縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

第309号

武田勝頼と明智光秀

∞「快川和尚生存説と武田家系図」∞

O宮司さんが、次に案内してくれた場所は

武田勝頼が菩提寺として建てたという流光山成福寺です

ここに案内してくれたのです

 

しかもO宮司さんは、この流光山成福寺の戸を開けて

中に6名を入れるといろんな仏像を見せてくれました

貴重な文化財聖観音立像などを見せてくれたのです

 

またこの流光山成福寺の説明もしてくれましたが

それは驚く話でした

何故ならこの流光山成福寺の住職は

何と快川和尚ではないかという推測をしていたからです

 

しかし正直俺は、その説はなかなか受け入れられませんでした

武田勝頼が土佐で生きていたというのです

快川和尚が生きていたと思っても不思議ではありません

でもあの快川和尚まで生きていたのかと思うと

本当に驚いてしまったのです

 

というのも快川和尚とは信玄公が

美濃国の崇福寺から甲斐の塩山恵林寺に招いた住職で

幼い頃の信玄公が、まだ晴信だった時の師匠になります

しかも晴信が、父信虎を甲斐から追放して

甲斐の当主になった時には有名な孫子の旗

「風林火山」を自ら書いて送ったと言われていますし

信玄公が僧になった時は、信玄という機山の号を授けています

 

その上に武田家が滅亡した時には

信長に敵対した六角義弼や武田の残党を

恵林寺にかくまい織田信忠の引渡し要求を拒否したことから

焼討ちにあい、大勢の僧とともに焼死を遂げています

有名な「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」

の辞世で知られる言葉を残して

快川和尚をはじめとする100人以上の僧たちは、

火の中に入って焼き死んでいるのです

 

だからそんな快川和尚が、実は生きていたという事になると

これは武田勝頼が天目山で死んでいなかったというよりも

大きな衝撃です

あの時に死んだのは、快川和尚の影武者、弟子だったのか

それとも塩山恵林寺に秘密の逃げ道でもあって

火の中から見事に抜け出していたのか

謎は深まるばかりなのです

 

しかし俺はその快川和尚土佐生存説を否定もするつもりはありません

武田勝頼が建てた菩提寺流光山成福寺の住職になったのは

快川和尚の弟子の人物だったと思いますが

O宮司さんが言うように流光山成福寺は、一伝に海川山と云うので

恵林寺「快川」派の隠し名である可能性はありますし

土佐の流光山成福寺と長野の龍光山正福寺の

呼び名と風景が重複しているのも変です

 

O宮司さんが、言うように快川和尚も

土佐に逃れていた可能性もあると思います

この流光山成福寺で住職として活躍して

塩山恵林寺で焼き死んだ百人の弟子の御霊や

武田家の御霊の成仏を願って

菩提を弔っていたかもしれないのです

 

またO宮司さんはここで

Nさんの希望にあった武田家系図も

6名に見せてくれました

この武田家系図は一つだけでなく

大崎八幡宮代々の神官岡林家に伝わる武田家系図

佐川町の武田家の末裔山崎氏の分家に伝わる武田家系図

佐川町の武田家の末裔山崎氏の嫡流に伝わる武田家系図

大崎八幡宮歴代神主の岡林家に伝わる神主系図

といろいろありますがその中のものを見せてくれたのです

 

だからNさんを中心にメンバー全員が

その武田家系図を食い入るように見ました

それによって、ある程度武田勝頼土佐生存説の信憑性が

判断できると思ったのです

 

しかもOさんはその武田家系図に関して

詳しく説明してくれましたが

俺はその武田家系図を見て

この資料は信頼できると思いました

 

何故ならこの武田家系図には

殆ど歴史で言われていることが、書かれていましたが

一人だけあるべきはずの人物がいなかったからです

 

というのもそれが松姫でした

信玄公の五女の名前だけが系図になかったのです

しかしそれはある程度は理解することはできます

松姫は、信長の嫡男信忠との婚約が破談した後も

ずっと武田家の敵だった織田信忠に対する思いを

捨てようとはしませんでした

武田勝頼としては武田家が滅亡した後

土佐で永住するようになった後も

武田家を滅亡させた織田信忠に思いを寄せていた

松姫、信松尼だけは許せなかったのではないかそう思うのです

 

しかしその反面、今の俺には400年前の

前世武田勝頼の気持ちは分かりません

今の俺は、松姫や武田家が滅亡した後の信松尼を

心から尊敬していて恨みなど一つもないからです

でもあの当時ならそうかもしれないと思うのです

 

ですから俺はその武田家系図に誤りがあっても

いえ松姫の名前がなかったことで

むしろ信じられると思いました

もし武田家系図が、後に改竄されているものなら

絶対に松姫の名前も残していると思うので

かえって俺は、武田勝頼の感情が入っていて

信じられると思ったのです

 

またそんな視点で見れば

武田勝頼の夫人として最後までついていった女性が

今までずっと信じられていた北条氏康の六女ではなく

武田家の家臣だった三枝三郎晴友の娘で

土佐に暮らした時には三津岐夫人と呼ばれていたという話も

頭から否定することはできないと思います

 

ただそうしたら武田勝頼に嫁いだ北条夫人は

一体どうしたのか

上杉景勝と上杉景虎が争った御館の乱で

武田勝頼が北条家方の上杉景虎から

上杉景勝に寝返った事で

武田家と北条家の同盟が壊れた時に離縁したのか

それとも武田家が滅亡した時に

武田勝頼とは別行動をしていて

実家の北条家に逃れる時に

誰かに討たれて歴史にその名前も残らなかったのか

まったく訳が分からないのです

 

でも武田家系図を信じるとしたら

三枝夫人は勝頼の正室だった遠山夫人が

信勝を生んだ後亡くなってから

北条夫人が嫁ぐ事になった間に

勝頼の側室になっています

 

しかも勝頼との夫婦仲は

家同士が絡む政略結婚ではなく

家臣の娘という事で

勝頼の気にいった女性なので

とてもよかったみたいです

歴史で言われている武田勝頼を支えた女性は

北条夫人ではなくて実はこの三枝夫人だったというのです

これにはさすがの俺も参ってしまいました

ずっと北条夫人のファンだったのでなかなか信じられないのです

 

でも俺は、もしそれが今後の武田家の歴史として証明されたら

土佐にある武田家系図の真実が立証されて

武田勝頼土佐伝説は、俄然クローズアップされると思います

武田勝頼伝説の明確な証拠になると思うのです

 

それで、是非いつかそんな日が来て欲しいと願いながら

O宮司さんの説明を聞きながら

武田家系図を見させて頂いていたのです

 

∞「武田勝頼と明智光秀と快川和尚」∞

O宮司さんが見せてくれた武田家系図には

いろんな謎が隠されていますが

その中でも一番の謎が、武田家系図の中に

武田家の家紋である四菱ではない家紋

桔梗紋があった事です

 

しかもその家紋は、清和源氏頼光流・土岐一族の代表家紋で

戦国時代では明智光秀が使用した事で有名でした

織田信長を本能寺の変で暗殺した明智家の家紋だったのです

 

その上に、どうしてそんな明智家の家紋が

武田家系図に堂々と載っているのかと質問しても

O宮司さん自身もよく分からないという事でした

最初は、不思議ですねと言う答えしか頂けなかったのです

 

でもいろいろ聞いてみたら

何と土佐の長宗我部氏の元には武田家だけでなく

明智家の残党も、天王山の戦いで負けた後

たくさん流れていて、その明智家の子孫の男性と武田勝頼の子孫の女性が

結婚している記述が、武田家系図にはあるそうです

それで、桔梗紋も残されているのではないかとなったのです

これには俺もびっくりしたのです

 

またその上、坂本竜馬の先祖が明智家だという事は

龍馬自身が言っている事ですが

その坂本竜馬のご先祖様の中に

明智家と武田家の祖先が繋がっているのではないかという

可能性さえ出てきました

武田勝頼の子孫が、坂本竜馬に繋がるのです

歴史は本当に面白いと思います

 

しかしこの明智家の繋がりは、それだけでは終わりませんでした

織田信長が本能寺で明智光秀に討たれた時に

武田勝頼はどこにいたのかという話題になった時に

O宮司さんが、一つの説として武田勝頼は京にいて

織田信長を討つ軍勢にいたと教えてくれたからです

 

しかも織田信長が討たれた後

武田勝頼の嫡男、武田信勝は武田家の旗を

群馬県、上野国であげたという説もあるそうです

武田家のお家再興の為に、活動を始めたというのです

 

そしてその事を聞いたNさんが

Nさんの背景にいる武田家の御霊達が

「そうだ。その通りだ」と囁いたのか

どうかは分かりませんが

もしかしたら、武田家が呆気なく滅亡したのは

それで織田信長を油断させるという

肉を切らせて骨を切ると言う、武田勝頼の策

戦略ではなかったのではないかと言った事で

大きな展開が起こりました

武田勝頼が、本能寺の変を仕掛けたのでは

ないかという仮説が誕生したのです

 

ですが、俺自身はその仮説は信じられませんでした

前世武田勝頼としては、その為に武田家を滅亡させることは

あり得ないと思ったのです

だけどNさん以外の人も結構この説に関心を持って

俺は少し考えを改めました

 

信長を油断させる為に

武田家を滅亡させることはないと思いますが

武田勝頼が、明智光秀と繋がっていて

織田信長が討たれた本能寺の変に

かかわっていたというのは

十分にありえると思ったのです

 

何故なら、もし武田勝頼と明智光秀が

裏で繋がっているとしたら

それを繋げてくれた人物は

快川和尚しか考えられないからです

 

だって快川紹喜和尚も明智光秀も

同じ美濃国の土岐氏出身で、同族であったと言われています

その上に、明智光秀が、本能寺の変において光秀が

信長・信忠父子を討ち取った事件には

快川紹喜和尚の死が影響したとする見方も古くからあります

何かの繋がりがあった可能性は高いのです

 

だから俺は、武田勝頼と明智光秀は

快川和尚を通して繋がっていて

織田信長を密かに討つ企てをしていたのではないか

そう考えました

武田勝頼にしても、快川和尚にしても

武田家を守る為に必死でした

あの当時の武田家は、織田家、徳川家、北条家に囲まれて

滅亡寸前だったので、そのぐらいの大技を実現させないと

武田家は守れないと決死の覚悟ではなかったかと思うのです

 

そしてそう思った瞬間に

何故、快川和尚が塩山恵林寺で死ぬことなく

武田勝頼と共に生きて、土佐に来たか

その謎も解けました

 

快川和尚は、武田家を滅亡させた織田家

比叡山などを焼き打ちした仏敵の織田信長

武田家残党狩りや塩山恵林寺の僧を焼き殺した

残酷な織田信長、織田信忠を討つ為に

生きる事を選んだのではないか

執念を持って、明智光秀を説得して

明智光秀を動かしたのではないか

本能寺の変を実行させたのではないか

俺はそう直感しました

俺の背景にいる武田家の御霊が

そう教えてくれた気がしたのです

 

だから俺は、俄然その説に関心を持ちましたし

それは他の前世武田家の仲間も同じだと思います

前世武田家の仲間は、各自、その説に関して

いろんな意見や感想を持ったと思うのです

 

しかし、結局その事に関して結論はでませんでした

何とも言えなかったのです

でも霊感があるYUさんは、ここでも活躍してくれました

流光山成福寺にいる仏様と霊視して

あるヒントをO宮司に伝えてくれました

 

ただ、これは武田家の軍機に関わる事なので

皆さんには申し訳ないですが内緒です

だけど、O宮司さんはとても興味を持って

是非調査したいと言って頂いたのです

 

そしてそこで、流光山成福寺での時間は終わりました

O宮司さんには、武田勝頼没400年記念イベントの

跡片づけのお仕事がありましたし

東京のメンバーは、これから車で長時間掛けて

帰らないといけません

残念ですが、O宮司さんがしてくれた

武田勝頼の史跡巡りは終わりました

O宮司さんとはここでお別れしたのです




武田勝頼没400年記念イベント秋の陣、本陣

縁の花第305号 武田勝頼没400年記念イベント夏の陣のその後

縁の花第306号 前世武田家の素晴らしい仲間達 

縁の花第307号 武田勝頼没400年記念イベント秋の陣

縁の花第308号 武田勝頼宇宙に行く

縁の花第309号 武田勝頼と明智光秀

縁の花第310号 武田済度成就しました


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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

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