縁の花

     (21世紀に咲く智恵の場)  

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                ゾウのはな子 

(千の風になった動物園の猛獣達)

 

∞『千の風になった「ゾウのはな子」』∞

 8月になってすぐに、21世紀になってから、毎日放送の昼ドラマ、「永遠の1/2」や、「ラブ・ファイト」「太陽と雪のかけら」などを通して、不思議なご縁を頂いた、共同テレビの鈴木伸太郎プロジューサーさんから、おはがきを頂きました。それで、鈴木伸太郎さんが製作した「ゾウのはな子」という番組が、200784日、土曜日、フジテレビで、夜の9時から、放送されていることを知りました。

何でも、フジテレビ、千の風ドラマスペシャル、第2弾だそうです。そんなことを、フジテレビが企画しているとはまったく知りませんでした。しかも、第3弾として、「はだしのげん」前編・後編も放送されます。夏のこの時期、お盆前に、こういった番組が、83日、4日と810日、11日に放送されること、すばらしいです。何か、天からの大きな願いがあると思います。

また、この「千の風ドラマスペシャル」とは、フジテレビさんによると「秋川雅史の歌声とともに大ヒット曲となった「千の風になって」(日本語訳・作曲=新井満)の世界観をテーマに、生と死と命を描くスペシャルドラマ3本を4夜にわたって放送するそうです。各々のドラマは、すべて実際のエピソードをもとに制作いたします。『千の風になって』の精神を共有するそのエピソードは、「死者を悼む想い」だけでなく、「残された人間と故人との生前の出来事」、「そこにあった背景」、「亡くなられた後の出来事」、そして『千の風になって』に出会った後の「残された人々の想い」(エピソードによってはこの歌を知らずとも、その世界観を投影した実話)を描いていきます。」

「過去から現在まで時空を超えて、人間であればいつの時代にも直面する故人と残された者による想いを、丁寧に綴っていきたいと考えております。そして、感動的なエピソードを映像化する事で「千の風になって」の思想をより多くの視聴者にお伝えする事が出来れば、と思っております。」

「第1弾は全国から寄せられた、実際に体験されたお話をもとに映像化するドキュメンタリー・ドラマを83日(金)に放送する。そして第2弾が84日(土)に放送する、この『ゾウのはな子』。第3弾は、戦争物語の古典ともいえる名作『はだしのゲン』を初のテレビドラマ化。出演は中井貴一、石田ゆり子ほか。放送は810日(金)・11日(土)の二夜連続で送る。」とのこと、すばらしいです。菊は、まったく、こんなすばらしい企画があるとはしらなかったのです。

しかも、この「千の風になってとは」日本だけではなく、世界的な話です。世界的な規模で、ずっと語られているのです。2年前、大きな話題になった、本田美奈子.さんのアメージング・ストリーと同じなのです。

というのも、再びフジテレビによれば、「もうご存知の方も多いかと思いますが、曲の原詩である「a thousand winds」は作者不詳の詩です。長い年月を経た今も、世界各国で話題になっており、米国同時多発テロの追悼式では、テロで亡くなった父親を偲び11歳の少女がこの詩を朗読し、改めて大きな反響を呼びました。」

 「この作者不詳の詩は、77年に映画監督、ハワード・ホークスの葬儀で俳優のジョン・ウェインが朗読したという話や、87年、女優マリリン・モンローの25回忌にも朗読されたという話もあります。言葉の発祥としては、19世紀末に米国に渡った英国人が残した詩という説や、米国先住民から伝承された詩など、諸説があります。」

「そして日本では、芥川賞受賞作家として著名な新井満さんがこの「a thousand winds」と出会い、2001年に日本語訳詞及び作曲をして、わずか30枚の私家版を友人のために制作し発表しました。メロディを加え、一層心に響く音楽として誕生したのです。038月にこの詩が朝日新聞の天声人語で紹介されると問合せが殺到、同年11月に『千の風になって』というタイトルで詩集とシングルが発売されるに至りました。」

「その後、様々なアーティストのカバーが登場し、その中で昨年の紅白に出演された秋川雅史さんが大きくクローズアップされました。現在では、秋川雅史さん、新井満さんはもちろんのこと、中島啓江さん、新垣勉さん、スーザン・オズボーンさん、加藤登紀子さん、また宮本隆治さん(元NHKアナウンサー・朗読バージョン)が発表。プロ、アマチュアを問わずさまざまな歌唱、演奏を合わせると全国各地で50バージョン以上の『千の風になって』が存在し、大きな風となって日本中を席巻しています。」

菊は、恥ずかしながら、2007年の夏、そんな千の風が、日本中に吹いているとはまったく知りませんでした。それが、ゾウのはな子が、放送されたときは、残念ながら、仕事で見られないので、DVDに録画していて、2007年、87日の今日、菊の記念すべき日、縁の花村が誕生した、花の日に、自宅で見て、感動して、インターネットで、いろいろ調べてやっと知ったのです。ひの時には、何かの大きな、大きなご縁を感じました。もうテレビを見なくなった菊に、多くの御霊が、鈴木伸太郎さんを通して教えてくれたのだと思うのです。

何故なら、「千の風になって」という番組は、菊の大好きな、多くの亡くなった御霊達と、今も、その人達の事を、意識して、その人達のことを願って、一緒に生きている人達の番組、一言で言えば済度の番組です。だから菊も、87日、記念すべき日に、大いに、「ぞうのはな子」のことを、縁の花で書かせて頂いて、菊のお役を果たさせて頂きたいと思います。
 200787

 

 

∞「ゾウのはな子  戦争の悲劇」∞

物語は、今から、60年以上も前の戦前の話になります。大東亜戦争で、日本が、米国を中心とした世界と戦っていた時の話です。上野恩賜動物園では、戦争が始まっても、見てくれるお客さんがいるかぎり、動物園はしめないという園長の方針の元で、ずっと開園されていました。虎とか、熊、ライオン、チーター、蛇、ゾウなどもずっと飼われていたのです。

しかし、それは飼育係の人達にとっては、大変なことでした。時代は、急速に悪化して、国民の生活も配給制になりました。動物のえさも、魚や、生肉なども入らないようになっていて、飼育係の吉岡亮平(反町隆史)などは、生ごみを、密かに漁っては、動物に与えていたのです。それで、憲兵隊に追われたこともあったので、命がけでした。

でも戦争は、そんな飼育係の人達や、日本の国民にも、もっと予想もしない現実を呼びました。おそらく日本国民で、海軍や陸軍の軍人の中でも、今度の戦争は、日清戦争や日露戦争などの局地戦争、限定戦争ではなく、総力戦の全面戦争になるとは思っていなかったと思います。第一次世界大戦までとは、根本的に違いました。戦争は、日本国内だけでなく、本土もまきこまれることになったのです。

また、その中で、日本の戦線が悪化していくと、日本の役所から、動物園に、猛獣といわれる動物、ライオンや虎、熊、蛇などを殺すような命令がきます。飼育係の人達が、恐れていたことでした。もし、本土が、急襲されて、動物園に、爆弾が落ちて、檻が破壊されて、猛獣が逃げて、人間を襲ったら、どうするかということです。その前に、猛獣は、殺してしまえということです。

しかも、その猛獣のリストに、ゾウも入っていました。どんなに、人間になれているゾウでも、一度、興奮したゾウは、ライオンよりも手に負えないということで、殺しなさいという命令がきました。それで、動物園では、二足で立ち上がる芸をする小ゾウのはな子や、ジョン、トンキー、なども殺さないといけなくなりました。人間の都合で、自然界から切り離して、檻の中にいれて、今は、自分達の都合で、勝手に猛獣扱いにして、殺そうとしているのです。

でも、飼育係の人たちや、園長はどうすることもできませんでした。それに抵抗して、命令をきかなかったら、逮捕されて、どちらにしても、動物は殺されてしまうのです。その中で、飼育係の人達は、猛獣といわれている動物達を、仙台市などに、子供と同じように、疎開することも計画しましたが、役人の了解は、得られずに残念しました。

上野恩賜動物園の猛獣は、それでいいとしても、他の動物園の猛獣達も、その動物園で引き受けられるのか、仙台で空襲があって、猛獣が、仙台市民を襲っても、いいのかといわれたら、何ともいえなかったのです。

 

∞「ゾウのはな子  千の風の御霊になりました」∞

それで上野恩賜動物園で、人間の都合で、勝手に猛獣にされた、動物達は、昭和16年、8月に、次々と殺されることになりました。94日には、国民に、この事を知らせる為にも、殺した動物の慰霊祭までする命令が来て、それまでに殺せということだったのです。しかもそれは、銃殺などして、音が、周辺に聞こえたら、まずいので、毒殺という指令が出ていました。毒殺で、殺されることになったのです。


しかし、この当時の毒といっても、動物達に分からずに、すぐに死ぬことができるという毒薬はありませんでした。最初に殺された熊とか、ライオンにしても、毒の入っているえさを食べて、ものすごく苦しむことになりました。動物園では、その記憶を残していて、くまは、22分間分ちかく苦しみましたし、ライオンの何故か、名前がカンスケは、毒薬ではなかなか死なず、飼育係が、心臓を竹やりでついて殺したそうです。

そんな悲しい出来事が、戦中に起こりました。それ以降、日本中で、同じように多くの動物が毒薬で殺されているのです。しかも、虎は、毒が入っているのが分かって、食べようとしなかったので、5人の飼育係の人が、誘い出して、ワイヤロープで、首を絞めて、5人係りで殺しているのです。

それは本当にかわいそうです。人にしろ、動物にしろ、最後に、どんな死に方で亡くなるかが大切だといわれています。その時に、痛かったり、苦しかったら、その時の思いは、ずっと残って消えることはありません。動物園の動物達は、昨日まで、ずっと愛情を注いでくれた愛する飼育係の人達に、突然、訳も分からず、苦しみながら殺されたのです。

でもその中で、一番、悲惨だったのは、最後に残ったゾウでした。賢いゾウは、毒の入っているえさは、決して食べようとはしなかったのです。その上に、ゾウの皮膚は強く、馬に注射するものでも、針が通りません。殺すことが、出来なかったのです。

結局、その中で、役人の命令で、ゾウは餓死させることになりました。水も、えさも与えずに、殺すことになったのです。これは、本当に残酷なことでした。もし、人間なら、水を飲みたい、食べ物を食べたいという思いを持ったまま、死ぬことになるので、我鬼霊になってしまいます。いえ、日本は、ガダルカナル島や硫黄島なので、実際に、多くの兵士を、餓死しさせています。なのにゾウ達は、銃殺は駄目というので、そんな死ぬ方しか許して貰えなかったのです。

しかし、それは、飼育係の人達にとっては、本当に辛いことでした。ゾウには、何故、自分達に水やえさが貰えなくなったのか分かりません。泣き叫んだら、水やえさを貰えると思っています。必死で、芸をしたりしたのです。

だけど、えさを貰えることはありませんでした。結局、ゾウのジョンが、829日に、先に死に、その後、はな子は、何故か、アメリカ同時多発テロ事件と同じ911日、トンキーは、923日に、餓死で死にました。弱っているゾウは、一度倒れたら、自分で起き上がることができません。ずっと立ったままだったのですが、耐えられなくなって、倒れてしまったのです。

でも、そのゾウ達は、人間を、最後まで恨みませんでした。何故、突然、えさをくれにくにった事は理解できなくても、その事で、飼育係の人達が悲しみ、仲間のゾウ達が死んだときは、悲しんでいたことは理解していました。そんな中で賢いゾウは、自分達は、死ぬ運命だということは分かりながら、最後まで、必死で生きようとしたのです。

だから、人間とは違って、何の憎しみも、恨みも持たない3匹のゾウは、間違いなく、千の風の御霊になれました。血の繋がりはなくても、3匹のゾウは、動物園では、とても仲良しで、御霊になっても、一つの群れとして暮らしていたのです。いえ、他の動物園で、同じように殺されたゾウ達とも親しくなって、楽しく、空を飛んで、霊界に帰ったり、この世に遊びに来たりしていたのです。


しかし、そんなゾウや、他の動物の御霊の姿を、飼育係の人たちには見えません。いくら、自分達は、恨んでいないよと伝えても、飼育係の人には、聞こえませんし、分かりません。それで、動物園の人達にとっては、愛する動物を、殺したことはずっと一生消えない苦しみになりました。

 自分達が、ずっと愛着を持って育てていた動物を殺す為に、飼育係や、動物医になったわけではありません。一体、何のために、飼育係や、医者になったのだろうと思いながら、ずっと心の中で、懺悔していたのです。今まで、酒を飲めなかった、吉岡亮平さんも、酒が飲めるようになったのです。

そしてその中で、吉岡さん達の飼育係の人達は、自分達の殺した動物達のことを思いながらも、その後も飼育係として、残った動物達の、世話にしながら、長い、戦争が終るのを待っていたのです

 

∞「ゾウのはな子が戻ってきました」∞

そんな上野動物園(上野恩賜動物園)に再び、ゾウが来たのは、戦後すぐでした。そのきっかけを作ったのは、ずっと動物園に来ていた、飼育係の人たちからは、ねずみといわれていた小さな子供、和夫少年でした。その和夫は、吉岡のことを、ゾウにいちゃんと呼んで慕っていましたが、実は、病弱ですが、名前が、「はな子」という妹を大切にしていました。

それで、妹と同じ名前の、ゾウのはな子がお気に入りで、何度も、動物園に来ていました。一度、妹に、ゾウのはな子を見せると約束していたのです。しかし、残念ながら、その妹に、同じ名前の「ゾウのはな子」を見せたいと思いながらも、戦争と、妹の病気のために、それができないうちに、ゾウのはな子は殺されてしまったのです。

それで、戦後、新聞社に、「ぼくのいもうとはぞうをしりません。この10円でぞうをかってください」という投書を、和夫少年は、新聞社に書き、それが新聞に掲載されたことで大きな話題になりました。それで、いろんな人々が動いて、ついに、タイの国から、子ゾウを1匹貰えることになって、日本中の子どもたちの夢がふくらみました。いえ、子供達が、動物園から、ゾウを取り返してくれたのです。

それで、その子ゾウの世話を、上野動物園の園長は、吉岡さんに任せ、吉岡さん自身も、ゾウを餓死させたことで、悩みましたが、他の飼育係からも励まされて、再び、担当する事になりました。

しかも、名前も、お客さんから募集したところ、小象のはな子のことを、覚えていて、「はな子」の名前がダントツでした。日本人は、戦争でなくなったはな子の事を、ずっと忘れていないことが良く分かったのです。それで吉岡さんは、餓死せざるを得なかったはな子の分も、いつまでも続く平和な時代に長生きして欲しい、という願いが込めて、再び、今度はひらがなですが、はな子という名前で、ゾウの飼育をする事にしたのです。

でも、残念ながら和夫少年は、妹に、新しいゾウ、はな子をみせられませんでした。病弱な妹は、ゾウのはな子が、動物園で披露される前になくなってしまいました。和夫少年と、妹のはな子さんは、常に「ゾウのはな子」を見たかったという思いを持って、和夫少年は行き、妹、はな子さんは、千の風の御霊になったのです。

また、そんな吉岡さんに、しばらくしてから、部下の新しい飼育員・高野敬介(北村一輝)が出来ました。吉岡は、この高野に、最初は、ゾウに甘すぎるといわれながらも、本来、群れで暮らすゾウにとって、愛情を注ぐ事の大切さを伝えて、はな子と話しかけながら育てることを教えました。戦後、飼育係も、8時間勤務になっても、飼育係の仕事は、それでは勤まらない。常に、24時間、ゾウと接していて、遠くから、足跡が聞くだけで、分かって貰えるようにならないといけない。

吉岡は、後輩の高野さんに、そんな思いを伝え、人間の都合ではなく、ゾウの視点で考えて育てることを教えました。高野敬介さんも、そんな吉岡さんを尊敬するようになって、二人は、一緒に最大限の愛情ではな子を飼育し、芸を覚えさせて、はな子は一躍上野動物園のスターになったのです。

しかも、吉岡さんにとっては、初代のゾウのはな子は、今も心の中で生きていました。ずっと、千の風になって、吉岡さんや、今のゾウのはな子を、目には見えなくても、見守っている存在になっていました。

このドラマの一番のポイントですが、幼い時、高野さんの母親が亡くなって、いつも泣いていた時、父親に、ずっと母親は、見守っているよと教えて貰った言葉です。それを吉岡さんに伝えて、吉岡さんは、ずっとその事を覚えていました。

だから吉岡さんは、餓死させたはな子の償いの気持ちもあって、新しいはな子に、初代のはな子の分まで、心血を注いで育てました。常に、亡くなった初代はな子や、ジョン、トンキーが、今のゾウのはな子を、あたたかく見守っていると思いながら育て、その思いは、高野敬介さんにも、引き継がれていたのです。

 

∞「親子二代の飼育されたゾウの60歳、還暦のはな子さん」∞

でも、そんなゾウのはな子さんが、再び、お客さんの前に登場する時は、大変でした。再び、外に出た「はな子」を歓迎したのは、殺人ゾウということで、石をゾウに投げる人達だったからでかす。

しかし高野さんは、そんな観客の前でも、ゾウのはな子を守りました。自分の顔に石が当たって、けがもしても、逃げませんでした。そんな高野さんの必死の行動に、石を投げた人も止めてしまったのです。

こうして再び、ゾウのはな子は、人気ものになりました。きっと、初代ゾウのはな子や、ジョン、トンキーだけでなく、他にも、戦争で死なないといけなかった、ゾウや多くの猛獣と呼ばれた動物が、千の風の御霊になって、「はな子」を助けてくれたのだと思います。少なくても、菊には、「はな子」を心配した千の風になった初代「はな子」達が、群れの仲間である、今を必死で生きている「はな子」を助ける為に、高野飼育員を呼び寄せた気がしたのです。

しかも、石を投げられているはな子を庇っている、高野を、母親と遠くから見ている存在がありました。高野の一人息子の小学生の洋介でした。まだ小さい洋介は、自分や母親ではなく、ゾウのはな子にばかりに夢中になっている父親に反発しながらも、気になって、見に来たのです。それで、石を多くの人に投げられている父親の姿にショックを受けていたのです。

しかし、高野自身も、そんな洋介に対して、話し合ったりして、愛情を注ごうとはしませんでした。孤独だった頃のストレスも影響して、歳をとるごとに、歯がなくなったりして、食べ物がなかなか食べられなくなったゾウのはな子の世話に頭が一杯で、妻の話や、子供の話も、聞かない駄目な父親で、ますます、息子の洋介からは反発されて、家にもなかなか帰らなくなっていたのです。

だけど、洋介は、そんな父親に反発しながらも、中学、高校生になると、密かに、動物園に行って、父親の仕事をしている姿を見ていました。家庭には見せない父親が、ゾウのはな子に接する姿、笑い顔を見ていたのです。

でも、洋介は、その事は父親に言わず、高野親子の関係は修復できないまま、高野は動物園を、定年で退職して、後輩の沢木祐二に任せると、西岡に教わったように、はな子に、別れを悟られないように、いつもと同じように接して、姿を消しました。それ以後、二度とはな子の前に姿を見せなかったのです。

こうして、他の飼育係にも、自分も高野さんのような飼育係になりたいと、本当に尊敬されていた、飼育係の鏡だった、高野敬介さんは、動物園を去っていったのです。

しかもそんな高野は、退職以後、癌になっていて、すぐになくなりました。妻や息子にとっては、ゾウに捧げた父親の人生は、一体なんだったのだろうと思う人生でしたが、高野さんも、千の風になって、吉岡さんや、多くの飼育仲間や、動物が住んでいる、平和で、戦争のない天国に帰っていったのです。

でも、そんな高野さんにとって、千の風の御霊、ゾウのはな子達は、すばらしいことを用意してくれていました。それは、息子の洋介さんのことでした。洋介さんは、家族よりも、ゾウに夢中な父親に対して、最低だと反発しながらも、男としては、とてつもなく命を燃やせる仕事を持てる親父は、すごいと思っていたそうです。千の風になったゾウのはな子達は、初代のはな子だけでなく、高野敬介や、子供の洋介も、きっと守っていたのです。

それで高野洋介さんは、父親と同じ、「はな子」を飼育係として、親子二代で世話をする職を選びました。そうすることで、父親の背中を追いかけながらも、今もたった一匹で生きている、60歳になった「ゾウのはな子」を見守っているのです。

そしてそんなゾウはな子の物語は、洋介さんが、20069月に、父親が愛した「ゾウのはな子」という本を出版したことで、再び多くの人が知ることになりました。

最後に、この物語は、二代目のゾウが来ることのきっかけになった手紙を、新聞に投稿した、今は老人ホームで暮らしている和夫さんが、看護している人に連れられて、ゾウのはな子を見ながら、妹のはな子に見せたかったというシーンで、千の風になった妹の御霊と一緒に見るシーンで終りました。本当によかったです。

 

追伸 200787日 花の日

昨日は、菊にとっては、花の日でした。87で、はなです。でも、それだけでなく、縁の花村が、誕生した日でもあります。その記念すべき日でしたが、実は、何も決まった予定がありませんでした。前までは、この時期、ありがとうございます祭りがあったのですが、今は、あるのか、ないのか、情報も入ってきません。

それで、夜、何かおいしいものとビールを買って、目には見えませんが、菊の背景にいる御霊さん達と、大いに祝おうと思いましたが、それを朝見た、千の風になったドラマスペシャル「ゾウのはな子」が変えてくれました。昨日は、菊にも、千の風が吹いたようです。

それで、朝から、久しぶりに、ドラマの内容を書いていました。密かに、記念すべき、縁の花村の創村日に、天は、何をさせてくれるかなと思っていましたが、千の風になった、目に見えない存在のことを書かせて頂く、済度の日でした。菊らしい、すばらしい一日だったと思います。本当に感謝です。

また、最後に、このドラマのテーマ曲 すばらしい「千の風になって」の歌詞を紹介したいと思いますが、日本で、有名になった
新井満さんは、「千の風になって」の著者権の問題で、少し疑惑があるそうです。それでインターネットで探した、米国の本当の原作者のものにしたいと思います。

 

というのも、千の風になっての原作者はなかなか分かりませんでした。それで、米国の原住民、インデアンだという説もありますが、今は、原作者はメアリー・フライ(Mary Frye)というアメリカ人女性だというのが有力だそうです。「千の風になって」は、彼女の生まれて始めての作詩だったそうです。

しかし、その事はなかなか分かりませんでした。インターネットで見つけた資料によれば、「各国で行われる戦争記念日、慰霊祭では、必ずといってよいほどこの詩が登場し、遺族の心を和らげています。しかし、あまりに有名な詩にもかかわらず、原作者については、つい最近まで知られることなく過ぎてきました。この詩人が市井の人を貫いたため、資料が少なかったのがその理由だと思われます。 」と書いています。是非、お読み下さい。すばらしい内容ですし、まさしく済度の歌だと菊自身も、確信しています。

 きっと、天が、亡くなった人達は、死んでいないよ。ちゃんと存在して、縁のある、生きている人達の背景にいて、見守っているのだよと伝えたいのだと思います。

 

千の風になって
オーママミア訳詞(文才無くてすみません m(_ _)m

私の墓標の前で泣かないで
私はそこにいないのだから 私は眠ってなんかいない
私は千の風になって渡ってゆく
私はやわらかく 舞い降りる雪
私は優しく降り注ぐ雨
私は野に実る穂
私は朝の静寂の中に
私は水辺にたなびく灯心草
空を旋回する美しい鳥たちとともに

私は夜空の星の光
私は咲き誇る花たちとともに
私は静かな部屋の中に
私は歌う鳥たちとともに
私は全ての素晴らしいものとともにあるの
だから、私の墓標の前でなかないで
私はそこにいないの 私は死んではいないのだから

 

 
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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

2011年 縁の花のお手紙サイト

http://www.geocities.jp/ennohana/2011ennohana/ennohana1.html