません。自然に降伏するしか、道は残されていません。それで、柴田勝家が、近江に侵攻するという極秘情報を、北条家に伝えました。明智、武田と戦っている間に、上野、甲斐を手にいれるように唆したのです。今のまま、北条氏が、評定ばかりして、何も行動しないのなら、徳川は、武田家の軍門に下って、北条氏を攻めるという脅しが成功したのです。それで、しぶしぶ北条氏政も、出陣に同意したのです。

でも武田家を本気で怒らせることを恐れる北条氏政は、上野侵略には同意しても、甲斐侵攻は、まだ納得していませんでした。武田家の本国、甲斐に侵攻したとなれば、勝頼も激怒します。後々、再び、武田家と、和議を結ぶこともできなくなります。甲斐侵攻は、今はまだしないという返事が来ていました。家康の目論見、北条と武田が、甲斐、信濃と争っている間に、駿河と、できたら尾張も手にいれ、北条が、上野、甲斐を手に入れられるように、協力するという戦略は狂っていたのです。

だけど、家康は、諦めませんでした。何としても、駿河を奪う必要があったのです。でも、手薄なはずの駿河でも、本能寺の変の前とはまったく違った、以前の強力な武田軍がそこにはいました。依田信蕃が守っている田中城にいるや、穴山信君が守っている江尻城を攻めてみて、家康は痛感しました。本能寺の変以降の武田軍の勝利は、もうすでに駿河の武田軍にも伝わっています。江尻城を守っている、自分に内応していたはずの穴山信君も、もうそんな事はないかという感じで知らんふりです。1万の兵で、田中城、江尻城を落とそうとしても、1ヶ月や、2ヶ月は必要な感じでした。だから城攻めが苦手な家康は、すぐに見切りをつけました。駿河を手にするのも容易ではないと思ったのです。

しかし、そんな家康にも、一つだけ落とせる可能性のある城がありました。それが、本来なら、甲斐にはないはずの新府城でした。新府城は、今まで、勝頼の父親である信玄が、「人は城、人は石垣、人は堀・・・・」と言って甲斐国内では、城を造らなかったのに、勝頼が、信長の侵攻を覚悟して、大急ぎで作らせた城です。要害堅固な場所にありますが、大急ぎで造っているので。まだまだ未完成な城の可能性があります。

しかも間者の報告だと、城兵の大半は、上野の兵三千で、甲斐の兵は、すべて勝頼の遠征に参加していないということでした。新府城の規模にしては手薄です。いえ、あれだけ大きな城だと、かえって、3千の兵だと少なすぎます。攻撃しやすいのです。その上に、城主は、勝頼の息子、信勝ということでした。これなら落ちる可能性がある。うまくすれば、徳川軍が来たということだけで、信勝は、新府城を放棄する可能性もある。徳川家康は、そう思うと、冒険ですが、甲斐国内に入る決断をしました。新府城を落としたら、抵抗している駿河の兵も、意気消沈して、士気が落ちることを期待したのです。

 

甲斐攻防戦 信勝の活躍と、家康の敗戦

家康が、甲斐に侵攻したのは、七月七日でした。一万の徳川全軍でした。三日と四日は、田中城、五日、江尻城を攻めてみて、意外と駿河の守りが堅いことに決断したのです。それで、七月十日には、甲斐の北部にある新府城を攻めたのです。

でも、新府城も落ちませんでした。駿河の城を攻撃して、時間を費やしている内に、美濃の兵、四千は、到着していました。最初から、新府城を、北条の大軍と一緒に攻めていたら、わずか三千の守備兵しかいない新府城は、あっさり落ちた可能性がありますが、七千もいれば、別です。城主の留守を父から任された信勝も、たとえ、北条の大軍が来ても、新府城を守りぬく覚悟でした。信勝は、妹の貞姫など、武田家の一族や、家臣の妻子、人質も全部を、全員、松姫のいる、仁科盛信の居城、高遠城に逃すと、自らは、城と共に討ち死に覚悟だったのです。

また、その士気の高さは、一日、攻めただけで、戦慣れしていた家康には分かりました。しかも間者の報告では、美濃の兵、四千が二日前に新府城に入ったというということです。もう一万で攻めても、落ちる城ではありません。その上に、激怒した勝頼が、三河から遠江に迫っているという報告も入っていました。家康は、すぐに新府城の攻撃を諦めました。尾張、美濃、駿河、甲斐とどこを攻めても、すぐに撤退ということで、家臣の信頼がなくなっていることは分かっていましたが、どうすることもできませんでした。時代の時流から外れるということは、運がないということがどういうことなのか、家康も痛感しました。本能寺の変の前の勝頼の気持ちが分かった気がしたのです。

こうして家康の新府城の攻撃は、わずか一日で終わり、武田信勝の名を上げる為に行われたのです。でも家康は、すぐれた武将でした。新府城の攻撃を諦めても、勝頼との決着は諦めませんでした。今なら、怒った武田勝頼よりと、同数の一万で、戦えます。甲斐国内で戦うことが不利なことは分かっていますが、万が一負けても、北条領に逃げ込むこともできます。今まで、不利と分かっていて、勝頼との戦いを避けたり、避けられたりしていましたが、ここで武将としてどうしても戦をしたかったのです。

それで、新府城の攻撃を諦めないふりをして勝頼を待ち、七月十五日、甲斐の八代で、戻ってきた、武田軍と戦ったのです。でも、その戦でも、家康は、勝てませんでした。三河の兵が強いと言っても、甲斐の兵の敵ではありませんでした。二日間、いくら戦っても、小競り合いでは負けてばかりだったのです。しかも家康が、いくら要請しても、北条家は、援軍は出そうとはしませんでした。上野でも、武田の守りは思ったよりも堅く、箕輪城さえ今だに落とせませんでした。北条氏政は、武田の強さを痛感していたのです。

でも家康は、完全に負けませんでした。何とか、踏み止りました。武田の強さが分かっているので、正面からの野戦を避けていたことが大きかったです。だから家康は、新府城から信勝が五千の兵で、援軍に来ると分かると、これ以上の戦いの不利を悟って、撤退しました。五百名以上の死傷者を出しながらも、何とか、八代を離れて、御坂路、鎌倉往還から、北条領である相模に撤退することができたのです。


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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

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