Counter

                                                   

                                         縁の花

                     (魂が成長する正直な心と心の情報誌)

                                第130号      

                          戦国時代済度(供養)

               

                          ◎「武田家の済度(供養)」◎

 皆さんは、紫陽花の前世が武田信玄の息子かもしれないという事はご存知でしょうか。

 本当か、そうでないかは確かめようがありませんが、河内先生の済度に縁の中で、一番正確な霊言を出している前沢はるみさんという女性に、以前ガイアヒーリング長野(信濃)で合った時に、紫陽花は昔からなぜか戦国時代に活躍した武田家に惹かれるといったらあっさり信玄の息子ですといわれてしまったのです。

 ただ信玄には7人の息子がおり、前沢さんはそれ以上は教えてくれなかったので、一体誰なのかは分かりませんが、一番信用できる情報としていわれているのです。

 また、それだけでなく、その事をさっそく縁の花の本当ご案内コーナーに載せたら、「本当ですか、私は信玄の側室だった諏訪の姫だといわれているのです」という山之内亜衣さん(長野県)が現れ、紫陽花はびっくりしました。

山之内さんとはガイアヒーリング長野で縁を持ったのですが、こんな事をいってきた人は初めてです。

武田家の後を継いだ信玄の四男、勝頼の母親が諏訪の姫なので、もしかしたら彼女は紫陽花の前世のお母さんになるかもしれないのです。

本当に不思議な縁で、紫陽花は前世親子の関係かもしれない山ノ内さんの縁を大切にしています。

縁の花をずっと読んで頂いているのです。

しかも紫陽花の周りには不思議と武田家と係わりのある読者がいます。

 広島で根幹志塾をしている武田康裕さんの先祖は甲斐の武田家の落ち武者ですし、神戸の小田切敬子さんの先祖、小田切家は長野県に小田切という土地があり、家系図をみると信玄の家臣として使えていたそうです。

 そんな事が次々と分かり出したのです。                     

 だから紫陽花はとりあえず前世武田信玄の息子だったと信じる事にしています。

 紫陽花の周りで、前世に係わる人が現れるのは大きな意味があるはずだし、それも戦国時代の武田家に係わる人ばかりというのも、何かの天のメッセージだと思うのです。

 しかしでは、それが一体どういう意味があるのかといったら、紫陽花自身も分かりません。

 長野の山之内さんは諏訪家や武田家の供養をしたり、何かをやろうとしていますが、まだはっきりとは形に現れていないからです。

 でも紫陽花はきっと将来は、山之内さんの縁の方と、紫陽花の縁の方や小田切敬子さんや武田康裕さんの縁の方達で、何か素晴らしい事をやるのではないかと思っています。

 武田家の霊達が何かをやらしたがっている。

 いえ、何かをやろうと誓い合ってこの世にお互いに生きていると思うのです。

 ですから紫陽花はそれがはっきりするのをずっと楽しみにしています。

 きっと新しい21世紀には何か素晴らしい事をするようになると、今からワクワク・ドキドキしているのです。

 だけどもちろんそんな楽しい事だけではなくて、武田家の供養をする事も大切です。

 特に信玄の息子は、清和源氏以来ずっと続き、信玄の時代には、戦国時代最強といわれていた武田家を信玄没後、わずか10年で滅ぼしています。

 多くの人が武田家の為に死んでおり、今も救われていない霊達もいるはずです。

 特に信玄息子の中でも後を継いだ勝頼の責任は大きく、一番恨まれているだろうし、他にも武田家を裏切った穴山氏や木曾氏、滅ぼした織田信長など恨んでいる霊達はいると思うのです。

 ですから紫陽花は、この縁の花の中で、武田家や戦国時代に死んだ多くの霊達の済度をしたいと思います。

 今、テレビ番組や本などで戦国時代の事も多く取り上げられて、かえってあの当時分からなかった事が分かったり、戦国時代の事に詳しくない人が誤解している事は多いです。

 紫陽花はそれを皆さんが知る事で、きっと救われる霊がいると思います。

 特にこの縁の花の読者には、河内先生や済度の縁に付いている人も多いです。

 こんな済度に係わっている人達に読んで頂く事で、武田家や戦国時代に死んだ多くの霊達が救わせて欲しいのです。

 「御旗・楯無も照覧あれ」(御旗・楯無とは武田家の先祖在来の家宝です。当主が一度この言葉を発して誓ったら、臣下の者は、たとえ議論百出していても、もはや異見をとなえてはならない事になっていました。意味は武田家のご先祖様、どうかごらん下さい)

 

                   ◎「武田晴信・(甲斐・信濃済度)」◎

 日本の戦国時代に最強といわれ、近隣諸国から恐れられた軍団がいます。

 信玄率いる武田の騎馬軍団です。

 この武田家はとにかく強かったです。

 生涯に信玄自身戦で負けた事は、若い頃に2度あった以外はありません。

 上杉謙信とも互角でしたし、徳川家康にも唯一生涯最大の負け戦をプレゼントしています。

 あの織田信長がもっとも恐れ、いろんな贈り物や戦略結婚(勝頼と信長の養女結婚、嫡男信勝誕生後死す・信長の嫡男信忠に五女松姫婚約)をしてご機嫌をはかっていたのです。 それが武田家なんですが、皆さんにまず知って欲しい事は、武田家は由緒ある家柄だという事です。

 何しろ新羅三郎事、源義光を始祖とする甲斐源氏は、総家武田家の信玄にいたって19代になります。

 約500年ちかくずっと甲斐の国を治めていたのです。

 だから武田家は名門も名門です。

 斯波氏の家臣から独立した織田家、源氏の出だと途中から身分をお金で買った徳川家とは違います。

 ましてや百姓から出てきた豊臣とも比較になりません。

 信長に桶狭間の戦いで破れた今川家と匹敵するぐらいの名門なんです。

 ただしこの武田家がずっと続いた陰にはたくさんの血が流れています。

 古くは「後三年の役」から始まって、平家を打倒した「富士川の合戦」などにも甲斐源氏として活躍し、「承久の変」などを経て、南北朝期は北朝に属していますが、やがて、女婿の上杉氏憲の乱に巻き込まれて、受難の時を迎えています。

 戦いにあけくれた中で、13代当主の信満は自刀、14代当主信重は高野山に出家したりしながらも何とか武田家を守ってきたのです。(南無阿弥陀仏)

 しかも特に応仁の乱以後、下剋上になってから、甲斐の国も自体も荒れました。

 管領の細川家、斯波家、畠山家や侍所の山名家、赤松家、一色家、京極家や山口県の大内家、大友家、土岐家、六角家などの多くの名門の家がそんな荒波に飲まれて滅びましたが、武田家も危なかったです。(多くの滅んだ守護大名達に南無阿弥陀仏)

 それを信玄の父になる信虎は国内の小山田氏、大井氏、栗原氏、逸見氏、穴山氏などとの戦に勝つ事で、従わせてきたのです。

 この時に多くの人が戦で死んでおり、その人達の犠牲で甲斐一国が統一されたのです。(南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏)

 しかしそんな信虎も名君とはいえませんでした。

 戦は強かったのですが、残忍な性格だったと言われています。

 気に入らない家臣はすぐに殺しますし、百姓などの民の事も全然考えませんでした

 生きた妊婦の腹をかっさばいて子供を取り出させたというような伝説が残っており、悪政を引いたのです。

 多くの民が苦しんだのです。(南無阿弥陀仏)

 ですから信虎の嫡男、晴信(後信玄)は家臣と計って、後を次男の信繁に継がせようとした信虎を、駿河の今川義元の所に見事に追放しました。

信虎が食べていけるだけの費用は毎年ちゃんと渡した上で、強制的に隠居させたのです。

そして武田家は、後を継いだ21歳の若き晴信によって、一躍歴史に名を残す事になります。

晴信は戦に強いだけでなく、民政家としても優れていました。

織田信長や徳川家康とは違って、「甲州法度之次代」という家法を作り、治水に力を入れて、信玄堤と呼ばれるものを造ったり、金山の開発に力を入れたので、甲斐の国は豊かになりました。

 年貢は安くなくても公平なので名君として、今も山梨県では人気があり、県民は信玄を慕っているのです。 

 また戦の方もどんどん他の国を支配する事になります。

 この当時、駿河の今川、相模の北条という大国がいるので、南にも東にもいけません。

 おのずとまだ国内が統一されていない、北の信濃の国を攻めたのです。

 と同時にこの戦いで、晴信も多くの人を殺す事になります。

 まず最初に諏訪が狙われ、晴信は妹の夫である諏訪頼重を攻めて、捕らえると自刀させています。

 策略を持って、諏訪一族の高遠頼継を誘って、諏訪を攻め、その高遠頼継も破って、諏訪を支配したのです。

 しかも晴信はその事で、頼重の子供を生んだ妹の禰々(ねね)をショックの上に病死させ、何と頼重の娘を強引に側室の一人にしています。

 家臣は父親を殺した娘を側室にするのは反対だったそうですが、召し抱えた山本勘助という軍師(はっきりとは分からない。実在の人物)の助言もあって、この娘を自分のものにしたのです。

 それぐらいこの娘は伝説に残るぐらいの美貌の持ち主だと言われています。

 この諏訪の姫が長野県の山ノ内さんの前世かもしれないのですが、とにかくこの姫が、12、13歳の時に、強引に信玄の側室にされ、4年後に勝頼を生むと27歳の若さで病死しています。  

晴信は美しい諏訪の姫を自分のものにする為に、こんな残酷な事をしているのです。

 ただそれでも意外と信玄と諏訪の姫の仲はよく、信玄が一番愛した女性だといわれており、山ノ内さんによれば、この姫が諏訪の領民にちょっとしたわがままで苦しめた事もあったそうです。

 山ノ内さんはそれで今も諏訪の民の供養していますが、そんな事もあったそうなんです。 でもそんな悲劇は諏訪の地方だけではありません。

 諏訪をものにした後、信玄は高遠頼重の高遠領はもとより藤沢頼親の箕輪城を攻略して、上伊那の地方も手に入れました。(南無阿弥陀仏)

 ちゃくちゃくと信濃に侵入していき、佐久郡では志賀城の笠原新三郎を攻略する時には、助けにきた関東管領上杉憲政の援軍を浅間山麓の小田井原で散々に破り、その生首一千を城の外に並べて、上杉軍が負けた事実を信じない志賀城の城兵に見せました。

 そんな残酷な事をした上で、降伏した志賀城の男は、金山で働かせ、女や子供は売ったり、女郎にしたのです。

 そんな実利的な行為で、終生悪評を買うような事もしました。

 佐久郡の人達で、今も恨みに思っている霊達もいるかもしれないのです(南無阿弥陀仏)

 しかしそれでも晴信の進行は進み、水内郡、安曇郡、小県郡、植科郡を支配している村上義清や筑摩郡の小笠原長時らと戦い、多くの兵を亡くしています。

 特に村上義清との戦いでは、上田原の戦いで、育ての親、傅役の副将板垣信方や甘利虎康、足軽大将の才間河内神、初鹿野伝右衛門などの数百名の兵を亡くし、同じく村上義清の戸石城を攻撃した時には、見事に破れています。

 侍大将の横田備中守高松など数百人を亡くしました。

 まだ若かった晴信は少し奢る所があり、それで家臣の止めるのも聞かずに、戦を仕掛けて破れたのです。

 でもその敗戦で信玄はますます強くなりました。

 多くの兵の犠牲の上で、信玄は慎重にことを運ぶようになり、軍略などを用いるようになりました。

 上田原の戦いで破れた後、勢いに乗った小笠原長時や諏訪の西方衆を塩尻峠で奇襲を仕掛け、大勝しています。

 千人余りの兵がここで死んでいるのです。(南無阿弥陀仏)

 しかも攻略に失敗した戸石城も、翌年武将の真田弾正幸隆などの活躍で城兵を内応させて乗っ取りました。

 村上義清も戸石城を取られた事で、一気に勢力をなくし、とうとう晴信から追い出されました。

 上杉謙信(この時は長尾景虎)を頼って、信濃から越後に逃れ、上杉謙信の元で、武田家と戦ったのですが、結局二度と再び村上親子は領土を取り戻す事はできませんでした。

 無念のまま、村上氏は、歴史上からその名前を消したのです。

 

                  「上杉謙信(川中島)上野・義信)済度」 

 歴史上有名な川中島の戦いは、晴信が村上氏や高梨政頼を信濃から追放した事から始まります。

 信濃を追い出された村上氏や高梨氏は、隣国の越後の上杉謙信を頼りました。

 義を大事にする上杉謙信は、本拠地春日山城にちかい所まで、武田家の脅威が迫った事にも危機間を持って、北信にある川中島を中心とした所で、合計5回、11年をかけて戦う事になります。

 晴信はこの間に名前を信玄と改めますが、33歳から44歳という貴重な時間を、上杉謙信との戦いに注ぐ事になるのです。

 しかし今から考えれば、この戦いは意味のない戦いでした。

 信玄はこの戦いで天下取りの野望を実現できなかったからです。

 というのももし上杉謙信が越後で生まれていなかったら、武田家は、信濃だけでなく、越後も手にいれる事は簡単だったと思います。

 信玄は信濃を手にいれるのに、12年かかっていますが、甲斐(22万石)信濃(40万石)合わせて62万石の兵力を持ってしたら、越後を平定するのに2、3年ですんだはずだからです。

 そうなれば100万石の大大名です。

 そのまま北陸を進んで、越中、能登、加賀と進んでも良かったし、駿河に目を向けて、今川と対決して、東海道から、駿河、遠江、三河、尾張と進んでも良かったと思います。

 織田信長が台頭する頃には、もうどこも相手にできない巨大な勢力になっていたのです。 何故なら、この当時甲斐、信濃の兵と越後の兵が組めば、日本で互角に戦える兵はいませんでした。

よく武田は騎馬軍団だから強いといわれていますが、この時代、武田家でも、馬だけに乗った騎兵の存在がある訳ではありませんでした。

武田家が強かったのは、甲斐、信濃の兵隊、一人一人が強かったのです。

よく徳川の三河武士は強いといいますが、甲斐、信濃は比較にならず、互角に戦えるのは、越後の強兵ぐらいだったのです。

だからライバル上杉謙信さえいなかったら、越後も治めた武田家が一気に京都を目指し、天下を取っていたはずなんです。

 少なくてもそう思っている武田家の霊達は沢山いると思います。

 だけど残念ながら信玄はその上杉謙信と戦う定めでした。

 武田家が進むにはどうしても信濃は治めるしかなく、自然と国境が接する上杉と戦う宿命だったのです。

 ただ紫陽花が今考えれば、村上氏や高梨氏に北信の領土を返し、上杉謙信と和睦して、信濃の木曾を従えた上で、美濃の斎藤氏を攻める方法もあったと思いますが、そうなれば、天下取りを目指す今川と争う事になったかもしれません。

 いやいやながらも、上杉謙信と川中島で戦う運命だったのです。

 そしてこの戦いで、多くの兵が死んでいます。(南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏)

 特に第4回目の戦いは激戦でした。

 戦い自体は、山本勘助の考えた啄木鳥(きつつき)の戦いを採用して、見事に謙信に裏をかかれたとか、たまたま行軍中濃霧で相手が見えない中で、お互いが正面からぶっかってしまったという説がありますが、真相の程はまだ分かりません。

 死傷者はものすごく武田軍の戦死者四六三0名、負傷者七五00名、上杉軍の戦死者三四七0名、負傷者九四00名と言われています。

 日本の歴史始まって以来の激戦だったのです。

 しかもこの第4回目の戦いで、信玄は弟の信繁や、軍師の山本勘助、諸角昌清などを亡くしています。

 特に信繁は、父親の信虎が後継がせようとしたのを時も、兄信玄の力量を見抜いて、拒み、信玄が父信虎を追い出した後も、常に武田軍にあって武田軍の副将でした。

 決して信玄の事を兄とはいわず、一家臣として忠誠をしくし、豊臣秀吉の弟、秀長が一番尊敬した人物です。

 この信繁が、信玄が死んだ後ももし生きていたら、武田家の結束は壊れずに、紫陽花は武田家は滅ぶ事はなかったと思います。

 そんな信繁も兄信玄を守る為に、死にましたし、山本勘助ももし本当に武田家の軍師だったのならその損失は極めて大きかったです。

 山本勘助もまた、自分の作戦を謙信に読まれ、武田軍を危機に招いた責任をとって、信玄を守る為に死んだといわれているのです。

 でもそんな多くの兵士の犠牲の上で、武田軍は上杉軍に勝ちました。

 信濃の大半を手に入れたのです。

 またその後に信玄が目を向けたのは、西上野でした。

 相模の北条氏と組んで、関東から上杉を追い出す為にも、西上野を手に入れ、信濃の背後を固めようとしたのです。

 しかしこの信玄の選択は後で大きく響きます。

 最初は西上野など手に入れられると甘くみていた信玄も、上野随一の堅城、箕輪城を持つ、長野業正には手をやきます。

 信玄は結局箕輪城を落としたのは、長野業正が病死した後でした。

 西上野の岩びし城、倉賀野城などを落とし、箕輪城も永禄九年、落とすと、長野業盛を始めとした長野一族を滅ぼしたのですが、(南無阿弥陀仏)それに5年の歳月をかけてしまいます。

 上杉謙信の戦いの決着はついておらず、信玄は全力をあげられなかったのです。

 そしてその間に桶狭山の奇襲で、今川義元を破った織田信長は、尾張を統一し、美濃の斎藤氏を追い出して、尾張、美濃、110石の大大名になっていました。

 武田家でも及ばない国高を持ってしまうのです。

 しかもその織田信長は足利義昭を奉じて信玄よりも先に京都を目指しました。

 京都の周りに有力な大名はおらず、織田信長は、京極氏などを破ると京都に入り、瞬くまに将軍家の名声と武力で近くの大名を従わせたのです。

 だから信玄はこの信長の動きに焦りました。

 西上野に目を向けず、美濃の斎藤氏を助けていたら、織田信長が力を付けるのを防げたと思いますが、この当時の信玄には京都を目指して、天下を取るという明確な意志はまだなかったのです。

 ですから信玄は、信長に対抗する意味でも、この後駿河の今川を攻める事になります。

 これももっと早くしていたらと思いますが、信玄は信長の動きをみて、やっと天下取りの意志をはっきり持つ事になるのです。

 でもこの駿河侵攻で、信玄は思わない身内の反逆を受けました。

 嫡男の義信の嫁は、今川義元の娘です。

 有名な武田・今川・北条の三国同盟で、義信は今川の当主、氏真の妹を嫁に貰ったのです。

 それで義信は義元がいなくなって、勢力を衰えているといっても、同盟国の今川を攻めるべきでないと反対すると、何と信玄が父信虎を追い出したように、自分も信玄を追い出す、謀反を企てたのです。

 しかしその試みは信玄の知る事になり、義信は捕らえられてしまいます。

 実はこれには、義信が(母公家の三条氏)自分よりも亡くなった諏訪の姫の腹違いの弟である勝頼を可愛がっている事に不満を持っていたからだともいわれ、親子の仲はよくなかった事が原因だと言われています。

 武田家は信玄の元で、一族、重臣、家臣が団結しており、裏切りものが出た事はなかったのですが、義信だけは別だったのです。

 それで信玄は義信を幽閉し、やがて義信は死んでしまいます。

 何とか信玄自身も、傅役の飯富虎昌の詰め腹を切らせる事で、嫡男の義信を許そうとしたらしいのですが、義信の反抗は収まらず、結局、義信は自害、もしくは病死しています。 義信に付いた被官や同心衆も大量に成敗する事になったのです。(南無阿弥陀仏)   一説には、この事件には、信玄が実力主義で家臣を引き立てるのに対して、不満を持った従来の譜代の家臣が、義信を押し立てようとし、それに義信が乗ってしまったといわれていますが、曽根周防や長坂源五郎などの家臣が成敗されているのです。     

 

                  ◎「天下取り、今川侵攻・三河済度」◎

 意見の違う嫡男義信を排除して、不満分子の膿を出しきって、家臣の動揺をおさえた信玄は、いよいよ駿河・遠江の今川に侵攻しました。

 信長と対決する為にも、港を持つ駿河の国は必要でした。

甲斐、信濃は山国で、海との境はなく、武田家にとって海に面している国を持つ事は悲願でした。

天下取りの野望を実現する為にも、海からの物資の輸送は必要です。

武田家がますます強く、豊かに成る為にも、いい港のある駿河は喉から手が出るぐらい欲しかったのです。

それを手にして初めて、雪の積もらない東海道から京都を目指して、武田軍を上落させられるのです。

しかしこの駿河侵攻は、義信の予測したように、最初はうまくはいきませんでした。 

 徳川と組んで、駿河に侵攻して、今川氏真を駿河から追放した(今川家滅亡・南無阿弥陀仏)のはいいのですが、その後武田家は、同じ三国同盟を結んでいる国、北条氏と駿河をめぐって戦う事になりました。

 いつの間にか徳川も北条氏と組み、武田家は四面楚歌になりました。

 上杉、北条、徳川、織田という敵に囲われ、一端手に入れた駿河から追い出されたのです。

 しかし信玄はそんな事で諦める人間ではありません。

 強烈な意志を持って、動揺する家臣をリードーしてこの難局を乗りきりました。

 まず北条氏の本拠地小田原城を攻め、帰りに三増峠(みませとうげ)で待ち伏せしている北条氏照、氏邦兄弟を破ると大勝しました。

 北条氏は三千人もの戦死者を出したのです。(南無阿弥陀仏)

 またその後に信玄は、本拠地を攻められた事で、北条氏政が駿河にいれた兵を小田原城などに戻すのを待って、手薄になった駿河に攻めました。 

 駿河には信玄の予想通り、北条氏の兵は少なく、信玄は一気に蒲原城を攻め落としました。

 信玄の見事な陽動作戦が成功したのです。

 しかも攻撃を負かされた勝頼は、北条氏康の甥である北条新三郎などの城兵七百人を皆殺したのです。(南無阿弥陀仏)

 それで駿河の兵は武田家を恐れ、後は駿府城、花沢城も次々と降伏すると、武田家は、駿河を手にいれました。

 北条氏も駿河を諦めたのです。

 と同時に続いて北条氏とは和睦もなりました。

 信玄の好敵手、北条氏康は、信玄を高く評価しています。

 息子の氏政などに、「天下は信玄が長生きすれば、おのずと信玄の手の中に入る。信長はやり方が残酷すぎるので、長くは持たないだろう」と遺言すると、武田家との再び手を結ぶ事を命令すると死んだのです。

 さあこの北条氏との同盟は、信玄の上落に大きな道を付けました。

 信玄は背後の北条氏を気にする事無く、三河・遠江の徳川氏を攻めました。

 足助城などを落とし、二連木の戦いなどで徳川勢を破って領土を5万石ずつ攻め取ったのです。(南無阿弥陀仏)

 そしていよいよ信玄は元亀3年(1572年)上落の兵を向けました。

 甲斐、信濃、駿河、西上野、一部の(飛騨、遠江、三河)などの122万石、3万の兵を動かして、三河・遠江・美濃を3方向から侵入しようとしたのです。

 でもここで信玄は病になってしまいます。

 労咳か、胃癌ではなかったといわれているのですが、体調がよくなかったのか、兵の出発を2、3日送らせるのです。

 しかし信玄はそれでも自分の天下取りの野望を実現させる為に、死を覚悟して軍を指揮します。

 まず遠江・三河の徳川家を破って、翌年、尾張・美濃を織田家から奪い、京都を目指して織田信長と対決するつもりだったのか、それとも徳川家を素通りして、信長のいる所まで一気に進んで、決着を付けるつもりだったのかは歴史の謎ですが、武田家が信玄の元で家臣から一兵卒まで、京都を目指していたのは間違いありません。

 信玄自身今まで武田家の為に死んでいった息子の義信や弟の信繁などの多くの味方や敵の死を無駄にさせない為にも京都を目指し、家臣もそんな信玄の夢を実現させたかったのです。

 だからこの時の武田軍は強く、怒濤の侵略でした。

 遠江の抵抗する城を抜くと、遠江の二俣城を信玄率いる2万2千人、三河に山県昌景が5千人、美濃の岩村城を秋山信友が3千人で攻めたのです。                       

 しかもこの時に相手の信長は、信玄が中心となって結成した大包囲網によって大きな危機を迎えていました。

 将軍の足利義昭、越前の朝倉、近江の浅井、大和の松永、石山本願寺などが組んで、信玄の上落を待っていました。

 信長はこれらの勢力の抵抗を受けて、四面楚歌の為、徳川家康にさえ、援軍を殆ど送れなかったのです。

 信玄が極めて有利だったのです。

 ですから戦いは信玄の思ったように進みました。

 2カ月と予定よりも時間がかかりましたが、救援にきた徳川の兵を一言坂で防ぐと、水の手を切って二俣城を落とし、美濃の岩村城は、部下の秋山が、岩村城の未亡人(信長の叔母)を側室にする事で落としました。

 信玄はその後、浜松城に籠もっている徳川家康を、三方ヶ原に見事に誘い出して、織田信長の援軍3千人と徳川勢8千人、合計1万1千人と戦いました。

 武田軍は三河を攻めた5千人と本隊2万2千人の合計2万7千人もおり、戦は徳川・織田軍の惨敗でした。

 三河武士が強いといっても、倍以上の武田軍に勝てる訳もなく、徳川家康は部将の鳥居信元、成世正義、米津政信、松平康純、夏目正吉など千二百の戦死者を出しました。

 織田の援軍も佐久間信盛は遠く岡崎まで逃げ帰り、平手汎秀は討ち死にしたのです。(南無阿弥陀仏)

 こうして武田信玄は最後の戦にも勝ちました。

 徳川家康に取っては生涯、最大の負け戦となりました。

 この敗戦の時の表情を徳川家康は絵師に書かせ、教訓とすると、もう二度と負ける事はなかったのです。

 しかも関ヶ原の戦いの時は、自分が信玄に三方ヶ原に誘い出されたように、石田三成を関ヶ原に誘い出すと戦に勝ちました。

 信玄の戦法を困った時に思いだし、信玄のおかげで天下が取れたとさえいったのです。

 だけど徳川家康にそこまで畏敬をさせた信玄は、その後、三河の野田城を攻めている途中で死んでしまいます。

一説には夜中、野田城の城兵が吹いた笛の音を聞いていた時に、鉄砲で撃たれて暗殺されたという伝説もありますが、真相は病に倒れたといわれているのです。

と同時にそれは武田軍の上落中止だけでなく、信長包囲網の崩壊を意味しました。

信玄が亡くなった事を知った信長は近江の浅井、越後の朝倉を滅ぼし、足利義昭を京都から追放しました。

何と浅井久政・長政親子や朝倉義景の骸骨で酒盛りを造らせ、家臣に酒を注いだものを飲ませたのです。(南無阿弥陀仏)

 

        「武田勝頼(長篠の戦い・天目山の滅亡)」

 信玄の後を継いだのは四男の四郎勝頼でした。

 後を継ぐはずの長男義信は死に、二男龍芳は幼児より目がみえず、三男信之は十歳で亡くなっています。

 勝頼が後を継ぐのが正当だったのです。

 しかし信玄はこの勝頼に実は世継ぎとしての全権を与えていませんでした。

 これが信玄最大の失策だといわれています。

 嫡男の義信に反抗された事もあって、信玄は世継ぎには慎重でした。

 勝頼の勇猛果断だけど、思慮の足りない性格に不安を持っていたのか、後継ぎを勝頼の子供信勝にし、勝頼には陣代として十六歳まで後見する事を命じたというのです。

 でもこれはやはり勝頼にはつらい事でした。

 信玄は天下取りの事で頭が一杯で、自分が死んだ後、武田家の後継ぎの座を勝頼にちゃんと引き継ごうとはしなかったのです。

 家臣や一族の者に勝頼を頼む。

 盛り上げてくれるような事をいった資料さえないのです。

 だから信玄が死んだ後、武田家は勝頼を中心に最後までまとまる事はありませんでした。 本来は諏訪地方を治めるはずだった勝頼は、滅ぼされた諏訪の姫の子供という事もあって、甲斐出はないという景口を叩く家臣も多く、一族の中にも穴山氏(信玄の二女と結婚)のように協力しようとしないものもいたのです。

 その上、勝頼にとって信玄は偉大すぎました。

 家臣をまとめる統率力から戦略・戦術にまで、信玄に及ぶ訳がなく、父信玄を超えたいという焦る気持ちで一杯でした。

 信玄の家臣達はそんな勝頼に対して「先代のお館様はそんなことをなさいませんでした」というようなことをいうばかりで、勝頼自身を認めようとはしません。

 従来の信玄の家臣と、勝頼や勝頼が重視する新しく台頭した家臣、長坂釣閑や跡部大炊助などとの間で、対立ができつつあったのです。

 武田家は内から滅びようとしていたのです。

 しかもその上に、織田信長にしろ、徳川家康にしろ、信玄が亡くなったと知った時から、遠慮なく武田家を攻め始めました。

 信玄は死ぬ間際「自分が死んだ事を3年間は隠せ」「その間に内を固めろ」と遺言したのですが、勝頼はそんな信玄の忠告を守らずに、逆襲に出ました。

 伊勢長島の石山本願寺の一揆衆などは信長に全滅させられ(南無阿弥陀仏)次々味方が滅ぼされ、信長の勢いが大きくなっていくのを黙っては見ていられなかったです。

 それで勝頼は美濃の明智城や遠江の高天神城の落としました。(南無阿弥陀仏)

 信長や家康に、武田家は健在だという事を見せつけたのです。

 そして勝頼は信玄が亡くなった3年後、三河の長篠で運命の長篠の戦いをする事になります。

 明智城や高天神城を落とした事で、織田・徳川は大した事はないと奢った勝頼は、家臣に自分の実力をみせたいという思いがあり、1万5千人で長篠城を囲み、援軍にきた織田信長(3万人)、徳川家康(1万)連合軍と戦い、1万人ちかい戦死者を出す事になったのです。 歴史上に残る敗戦をしたのです。

 その上に勝頼は、信玄が今まで大事に育ててきた大切な家臣、「四名臣」といわれていた、山県昌景、馬場信房、内藤昌豊の重臣3名や武将の原昌胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次、三枝守友、武田信実などを亡くしてしまいます。

 もう二度と取り返しのつかない程の家臣を亡くしてしまい、武田は再び勢力を挽回する事はできませんでした。

 兵は補充できても、優れた家臣は簡単に補充できなかったのです。

 しかしだからといって、この長篠の敗戦は、今までいわれているように、勝頼が、馬鹿で、柵を造って鉄砲3千挺を、3段構えで待ち構えていた織田・徳川連合軍に騎馬でやみくもに、突入したからではありません。

 何故なら武田軍は、騎馬隊という馬だけの隊を持っていませんでしたし、戦死者の死体を見ても、柵のちかくで死んだ人はそんなに居なかったからです。

 真相は鉄砲隊に突入したのではなく、あくまでも柵を倒そうとして鉄砲を防ぎながら近づいたものの、柵を倒す事ができず、やがて疲れた所を大軍の織田・徳川連合軍に攻められて、破れてしまったというのが今の定説なんです。

 でもそれでもこの敗戦は思慮の足りなかった勝頼の責任です。

 家臣が反対するのにもかかわらず勝頼は、織田・徳川が柵を造っている所まで武田軍を動かしたからです。

 もしそうせずに形勢が不利とみて撤退するなり、長篠城を囲みを解かずに、本陣をちかくの鳶ノ巣山に移して持久戦に出れば決して負ける事はなかったのです。

 武田軍に織田・徳川連合軍がまともに戦って、勝てる訳がないからです。     

 またこの長篠の戦いは、織田信長が、武田軍を柵まで近づける為に、部下の佐久間信盛にわざと織田を裏切るという事を信じさせる汚い手を使ったとか、織田軍は武田軍を恐れて柵などを造って最初から戦意がないと思わせて油断させたともいわれています。

 勝頼はその策、謀略に引っかかったのです。

 しかも一族の穴山氏や武田信豊(信繁の子供)は勝頼に断わりもなく、戦が不利とみると勝手に戦場から離れて、損害を大きくし、信玄の元で育った家臣達は、後を継いだ勝頼に失望していたのか、信玄に殉死するかのように、自ら死んでいったのではないかといわれています。

 武田家の家臣達はあんなに多く死んだ裏には、こういった事があったのです。

 だけどその敗戦のすべての責任は、勝頼が負うことになります。

 長く苦しい勝頼の孤独な内外との戦いはまだまだ続くのです。

 

 

                    「織田信長(天目山・武田家滅亡)」

 長篠の戦い後も、武田家は7年続きます。

 勝頼はその間、必死で武田家を立ち直らせようと努力しました。

 しかし現実は勝頼にとって良くないように進みます。

一族や家臣の中には、長篠の戦いに負けた勝頼を、頼りにならないとますます離れていくものもいましたし、今まで天下随一の軍団と恐れられていた武田家の評価も、長篠の戦いで負けた事で落ちました。

武田家を恐れなくなったのです。

でも勝頼はそんな武田家を守らなければなりません。

織田信長が、武田家に対してどんな残酷な仕打ちをするかは想像できたからです。

また武田家の四名臣で唯一生きている高坂昌信はそんな勝頼に、@戦列から勝手に離れた穴山氏や信豊の成敗、A北条氏との同盟、B勝頼の側近、長坂釣閑、跡部大炊助の罷免と若い有能な家臣団の再結成、C駿河の放棄と木曾路のてこいれの4つを提案しましたが、紫陽花はその案を勝頼が採用していたら面白かったと思います。         

 

さすが信玄が一番重要視した家臣だけあって、勝頼が高坂昌信を重く用いれていれば、武田家も生き残れる可能性は高かったのです。

 だけど勝頼が実行したのは、Bの北条氏との同盟だけでした。

 やはり改革をするのは難しかったのか、勝頼は北条氏との同盟だけを採用すると、北条氏康の六女を(17歳)嫁に貰い、北条氏との関係を強化したのです。

 ですがそんな勝頼に対して、徳川・織田連合軍は容赦しません。

 徳川家康は長篠の戦の後、二俣城を奪回し、織田信長は、裏切って武田の武将秋山信友と結婚した叔母になる遠山未亡人の居る岩村城を攻めました。

 遠山未亡人は(美貌の持ち主)亡き夫の変わりに、責任者として城兵の命を守る為に相手の武将と結婚したのですが、織田信長は決して許そうとはしませんでした。

 岩村城を半年ちかく囲み、長篠の敗戦で武田からの救援の軍を来ないので、やもえずに降伏した、秋山信友と遠山婦人を岐阜で極刑にしました。

 降伏すれば許すといって秋山信友を騙したのです。

 しかもそれからも勢いにのった徳川・織田軍の攻勢は止まりませんでした。

 徳川は奪われた高天神城を奪回しようとし、織田は木曾路に圧力をかけたのです。

 しかし勝頼も黙ってやられた訳ではありません。

 武田家を強化しようと努めました。

 長篠の戦いの敗因になった鉄砲をできるだけ集め、本拠地を守りにてきさない信玄がいた躑躅ヶ崎館から韮崎の北方の要害に新府城を造ると移したのです。

 ここで織田・徳川軍が攻めてきたら、新府城で籠城するつもりだったのです。

 信玄の「人は城、人は石垣、人は堀」という甲斐国内に、城を造らないという掟を破ってまでしたのです。

 でも勝頼は武将として大切な運がありませんでした。

 鉄砲を集めたり、新しい城を建てるには膨大なお金が必要です。

 なのに武田家の大事な金山は勝頼の代になると、掘り尽くしたのか出なくなりました。 武田家にお金はなく、勝頼は百姓からの年貢を厳しくとりたてるようになり、民からの恨みを買うようになったのです。

 また勝頼は織田信長のやり方を研究し、従来の各地方の家臣の領土を認めた上で、その頂点に武田本家がいる信玄のやり方を変えて、織田家のように、武田家が全領土を掌握して、その上で領土を与えるというやり方に変えようとしました。

 家臣との関係を強化し、新しい新府城には信長の岐阜や安土の城下町のように、周りに家臣の住む所も手配して、住まわせるようにしました。

 家臣との関係を、織田家のように、当主の号令で一斉に動くようにしようとしたのです。 でもそれはかえって家臣団の不満を呼び、反発される面もありました。

 民だけではなく、家臣団も武田家から離れようとしていたのです。

 ですから勝頼の戦いは時間との戦いでもありました。

 時間があれば勝頼の改革は成功し、新しい近代化した強固な武田家が生まれようとしていたのです。

 でも時間は待ってくれませんでした。

 予想外の事、信玄の変わりに、織田信長と戦っていた上杉謙信が後一歩の所で、信玄と同じように病死してしまったのです。

 脳卒中だといわれています。

 というのも上杉謙信は、加賀の国の手取り川で柴田勝家を大将にした織田軍を破り、いよいよ信長との一大決戦がまじかでした。(南無阿弥陀仏)                                越後・東上野・下野・越中・能登・佐渡・加賀などの大兵力を率いて、上杉謙信は織田信長と決戦しようした時に、突然倒れてしまったのです。

 その為に信長は信玄の時同様大きなピンチを免れました。 

 本当に運が強いです。

 だけどそれは勝頼にとっては大きな打撃でした。

 謙信が北陸から京都を目指すのに対応して、勝頼は美濃から一気に信長に迫ろうとしていましたが、その計画が見事に崩れたからです。

 しかも勝頼は謙信の死による、上杉家の跡目争いに巻き込まれてしまいます。

 謙信の後を景勝(親戚)と景虎(養子・北条氏政の弟)が争ったのです。

 御楯の乱です。(南無阿弥陀仏)

 勝頼はこの戦いに、北条氏政の依頼で、景虎を助ける為に参加します。

 越後の上杉が北条氏のものになれば、織田家に匹敵する強力な勢力になりますが、北条氏の依頼を断る事ができなかったのです。

 だけどその北条氏政は弟の景虎を本気で助けるつもりはないのか、積極的に兵を出そうとはせずに、勝頼を激怒させました。

 北条氏は上杉家を得る事で、織田信長とぶつかる事を恐れ、景虎を見捨てるつもりだったのです。

 だから勝頼は途中から景勝と手を結ぶ事にしました。

 御楯の乱は、北条氏からの援護がなければ景勝の有利で、勝頼は、景勝と金2万両を上杉から貰う事と、上杉の奥信濃と東上野の領土割譲、妹である、信玄の四女菊姫(母油川氏)と景勝の結婚を条件に景勝の味方になりました。

 景勝は勝頼の援護で北条氏を押さえ、御楯の乱に勝利すると、景虎を捕らえ殺してしまいます。

 武田家と上杉家との甲越同盟は、翌年菊姫が輿いれる事で誕生しました。 

 勝頼は、武田家の命運をかけて大きな決断をしたのです。

 だけど今までその勝頼の決断は、上杉のお金に目が眩んだとか、後先もよく考えずに浅はかな判断をした、側近の長坂釣閑斎や跡部大炊助が上杉から賄賂を貰ったとか、いろいろ批判されていますが、真相は仕方がない面があったのです。

 でもそれは勝頼が、景勝の味方にした事に怒った氏政によって、北条氏との同盟、甲相同盟は破棄される事を意味しました。

 武田家は、北からの上杉の味方を得たものの、東からの強国北条氏からの圧迫を受けてますますピンチになります。

徳川も北条氏と結んだ事で強気になり、北条氏の牽制の為に、援軍を送れない高天神城もとうとう攻略しました。

城兵の殆どは死に、軍監であった横田 五郎などの数名しか脱出できなかったのです。(南無阿弥陀仏)

その上高天神城を助けられなかった事で、武田家の内外の威信はますます落ち、ついに滅亡の時期を迎えます。                     

織田信長は大軍、木曾路に5万、徳川は駿河に3万の軍隊を向け、武田家に迫ってきたのです。

 そしてそんな織田・徳川軍に対して、民や家臣の心が離れた武田家は抵抗らしい抵抗はできませんでした。

 最初に裏切った一族、木曾氏(信玄の三女が嫁)に向けた軍が負けると、もう後はなく、織田信忠は信濃を進みます。

 駿河にいた穴山氏(信玄の二女が嫁)も裏切り、その為に駿河も抵抗らしい抵抗はできずに、徳川の手に落ちました。

 勝頼は、武田軍2万で、諏訪地方で織田軍の侵攻を止めようとしますが、次々と味方の裏切りで形勢不利とみたのか、兵はどんどん逃亡してしまいます。

 甲斐に戻った時には、もう殆ど兵は残っていなかったのです。

 ですからもう勝頼は戦う事もできなくなりました。

 勇猛と知謀を兼ねそなえて、信玄の息子の中では、一番信玄を彷彿させるといわれていた五男、仁科盛信は、唯一、高遠城で兵五百と供に、信忠の織田軍と戦い全滅する事で(南無阿弥陀仏)武田家の意地をみせましたが、後は信長が降伏する者は助けるといった嘘の書き付けに騙されて誰も勝頼の元に現れなかったのです。

 しかしその中で信玄に側近としても可愛がられた真田昌幸は、西上野の岩びし城に勝頼夫婦と嫡男信勝を迎えようとします。

 真田昌幸はこの後、徳川家を二度も破り、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠5万の到着を送らせた事でも有名な謀将です。

 その真田家は、武田家のおかげで、先祖代々の土地を取り返せ、それ以後は武田家の為に大きな手柄をたててきました。

 昌幸は武田家の恩義に報いる為にも、勝頼を上野の自分の城で守ろうとしたのです。

 だからもし勝頼が、昌幸にいう通りにしていたら、紫陽花は武田家は復活していたと思います。

 信長は武田家滅亡後、2カ月もたたない内に本能寺の変で、嫡男信忠と供に明智光秀によって殺されています。

 その情報が甲斐、信濃に流れた瞬間、旧武田家の武士達は反乱し、織田家を甲斐・信濃から追い出します。

 その後は北条・徳川・上杉の争いの中で旧武田家の家臣を味方にした、徳川家が甲斐・信濃の大半を支配するのですが、もし勝頼や信勝が健在だったら、駿河は無理でも甲斐・信濃は簡単に取り返せていました。

 上野の岩ぴし城までこの当時織田家が迫ってくる可能性は低く、迫ってきても真田昌幸が居れば簡単には落ちなかったはずです。

 武田家は信長が死ねば、再び戻れたのです。

 でも一端真田昌幸を頼ろうとした勝頼は、その後に来た小山田信茂の言葉で、甲斐の大月・岩殿城に向かいます。

 ここで再起をはかろうとしたのですが、土壇場で裏切られます。

 小山田信茂は本気で勝頼を迎えようとしたらしいのですが、岩殿城の家臣や領民が受入れようとせず、止むなく裏切ったともいわれています。(主家を土壇場で裏切った事で、信忠の命で処刑)(南無阿弥陀仏)

 だけどこの裏切りは勝頼夫婦や信勝には衝撃でした。

 真田の岩ぴし城を頼るのにもう手遅れで、勝頼は行く所がなく、織田軍に追いつめられて天目山に向かいます。

 総勢50名ぐらいです。

 何とか信勝だけでも逃がそうとしたらしいのですが、信勝は拒み、武田家はここで歴史上から滅ぶ事になります。

 勝頼の婦人も実家の北条氏を頼らずに、最後まで勝頼から離れずに、まず自害し、勝頼、信勝も後を追ったのです。(南無阿弥陀仏)

しかしその中で信玄に側近としても可愛がられた真田昌幸は、西上野の岩びし城に勝頼夫婦と嫡男信勝を迎えようとします。

 真田昌幸はこの後、徳川家を二度も破り、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠5万の到着を送らせた事でも有名な謀将です。

 その真田家は、武田家のおかげで、先祖代々の土地を取り返せ、それ以後は武田家の為に大きな手柄をたててきました。

 昌幸は武田家の恩義に報いる為にも、勝頼を上野の自分の城で守ろうとしたのです。

 だからもし勝頼が、昌幸にいう通りにしていたら、紫陽花は武田家は復活していたと思います。

 信長は武田家滅亡後、2カ月もたたない内に本能寺の変で、嫡男信忠と供に明智光秀によって殺されています。

 その情報が甲斐、信濃に流れた瞬間、旧武田家の武士達は反乱し、織田家を甲斐・信濃から追い出します。

 その後は北条・徳川・上杉の争いの中で旧武田家の家臣を味方にした、徳川家が甲斐・信濃の大半を支配するのですが、もし勝頼や信勝が健在だったら、駿河は無理でも甲斐・信濃は簡単に取り返せていました。

 上野の岩ぴし城までこの当時織田家が迫ってくる可能性は低く、迫ってきても真田昌幸が居れば簡単には落ちなかったはずです。

 武田家は信長が死ねば、再び戻れたのです。

 でも一端真田昌幸を頼ろうとした勝頼は、その後に来た小山田信茂の言葉で、甲斐の大月・岩殿城に向かいます。

 ここで再起をはかろうとしたのですが、土壇場で裏切られます。

 小山田信茂は本気で勝頼を迎えようとしたらしいのですが、岩殿城の家臣や領民が受入れようとせず、止むなく裏切ったともいわれています。(主家を土壇場で裏切った事で、信忠の命で処刑)(南無阿弥陀仏)

 だけどこの裏切りは勝頼夫婦や信勝には衝撃でした。

 真田の岩ぴし城を頼るのにもう手遅れで、勝頼は行く所がなく、織田軍に追いつめられて天目山に向かいます。

 総勢50名ぐらいです。

 何とか信勝だけでも逃がそうとしたらしいのですが、信勝は拒み、武田家はここで歴史上から滅ぶ事になります。

 勝頼の婦人も実家の北条氏を頼らずに、最後まで勝頼から離れずに、まず自害し、勝頼、信勝も後を追ったのです。(南無阿弥陀仏)

 

                                                  

 

                      「徳川家康・それからの武田家」

 武田勝頼・信勝親子の首は京都の河原でさらし首になりました。

 信長に駄目なやつと馬鹿にされていたのです。

 また勝頼は戦の好きな猛将だけど、知恵はたりない、二代目という事で、その評価は山梨県、長野県でも全然ありません。

 信玄は偉大だったけど、勝頼がいけなかったから武田家は滅んだという事で、勝頼は長い間、正当な評価をされなかったのです。

 しかし今は、偉大な創業者を持った二代目の悲劇という事で、見直されています。

 いえ、他の二代目である信長の嫡男信忠、家康の嫡男、信康や秀忠、謙信の後を継いだ景勝、北条氏康の氏政よりも優秀ではなかったといわれ出しました。

 勝頼はよくやりました。

 ただ相手が悪すぎたのです。

 と同時にその後の武田家ですが、勝頼の兄になる、目がみえなくて、坊主になった龍芳は勝頼の敗死を知ると入明寺に入って自殺しましたし、弟になる六男、信貞は甲府の善光寺に隠れ、ここで信長によって誅殺されました。

 信貞を匿った信玄の菩提寺、善光寺の寺住職、快川紹喜は多くの弟子の僧と供に焼き殺され、有名な「心頭を滅却すれば火も自から涼しい」の言葉が生まれているのです。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 でも武田家の血は残りました。

 龍芳の子孫と七男の信清の子孫は残りました。

 この内、信清の母は信玄の側室禰津氏ですが庶民なので、龍芳の方が正当とされ、信玄を尊敬した徳川家によって、武田家は再興されたのです。

 また女性の方も、四女の菊姫は、上杉景勝の正室として最後まで生きました。

 子供は生まれなかったのですが、景勝は帰るところをなくした菊姫を労わり、甲斐御前と呼ばれ、頼ってきた信清一族の面倒をみたのです。

 でも一番有名な生き方をしたのは末娘の松姫です。

 松姫は美貌の持ち主でも有名ですが、真の本当に強い女性でもありました。

 七歳の時に、織田信長の嫡男、信忠との婚約がなりましたが、これは十二歳の時に、信玄と信長の関係は、三方ヶ原の戦いの時に、決定的に壊れたので、破談になりました。

だけど松姫は信忠との愛を貫こうとし、貞節を守って、独身を貫き通しました。

どんな縁談が来ても、頑として受け入れなかったのです。                    

しかもその松姫の真心は、信忠にも通じていました。 

だから勝頼が死んだ後、信忠は松姫の居場所をつきとめ、迎いに家臣を派遣したといわれています。

松姫は高遠城の兄、盛信に引き取られていましたが、信忠の織田軍が迫った時に、北条氏の武州の八王子に隠れており、そこに迎えの信忠の家臣が来たのです。

でも結局この信忠と松姫の愛は実りませんでした。

 信忠は毛利を討つ為に西国に行く途中に泊まった京都で、明智光秀に殺されてしまいます。

 本能寺で討たれた信長の後、二条の御所に居た信忠も明智光秀の兵に囲まれて自刀したのです。(南無阿弥陀仏)

 ですから松姫は一度も信忠の顔をみることもなかったのです。

 だけど松姫は信忠との愛を守って、尼になりました。

 高僧に師事し、信松尼と号しました。

 武田旧臣の妻子や郷民に崇敬されながら、五十六歳の生涯に閉じました。

 武田家を大切にする徳川家康に保護されて、穏やかな人生を過ごす事になるのです。

 四女菊姫、五女松姫はこうして幸せな人生を送ったのです。

 ですが夫が武田家を裏切った穴山氏や木曾氏はそうはいきませんでした。

 穴山氏は信長に甲斐にある領土の保全を認められ、徳川の臣となりましたが、家康と供に本能寺の変の時には堺におり、慌てて逃げる時に海路の家康とは別行動の陸路をとったのですが、宇治田原で土民の手で非業の最期を遂げてしまいます。

 帰りを待っていた信玄の娘も失望し、跡取りの息子も病死した為に穴山氏も跡絶えたのです。

 また木曾氏も、信長が本能寺で討たれた後、信濃の先祖在来の土地を無くしてしまいます。

 立ち上がった武田の家臣団によって滅ぼされたのです。

 と同時に他にも武田家を裏切った人達はろくな終わり方はしていません。

 信長は武田信玄に恨みがあり、降伏したきた武田の家臣団を次々と捕らえると処刑したからです。

 武田家臣団は織田の兵から隠れていたのです。

 受難の時だったのです。

 しかしそれも信長が死んだ事で終わります。

 織田家の後に、甲斐・信濃を領したのは徳川家で、家康は信玄を心から尊敬し、武田家の家臣団を多く召し抱えました。

 武田の家臣団は家康の元で、小牧・長久手の秀吉の戦いや関ヶ原でも(南無阿弥陀仏)活躍し、経済官僚として関東郡にまでになった大久保長安を筆頭に(後に大久保長安事件で子孫は全滅、南無阿弥陀仏)内藤、土屋などの大名になったり、城持ち大名や大阪城代、駿府城代、町奉行になった高級旗本も多いです。

 武田武士団は、信玄の元での天下統一はなりませんでしたが、家康の元で実現したのです。

 

 

  追伸、これで今回の紫陽花の武田家の済度、供養は終わります。

 きっと皆さんが読んでくれる事で武田家や戦国時代に係わった多くの魂、霊が救われるはずです。

 是非、2度、3度と読んで頂けたら幸せです。

 と同時に紫陽花の前世が信玄の息子なら、一体誰なのか。

 長男の親に反抗した義信なのか、二男の目はみえなくても、その分世の中の動きを的確に見通せた、高僧龍芳か、三男の十歳の時に死んだ信之、四男の跡を継いだ勝頼、五男の兄弟の中で一番信玄を彷彿させた、勇猛と知謀を兼ねそえた盛信、六男の善光寺に逃げ込んで焼き殺された信貞、七男の唯一生き残った信清なのかは分かりませんが、紫陽花はもうその事にはあまり興味ありません。

 親に反抗した義信のような気がしますし、勝頼といわれたらそうかもしれない気もします。

 盛信ならいいと思いますが、違うような気もします。

 別に誰でも構いません。

 どちらにしても武田家を滅亡させた事は間違いないのですから。・・・・・

 もし前世本当に武田信玄の息子なら兄弟連帯責任ですから、しっかり責任を果たしていきたいと思います。

 また最後に、あの戦国時代、信長が現れ、秀吉が天下を統一し、家康が天下を継いだ訳ですが、その意味は何だったのかを皆さんに知って貰う事で、戦国時代に死んでいったすべての霊達を済度、供養したいと思います。

 というのも戦国時代、何故信長が数ある多くの大名の中で、覇者になったかということですが、最大の理由は武士階級というものを完全に作り上げた事だと言われています。

 それまで大名の兵といっても、殆どは百姓でした。

 季節ごとの農作業に支配され、束縛されていたのです。

 自分の土地の農業をしないといけなかったからです。

 しかし信長は、武士と農業を完全に切り放す事に成功しました。

 兵農分離です。

 武士は戦いが専門で、一年中農業をしないでも生活できるようにしたのです。

 だから信長は相手が農作業で忙しい時期にも平気で大軍を動かす事ができました。

 そうすれば兵は弱いといわれていた尾張の兵でも、勝てる事ができたのです。

 と同時にこの信長のやった事は全国に普及していき、日本は武士という階級が治める世界になりました。

 信長が理想とした天下布武は秀吉よって実現しました。

 戦国時代の前は百姓の一揆や本願寺などの宗教組織も大きな権力を持っていたのですが、、信長は本願寺などの宗教組織と戦う事で、政治と宗教組織を完全に切り放しました。

 本願寺などとの戦いは、血みどろの戦いで、大変苦戦する上に、信長自身、全滅させたり、比叡山の焼き討ちなどの残酷な事を平気でしていますが、(南無阿弥陀仏)信長は絶対に許さなかったので、もう二度と寺などの仏教組織が政治に口をはさむ事はなくなりました。

 ヨーロッパなどは、日本よりもずっと遅く、同じキリスト教の宗派通しで、戦う事が何年も続きますが、日本は信長のおかげでいち早く、脱却できたのです。

 信長の功績ですし、実はその為に幕末日本は欧米の脅威から救われています。

 禄を貰う事で日本全体の事を考えられる武士がおり、寺などの仏教の組織が政治に口をはさまなかったので、日本は上手に難局を切り抜ける事ができたのです。 

また全国を統一する事で、戦いのない日本を造る事にも大きな貢献をしました。

信長の夢は秀吉に引き継がれ、やがて家康によって、日本は徳川幕府の続いた250年ちかく戦争をする事はなくなりました。

徳川の力によって、国内は統一される事になります。

戦のない世界を造りたいという信長や信玄、謙信などの多くの戦国時代に生きた人達の夢は時間はかかりましたが、やがて実現します。

 戦国時代に戦で戦った人達は、そういった社会を造る為に死んだ事になるのです。(南無阿弥陀仏)

 と同時に鉄砲の数を、日本一国だけで、全ヨーロッパよりも多く持つようにしたのも、信長の功績です。

 信長が重視した鉄砲は、戦国時代急速に普及します。

 江戸時代に世界のレベルでも優れていた日本の鉄砲は、世界史の奇跡、どんどん数が減ることになりますが、その時に日本人に与えた自信は、黒船の来航の時に蘇ります。

 今は米国や英国からみたら遅れているかもしれないけど、時間があれば、鉄砲の時のように追いつく事ができる。

 あの当時の日本人はそう思い、欧米の文明のショックから免れました。

 他のアジア諸国のように、もう欧米に追いつけない、自分達は劣っていると思わなくてすんだのです。

 これが日本が欧米の植民地にならず、追いつくようになれた理由の一つですが、信長の貢献は大きいですし、長篠の戦いで、信長の実施した鉄砲の3段構えに破れた武田家の兵達も、そう考えると浮かばれるのです。(南無阿弥陀仏)

 そしてそういった事を考えると、根拠地を清洲から岐阜、岐阜から安土へと移し、たぶん秀吉のやった大阪に移そうとした事や、毛利氏との海の木津川の河口の戦いでは、船に鉄板を張りつけた鉄張軍船で大勝利した事などまだまだあります。

 信長という男は、悔しいですが、やはり天才なんです。

 天が選んだ男だと思います。

 でもそういった信長も秀吉も家康も、信玄や謙信も、浅井、朝倉なども、戦国時代に戦った全ての兵達は、それぞれの役目、天命を与えられて生きたのです。

 戦国時代があったから、日本は江戸時代ずっと平和でしたし、幕末の危機を乗り越えて、欧米の植民地にならずにすんだのです。

 ここで戦国時代に亡くなったすべての霊達に感謝して、終わりたいと思います。

(南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏)

 では皆さんこれで(目にみえるものだけでなく、皆さんの縁あるすべての目にみえない存在も救わせて下さい)

                   平成12年6月10日


         縁の花 トップページに戻る

         縁の花村 トップページに戻る