縁の花

     (21世紀に咲く智恵の輪)  

            247

   キクとキクヨの和泉、黄泉済度

∞「キクヨさんと、初和泉の国、黄泉の国済度をしました。」∞

 

 

縁の花 第246号「白山菊理姫神と和泉国(黄泉の国)済度」で、

地元の氏神や、地元の土地にいる、目には、見えない、

御霊や神々に、お祈りすることの大切さを書かせて頂きました。

 

 

皆さんが、目には見えない、神仏の力、

御霊さんの応援を得るには、

皆さんも、絶対に、地元の神々に、

お祈りした方がいいと思います。

 

 

また、キク自身も、やっと、地元の神々とのご縁に、目覚めました

それで、今住んでいる泉大津市助松から、お隣の和泉市などの

歴史や伝説を、インターネットで、調べて、書かせて頂きました。

 

 

キクが、なぜ、泉大津市で生まれ、

今、助松に住んでいて、職場が、何故、和泉市になったのか、

その意味を考え、キクなりに、これから、やりたいこと、

昔、黄泉の国と呼ばれていた、和泉を済度したいという志願をたてました。

キクは、本気で、和泉の神々、御霊に、愛の波動や感謝の波動を

届けたいと思っているのです。

 

 

 

しかし、これは、キク一人では、なかなかできません。

職場の行き返りや、職場では、一人でも実行できますが、

和泉市という広い範囲ではなかなかできません。

どうしても、一緒にやってくれる人、必要だったのです。

 

 

 

そんなキクに、キクのパートナー、キクヨさんが、志願してくれました。

和泉済度、書くだけでなく、実施しようと言ってくれたのです。

それで、二人で、相談して、11月23日、金曜日に、始めることになりました。

11月23日、勤労感謝の日なら、祭日なので、キクヨさんは、お休みです。

なかなか、土、日や、祭日に、休めないキクも、金曜日なら、休めます。

 

 

 

しかも、23日は、月が違っても、キクの誕生日です。

この日なら、縁起が、いいのではないと、キクヨちゃんが、

言ってくれたのです。

 

 

その上に、前日、大阪市から、キクヨちゃんは、キク邸に泊まってくれました。

それは、11月22日という数字の言霊にありました。

1122で、実は、いいふうふの日、

キクヨさんは、そう教えてくれたのです。

 

 

だから、キクヨちゃんは、・・・・・・・

 

 

∞「11月22日は、いい、夫婦の日です。」∞

 

 

だから、パートナーのキクヨさんは、

11月22日、いいふうふの日には

キクのすばらしい奥さん、妻になってくれました。

キク邸に泊まってくれると、

菊に、とても気持ちのいい事をしてくれたのです。

 

 

また、キクも、そんな、キクヨさんのために、

精一杯、夫役、ご主人役をしました。

22日は、仕事が終ると、

梅田まで駆けつけて、待ち合わせた、キクヨさんに、

阪急グランドビルの32番街で、

山ぼうしの花咲いたというレストランで、

おいしい韓国料理をご馳走したのです。

 

 

 

というのも、この世に生まれたことで、

何が一番、幸せかと言うと、

それは、何でもやり直せることだと

キクヨさんは、そう教えてくれました。

 

 

何故なら、御霊さんになって、しまったら、

お亡くなりになって、肉体と分離して、

霊体になってしまったら、

もう、この世では、何かも、やり直すことはできません。

この世で、生きている人には、程の事がないかぎり、

御霊になった人の姿や、声は聞こえないのです。

 

 

だから、御霊さんが、愛する家族や、愛する人がいても、

その人が、何かをしてあげたいと思っても、

何もしてあげることができないのです。

 

しかも、御霊さんの中には、愛する人との関係が、

うまくいかなかった人や、喧嘩したままで、

なくなってしまった人達も、多くいます。

無数に、たくさんいて、その事に対しての後悔の為に、

あの世に帰ろうとせず、この世にさ迷っていたのです。

 

 

ですから、キクヨさんは、11月22日、

いい夫婦の日は、和泉国、黄泉の国済度として、

愛する夫や妻と、いい夫婦になりたかったという御霊さん、

仲良くしたかったという、御霊さんの代わりに、

御霊さんを、意識して、

二人で、仲良くしようと、キクに提案してくれました。

 

 

キクのパートナーのキクヨさんは、

その日と、次の23日は、

キクのいい妻になってくれたのです。

 

 

また、そうしたら、愛する夫や妻と、うまくいかなくて

仲良くしたかったという御霊さんや、

ものすごく仲がよくても、もっともっと、

仲良くしたかったという御霊さんが、

 

とても喜んでくれて、

二人の関係を、応援してくれるよ。

ますます、二人が、幸せになれるように、

協力してくれるよ。

キクヨさんは、そう言いました。

それで、いい夫婦の済度することになったのです。

 

 

そして、その為に、

具体的な方法として、・・・・・・

 

 

 

キクとキクヨさんは、バーチャルの世界で、

とてもいい夫婦になりました。

いい夫婦になりたかったという御霊さんを

常に意識して、一緒に、一緒に、

お互いに、いい夫婦になろうとしたのです。

 

 

そうすれば、そのキクとキクヨさんの思いは、

和泉の国、泉州にいる、多くの御霊さん達に通じます。

黄泉の国、死者の国にいる御霊さんに通じます。

波動の世界なので、一瞬に通じるのです。

 

 

 

だから、山ぼうしの花咲いたという店を出た後、

キク邸で、泊まった時も、

キクヨさんは、キクに優しかったです。

いい妻、愛する奥さんになってくれたのです。

 

 

しかも、夜も、二人で、御霊さんを意識して、

お風呂に入ったり、睦あったりしました。

何故なら、御霊さんになったら、

この世の人達とは、波動があわないので、触感が違います。

いくら、愛する人を、抱きしめたり、ふれあったりしたいと思っても、

素通りで、抱きしめることも、ふれあうこともできません。

 

 

だから、キクとキクヨさんは、

いい夫婦になりたかった御霊さんの為にも、

心を込めて愛し合いました。

それで、すばらしい愛の波動、

セックスのすばらしい感覚を、御霊さんに届けたのです。

 

それで、一つの形、いい夫婦の形を、実践することで、

思いだけでなく、愛の波動を届けたのです。

 

 

 

是非、皆さんも、愛する夫や妻がいたら、

愛する恋人や、パートナーさんがいたら、

時には、仲良くしたかった、愛し合いたかった、という御霊さんを、

意識して、合体、睦あってください。

きっと、今、夫婦の関係が、良くなくても、

セックスレスの関係でも、

仲良くしたいという御霊さん達が、応援してくれますよ。

その具体的な方法です。

 

 

∞「和泉済度 いざなぎ・いざなみ」∞

 

11月23日、キクとキクヨさんは、早朝早起きして、

ありがとうございます瞑想して、

いよいよ、九時半頃から、和泉済度、黄泉の国、済度始めました。

その記念すべき、第1回目を始めたのです。

 

 

また、その心構えとして、キクとキクヨさんは、

神話の世界に、バーチャルの世界に、入りました。

 

 

すなわち、日本の神話にある、「天の浮橋」から、

地球や、日本の国を建国し、

日本人を生んだ、いざなぎ、いざなみになりました。

 

 

神々にお願いして、11月23日、勤労感謝の日、

昔の新嘗祭の日、

2月17日の「祈年祭」でその年の五穀豊穣を祈り、

これが通じたことを感謝し、収穫した新穀を天神地祗にすすめるとともに、

親しくこれを神様と一緒に食するお祭りであり、

宮中でも天皇様が自ら御祭りをされる日に、

いざなぎ、いざなみ役で、和泉、黄泉の国を

済度することのお許しを求めたのです。

 

 

何故なら、黄泉の国、死者の国の話は、

神話の中に出てきます。

亡くなった、いざなみは、死者の国にいて、

妻がなくなったことを、嘆いたいざなぎが、

黄泉の国に行って、会いに行きましたが、

いざなみの姿は、変貌していて、

びっくりしたいざなぎが、逃げかって、

それに怒った、いざなみが、追いかけたという話です。

 

 

なので、キクとキクヨさんは、

二人の男女として、

いざなぎ、いざなみを意識して、

和泉の国、黄泉の国、済度したのです。

 

 

しかし、それだけでなく、・・・・・

 

 

 

∞「和泉済度 菊理姫と愛の済度」∞

 

しかし、それだけでなく、キクとキクヨさんは、

夫婦として、パートナーとして、恋人して、

男と女として、仲良く、済度させていただきました。

 

 

しかも、その日は、キクヨさんは、

和泉国の姫になりました。

キクは、その和泉国を案内する、

ガイド役、エスコートさせて頂いたのです。

 

 

その上で、キクとキクヨ姫さんは、和泉の国にいる神々や、

御霊さん達に、愛の波動や、

感謝の波動を送ることを意識しました。

 

 

手を握りながら、

時には、ハグしたりしながら、

エスコートしながら、

仲良く歩きながら、

和泉の国を、車で走ったのです。

 

 

また、そんなキクとキクヨさんは、

一人の神様を、特に意識しました。

それは、菊理姫という神様でした。

 

 

何故なら、日本神話に、一度だけ、

菊理姫は、登場します。

それは、死者の国の話の時です。

黄泉の国、死者の国から、

逃げようとしたいざなぎに対して、

怒ったいざなみが、大声でののしりあい、

日本で初めての夫婦けんかになったのですが、

そんな時に、白山菊理姫が、現れて、

二人の仲をとりもたれたといわれています。

 

 

この菊理姫は、くくりひめと呼びますが、

縁結びの神様として知られています。

しかも、『「くくり」は辞書で調べると…
くくり【括り】
1 ひもなどでくくること。 

2 最後のまとめ。しめくくり。結末。 

3 袋の口をしばること。

また、しばるひも。というような意味がある。』とあります。

 

 

この事で、分かるように、

最後の締めをする神様なのです。

その上に、キクヨさんの考えでは。

菊理姫さんは、この世に生きていたいざなぎと

死者の国にいった、いざなみさんの、関係を修復したように、

死者と、この世に生きている人達の、言葉を通訳するお役があるみたいです。

 

 

キクヨさんは、そう教えてくれ、

キクとキクヨさんは、菊理姫神を、強く信じていました。

和泉済度、黄泉済度では、

そんな菊理姫神に強くお願いしていたのです。

 

 

だから、そんな菊理姫神が祭られている、

白山神社、白山菊理姫神は、キクとキクヨさんにとっては、

大いなる憧れでした。

しかも、菊理姫神は、全国2717社を数える白山信仰の神というのですから、

その力は、日本全国に及んでいます。

 

 

ですから、キクとキクヨさんは、和泉済度、黄泉済度、

菊理姫神に、お願いして、そのご加護でさせて頂きました。

参加メンバーは、キクとキクヨさんの、

男女二人だけでしたが、

かえって、その方がいい、

一杯、一杯、男女の愛、感謝の波動を、

和泉の神々や、多くの御霊さん達に送れるね

という喜びで、させて頂け頂けたのです。

 

 

∞「助松済度」∞

 

キクとキクヨさんが、

和泉済度、黄泉済度として、

最初に行ったのは、

助松神社でした。

ここからスタートしたのです。

 

 

何故なら、助松神社は、

菊が、住んでいる地元の氏神様になります。

だから、まず、最初に、行かないといけないところでした。

 

 

また、その助松神社ですが、

インターネットで調べると、8世紀中ごろの弥徳天皇の時代に

創建されたものといわれ、13世紀前半には菅原道真公が合祀されています。

 

本殿は、二間社流造で柱と柱の間の数が必ず偶数になるように造られており、

また、身舎柱に面取りをした角柱を使うなど、他に例のない珍しいものです。

境内には、1600年代後半の鳥居や手洗鉢、百度石などが残っています。

 

 

しかし、まだまだ資料が少なくて、

キク自身も、よく分かっていません。

ただ、地元の祭り、だんじり祭りでは、宮入りとして、

いろんな町の、だんじりが、助松神社に入ることになります。

地元にとっては、欠かけない神社になるのです。

 

 

それに、神鶏というか、天然記念物の見事の神鶏、

東天紅が、放し飼いで飼われています。

その神鶏は、見事なのです。

 

 

だけど、そんな事よりも、キクとキクヨさんにとっては、

助松神社は、氏神様になります。

だから、キクは、南海本線の助松駅を使う時の行き帰りや、

ちかくに来た時は、必ずお参りしているようにしていますし、

キクヨさんも、キク邸に、来る時には、お参りしてくれています。

キクやキクヨさんにとっては、どんな神様よりも、

一番、大切な神様になるのです。

 

 

何故なら、氏神様は、自分が住んでいるところを

守ってくれている神社の神様です。

この神様を、ないがしらにして、

他の神様に、向いても、

幸せになるわけがないのです。

 

 

なので、キクとキクヨさんは、

和泉済度を、始めますという、ご挨拶をしたのですが、

ここで、少しだけ、驚くことがありました。

それは、11月23日、七五三ということで、

その日は、神社は、大忙しくになっていたことでした。

大賑わいだったのです。

 

 

また、キクとキクヨさんは、助松神社の神様だけでなく、

神社の中で、祭られている、八幡さんや、稲荷神社、金比羅さんも祭られていましたし、

大きな、大きな、磐の慰霊碑もありました。

それで、キクとキクヨさんは、それらを、全部、一つ、一つ、お参りしました。

 

でも、その中でも、八幡神社は、武田八幡神社でも分かるように、

キクの前世、武田勝頼としては、大切な神社になるので、

キクとキクヨさんは、念入りにお参りしました。

武田家の御霊さんに、今から行う、和泉済度、黄泉済度の、

ご成功をお祈りしたのです。
       

 

 

それと、大きな磐のある、慰霊碑に対しても、

以前、縁の花、第246号「白山菊理姫と和泉国済度」書いたことで、

泉州に住むというヒロさんから、いろんな情報頂いていて、

 

和泉の国は、昔、ちぬの国と呼ばれていたことや、

ちぬの国は大化の改新後に河内の国に併合されることとなり立腹したちぬの県主は

和歌山の紀氏らと共に大和朝廷と対立し、その後服従しますが

700年頃ちぬの国は改名させられ河内の国泉郡となり、

57年正式に和泉の国となったことを教わっていて、

それを、キクヨさんに話したら、とても喜んでくれていました。

 

 

しかも、ちぬの県主の碑は、

今、助松神社にある慰霊碑だということを伝えたら、

キクヨさんは、そんな反乱した後、供養されているちぬの県主や、

ちぬの人達のことを心から、お祈りしてくれました。

こうして、助松済度は、無事に終ったのです。

 

 

そして、キクヨさんは、キクの為に、カメラマンとしての

お役もしてくれて、デジカメで、

いろいろ撮ってくれています。

それを皆さんに、公開させて頂きますね。

見て下さい。



      

 

   

 

∞「曽根神社と池上曽根遺跡済度」∞

 

助松済度の次は、キクとキクヨさんは、

キクが、毎日、通勤の行き帰りに、

自転車で必ず、お参りさせて頂く、

曽根神社と、隣にある、池上曽根遺跡公園に行きました。

 

 

何故なら、曽根神社は、キクの両親の氏神になります。

なので、大人になる前で、キクの氏神様になりますし、

お隣のある、池上曽根遺跡は、非常に大きな遺跡で、

弥生時代、五百年ぐらいの間、

この地に、住んでいたことは、分かっています。

 

しかも、その池上曽根遺跡は、和泉の国、泉州地域でも、

一番、大きな遺跡で、

和泉の国を代表する地だという事も

分かっているのです。

 

だから、そんな曽根神社の氏神さんや、弥生時代の御霊さんに、

済度することは、和泉済度、黄泉済度として、

絶対に外せない場所で、

キクとキクヨさんは、二番目に選んだのです。

 

 

また、ここで、キクにとっては、とても嬉しいことがありました。

それは、どうしても、欲しかった、

曽根神社のお守りが買えたことなのです。

 

 

何故なら、普段の曽根神社には、神社の人達がいないので、

キクは、買いたくても、買えなかったのですが、

この日は、七五三ということで、

神社の人達が、受付にいました。

キクは、やっと、買うことができたのです。

 

 

また、その後、キクは、キクヨさんと、曽根神社と

曽根神社に中にある、白山神社をお参りすることができました。

 

特に、白山神社は、白山菊理姫が奉られている神社ですが、

曽根神社で、以前お会いした、謎のおじさんに教わった話では、

この白山神社は、お金さんの御利益も大いにあるそうです

それで、その事を、キクヨちゃんに伝えたら、

キクヨちゃんも、大喜びで、お参りしたのです。

 

 

しかも、その神社で、キクは、御神木に、抱きついたり、

謎のおじさんが、魂を入れたという牛の像の頭を

なぜなぜしたりしている写真も、

撮って頂いています。

是非、皆さんも、見て下さいね。

    

  

 

 

∞「池上曽根遺跡済度」∞

 

キクとキクヨさんは、曽根神社を二人で、

お参りした後、お隣にある池上曽根遺跡公園に行きました。

この遺跡は、今から二千年前に、住んでいた弥生人の人達が残してくれた遺跡で、

和泉市の大きな観光地の一つとしてあげられています。

結構、多くの人に知られているのです。

 

 

また、池上曽根遺跡公園の目玉は、何といっても、

1999年に建てられた大型堀立柱建物で、

「いずみの高殿」と呼ばれているものと、

「やよいの大井戸」と呼ばれている井戸です。

 

 

 

特に、いずみの高殿は、床面積133u、床高4メートル、

全高11メートル、屋根面積、400uの巨大建物で、

やよいの大井戸も、直径2メートル、深さ、2メートルの井戸です。

こんな大きな建物と井戸が、二千年前に、実際に建てられていたこと自体、

驚きですが、それを見事に復元されているのです。

 

 

だから、キクとキクヨさんは、思いを、二千前に向けて、

あの当時、この地で生きていた、弥生時代の和泉のご先祖様を意識して

一緒に、広い公園の中を歩いたり、いずみ高殿の中を入ったりしたのです。

 

 

その上に、キク自身も、知りませんでしたが、

池上曽根遺跡公園には、

立柱、男女のシルエットというものが、南北に二基立てられていました。

古代に立てられていたものを、復元しているのです。

 

 

しかも、この池上曽根遺跡にある立柱は、資料によると、

正中線上に並び、冬至の日には、南の柱から、北の柱に向かい

寄り添うように影が伸びます。

また、夏至には、池上曽根の神奈備山である信太山からさす朝日によって、

北の柱の影から刳り抜き井戸に落ちるのです。

 

 

その上に、この井戸は、女性の象徴とするのは、世界共通で、

夏至の日の出の光景は、まさしく女性の貫く、男性の姿を、想起させます。

これらのことから、北の柱は、男性を示し、南は、女性を示す柱と考えました。

すなわち、池上曽根遺跡の巨大建物は、王と妃のまぐわいにより、

活力や再生を願う、まさに、聖なる営みを体現する場所でした。

資料には、そう書かれていたのです。

 

 

 

だから、キクとキクヨさんは、古代に思いを寄せて、

その立木に対して、心からお祈りすると、

その当時、弥生時代の人達が信じていた、祖霊信仰、

男女の営みを神聖化していた弥生人の人達に、

男女の波動が、届くように、

手を握りながら歩きましたし、

いずみ高殿の中に入ったときは、誰もいなかったので、

池上曽根の王と妃を意識して、ハグもしました。

いえ、それ以上の・・・・・

・・・・もして、池上曽根遺跡済度を終えたのです。

 

∞「池上曽根弥生情報館、学習館と

大阪府立弥生文化博物館」∞

 

池上曽根遺跡公園には、

小さなお店と、池上曽根弥生情報館があります。

 

 

キクとキクヨさんは、そのお店に入ると、

池上曽根遺跡のお土産を買いました。

正直言えば、お店は、食事もできるのですが、

そんなに大きなお店ではありません。

池上曽根遺跡としてのお土産も、あまりありません。

けれど、何個かはあります。

キクヨさんは、喜んで、買ったのです。

 

 

また、その後、キクとキクヨさんは、

池上曽根遺跡公園の中にある、

池上曽根弥生情報館に入りました。

けれど、正直言って、

ここは、そんなに見るものがないのですが、

とても、ラッキーのこと、ツイテいることがありました。

 

 

それは、池上曽根弥生情報館にいる人に、

池上曽根弥生学習館の場所を聞いたのと、学習館の後、

大阪府立弥生文化博物館に行くと言ったら、

大阪府立弥生文化博物館の無料のチケットを、

二人分頂けたことです。

これには、キクも、キクヨさんも、

ツイテいると大喜びだったのです。

 

 

また、その後、キクとキクヨさんは、

池上曽根弥生学習館に行きましたが、

恥ずかしながら、キクは、本当にちかくにあるのに

一度も行きませんでした。

無料に行けるところなので、

あまり、おもしろいところではないと

勝手に思っていたのです。

 

 

 

しかし、初めて行ってみたら、池上曽根学習館は、

結構面白いところでした。

まず、展示ホールでは、池上曽根遺跡の発掘調査で出土した

弥生時代中頃大型掘立柱建物の柱と大型のくり抜き井戸の実物を用いて

19957月のある日の発掘調査風景」を再現しています。
また、展示ホールの壁には、大型掘立柱建物と

井戸周辺から出土した代表的な遺物を展示しています。

それは、なかなか見事なもので、

キクとキクヨさんは、びっくりしてしまったのです。

 

 

しかも、もう一つの学習館では、

まが玉・ブレスレット・コースター・土器・土笛(陶芸用粘土)

などを造る体験を常時できますし、

ガイダンスルームでは、池上曽根遺跡の出土遺物とともに、

「触れる」「装う」「聞く」ことのできる

「展示壁〜池上曽根ものがたり」も常設展示しています。

 

特に、いろんなたんすを開けたら、

池上曽根遺跡の遺物や、情報が得られ、

キクとキクヨさんは、結構楽しんだのです。

 

 

その上、学習館では、弥生時代の服があって、

無料で、着ることができます。

キクとキクヨさんは、そんな弥生時代の服を着て、

一瞬、弥生人になって、それを楽しみました。

キクヨちゃんも、そんなキクをデジカメで撮ってくれたのです。

 

 

そしてその後、キクとキクヨちゃんは、

大阪府立弥生文化博物館に行きましたが、

ここで、驚いたのは、

日向、薩摩、大隈の現像ということで、

展示物と言うことで、南九州の弥生文化の遺跡だけでなく、

来年の大河ドラマの主人公、篤姫のことが、

大きく取り上げられていたことです。

 

 

これには、キクも、キクヨさんも、

不思議な気持ちがしました。

どうして、大阪府立弥生文化博物館に、

篤姫のご縁があるのか、不思議でならなかったのです。

 

 

 

でも、大河ドラマ、風林火山で、

武田家一年日記を書いているキクとしては、

その意味はあります。

 

 

後、1ヶ月間で、風林火山のドラマは終りますが、

その後、キクは、篤姫に関しては、

何も書く予定はありませんし、するつもりもありませんが、

ここで、篤姫とのご縁ができた事は、

何か意味のある気がしました。

キクヨちゃんは、そんなキクに、

きっと、武田家一年日記を書いてくれて、

本当にありがとうございますと、

天が言ってくれているねといいましたが、

そうかもしれないと思いました。

 

そんな中で、キクとキクヨさんは、

大阪府立弥生博物館で、二千年前に生きていた

和泉の弥生の人達に、思いを向けました。

弥生時代の、和泉のご先祖様に、

心からありがとうございますの感謝の波動を送ることで、

済度させて頂いたのです。

 


 

 ∞「葛葉稲荷神社 安倍晴明」∞

 

キクとキクヨさんは、池上曽根遺跡にいる弥生時代の御霊さんと、

お別れした後、今度は、未知の世界に入りました。

 

今まで、菊自身、行った事がないところ、北信太の神社

葛葉稲荷神社に、車で行ったのです。

 

 

でも、ここは、菊自身、とてもお恥ずかしいことですが、

キクの住んでいるところからは、自転車で、15分の距離もありません。

菊自身、何回か、ちかくに行った事があるのです。

 

 

しかし、キク自身、そこに神社があることさえ、知りませんでした。

もっと前に、地元の歴史に関心を持っていたら、すぐに、ご縁のある場所なのに、

キクは、キクヨさんと、和泉済度を行う前まで、行くことができなかったのです。

 

 

また、そんな葛葉稲荷神社ですが、中に入って、

キクは、驚いてしまいました。

葛葉稲荷神社、そこは、安倍晴明さんの神社でしたし、

キクが、毎朝、通っている信太山のある信太は、

平安時代、清少納言が、「もりは信太の森」(枕草子)

とたたえ、多くの歌人が、和歌に詠んだ、

信太山丘陵の北部を中心に広がっている、

緑の豊かな森として、歴史でも、知られている場所だったのです。

 

 

けれど、キク自身、地元の和泉に、

そんな歴史に誇る場所があるなんて、

まったく知りませんでした。

特に、陰陽師と有名な、安倍晴明さんとの

ご縁があるとは、知らなかったのです。

 

 

だから、これには、キク自身本当に反省しました。

きっと、皆さんも、自分の地元の歴史を勉強したら、

驚くような感動があると思うのです。

 

 

そして、そんな中で、キクヨさんは、大喜びでした。

キクヨさんは、映画、安倍晴明で、主演をしていた

野村萬斎さんの一時、ファンだったからです。

それで、すごいと、すごいと大喜びだったので。

 

 

では、そんな安倍晴明と信太が、どう結びつくかということですが、

それは、葛の葉物語といわれているものにあります。

 

 

というのも、頂いた、和泉市のパンフレットには、

昔、摂津の国に、安倍保名という若者がおりました。

ある日のこと、信太大明神に参詣し、池のほとりで、沐浴をしていますと、

狩人に追われ、傷ついた白狐が、逃げてきました。

保名は、狐をかくまい逃がしてやりました。

追ってきた狩人たちは、保名を責め、深い傷を負わせました。

 

 

傷で苦しむ保名のもとへ、葛の葉となのる

若い女がたずね介抱しました。

その女は、白狐の化身で、

やがて、二人は、ともに暮らす仲となり、男の子が生まれ、

名を童子丸とつけて、幸せな日々がすぎていきました。

 

 

この童子こそ、やがて、陰陽道の祖、天文博士に任じられた

安倍晴明と語られているのです。

 

 

何と、キクの地元、和泉の信太は、

安倍晴明の母親、白狐さんが住んでいたところで、

童子の安倍晴明が、暮らしていたところだったのです。

 

 

しかも、何と、そこに、キクが絡んでいます。

資料によれば、・・・・

 

 

資料によれば、

六年前のある秋の日、葛の葉は、庭に咲く美しい菊に

こころをうばわれ、うっかり正体のしっぽをだし、

童子丸に見つけられました。

葛の葉は、狐とわかれば、もはやこれまでと、

 

恋しくばたずねきてみよ和泉なる

     信太の森のうらみ葛の葉

の一首を障子にのこして信太の森に帰って行きました・・・・

とあるからです。

 

 

この後も、葛の葉物語は、まだ続きますが、

菊の花、キクが、絡んでいるのです。

 

 

だから、キクにしろ、キクヨさんにしろ、

不思議な気持ちになりました。

 

 

何故なら、安倍晴明とは、陰陽師として、

日本でも、有数の御霊さん達と、関わった人です。

御霊さんの姿や、声が聞こえ、

多くの御霊さんを、供養させた人なのです。

 

 

それが、和泉済度として、

見事に、キクやキクヨさんと結びついたのです。

これは、きっと、偶然ではないと思います。

 

ですから、キクとキクヨさんは、葛葉稲荷神社では、

信太にいる多くの御霊さんを思って、済度しました。

信太にいる御霊さんが、成仏して、

あの世に帰ることを願ったのです。

 

 

是非、皆さんも、キクやキクヨさんと、和泉済度として、

葛葉稲荷神社に行きませんか。

待っています。


 

 

∞「和泉式部と和泉国」∞

 

葛葉稲荷神社が、陰陽師の安倍晴明とご縁のある神社だということを

前号のメルマガでご紹介しました。

 

小さい頃の安倍晴明と母親、白狐だった、葛の葉と父親である安倍保名が、

和泉の信太に住んでいたというのです。

 

 

しかも、そこに、キク、菊の花がかかわっていたのです。

安倍晴明好きだった、キクヨちゃんは、大喜びだったのです。

 

 

でも、もう一つ、キクヨちゃんを感動させたことがありました。

それは、「秋風は すこし吹くとも 葛の葉の うらみがおには 見らしとぞ思ふ」」

  新古今集 和泉式部

という歌碑があったことです。

 

 

それで、キクヨちゃんは、何でと大喜びだったのです。

というのも、キクヨちゃんは、和泉式部の生き方に、

前から憧れていたからです。

 

 

そんな和泉式部を、インターネットで、調べたら、

和泉式部(いずみしきぶ、生没年不詳)は

平安時代中期の歌人天元元年頃(978?)出生とするのが通説。

中古三十六歌仙の一人。

越前守の大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、

夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。

道貞との婚姻は後に破綻したが、

彼との間に儲けた娘小式部内侍は母譲りの歌才を示した。

 

 

はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれた太皇太后宮昌子内親王付きの女房だったらしい。

まだ道貞の妻だった頃、冷泉天皇の第三皇子為尊親王9771002

との熱愛が世に喧伝され、身分違いの恋だったとて親から勘当を受けた。

 

 

為尊親王の死後、今度はその同母弟敦道親王9811007)の求愛を受けた。

親王は式部を邸に迎えようとし、正妃が家出する因を作った。・・・・・・

 

恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。

真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、

殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。

その才能は同時代の大歌人藤原公任にも賞賛され、

正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。

とあります。

 

 

でも、これだけでは、もう一つ、皆さんに分かり難いと思いますが、

和泉式部は、遊女として、その当時有名だったそうです。

すでに身持ちが悪い女という噂もたっていたといいます。

御伽草子には「浮かれ女」(遊女)ともしるされたそうです。

品行がふしだらというよりも、おそらくは男好きのする女で

あったのだろうという、そんなまことしやかな見方も出回ったと

言うのです。

しかも、それは、まったくのでっち上げでなく、

ある程度真実みたいです。

 

というのは、式部は「御許丸」(おもとまる)とよばれた少女時代から、

たしかに多感な娘であったようで、父の大江雅致が

冷泉天皇皇后の昌子内親王(朱雀天皇皇女)に宮仕えをしたころには、

父に伴い女房として昌子に仕え、すでにいくつかの浮名を流していたからです。

察するにかなりの美人だったのです。

 

 

だから、和泉式部は、恋愛が、比較的に許された平安時代でも、

結構型破りの女性だったのですが、

キクヨさんは、そんな和泉式部の生き方が、ずっと前から、

好きだったというのです。

 

 

そんな他人に批判されながらも、

恋愛をして、それを歌に残した、

和泉式部が、キクヨちゃんの理想な生き方なのです。

 

 

その上に、和泉式部さんは、キクヨさんに言わせたら、

済度の鏡だそうです。

それは、歴史に残るような皇族、親王だけでなく、

歴史の表面には出ないことなので、

まだまだ、知られていない事ですが、多くの男性を救っていたからです。

というのも、和泉式部は、・・・・・・

 

 

 

というのも、和泉式部は、晩年、あの当時の多くの男性と、ご縁があって、

多くの男性を癒してきているのです。

しかも、それは、身分のある人達だけではありません。

下々の男性ともかかわりがあって、

交じり合って、癒している形跡があるのです。

 

 

だから、そんな和泉式部の生き方は、

世間からは、非難されても、衆生済度として考えたら、

別な見方ができます。

和泉式部は、天皇、親王と交じり合った高貴な女性として、

いろんな人と交じり合うことで、

救うという、本当に尊いことをしていたことになるからです。

 

それは、六角堂に篭っていた、親鸞さんの元に、観音様になった聖徳太子が、

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」

「もしあなたが、自分の避けられない気持ちとしてセックスをしたいと思うのなら、

この私が玉の女?となってあなたの相手になりましょう。

そして一生の間あなたによりそい、命終わるとき必ず極楽に導きましょう」

という行為をしていたことになるというのです。

 

 

だから、キクヨさんは、そんな和泉式部を、尊敬していました。

自分には、とてもできないけど、そんな和泉式部の生き方に

憧れていたそうなのです。

 

 

その上に、キクヨさんは、そんな和泉式部は、

世の多くの人達だけでなく、その男性にツイていた多くの御霊さんも、

済度していたのではないか、

そんな確信のようなものがありました。

きっと、自分の前世、和泉式部の御霊の一部、

和泉式部の一つの細胞の魂が、今の自分の中にある、

そんなことさえ言い出したのです。

 

 

∞「泉井上神社と和泉国府」∞

 

前号で、葛葉稲荷神社で、和泉式部さんに

目覚めたキクヨさんをご紹介しました。

そんなキクヨさんと、キクが行ったのは、

JR和泉府中駅から、歩いてすぐの泉井上神社でした。

 

 

また、この泉井上神社のある和泉市国府は、

和泉国、泉州の国府があったところです。

和泉国の国府があったところなので、

その周辺の町、村が集まって、

和泉市と言われるようになったのです。

 

 

キクとキクヨさんが行った、泉井上神社は、

その国府にある神社でした。

和泉式部は、夫の橘道貞が、和泉守として赴任したことで、

和泉式部と名乗っているので、

泉井上神社の近くに住んでいたことになります。

南に300メートル行ったところに、国碑があるのです。

だからキクヨさんは、そういったことでも、

泉井上神社に行けたこと、大変喜んでくれました。

和泉式部の御霊さんのお導きかと感謝していたのです。

 

 

 

 

しかも、この泉井上神社は、神話の世界に登場する神社で、

和泉と名乗るようになった、ご縁を与えてくれた土地でもあります。

すなわち、神武天皇は御東征を、この地にお祈りになった事や、

神功皇后は、三韓征討の軍を発するにあたって、

泉井上神社に先勝を祈願したところ、一晩のうちに霊水が噴き出して泉になって

清い水がこんこんと湧き出したので瑞祥として喜ばれ、この水を霊泉といい、

宮としておまつりなさったそうです。

それで、「和泉」の国名がつけられたというのです。

 

 

その上に、その霊水は、キクの想像では、

黄泉の国から流れてきているのではないかと思っています。

それで、別名、黄泉の国といわれるようになったと思っているのです。

泉井上神社を通して、黄泉の国と繋がっているのです。

 

だから、キクとキクヨさんが、この泉井上神社で、

お祈りできたことは大きかったです。

特に、和泉清水が出るといわれていた井戸では、

キクとキクヨさんは、黄泉の国に向かって、

感謝のお祈りをしたのです。

 

 

 

その上に、泉井上神社には、井上神社の境内に、和泉五社総社があります。

この和泉五社総社とは、和泉国の大鳥、穴師、聖、積川、日根の五大社を

国府の地に勧請し、国司の巡拝の便ならしめた総社です。

和泉国を代表する神々を、この和泉五社総社で奉っていて、

本殿は国の重要文化財になっているのです。

 

 

ですから、残念ながら、和泉五社総社の中には入れませんが、

和泉五社総社に向かって、お祈りすれば、

その波動、感謝、愛、慈悲などの済度の波動は、

和泉の国一の宮御お鳳神社    大阪府堺市鳳北町   

和泉の国二の宮  泉穴師(いずみあなし)神社  大阪府泉大津市豊中町

和泉の国三の宮  聖(ひじり)神社  大阪府和泉市王子町

和泉の国四の宮  積川(つがわ)神社  大阪府岸和田市積川町

和泉の国五の宮  日根(ひね)神社   大阪府泉佐野市日根野

の五社にも届くことになります。

和泉五社総社を通して、泉州、和泉国、全体に、

キクとキクヨさんは、済度の光を届けることができるのです。

 

 

これには、キク自身も、キクヨさんも、大喜びでした。

泉州全体に行かなくてもいいと考えるだけで、

本当に助かったのです。

 

 

だから、キクヨさんも、ますます気合が入りました。

和泉式部さんが、キクヨさんの背景に来たのか、

和泉式部さんの御霊さんが、キクヨさんにツイたのか、

ものすごく、大胆に、積極的になったのです。

それで。・・・・・・・・・

 

 

 

 

それで、キクヨさんは、突然、キクの手を握って、

泉井上神社では、少し、大胆になりました。

泉井上神社は、七五三で、たくさんの人が一杯でしたが、

そんなことは気にせずに、二人は、

男女の波動、恋の波動を届けたのです。

 

 

しかも、泉井上神社を出て、キクとキクヨさんは、

しばらくまわりを、デートして歩きました。

和泉の国にいる多くの御霊さんを意識して、

ちかくの阿弥陀寺と呼ばれているところまで

デートしました。

そこで、阿弥陀如来によって、

多くの御霊さんが、救われて、成仏されることを

願ったのです。

 

 

 

黒鳥山公園と三慰霊碑

 

泉井上神社の次に、今度、キクとキクヨさんが、

向かったのは、今回の和泉済度のメインになる

黒鳥山公園でした。

 

 

というのも、黒鳥山公園には、キクが、職場の帰りに、

必ず寄っている、忠霊塔があります。

この忠霊塔は、その全体像は、高さ13m、正面幅2m、奥行225

コンクリート花崗岩張りの納骨堂は正面幅950、奥行550

前庭や展望台などの浄域の総面積は2000平方メートル超というもので、

非常に大きい忠霊塔です。

 

何故なら、この忠霊塔には、明治以降の各戦役および

支那事変・大東亜戦争の戦没者のうち、

中部第27部隊関係者および地元出身者も合わせて安置されています。

本当に、多くの英霊がいるので、忠霊塔も大きいのです。

 

 

しかも黒鳥山公園には、天皇駐蹕(ちゅうひつ)碑があります。

この駐蹕とは、天子(てんし)つまり天皇の行幸

(ぎょうこう=天皇が外出すること)中、一時のりものをとどめることの意味で、

要するに、黒鳥山で天皇が休憩したという記録を記した碑です。

これは、結構大きいのです。

 

 

その上に、畜霊碑というものです。

これは、キク自身、まだまだ分かりませんが、

縁の花を見て、情報にくれた人によると、

黒鳥山にはもう一つ太古の昔から信仰されている

牛神様が奉られている霊場があるそうです。

それが、畜霊碑と関係があるのかは分かりませんが、

牛神様はこの辺一帯の守り神だそうです。

 

 

だから、キクは、この三つの碑に対して、仕事の帰りには、

わざわざ、坂を登って、黒鳥山公園に入ると、歩いて、

15分ぐらいかけて三碑にお祈りしていますし、

仕事に行く時にも、遠くから、黒鳥山公園の忠霊塔に、

ご挨拶しています。

もう2年ちかく、キクは、それを続けています。

それだけは、必ずしているのです。

 

 

 

キクヨちゃんは、そんなキクに呆れながらも、

そんなキクを、心から尊敬していました。

正直、キク自身、三つの碑の前で、

どれだけ、英霊や、天皇や、動物の御霊に対して、

真剣に祈っているかは分かりませんが、

少なくても、キクは、お参りするという

行動をしています。

その事は、きっと、御霊さんや、和泉の神々にも、

届いていると、確信してくれていたのです。

 

 

だから、キクヨちゃんは、前から、黒鳥山公園に、

キクと一緒に、黒鳥山公園の慰霊碑に行きたいと願っていました。

キクヨちゃんは、前に、一人で、こっそり、菊に内緒で、

黒鳥山公園に、行ったことがあって、

それが、結構、大変だという事も分かってくれていたのです。

 

 

それで、キクヨちゃんは、黒鳥山公園の慰霊碑に、

是非、キクとお参りしたかったので、

和泉済度を、キクと一緒にしたいと言ってくれていましたし、

キク自身も、慰霊碑には、和泉済度が、決まった時から、

キクヨちゃんが、来てくれることを、ずっと報告していました。

 

 

1123日、愛するキクヨちゃんが、着てくれますよ。

一緒に済度してくれますよ。

いざなぎ、いざなみとして、来てくれますよ。

男女の愛の波動も、届けてくれますよ。

そんな事を、ずっと、慰霊碑に向かって報告して、

感謝の波動を届けていたのです。

 

ですから、二人は、黒鳥山公園の三つの慰霊碑に対して、

心からお祈りしました。

しかも、その黒鳥山公園では、本当に驚くようなことがありました。

それは、ただの偶然とは、とても思えないことでした。

済度をしているものにとっては、本当にすごいことがあったのです。

それは・・・・・・

 

 

∞「黒鳥山公園済度」∞

 

キクとキクヨさんが、黒鳥山公園に行った時、

黒鳥山公園では、ちょっとしたお祭りになっていました。

JA主催で、ふれ愛祭りというものをして、

和泉市の企業や農家が、地元の商品や、農産物を販売して、

地元をアピールしていたのです。

 

 

しかし、そのふれ愛祭りで、キクとキクヨさんが、

驚くようなことがありました。

それは、キクとキクヨさんが、JAふれ愛祭りに来たときに、

一人の地元の歌手が、歌っていた時でした。

キクとキクヨさんが、ちょうど来た時に、

一人の人が、歌を歌っていたのです。

そんな催しがたまたまあったのです。

 

 

でも、キクとキクヨさんにとっては、

そんなに関心はありませんでした。

少し聞いて、すぐに、多くの御霊が、待ってくれている、

忠霊塔に行こうとしたのです。

 

 

 

だけど、その歌手の人が、次は、ラストの曲ですという事で、

キクとキクヨさんの足は止まりました。

これは、何かあると思って、椅子に座ると、

御霊さん達と一緒に聞いたのです。

 

 

けれど、キク自身、その歌手さんを、まったく知りませんでしたし、

その歌も知らない歌なので、よく分かりませんでした。

でも、プログラムを書いたものに、その歌手さんの名前が、

立花○○○と書いているので、驚いてしまいました。

それは、済度にかかわる名前だったのです。

 

 

だから、キクとキクヨさんは、その時に確信しました。

この和泉済度は、天が見てくれていると、

強く自信が生まれました。

天が、この和泉済度を喜んでくれているという

感謝が生まれました。

多くの和泉の神々が喜び、

多くの御霊が、キクとキクヨさんを、

祝福してくれているという愛を感じたのです。

 

 

ですから、二人は、その後、

手を握りながら、

御霊さんを、意識しながら、

お参りしました。

 

キクとキクヨさんは、

時には、いざなぎ、いざなみとして、

時には、天皇家の親王と、和泉式部として、

時には、池上曽根遺跡の王と王妃として

時には、安倍晴明と、母の葛の花姫として、

そして何よりも、愛する、夫婦、恋人として、

一人の男女として、三つの慰霊塔にお参りしたのです。

 

 

しかも、キクとキクヨさんは、

忠霊塔では、

日清、日露戦争や、日中戦争、大東亜戦争でなくなった英霊と

残された妻や、恋人、母を思って済度しました。

戦争の悲惨さで、犠牲になった、和泉市や、泉州の人達、

会いたくても、戦争でなくなった、男女の御霊さんのことを思って、

感謝と愛の波動を、お参りする事で届け、

ハグしたのです。

 

 

でも、それだけではなく、

天皇駐蹕碑では、キクとキクヨさんは、

歴代の天皇と天皇妃として、

天皇に仕えた、多くの皇族の家臣や、

側室の女性を代表として、

天皇と共に、日本の国を守ってきた、

多くの日本の先代の御霊を意識して

天皇駐蹕碑をお参りしました。

皇室の済度をしたのです。

 

 

そしてキクとキクヨさんは、畜霊碑では、

多くの動物や植物さんを意識しました。

人間に食べられた動物さんや植物さんに、

皆さんの、尊い犠牲によって、

生かされていることに感謝し、

少しでも、早く、成仏して、

霊界に帰って、

今度生まれるときには、少しでも、

よりいいものに、

万物の霊長の存在にちかづけられる

存在に生まれるように、

魂が、成長できるように祈りました。

 

 

 

そうする事で、

キクとキクヨさんは、

人間に、感謝もされずに、

亡くなった多くの動物や植物さんの御霊を

供養させて頂いたのです。

 

 

 

こうして、キクとキクヨさんの、

黒鳥山公園の済度は、終りました。

キクヨさんは、小高い山になっている黒鳥山公園から見える

和泉市の風景を見ながら、

キクちゃんは、ここで、和泉済度をしているのね

それは、本当は、すごいことなのね

としみじみ言うと、

キクちゃんが、綺麗だという、夜の夜景を、

二人で見たかったわねと言うと、

キクと抱きしめてくれたのです。

  


和泉市久保惣記念美術館と伊勢物語

 

黒鳥山済度が終った後、キクが、キクヨさんを、

最後にお連れしたのは、和泉市の唯一の美術館、

和泉市久保惣記念美術館でした。

 

 

この和泉市久保惣記念美術館は、和泉市の資料によれば、

綿織物業で功績を挙げた久保惣太郎氏が三代にわたって

蒐集した美術品を市に寄贈し、それをもとに昭和57年に開館したものです。

国宝2点、重要文化財28点を含む日本と中国の古美術を中心とした

コレクションは現在約3500点を超えます。

 

 

落ち着いた佇まいの和風建築で、くつろいだ雰囲気の中で

美術品の鑑賞ができるように配慮されています。

広大な日本庭園や表千家不審庵、残月亭を模した茶室も見事なものです。

平成9(1997)には新館が設立され

中国工芸や西洋絵画などの常設展示が行われています。

なかなか、見事な美術館なのです。

 

 

しかし、キク自身は、今まで、一度も、

和泉市久保惣記念美術館に行ったことがありませんでした。

ただ、職場の帰りに、道路に、和泉市久保惣記念美術館の標識があって、

興味があって、和泉市久保惣記念美術館を外から見たことがありました。

その時に、美術館が、すばらしい建物だったので、

一度は、キクヨさんと行ってみたいと思っていたのです。

 

 

でも、キクが、今回、キクヨさんを、車で、お連れしたのは、

キクに付き合って、和泉済度にしてくれた、キクヨちゃんに対する、

心からのお礼の気持ちでした。

 

 

何故なら、和泉市の観光のところだといっても、

殆どは、無料のところで、有料といえば、

大阪府立弥生文化博物館と、この和泉市久保惣記念美術館ぐらいでした。

それで、キクは、キクヨさんは、美術を見るのが、大好きなこともあって、

和泉済度の場所として、最後に、和泉市久保惣記念美術館を選びました。

和泉市久保惣記念美術館なら、外れはないと思ったのです。

 

 

また、そのキクの判断は、正解でした。

和泉市久保惣記念美術館は、ちょうど、

特別展  伊勢物語−雅と恋のかたち−というものをしていました。

これには、キク自身、まったく知らなかったので、

不思議なご縁に驚いてしまったのです。

 

 

何故なら、インターネットで、調べると、

伊勢物語(いせものがたり)は、平安時代初期に成立した歌物語

「在五が物語」、「在五中将物語」、「在五中将の日記」とも呼ばれていたそうです。

それは、全125[1]からなり、ある男の元服から死にいたるまでを

と歌に添えた物語によって描く。

歌人在原業平の和歌を多く採録し、主人公を業平の異名で呼んだりしている

(第63段)ところから、主人公には業平の面影がある。

ただし作中に業平の実名は出ず、また業平に伝記的に帰せられない和歌や挿話も多い。

中には業平没後の史実に取材した話もあるため、

作品の最終的な成立もそれ以降ということになる。

書名の文献上の初見は源氏物語(絵合の巻)。

とあります。

 

 

でも、中々、これでは、皆さんにも分からないと思いますが、

もっと分かりやすく言えば、

「伊勢物語」は平安時代前期に成立した歌物語で、作者は知られていません。

実在した在原業平をモデルとする「昔男」が主人公で、

125段からなる恋愛物語となっています。

絶世の美男子による華麗な恋愛遍歴の物語は、

のちに「源氏物語」の主人公の光源氏の造型に大きな影響を与えています。
 しかし、華麗な物語の中にも、失意、傷心、旅愁、別離の悲しみなど

様々な悲哀がにじみ出ているところにこの物語の魅力があります。

とあります。

要するに、平安時代、男女の恋愛を、男の世界から見て

表現した絵巻だったのです。

 

 

しかし、それは、和泉済度という視点でみたら、

大きな意味を持ちます。

同じ平安時代、少し前に、和泉式部が、女性の立場で、

歌によって、男女の恋愛を表現しているとしたら、

伊勢物語は、その後、すぐに、男性の立場で、

絵巻によって、男女の恋愛を表現していることになります。

密接に結びついていたのです。

 

 

しかも、伊勢物語のモデルになっている、在原業平は、

キクとキクヨさんが、和泉と同じように、

不思議なご縁を感じている土地、大阪八尾市にある高安とも関係があります。

 

 

というのも、天理市櫟本町の在原神社は業平生誕の地とされます。

境内には伊勢物語にも登場する筒井筒があります。

この在原神社から西には業平道(竜田道)が伸びていて、

業平が高安の地に住む女性のもとへ通った道とされています。

この高安が何処を指すかについては、

奈良県生駒郡斑鳩町高安と大阪府八尾市高安の2説がある。

また、龍田から河内国高安郡への道筋については、

大県郡(大阪府柏原市)を経由したとする説と、

平群町の十三峠を越えたとする説があるとあります。

 

 

 

キクとキクヨさんは、つい最近、この高安で、

いずみ苑というすばらしいところで、

文化を発信しているcocoさんのお誘いで、

高安めぐりをしたことがあって、

そこで、高安の歴史と、

在原業原さんの存在と、

能を味わったことがあるので、

不思議なご縁に、改めて驚いたのです。

 

 

だから、キクとキクヨさんは、この和泉市久保惣記念美術館を

二人で仲良くデートしました。

キクヨさんは、私の背景に、和泉式部の御霊さんがツイテいるなら、

キクちゃんの背景には、きっと在原業原さんの御霊さんがツイテいるね。

一つ、今日は、平安時代の恋を

今よりも、もっと男女が、自由だった頃の恋を、

今から楽しみましょうかと言ってくれたのです。

 

 

しかも、和泉市久保惣記念美術館は、すばらしかったです。

新館と旧館の間を繋げている日本庭園は、本当に見事で、

キクもキクヨさんも、大いに気に入りました。

少し、疲れぎみだった、キクヨさんも、

心から満足してくれたのです。

 

 

 

追伸 和泉済度、黄泉済度

 

 

追伸、和泉済度は、こうして終りました。

本当に、よかったです。

和泉済度は、一人ではできません。

参加してくれたキクヨさんには、

心から感謝したいと思います。

 

 

また、その後、キクとキクヨさんが、

何があったのか、どう愛し合ったのかは、

残念ですが、皆さんには内緒です。

 

 

何しろ、バーチャルの世界の話です。

在原業平さんと和泉式部という、

平安時代、自由に、恋愛を生きた二人のすることです。

神話の神々、

いざなみといざなぎ、

諏訪大明神、白山菊理姫、武田八幡大菩薩の神々が、

することです。

皆さんのご想像に、お任せしたいと思います。

 

 

ただ、キクとキクヨさんは、

今回、第1回、和泉済度をさせて頂いて、

痛感したことは、和泉市一つでも、

本当に広いと言うことです。

とても時間がなくて、計画通りに、

まわることはできませんでした。

 

 

まだまだまわりたいところ、

たくさんありましたし、

食事も、多くの御霊さんと一緒に楽しんで、

おなか一杯と言う幸せ感を、

届けたかったです。

 

 

だから、再び、キクとキクヨさんで、

和泉済度したいと思います。

その時は、是非、皆さんも、

ご参加下さい。お待ちしています。

 

では、皆さん、縁の花第247号「キクとキクヨの和泉済度、黄泉済度」読んで頂いてありがとうございます」

2007124


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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

2011年 縁の花のお手紙サイト

http://www.geocities.jp/ennohana/2011ennohana/ennohana1.html