縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

283

秋草鶴次氏 講演会

 

∞「17歳の硫黄島 

秋草鶴次さんの講演会」∞

 

17歳の硫黄島 秋草鶴次さんの講演会が

金沢の済度場、オフィスアキライベントホールで

平成21年3月28日、土曜日

13時半から15時半まで

2時間の講演であります

しかも参加費は、無料です

是非、皆さんの中で、関心のある人は

御参加お願いしたいと思います

 

また、俺自身も、大阪から金沢までは

大変ですが、何とか都合をつけて

この講演会には参加したいと思います

いえ、何としても、いかないといけないと思っています

 

何故なら、済度の先生の本拠地、済度場で

硫黄島の戦場で、玉砕した後も

3カ月間も生き残った

秋草鶴次さんが、講演してくれるという事は

ただの硫黄島の戦場の講演会が

済度場で、行われるというだけではありません

 

硫黄島済度

まだ、この世に留まっている

硫黄島の英霊達が、救われること

あの世、霊界に帰れることを意味します

俺の念願だった、硫黄島済度をして頂けるのです

 

 

だから、俺は、それを済度の仲間から聞いて

本当にうれしかったです

硫黄島の英霊達が

とても喜んでいると確信しているのです

 

しかも、済度場で、済度の先生以外の人が

講演する事も、俺が知っている限り

異例のことです

何しろ、何百人でも入れる済度場です

今後、こういったケースも多くなる予感がしますが

絶対に、成功して欲しいです

 

なので、是非、皆さんも参加して下さい

俺と同じ空間で、ずっと64年間

この日が来ることを待っていた

硫黄島の英霊達が、救われることを

見届けて頂きたいと思います

 

 

17歳の硫黄島

秋草鶴次氏 講演会

http://www.geocities.jp/ennohana/saido/eniouto.htm

 

 

∞「硫黄島玉砕戦 

生還者が語る真実」∞

 

17歳の硫黄島

秋草鶴次氏 講演会チラシ紹介

http://www.geocities.jp/ennohana/saido/eniouto.htm

 

317号で、硫黄島の戦場で生き残った

秋草鶴次さんの講演会が

金沢の済度場で、行われることを

ご紹介しました

 

それで、この号では

このチラシで書いていることで

俺が知っていることをご紹介したいと思います

 

というのも、硫黄島の戦いと言っても

もう64年前のことですし

皆さんの多くは、太平洋戦争のことについて

詳しく知らないと思います

 

なので、簡単にご説明する必要があると思うのですが

ものすごく簡単に言えば、2006年米国の映画監督

クリント・イーストウッドが、米国から見た硫黄島

『父親たちの星条旗』と

日本から見た硫黄島という事で

『硫黄島からの手紙』の二つの映画を作って

日本や米国なので、上映されたことがありました

その映画が取り上げた戦いが

硫黄島の戦いなのです

 

 

また、この硫黄島ですが

場所は、日本本土と、マリアナ諸島

サイパン島やグアム島とのちょうど

真ん中の位置する小さな島です

インターネットで調べたら

長径は北東から南西方向に8キロ未満

幅は北部ではおよそ4キロ

面積は21平方キロ程度ということなのです

 

ですが、こんな小さな、たった一つの島

硫黄島は、チラシに書いているように

太平洋戦争終盤 

日米双方の最重要戦略地点になりました

 

というのも、米軍は、サイパン島、グアム島を

攻略する事で

日本本土、東京や大阪に対しても

長距離爆撃機 B29によって

爆撃することが可能になりました

行って、帰ってくることが

できるのです

 

しかし、ここで、問題なのは

硫黄島の存在でした

B29が、サイパン島、グアム島から出撃しても

硫黄島から、それを発見されて

本土に、無線で通報されて

本土で、日本軍の必死の抵抗で

ある程度の数は、返り討ちにあっていましたし

損害を受けて、硫黄島には行けても

サイパン島にまでいけないB29がありました

 

空の要塞B29は、日本の戦闘機が

飛べない上空を飛べるので

無敵だったという印象がありますが

実は、故障する事も多く、損害も大きかったのです

 

しかも、日本も、爆撃機、飛龍や銀河・一式陸攻が硫黄島を経由して

マリアナ諸島にあるB-29の基地を急襲して

地上のB29機に損害を与えていました

 

なので、日米両国にとって硫黄島は

重要な島になりました

日本にとっては、どうしても、本土の空襲の被害を

少しでも減らす為にも

硫黄島は守らないといけない島になりましたし

米軍にとっても、硫黄島は、取らないといけない島になりました

 

硫黄島を取れば、サイパン島では、距離が遠くて、不可能な

米軍の戦闘機を、B29 の護衛にすることも可能ですし

故障したり、被害を受けたりしたB29が、

不時着する事も可能になります

海に落ちることを防いで

多くの人命を助けることも可能になるのです

 

また、それで、米軍は、硫黄島を占領する決心を固めたのですが

それでも、硫黄島を占領できる期間は

5日間というのが当初の作戦計画でした

偵察機などによって、硫黄島が

栗林忠道中将によって、要塞化されていて

死傷者は、一万五千人という

大変な戦いになる事は覚悟していましたが

それでも、チラシに書いているように

昭和20年2月から3月にかけての攻防戦

2月19日に上陸してから3月21日玉砕するまで

1か月間も戦うとは、まったく予想していなかったのです

 

その上に、この硫黄島の戦いは

米軍にとっては、史上例のない激戦になりました

受けた損害も、戦死6821名・戦傷21865

合計28686名で、日本の戦死者、2万2129名も

遙かに超えました

米軍が、太平洋戦争の後期で

日本軍よりも、被害を受けた例は

この硫黄島の戦いぐらいだったのです

 

また、日本にとっても、

2933名の守備兵力のうち2129名までが戦死するという

何と損傷率は96%にのぼる壮絶な激戦でありました

しかも捕虜 1,023名も、命が欲しくて

米軍に、投降した兵は、殆どいませんでした

それよりも、負傷して、動けなくなって捕虜になったとか

意識を失って、捕虜になったというのが殆どでした

言いかえるなら、最初から、戦わないで

捕虜になることを考えていた日本の兵士は皆無だったのです

 

そしてこれは、済度の先生や、何人かの済度の仲間に

真朝の済度が終わった後の食事の済度で

俺が、言わせて頂いたことですが

この硫黄島の戦いと

その後に行われた沖縄の戦いでの

日本軍の奮闘によって

日本本土は、救われました

 

というのも、硫黄島では

米国は、七万人という兵士の数と

圧倒的に優勢だった武力にも関わらず

日本軍以上の損害を受けましたし

沖縄でも死者・行方不明者 12,520

戦傷者 72,012人という

日本の軍人、死者・行方不明者 94,136人と

同数に近い兵の損害を受けました

残念ながら、硫黄島とは違って

民間人の死者 94,000人になっています

 

それで、米軍は、あまりにも大きな被害に

日本本土に上陸しても、予想される被害の大きさに、驚いて

本土上陸は残念したということが

歴史で証明されています

硫黄島の英霊達が、日本の多くの国民を救ってくれたのです

 

だから、俺達、戦後生きている人達は

硫黄島の英霊達に、心から感謝して

供養を願わないといけません

慰霊とか、癒しではなく

済度、成仏させて頂かないといけないのです

是非、皆さんも、3月28日の講演会に

ご参加して頂きたいと思いますし

その日が無理でも

秋草鶴次さんは、全国で

講演会しているそうです

ご縁があれば、是非、聞いて頂きたいと思います

 

∞「秋草鶴次さん

紹介します」∞

 

太平洋戦争の終盤に行われた

硫黄島玉砕戦から生還された

秋草鶴次さんの講演会のチラシの内容を

ご紹介しています

 

http://www.geocities.jp/ennohana/saido/eniouto.htm

 

 

 

 

それで、前号では

硫黄島玉砕戦 生還者が語る真実に関して

書かれている内容を、詳しく書かせて頂きました

 

なので、この号では

チラシに書かれている秋草鶴次さんに関して

俺が、知ったことや、俺が理解していることを

皆さんに、ご紹介したいと思います

 

 

というのも、俺が、まず、皆さんに

注目して欲しいのは

秋草鶴次さんが、硫黄島玉砕戦で

戦った年齢です

それが、何と17歳なのです

 

でも、17歳と言えば

今で言えば、高校2年生になります

何で、そんな年齢で

硫黄島のような戦場に行くことになったかという事なのです

 

 

また、その理由は、簡単です

日本は、太平洋戦争で、米国に対して

敗戦続きで、もう戦場に送り出せる兵が

いなくなっていたからです

 

それで、17歳という少年兵とか

反対に、40歳とか、もっと高齢の50歳の人達が

硫黄島の島には送られているのです

しかも、彼らの多くは、軍人ではありませんでした

軍人としての訓練も、何よりも軍人としての覚悟もないまま

硫黄島という島に送られることになったのです

 

その上に、評論家の青山さんの話だと

このことが、どんな事を、意味をするのか

硫黄島に送られた兵隊さんの多くは分っていたそうです

自分達は、死ぬ運命だというのは

分っていたと言います

 

なので、当然、秋草鶴次さんも、17歳ですが

分っていたと思います

何故なら、秋草鶴次さんは、海軍の通信兵だったので

いろんな情報が入る立場にいました

たぶん、日本が、どんどん負けていることは

理解できていたはずなのです

 

 

そして、俺が、皆さんに、お伝えしたいのは

硫黄島の戦場での、想像を絶する過酷さです

これは、青山さんの冷水一杯運動という事で

皆さんにもお伝えしていますが

硫黄島は、名前が、硫黄島という想像できるように

硫黄で覆われている火山の島でした

 

なので、この島で

地下壕を掘って籠るということが

どんなに大変だったのかは

経験したこともない人は

俺も、含めて絶対に理解できないと思います

 

何故なら、チラシでは、それを

人間界の極限とも言える地下壕内での生活

秋草鶴次さんの言葉では

「耐久試験だ、これは、人間の・・・・」

という事になるのです

 

というのも、青山  さんの話によると

「硫黄島の地下壕内の温度は、70度だそうです

とても、人間が、暮らせる環境ではありません

サウナに入っているようなものです

その上に、水さえ、地下壕では

70度の温度で沸騰していたそうです

そんな環境の中で、硫黄島の兵達はいて

必死で、地下壕を掘っていたのです

 

しかも、戦争になれば、当たり前ですが

そこから出ることはできません

外に出たら、米軍の砲弾や玉が飛んできます

なので、硫黄島の日本兵は、ずっと、1カ月間

いえ、日本軍が、玉砕した後も

生き残っていた兵は、日本の為に

地下壕で耐えにいていました

日本の為に、必死で、抵抗してくれていたのです

 

何故なら、硫黄島の兵士達は、指揮官、

栗林忠道中将の命令で

万歳突撃、死ぬ事は許されなかったからです

普通なら、そんな過酷な所にいたら

死ぬ事が分っていても

突撃して、早く死んで楽になろうとしますが

栗林中将は、日本の未来の為に

死ぬなと言っていたのです

 

だから、秋草鶴次さんも、日本軍が玉砕した後も

3カ月間、意識が無くなって

抵抗できなくて、米軍に救助されるまで

そんな地下壕の中にいたのです

 

それが、どんなに大変だったのか

俺には、想像できませんし

たぶん、皆さんも同じだと思います

それは、体験した人

奇跡的に生還した人や、亡くなった多くの

硫黄島の英霊でしか分からないと思うのです

 

そして、チラシに書いてあるように

「でも、がんばるんだ、このことを誰かに言うんだ

だから、俺は、いきなくちゃなんない・・・・」

という言葉で、自分を励まして

後世の日本人に、戦争の悲惨さを

生きて、必ず伝えるという決心で

何とか、無事に生還できた秋草鶴次さんですが

長い間、その事は語る事はしませんでした

 

というのも、このことも、戦争を体験した人で

ないと分からないと思いますが

皆さんのお爺さんとか、ご縁のある人で

太平洋戦争を経験した人がいたら

分ると思いますが

殆どの人は、太平洋戦争で体験した事は

決して言わないと言います

一言も、聞いたことがないという人も

多いのです

 

 

そしてそれは、秋草鶴次さんも

同じだったみたいです

秋草鶴次さんも

長い間、沈黙していたのです

 

それが、チラシにあるように

2006年にNHKスペシャル「硫黄島玉砕戦

・生還者61年目の証言」に出演

また、「17歳の硫黄島」を出版したことで

分るように、80歳という高齢になってから

語り出しました

俺には、その理由は分りませんが

きっと、多くの硫黄島の英霊

霊界に帰った英霊や、今もこの世に留まっている英霊が

秋草鶴次さんについて語らせていると思います

 

だから、今、秋草鶴次さんは

81歳という年齢なのに

自分で、車を運転して

全国で、講演活動をしているそうです

おそらく、今回、金沢の済度場で

講演会をして頂くのも

無料なので、ボランティアだと思います

これが、俺が、今回のチラシで

皆さんにお伝えしたいことです

後のご判断は、皆さんにお任せしますが

秋草鶴次さんや、秋草鶴次さんを通して

硫黄島の英霊達が、伝えたいことを

俺は、名前のキクとして

英霊達を意識して、聞かせて頂いて

済度、供養させて頂くつもりです

是非、皆さんも、ご参加お願いします

 

∞「キクと硫黄島の

英霊との済度」∞

 

俺が、硫黄島玉砕戦があったことを知ったのは

確か、中学生の頃です

俺は、昔から、人と違う事があって

戦争も知らない世代ですが

小学校の六年の頃には、太平洋戦争の事も関心ありました

真珠湾奇襲攻撃とか、ガダルカナル島の戦いなど

いろんな本や資料を見ていたのです

 

また、そんな中で、硫黄島玉砕戦も

漫画で、知りました

太平洋戦争の戦いを

真珠湾攻撃とか、沖縄の戦いなど

戦いごとに一冊の漫画にしているものがありまして

俺は、それを読んで栗林忠道中将や

硫黄島の兵士達の存在を知ったのです

 

しかも、その硫黄島の戦争の漫画の本は

ずっと俺のお気に入りでした

一番、縁のある本でした

何故か、ずっと、目の届く所にあって

高校、大学生になっても時々見ていたのです

 

というのも、太平洋戦争は

負け戦なので

最初の半年間を除いたら

日本が、勝った戦争は、そんなに多くはありません

その中で、硫黄島の戦いでは

日本は、本当に善戦しています

そういった事もあって

特に、硫黄島の戦いには関心がありました

日本人ですから、やはり日本軍が

カッコいいシーンが好きだったのだと思います

 

しかし、そんな俺でも

長い間、2006年まで

硫黄島の英霊の事は忘れていました

大東亜戦争で亡くなった英霊の事は

1994年 平成6年1月

済度のご縁についた済度人になったので

忘れた事はありませんでしたが

特に、硫黄島の英霊という事はなかったのです

 

しかし、そんな俺が

強烈に意識したのは、2006年

クリント・イーストウッド、監督の

『硫黄島からの手紙』からです

この『硫黄島からの手紙』の映画の存在を知った時から

これは済度の映画だと直感しました

2005年に、上映された

「男たちの大和」と同じ映画だと直感したのです

 

だから、済度として『硫黄島からの手紙』見ました

硫黄島の英霊達を意識して

まだまだ生きたかった英霊

愛する妻や、母親のことを思いながら

亡くなった英霊を意識して見たのです

 

しかし、その当時の俺は

長い間、済度の先生のご縁は

お休みしていたので

意識は落ちていたので

本格的に、硫黄島の英霊を済度させて

頂く事はできませんでした

金沢に行かないので

エネルギー不足の俺に

本格的に、済度してあげる事はできないのです

でも、少しは、させて頂けました

 

というのも、この『硫黄島からの手紙』の映画を見た

ミクシイでのマイミクさん、友人のあるとても素敵な女性さんと

『硫黄島からの手紙』の映画で意気投合して

お互いに遠いので、一度も会った事もないのですが

ちょうど、彼女が、京都に来るというので

お会いするご縁を頂いたからです

 

それで、俺は、その時に

俺なりの済度させて頂きました

お会いして、二人で、東寺

弘法大師のご縁のある寺

弘法大師と、その弟子たちが

ずっと修行していたという済度も関係する

お寺とは知らなかったのですが

ちょっとしたデートさせて頂きました

 

きっと、硫黄島で亡くなった英霊達は

本当は生きて

自由な世界で、愛する女性と

こうして、ただ、ただ、歩きたかったのだろうなと

思いながら

硫黄島の英霊を意識して

手を握って、歩かせて頂いたのです

俺にとっては、ただ、それだけの思い出ですが

とても大事にしている済度なのです

 

しかも、その時に、忘れられない体験もしています

というのも、その女性と、京都駅の西口の出口で

待ち合わせしていたのですが

その間、五分の時間に

何故か、東京の古い済度の仲間と

偶然に会うというご縁を頂いたからです

 

その時には、本当に驚いて

済度の仲間に、少し待って頂いて

相手の女性に、ご紹介しましたが

済度の先生は、もう何年も、済度のご縁から離れている俺に

済度が、本当なのか、どうか、観察していますなんて

生意気なことをずっと、縁の花のホームページに書いている俺にも

心の中で、志願していることはさせてくれるのか

済度の先生、魂のすべての親は、やはりすごい人だと

思ったことは、今も忘れません

そんな奇跡としか、思えないことがあったのです

 

済度の先生、あの時、俺に済度させてくれて

ありがとうございます

 

∞「硫黄島済度」∞

 

でも、俺が、本当に、硫黄島の英霊を意識したのは

2007年7月7日、済度のご縁に復帰してから

少し経過した2008年4月です

この時、本当に不思議ですが

平日の水曜日、夕方5時

俺は、フジテレビで放送しているある番組で

評論家の青山繁晴さんが

硫黄島の英霊達の話をするのを、偶然見ました

 

縁の花 第254号 「青山繁晴さんの硫黄島のお話」

縁の花 第255号 「「硫黄島は生きるヒント」

で、紹介している

ユーチューブの番組 硫黄島は生きるヒントを

見させて頂いたのです

 

しかも、その事で

小さい頃、硫黄島の戦場の漫画や

『硫黄島からの手紙』の映画では

想像できなかった、硫黄島の英霊達の思いも分りました

 

70度という温度の地下壕の中で

水を飲むのさえ、沸騰している水しか飲めない中で

このままでは死ぬことは分っているのに

早く死ぬことで、楽になりたいのに

日本の未来の為、女性や子供の為に

ただ、耐えて、1か月後、玉砕した多くの英霊

いえ、日本軍が、玉砕後も生き残って

三カ月間も戦った硫黄島の英霊達

俺は、心から、済度したいと思いました

 

60年以上も

多くの日本人にその存在を忘れられたまま

ずっと、成仏できすに硫黄島や

この世に残っている英霊達

いつか、救ってくれると日本人を信じて

じっと待ってくれている英霊達を

早く済度しないといけないと

心から、思ったのです

 

 

そして、そのご縁は、2008年12月

金沢で、済度することで、実現できました

金沢の済度の仲間、YUさんに

そのユーチューブを見せることができたからです

それで、その青山繁晴さんの話は

YUさんによって

済度の先生や、済度の人達に伝わりました

60年以上も、硫黄島の英霊達が待ちに待っていたこと

歴史は、動きました

硫黄島の済度が、始まったのです

 

何故なら、YUさんは、その後も硫黄島の英霊達のことを

金沢で、済度している時に、発表してくれましたし

その事で、多くの人が、硫黄島の英霊達のことを意識することになって

済度の仲間達で、硫黄島の英霊を願うブームが起きたからです

 

だから、俺は、その事を知って本当にうれしかったです

涙が出そうになりました

だって、それが、どんなにすごいことか

皆さんには、なかなか伝わらないかもしれませんが

済度人とは、毎朝、眞朝 、4時半に、

年中普及で

百人以上の人達が集って

24時間、御霊達のことを意識して

金銭は求めず

供養すること、済度しようと

必死に活動している人達です

プロ中のプロ

日本で、一番、世界でも一番の

プロの集まりです

 

そんな済度人の人達が

硫黄島の英霊達の存在を意識したら

自分達には、あの当時、地下壕に閉じこもっていた

英霊達の、本当の苦しみは理解できないけど

救わせて頂きたいと、ただ、ただ、願ったら

することは一つです

済度、済度、済度です

それしかありません

 

多くの硫黄島の英霊や

そのことを通して大東亜戦争で亡くなった英霊達が

供養されることは、皆さんにも分って頂けると思うのです

 

しかも、金沢の済度場で

硫黄島の英霊達のことが

発表されたことで、霊界も動きます

 

というのも俺は、まったく知りませんでしたが

済度の仲間、霊能者のあみさんは

長野県にある、硫黄島の指揮官だった

栗林忠道中将のお墓に行って頂いているのです

ここでも、済度されているのです

 

また、今回の秋草鶴次さんのご縁でも

現世的に言えば、3月7日、金沢で、

主催はテレビ金沢「戦争を語り継ぐ会」で

秋草鶴次さんの講演会が、行われたことで生まれたそうです

 

ちなみに場所は、旧県庁にある県立生涯学習センターで

定員70名を超える人数で立ち見される方もいたそうです

そこに、金沢の済度の仲間が

硫黄島の話という事で、聞きに行きまして

秋草さんの話す、戦争の惨さや

時に涙し声を震わせて、語り尽くして下さった

思いに感動したことで、ご縁ができたそうです

 

それで、是非、その話を、私達の仲間が多く集まる

金沢のある所で、話して欲しいという事を

たぶん、お願いして

快く、秋草鶴次さんが、受けてくれたのだと思います

 

しかし、俺は、このご縁は、

そんな単純なことではないと確信しています

霊界が、大きく動いた結果なのです

 

何故なら、今、戦争を体験した人の中で

何人の人が、その体験談を語っているのかは知りませんが

17歳で体験した秋草鶴次さんでも、81歳になる程

年月は、経過しています

25歳の人で、90歳だと考えたら

殆どの人は、もうお亡くなりになっているか

生きていても、とても多くの人に

話をすることができない高齢ということが分ると思うのです

 

しかも、過酷な戦場だった硫黄島で

生き残った人は、1023人しかいません

この中で、辛い戦争経験を話す人が出る可能性は

まずないと思うのです

 

その上に、秋草鶴次さんが、いくら話したいと思っても

ある程度、人に注目されなかったら

講演活動は続けられません

それには、クリント・イーストウッド監督が

2006年に、硫黄島の戦場の映画を

作る事で、日本人の多くに

硫黄島の存在を知られなかったら

難しかったと思いますし

それがなかったら

NHKスペシャル 「硫黄島玉砕戦 生還者

61年目の証言」に秋草鶴次さんが

出演する事もなかったと思います

 

だから、すべては、つながっている

大いなる、霊界のシナリオなのですが

俺は、そんな霊界が

この時期に、済度の場

オフィスアキライベントホールに

秋草鶴次さんを、お呼びした

秋草鶴次さんの背景についている

多くの硫黄島の英霊達が、

済度の先生のいる、金沢の本拠地に

来たがっていると思っています

霊界が、済度の人達の願いで

大きく動いてくれた結果だと思っているのです

だから、そんな奇跡が起きているのだと思うのです

 

是非、3月28日、秋草鶴次さんの講演会

皆さんも、ご参加して

皆さんの背景にいる多くの英霊

硫黄島だけでなく、大東亜戦争で亡くなった英霊達を

救わせて頂きましょう

済度に関して、まったく知らないという人でも

講演会に、参加して頂けるだけで

十分に参加できます

誰でも、参加OKです

チラシを見て、参加したい人は

ご連絡お願いします

 

秋草鶴次氏 講演会

http://www.geocities.jp/ennohana/saido/eniouto.htm

  
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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

2011年 縁の花のお手紙サイト

http://www.geocities.jp/ennohana/2011ennohana/ennohana1.html