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縁の花

                            (本物を目指して心と心のネットワーク)

                                                第114号          

        松下村塾 

 

 松下村塾が山口県の萩市に残っています。

 ここで11月21日から3日間、全国から私塾の代表の方が集まって、第2回私塾サミットをします。 

 今の日本を憂いている人達が、私塾としてこれからの日本にできることを討論するのです。

 紫陽花は幕末の頃に負けない熱い討論ができると確信しています。

 きっと日本の夜明けの為に戦った志士達の霊も喜んでいるでしょう。 

本当に画期的なすごいことなんです。

 また紫陽花もできたらこの第2回サミットには参加するつもりです。

 松下村塾は紫陽花が前から一度はいってみたいと心から思っていた場所だからです。

 と同時にもし幕末に生きていたら、松下村塾で吉田松陰の教えを受けてみたい。

 こう思っている人は、紫陽花だけでなく第2回サミットに参加する人なら全員思っていると

思います。

 松下村塾と聞くだけでなぜか身体が熱くなるのです。

 だから日本で現在志を持っている人達がわざわざ集まるのだと思います。

 でも「縁の花」の読者の皆さんの中には、松下村塾のことをよく知らない人もいるかもしれません。

 ですから今から松下村塾を簡単に説明します。

 松下村塾とは長州藩の吉田松陰が黒船騒ぎの時に、ペリーの船に密航しようとしましたが失敗して、その後幕府から許されて出獄した後、長州藩で開いた私塾です。

 塾生はわずか60人ぐらいの小さな私塾なんです。

 でも松下村塾は長州藩の倒幕運動の一大拠点になりました。

 日本の運命を大きく変えたのです。

 なぜならその証拠に松下村塾から世に出た人物は、実にたくさんいます。

 ざっと書くだけでも久坂玄瑞、高杉晋作、伊東博文、山県有朋、桂小五郎などの有名な人物を出しています。

 紫陽花は、これは奇蹟以外のなにものでもないと考えています。

 しかも紫陽花が大好きな所はそんな有名な人物でなくても、松下村塾で学んだことで成功した人が多いことです。

 ライバルといわれている適塾と比べたら塾生の数は遥かに少ないですが、明治維新後、多くの人が政府の役人として活躍しました。

 伯爵になった人も多いです。

 そのことからいっても吉田松陰という人は本当にすごい教育者だと思います。

 しかしそんな吉田松陰が実は、生徒を松下村塾で教えたのはわすが3年、いえ1年以上牢獄されていたので、2年ぐらいですといえばどうでしょう。

 紫陽花は皆さんの大半は真底びっくりすると思います。

「嘘だ。そんな馬鹿な信じられない」という皆さんの驚きの声が聞こえてきそうです。

 でも全部本当のことです。

 だって吉田松陰は松下村塾を開いた3年後には安政の大獄で死んでいます。

 ですからわずかの期間でどうしてあれだけの人物を育てられたのか、実に不思議です。 正直いって紫陽花はそのことを勉強すればする程、吉田松陰という男に魅力を感じます。

 一体どんな人物だったのでしょうか。               

 残念ながらそれは分かりませんが、幸いいろんな資料が残っており、どんなことをしていたのかはある程度分かっています。

 だから今から皆さんと一緒に松下村塾で吉田松陰が何を教えていたのか考えてみたいと

思います。

 それは今後根幹志塾をやっていく上で参考になると思うのです。

 

☆時事問題☆

 

 吉田松陰の松下村塾が、どうしてあれだけの志士を育てられたか。

 なぜあんなに志の持っている人が集まったのか、それは吉田松陰が塾生に教えた内容が他の塾とは大きく違っていたからだといわれています。

 というのも幕末の時代にも日本にはたくさんの私塾がありました。

 文字の読み書きやそろばんを教える寺小屋なら日本全国に無数にありましたし、失子学などで武士としての心構えなどを教える藩校もありました。

 また福沢諭吉や大村益次郎などを出した松下村塾のライバルというわれている適塾の緒方洪庵は蘭学や医学を教えていました。

 実際に適塾の多くの塾生が明治維新後、医学の世界で大きく貢献しています。

 しかし松下村塾の吉田松陰が教えたものはそれらとは違いました。

 もしそういったものを教えていたとしたら、とても3年間であれだけの志士を育てられなかったと思います。

では吉田松陰が松下村塾で何を教えたのかですが、それは時事問題です。

 なぜ清国がアヘン戦争に負けて欧米諸国の植民地になったのか。

 ペリーの来航の後、日本はどうすべきか。

 吉田松陰はそんな問題を塾生に問題提起して、討論して一緒に考えました。

 あなたなら一体どうしますかと聞いてきたのです。

 しかも吉田松陰は、それを徹底にやりました。

 戦国時代あなたが武田信玄ならどうします。

 信長はなぜ明智光秀に殺されたのかなどを議論させました。

 江戸時代でもいろんな藩で起こった問題に対してあなたが藩の一員ならどう処置しますかと問いかけたのです。

 と同時に吉田松陰は陽明学なども教え、自分の意見もはっきりいいました。

 縁の花第104号「志の心」で紹介したように、今の時代に志のない人は虫けら以下だと教えています。

 吉田松陰は時事問題を通して、生きた教育を生徒にした訳です。

 ですから紫陽花はそれがたった3年間の短期間で多くの志士を育てられた秘密の一つだと考えています。

 幕末の言論の統制か厳しい時代に、こんなに時事問題をやった私塾は他にはなかったからです。

 しかもその上に吉田松陰は、塾生達に幕末の時代に起きるいろんな問題に対してちゃんと乗り越えられる方法も教えています。 

 それが飛耳長目という言葉です。

 というのもこの言葉の意味は情報は聞く耳を持って、耳を飛ばして聞きなさい。

 起こったことは実際に自分の目で確かめて視野を、長くしてみなさいということです。 この飛耳長目の教えで吉田松陰は正しい情報を持てば、どんな大きな事件もちゃんと対処できると教えたのです。   

 また吉田松陰は自分が知ったいろんな情報を書く新聞のようなものを作って、それに飛耳長目録と名付けました。

 高杉晋作などはその飛耳長目録を他の塾生と奪い合うように読んだといいます。

 日本や外国で起こっていることは、松下村塾の飛耳長目録をみれば分かると、わざわざ他藩から見に来る人もいたのです。

 だからそんないろんな情報から正しくものごとを把握して、対処できる力を身につけたから松下村塾の高杉晋作などは長州藩を動かして明治維新をやり遂げることができました。 吉田松陰は他にはできない時々問題を教育のテーマにしたから成功したのです。

 時々問題とはそれぐらい大事なんです。

 これが、紫陽花が考える松下村塾の秘密の一つなんです。

 

☆「すべてが先生」☆

   

 しかし松下村塾が成功した理由はもちろん時々問題をやったからだけではありません。

 2番目に紫陽花があげたいのは吉田松陰が塾生達に教える姿勢にあったと考えています。

 なぜなら吉田松陰は塾生達に対して「私はあなた達に何かを教えることはできない。でも一緒に考えることはできる」と教えています。

 決して先生になろうとはせず、塾生からも学ぼうとしたのです。

 しかも吉田松陰で面白いのは、松下村塾だけでなく、どんな所でもこの考えを実行していることです。

 というのも例えば松蔭はペリーの船で密航しようとしたことで、長州藩の牢獄にいた時でも教育をしています。

 同じ牢獄の中にいる無期懲役の殺人者などと勉強しているのです。

 しかもそのやり方が実にユニークです。

 悪いことをする人でもかならず字がうまいとか、俳句や和歌ができるというような特技があります。

 いえ、悪いことをするだけに頭がよく、手が器用です。

 だから松陰は牢獄の入っているすべての囚人を先生にしてしまいました。

 この人は字がうまいのでこの人からみんな字を習おう。

 この人は和歌が得意だから、この人からも教わろうと、武士である松陰自身がまず生徒になったのです。

 さあこうなると牢獄にいた人達も悪い気はしません。

 退屈ですし、喜んで自分の得意なことを教え、松陰からも世の中の動きを教わりました。 それで実は牢獄の囚人さえ、「今の日本を何とかしないと大変なことになる」と気づいて、松陰が死んだ後、長州藩と幕府の戦争には参加しています。

 松陰の「すべての人は先生」という考えは、見事に囚人さえ動かしたのです。

 だから紫陽花は松下村塾でもこの考えは大きな影響を与えたと考えています。

 というのも例えば松陰が松下村塾にいない時です。

 それでも松下村塾はちゃんとやれました。

 松下村塾の塾生が先生になって教えたので、十分にやっていけたのです。

 しかも松陰の「すべてが先生」という考えは、塾生達にも自分は松下村塾の一員だという強烈な意識を生みました。

 ですから久坂玄瑞が高杉晋作を松下村塾に誘ったように、塾生が塾生を入れています。 松下村塾は塾生から塾生へと広がっていったのです。

 紫陽花はこれも面白い現象だと思います。

 でも松陰の「すべては先生」という考えのすごいところはやっぱり坂本竜馬などの他藩の志士を受けいれられたことだと思います。

 たとえ身分が低くても、他藩のものや、竜馬のような浪人でも自分達の知らない情報や、素晴らしいアイデアを持っているのなら先生だと素直に聞くことができました。

 それが坂本竜馬の薩長連合のアイデアにつながり、第2次長州征伐から長州藩を救うことができたのだと思います。

 何の身分もない坂本竜馬を、先生と受入れられる謙虚さがあったから成功したと紫陽花は思うのです。

 と同時に紫陽花は「すべては先生」という考えは松下村塾の塾生を大きく成長させたと思います。

 特技があれば誰でもが先生になれるという考えは船井先生のいう長所をどんどん伸ばすやり方です。

 これに松陰の天才的な人の才能を見抜く力。

 初めて高杉晋作と会った時に晋作の書いた詩文集を読んだだけで、その性格をずばりと当て、こいつは世の中を動かす人間だと確信したり、伊藤博文にあなたは政治家の才能があると見抜く力が加わった時に、ものすごい力を発揮したと思います。

 これが紫陽花が考える二つ目の秘密なんです。

 どんな人も先生だと思う吉田松陰の考えが塾生を大きく成長させた訳です。

 

☆「松下村塾の縁」☆

  

 しかし紫陽花が吉田松陰で一番評価しているのは、実は、縁に対する考え方です。

 これが吉田松陰が亡くなった後も松下村塾の塾生が成功した最大の理由だと思います。

 というのも松陰が幕府に処刑された後も松下村塾の塾生達の団結はなくなりませんでした。

 高杉晋作のような身分の高い人もいれば、伊藤博文のような身分の低い武士もいます。

 武士でない百姓や魚屋さんもいました。

 だから普通なら松陰がいなくなったらあの時代身分の違いから、団結できるはずがないのに、松下村塾の団結は壊れませんでした。

 蛤御門の戦いや四か国との戦いなどの大敗北を経験した後でも、松下村塾の団結は壊れず、やがて高杉晋作の元に団結します。

 高杉晋作がたった一人で始めた長州藩の倒幕運動に手を貸したのも松下村塾の塾生です。

 松下村塾の団結はそれぐらい強かったのです。

 しかも松下村塾の団結は幕府を倒して明治政府ができた後も続きました。

 山田顕義や品川弥二郎などを世に出したのも松下村塾の力です。

 正直いって松下村塾の塾生の中にも、松陰などの人物や物事に感激する素質、志のない人は消息が分からない場合がありますが、一緒に行動している人は大抵成功しています。

 才覚がない人でも松下村塾にいたというだけである程度の身分になれました。

 明治政府の一大政治閥になれたのです。

 ですが紫陽花はこれも松陰の教育の力だと思います。

 久坂玄瑞や高杉晋作などのリーダーを決め、団結することを教えています。

 高杉の識、久坂の才があれば天下に恐れるものはないといって、二人が協力することを教えています。

 松下村塾の人達にお互いに協力することの大切さを何度も何度もいっていたのです。

 ですから松下村塾の人達はその教えを守ったのだと思います。

紫陽花はそう考えると改めて松陰の偉大さに声も出ません。

 死んだ後も、個性一杯の人達をまとめられた力ははかりしれないと思うからです。

 と同時に縁を大切にするというのは実は松下村塾だけではありません。

 明治政府が誕生した後、薩摩と長州の仲は犬猿だったといいますが、それでもなかなか仲は壊れませんでした。

 大きな危機があると団結して日清、日露戦争にも勝ちました。

 同じ時代を戦った同志との縁は大切にしたのです。

 だからこのことも紫陽花は松陰の教えが明治政府の中に残っていたような気がします。

 それぐらい吉田松陰という人は偉大な人物なんです。

 そのことを皆さんに知って頂けたら幸せです。

 では皆さん今後も合縁で。・・・・・・

                平成10年10月28日

 

 追伸、根幹志塾は吉田松陰の松下村塾を参考にしています。

 21世紀に素晴らしい社会を創る為にも、今こそ素晴らしい教育ができる場を全国に創っていこうとしているのです。

 またその為にも紫陽花が書いた3つの基本は守るつもりです。

 というのも例えば最初の時事問題です。

 今の時代も、残念ながら時事問題がやっている所があるかといえば、紫陽花はやっている所をないと思います。

 だって高校や大学でも時事問題をやっている学校なんかありません。

 そんなことをやったら思想教育だということで、今の文部省が黙っていませんし、船井さんが紹介しているたくさんある本物のグループでも時事問題を完全にはやっていないと思います。

 今の日本はどうして行政改革ができないのか。

 日本の銀行はどうしたら立ち直れるのか。

 そういったことを真剣に議論できる場はないのです。     

 なぜなら浅井隆や松藤さんにしても、情報誌を使って今の世界経済や日本経済の動きを一方的に読者に伝えることはしても、双方向で議論することはできません。

 紫陽花は浅井隆さんがやっている海援隊や、松藤さんの牛之宮の情報もありますが、いろんな情報を提供するだけで、人数が多すぎて時々問題で議論をすることは不可能だと思います。

 それぐらい今の時代でも時々問題を考えることは難しいのです。

 ですがそれが根幹志塾ではできるかもしれません

 実際に広島で小野晋也衆議院議員を交えて今の教育について議論したそうですが、紫陽花はそんな場を関西根幹志塾でもできたらいいなあと思っています。

 時々問題をやりたい。

 これが紫陽花が関西根幹志塾をやりたい一つの理由なんです。

 と同時に2番目のすべての人が先生だというのも実行していきます。

 だって関西根幹志塾では誰も先生と呼ばないことになっています。

 武田さんもさんづけです。

 メンバーすべてが先生なんです。

 そして3番目の縁を大事にしていくですが、これは今後やってみない事には分かりません。

 ただ紫陽花が根幹志塾で縁を持った人との縁は大切にしますし、他の人も大切にしてくれると信じています。

 それでしか約束はできません。

 でもきっと一生縁を大切にできる場に根幹志塾をしたいです。

 一人でも多くの皆さんが縁を持ってくれることを心から祈っています。

 

     

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