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縁の花

      (魂が成長する正直な心と心のネットワーク誌)

              第158号

             阿弥陀如来

 縁の花では、河内晢先生の事を、何回か書いています。

 しかし、よく考えてみたら、まだ、仏教の世界からみた、河内晢先生の事を書いていません。

 自分は、阿弥陀仏如来(阿弥陀仏)の100%の本体だと断言するのですから、(紫陽花はそう思っていません。申し訳ないけど万が一の確率です)やはり、済度の縁についているものとして、阿弥陀仏如来の事をしらないといけません。

 そうでないと、河内晢先生の事は、本当には理解できないと思うのです。

 だから、今回の号では、阿弥陀仏如来の事を、詳しく書いて、皆さんに報告したいと思います。

 きっと何かの参考になる事もあると思うのです。

 だけど、ここで皆さんに断っておきたいのは、仏教の世界でいう、阿弥陀仏如来はあくまでも知識にすぎないという事です。

 ただ本に書いていると言うだけで、それが本当なのか、どうか分かりません。

 何しろ、今の世の中は、釈迦が死んでから、2500年以上も経過する末法の世です。

 釈迦の教えた事は、正しく何も残されていないといいます。

 ですから、仏教の世界の事を書いている本の内容が、正しいとは紫陽花も考えていません。

 むしろ、間違っている事の方が多いと思います。

 でも、河内晢先生がいう、一見とても信じられない事と、仏教の世界で書いている事で、一致する事も多いです。

紫陽花は、そこから考えても、仏教の世界でいっている事には、真実も結構多いと思います。

まるきり、空想の事を書いているのではなく、ただ紫陽花達が理解できないだけで、真実を書いていると信じているのです。

 是非、それを皆さんと一緒に考えたいと思います。

 

 

         ∞「阿弥陀如来とは何か」∞

 仏教の本で、阿弥陀如来の所を見ると、必ず、阿弥陀如来とは、どういった仏様なのか、簡単に書かれています。

 お釈迦様が亡くなった後に、仏になった釈迦如来や、すべての命を形成するという大日如来、苦悩を癒すと言う、薬師如来といった、何人かの如来の一人として、必ず紹介されているのです。

 またその中で、阿弥陀如来は、どういった位置なのかといえば、それは、各宗派で、千差万別です。

 釈迦如来を信じるところがあれば、空海の真言宗のように大日如来も信じる所もあるのです。

 だけど、法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗(本願寺・大谷)のように、阿弥陀如来を中心に置いている所も多いです。

 阿弥陀如来を中心に、他の如来様や、菩薩様などが、書かれている絵もたくさんあります。

仏教の世界でいえば、阿弥陀如来は、釈迦如来と並び、日本だけでなく、アジアの大乗仏教権圏では、最高峰の本当に力のある有名な如来様になるのです。

 と同時に、阿弥陀如来のいわれですが、阿弥陀とはアミターユス(無限の寿命を持つもの)「無量寿」とアミターバ(無限の光明を持つもの)「無量光」と言う梵語の音訳されたもので、限りない生命を有し、無限の光明を持つ仏という事になります。

 しかも、阿弥陀は、とてもアミタ(量れない)が、音写されたともいわれています。

 すなわち、阿弥陀仏は、日頃、河内晢先生がいうように、とても人間では図れない仏様になるのです。

その上に、無量寿は、時間を超えた信仰対象、無量光は、空間を越えた信仰対象となるそうで、時間的、空間的制約を越えた救済主になります。

いつでも、どこでも、我々を救って下さる仏様と言う事になるのです。

 だから、日頃河内晢先生は、誰も分からないけど、自分から、宇宙全体どころか、大霊界まで、全ての魂を包み込むあたたかい光が、注いでいるといっていますが、これも阿弥陀如来本体だと考えれば、納得できます。

 紫陽花には、残念ながら見えませんが、阿弥陀如来の身体からは、霊界にまで届く、慈悲と知恵の光をずっと注いでいる如来様になるからです。

 と同時に、河内晢先生は、自分が阿弥陀如来の100%の魂として、生まれてくるのは、今回限りだけれど、阿弥陀如来の魂の何パーセントかを持って、今までも、ずっと生まれてきて、親鸞やいろんな人物として済度をしたり、人生を楽しんでいたりしていたといいますが、この事も、阿弥陀如来が、「無量寿」無限の命を持っていると考えれば納得できます。

むしろ「無量寿」とは、この世につねに、何パーセントかは、仏の魂を持って、生まれてきて、人々を救う事ではないかという新しい解釈さえできるのです。

また、その阿弥陀如来の姿は、どんな姿と言う事ですが、お寺にはたくさんある、阿弥陀如来の仏像や、図があるので是非見に行って下さい。

法隆寺金堂や清涼寺・三千院には、観世音菩薩と、勢至菩薩を従えている阿弥陀如来の像があります。

姿としては、図1にあるように、人間の姿ですが、まず、驚かされるのは、とてつもない大きさです。

「真身観」という瞑想のようなもので、阿弥陀如来を見ると、阿弥陀如来の身長は、仏身の高さが、「六十万億那由他恒河沙由旬」もあるそうです。

 この那由他、恒河沙とは、ともに数の単位で、一千億は十の十一乗もあり、二つを合わ

せるだけで、とても創造できない世界になります。

 しかも、後光の広がりは、三千大千世界の百億個に匹敵するといいます。

阿弥陀如来は、無数、無限の大きさになるのです。

だからよく河内晢先生は、説法の中で、自分と奈良の 大仏さんは、どちらが大きい。

 自分と奈良県は、自分と日本は、自分と世界、自分と地球、自分と宇宙、自分と霊界は、どちらが大きいと聞いて来る事がありますが、これもあながち、否定する事ができなくなります。

 河内晢先生は、自分の願いは、宇宙全体、霊界まで包み込もうとしているので、身体でみたら、自分は小さいかもしれないけど、本当は、大きいのだという事を言いたいのですが、実際にも、肉体から離れて魂になったら、創造できないぐらい大きいのかもしれないのです。

 少なくても、太陽系などでは、比較できないぐらい大きいのです。

 そして、そんな阿弥陀如来は、一体、何をしているかという事ですが、人間界のはるか西に十万億仏国土離れた所に、極楽浄土を創ったといいます。

 今も人々に、そこで説法をしているというのです。

 と同時に、人が死んだら、阿弥陀如来が大勢の供、諸仏を従えて、極楽に往生させてくれるといいます。

 別名、「来迎の如来」といい、人間が死んだら、迎えに来てくれる仏様になるのです。

 ただし、人の生き方によって、上品上生から、下品下生までの9通りがあって、生き方が悪い、下品下生人、悪逆のかぎりをつくした人は、阿弥陀如来は来ずに、日輪の形の蓮華が迎えにくるだけで、極楽往生もできるのは、十二却という気が遠くなる程、とおい年月がすぎないといっています。

 これが、仏教の世界からみた、阿弥陀如来の大きな使命になるのです。

 また、この事も、河内晢先生がいうのとも、ある程度一致しています。

 極楽とは全然違いますが、金沢で毎日、説法していますし、済度の縁の人が死んだ後、霊界に帰った人が、霊言などによって、霊界の状態を聞かせてくれますが、紫陽花の知るかぎり、他の人が迎えに来て、皆さん、極楽浄土には行ったとはいっていませんが、霊界でも、高い段階まで一気に上がっています。

 霊言では、死んだ後、河内晢先生が、迎えに来てくれたという話は、聞きませんが、河内晢先生は、阿弥陀如来で、こんな自分にさえ、慈悲の心で、霊界の上の段階にまで、連れってくれたと感謝しているからです。

 ですから、紫陽花自身、死んだら、果たして、河内晢先生に会えるのかが、どうか楽しみにしています。

 今の状態なら、済度をやり遂げられずに、紫陽花なんかが死んだら、済度で救いきれなかった多くの霊達を祓い退けて、後悔しながら、霊界に帰らないといけないそうですが、それはそれとして、一度、河内晢先生が創ったという極楽浄土をみて見たいと思います。

 おそらく、河内晢先生が、阿弥陀如来として迎えに来たら、懺悔の気持ちで、何もいえないと思いますけど、お願いしたいと思います。

 

 

                   ∞「極楽と地獄」∞

 極楽という夢の世界があります。

仏教の世界では、人は死んだら、極楽に行くか、地獄に落ちるか、どちらかだといわれていますが、日本人なら、仏教の信者でない人でも、極楽といえば、少しはイメージできると思います。

 本によれば、極楽と、天国は少し違うそうですが、いい所だという事では同じです。

 誰でも地獄に行くのは嫌で、極楽に行きたいと思うと思います。

 紫陽花も、極楽にいって、もう二度と、この世に生まれ変わりたくないです。

 輪廻の世界から、抜け出したいのです。

 それが、この世の紫陽花の一番の望みです。

 しかし、仏教の本で見る限り、殆どの人は、地獄に落ちて、極楽に帰れる人はいないといいます。

 この世で生きると言う事は、必然的に、いろんな罪を犯してしまっているからです。

 だから、仏教の世界では「南無阿弥陀仏」に代表される言葉があります。

 この「南無阿弥陀仏」の意味は、「阿弥陀如来」に帰依いたしますという意味で、けっして災厄から逃れる呪文だったり、死者に向かって言われたりするものではないのですが、浄土教、では、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、どんな悪人でも、救われて、極楽浄土に連れて貰えると信じられています。

 これが、浄土教が、広がった理由の一つなのです。

 また河内晢先生の所でも、「南無阿弥陀仏」という言葉を、よく使います。

 済度でいう「南無阿弥陀仏」の言葉の意味は、恥ずかしながら、今迄よく知らなかったのですが、仏教の世界と同じで「阿弥陀如来」に帰依しますという事だと思います。

 私は、河内晢先生に帰依します。

 そう済度では、「南無阿弥陀仏」を唱える為に、いっている事になるのです。

 しかし仏教の世界では、そう訴える事で、自分が救われるのでしょうが、済度では違います。

 済度では、一念帰命を河内晢先生に、して頂いた事で、もう救われて、霊界・極楽浄土に帰れる事は約束されているので、死んでしまった後、霊界に、帰れなかった霊達の為に、「南無阿弥陀仏」と唱える事で、霊界、に帰れるようにしてあげる事を意味します。

縁あって、自分に頼っている霊、有縁の死者霊達のかわりに、「南無阿弥陀仏」と唱える事で、河内晢先生をイメージして願ってあげるのです。

 そうすれば、霊達は、河内晢先生、阿弥陀如来の力によって、霊界に帰れるのです。

 これが、紫陽花が理解している、済度で言う「南無阿弥陀仏」の意味なのです。

 と同時に、仏教の世界では、その「南無阿弥陀仏」で行ける極楽ですが、それは阿弥陀如来が創った世界であり、それぞれ無数の諸仏は、各自で自分の国土を持っています。

薬師如来は東方の国に、浄瑠璃浄土、阿?如来は、妙喜浄土、大日如来の密巌浄土、釈迦如来の霊山浄土、弥勒菩薩も弥勒浄土、観音菩薩も補陀落浄土を創っているといわれているのです。

しかもそれが、もしあるとすれば、太陽系が所属する銀河系宇宙のそとにある例えば、アンドロメダ星雲か、今、流行の異次元にあるパラレルワールドにあるのではないかと推測されています。

今迄理解されなかった仏教の世界が、現在科学で、パラレルワールド、無数にある異次元宇宙という事で考えら始めているのです。

だけど、阿弥陀如来の極楽浄土は、そんな多くの浄土の中でも、一番多くの人に指示されていますし、紫陽花自身も、本当にいってみたいです。

というのも、極楽がどんなすばらしい世界かといいますと、お釈迦様が、祗園精舎で、舎利弗などの弟子達に伝えた、「阿弥陀経」では、阿弥陀如来が創った極楽の事を書いています。

 それによると、極楽浄土の石垣、並木などはすべて、金・銀・瑠璃・水晶の宝石から出来ており、これに?珀、赤真珠・瑪瑙を加えた七宝で出来た他には、白、赤、黄、青の蓮華が咲いており、地面はすべて金色で、一日に六回曼荼羅の花が空から降ってくるそうです。

 その上に美しい鳥たちが、心地よい風の中で、素晴らしい鳴き声を奏でています。

 何しろ、極楽とは、その国の人々には、何の苦しみもなく、ただ楽しみを受けるから、極楽というぐらいですから、本当にすてきな世界です。

 しかも極楽に住むと、寿命が限りなくあり、この世の何倍もの楽しみがあります。

 まず、いろんな神通力を得られ、すべての感覚の対象が素晴らしいという楽しみや、楽しさがなくならないという楽しみがあります。

 その上に、いつも仏や菩薩などの聖者と供にいられる楽しみや、仏にあって、仏に教えを聞ける楽しみや仏に供養できる楽しみもあるそうです。

 一言でいえば、悟りの道に進んでいける楽しみがあるのです。

 これが、極楽浄土なのです。

 紫陽花も是非、一度はいってみたいと思いますし、河内晢先生が、阿弥陀如来で、紫陽花も連れってくれるのであれば、本当にすがりたい気持ちで一杯です。

「河内晢先生、こんな駄目な紫陽花ですが、極楽浄土に連れって下さい」

 と同時に、極楽には、阿弥陀如来の直弟子が、限りないほどの数おり、皆、聖者のくらいにあり、菩薩の数も多いそうです。

 その人達は、皆退転する事のない位にあって、その中の多くのものは、次の世界で仏になれるといいます。

 縁ある仲間も多いのです。

 でも、ここで、紫陽花が、河内晢先生のいう事が信じられないのは、阿弥陀如来が河内晢先生として生まれ変わっているのだとしたら、済度の縁についている紫陽花達は、浄土で往生している直弟子の、聖者、菩薩という事になります。

 一緒に肉体を持って生まれて、衆生を救うというのですが、紫陽花を含めて、とても聖者とは思えない人達ばかりで、仏だといわれても、紫陽花自身、自分の事で考えても、とても信じられない訳なのです。

 だから、河内晢先生のいう事も、阿弥陀如来が創ったという極楽の存在も、紫陽花自身半信半疑です。

 特に極楽の存在は、河内晢先生が、自分が創った極楽の話をした事もないので、霊界はあっても、極楽はないのではないか。

 紫陽花自身は、あるのなら、極楽に行きたいという程度なのです。

 と同時に、地獄の存在ですが、紫陽花自身は、仏教の世界でいう地獄はないと思っていますが、紹介すると、悲惨な世界になります。

 というのも、地獄は、人間界の下、地下約1万キロのところにありますが、大きく分けると、八大熱地獄と八大寒地獄があるそうです。

 この内、八大熱地獄には、一の等活地獄から、八の無間地獄まで、ハ寒地獄には、一のアルブタ地獄から八のマハーパドマ地獄ありますが、詳しい紹介は勘弁して下さい。

 等活地獄だけでも、生前、生き物を殺して、その肉を食べた者は、鉄の窯に入れられ豆のように炒られるそうですが、今の時代、肉ぐらい誰もが食べるので、罪を犯している事になります。

 しかも、それだけでなく、一切の生物、虫や蚊さえ殺しても、殺生戒という罪になるのです。

 この殺生戒に、盗んだり、不倫したり、酒に溺れたりする、五戒を破ったら、それぞれの地獄が待っているので、紫陽花なんか、何回、地獄に落ちたらいいのか、分からなくなってしまいます。

 とても恐ろしくて書く気にはなれないのです。

 ただ、そうはいっても紫陽花自身、地獄の存在を信じていませんし、河内晢先生自身も、仏教の世界でいうような、恐ろしい地獄の世界はないといっています。

 窯で焼かれたり、舌を抜かれたりする事はないのです。

 しかし、人間がイメージした、仏教の本に書いている恐ろしい地獄はなくても、河内晢先生は、死んだ時に、人はいろんな執着などの思いを持っており、殆どの霊達は、霊界に帰れずに、この世に定まっているといいます。

 河内晢先生は、そんな霊達の存在を、有縁の死者霊と呼んでいますが、紫陽花は、そんな霊達が集まっている所が、地獄だと考えています。

 何故なら、河内晢先生は、化粧ばっかりしたがる霊の話などをよくしていますが、それが地獄だといえば、まさしくそうだといえるからです。

 というのも、女性の中には、化粧が本当に好きな人がいて、死んだ後も、その思いが消えないのか、ずっと化粧ばかりしている人達がいると、河内晢先生はいいます。

想念の世界では、同じ思い、波長の人が集まるのですが、悲しい事に、折角化粧をしても、化粧している感覚がないので、満足できず、その人達は、いつまでも、永遠にずっとやっているというのです。

 その上に、餓鬼霊といって、人間界のあるいろんな食べものが、食べたいのに、見る事はできても食べられずに、いつまでも満腹感を味わえなかったり、色情因縁といって、人と触れあいたいのに、触れ合う事ができないので、いつまでも人に愛されているという快感を味わえなかったり、反動による極端な性に対する、反発心など、いろんな思いで、霊達は苦しんでいるというのです。

 紫陽花は、そんな霊達が集まっているところが、地獄だと確信しています。

 実際に、霊達は、その事で苦しんでいるからです。

 ですから、河内晢先生のいう済度とは、そういった人間の思いや執着で苦しんでいる霊、有縁の死者霊という衆生を救ってあげる事になります。

 衆生と言うのは、河内晢先生によれば、実は、生きている人間を意味だけでなく、より多くの霊達を意味するのです。

 だから、紫陽花達、済度人が、化粧したり、食事をしたり、お風呂に入ったり、夫婦や恋人なら、セックスをする時に、霊達と「一緒に一緒に」してあげる事で、感覚と言う波動を届けてあげるのです。

 その時に初めて、有縁の死者霊達は、満足して、執着が取れて、地獄から救われて、霊界に帰るのです。

 これが、済度というものなのですが、紫陽花は、ある意味で、地獄から、霊達を救う事だと思っているのです。

 しかしもちろん、その事が、本当か、どうかは、紫陽花にも分かりませんし、それを証明する事もできません。

 皆さんも、死んだ後、極楽があるか、地獄があるのか、実際に確かめて頂きたいと思います。

                 ∞「有縁の死者霊」∞

 人が、死んだら、河内晢先生がいうように、殆どの人達は、有縁の死者霊と呼ぶ、存在になってしまうのか、この事は難題です。

 人の思い、執着などはなかなか消えないので、なるといえば、なるといえるし、死んだら、執着や思いなんか、消えるので、有縁の死者霊なんかになる訳がないといえば、そうともいえます。

 丹波哲郎さんや、他のいろんな霊界の専門家がいうように、死んだら、肉体と魂が離れ、しばらく死んだ自分の姿をみていて、自分が死んだという自覚ができたら、いろんなマスターが迎えにきて、一気に幽界まで、飛んでいけるというだったら、それに越したことはありません。

 紫陽花は、その方がいいです。

 ごく一部の、お金に執着している人や、人に恨みを抱いている人以外の人は、霊界に帰れるのであれば、紫陽花自身も何とか帰れると思うからです。

 又、紫陽花は、現在の仏教では、今までの多くの人の常識でいえば、大抵の人は、霊界に帰れると信じていると思います。

 何故なら、お坊さんはその為に、お経を唱えますし、臨死体験などで、あの世に一瞬行ったと言う情報も多いからです。

 しかし、そうではないという人も、本当の世界にもいます。

 霊達が、地球の上空、地上から、20、30メートルの所までに、うじゃうじゃいるともいいます。

 戦国時代の頃とか、平家と源氏の頃とか、もっと昔、気の遠くなる長い間、人類のやる事をじっと見ている存在も無数にいるというのです。

 しかも、地震が起こるのは、その中でも、執着や憎しみが強い霊は、重いので、地上におられずに、地下に潜ってしまい、そこで思い、悪意が爆発して、大地震を起すともいいます。

 それにこの頃、帰れない霊達の存在も、認識され始めています。

 よくテレビドラマでも、宜保愛子さんが出ている番組やアンビリバボーなどでも、人間についている霊達の存在が取り上げられて、視聴率を稼いでいます。

 どちらにしても、人間のちかくに霊達が、ある程度存在する事は間違いないといっても、いいすぎでないと思います。

 昔の仏教の世界では、救われない霊達は、存在するという事になっているのです。

 では次に、人は何で、死んだ後、帰るべき霊界に帰れないかと事ですが、仏教の世界では、それを人間の欲望の為だとされています。

 すなわち仏教では眼、耳、鼻、舌、身、意を六根といい、ここから得た感覚は、よほど仏教に帰依した人でもないかぎり、欲望の火種になるとしています。

 だって、眼できれいな異性をみれば近づきたくなりますし、舌ではもっとおいしいものを食べたいと言う欲望を持ってしまいます。

 身は感触という意味で触れて気持ちの良いものですし、意は仏の智慧を知っていないかぎり正しい意志ではなく、ただのフィーリング、気分でしかすぎません。

 特に意は、『眼(色・外見)・耳(声)・舌(味)鼻(香)』・身・(触・感触)』5種の欲望の対象でなく、第六の対象であるとされていますが、欲望を持って変な事を考えるだけでもいけないとされているのです。

 しかも、三行というものもあります。

 身行・・・身体の行動、口行・・・言葉で表現、意行・・・意志を持つ事でも、人々は、罪を犯すとされています。

 これでは、仏教の世界では、ほとんどの人が極楽、霊界に行けるはずがありません。

ましてや物があふれ、組織が複雑になっている現在では、死後、ほとんどの人は地獄にいく事になるのです。

何故なら、社会的な地位や財産、自己に対するこだわりや、欲望さえも捨てる事ができる人なんて、不可能です。

でも、それができないかぎり、輪廻転生の渦から抜け出す事はできないと、仏教では教えているからです。

要するに、性欲と食欲があるものは、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄という六道の中で生まれ変わり、死にかわらないといけないというわけなのです。

ですから、皆さんを含めて、多くの人は、輪廻転生から抜け出せない事になりますし、罪を犯しているので、成仏できずに、地獄に落ちると言うのです。

しかし、河内晢さんのいっている事は、少し違います。

眼、耳、舌、鼻、身などの五感や、意志の第六感で、人間には、いろんな思いが生まれる事は同じです。

貪欲といわれるむさぼりの心(貧)、怒りの心(瞋)愚かさ(痴)といった欲望(煩悩)をもつのです。

だけど、それで罪をおかした事にはなりません。

食事をする時なら、食べられた食べ物、肉や魚や野菜に対して、何も願ってあげなかったと言う事で(早く人間になりなよ)、いろんなものに恨まれたり、お風呂に入ったり、何かをする時に、背景の霊を願わなかったら、どうして自分達の存在に気がついてくれないのだという悲しみや、一緒に味合わせてくれないのだという憎しみを持たれたりしますが、罪とは違います。

あくまでも有縁の死者霊になってしまうのは、五感や意で感じた感覚や夢や思いなどを忘れる事ができずに執着してしまう事にあるからです。

というのも、人間には、人、それぞれ、いろんな思いがあります。

例えば、太平洋戦争のガナルカダル島の戦場で餓死したのなら、もっと食べ物を食べたかった。

芸能人の歌手になる夢を持っていたのなら、有名にな って、多くの人が集まる会場で歌いたかった。

夫や恋人が早く死んでしまったら、もっと愛しあいた かった。

夫婦の関係が冷え切っていて、セックスレスの関係だ ったら、もっと愛して欲しかった。

温泉好きな人なら、家族ともっと入りたかった。

いろんな思いがあります。

その思いは、死んだ後も、消える事はなく、未練として残ると言うのです。

ですから、人は死んだら、ほとんどの人が、そんな未  練の為に、魂が重たくて、霊界に帰れずに、有縁の死者霊になってしまいます。

この世には、地球だけでなく、宇宙全体に、そんな有縁の死者霊が、うじゃうじゃいるというのです。

紫陽花は、この河内晢さんのいう事は、仏教の教えである、成仏には、「自分と言う我を捨てて、無我という立場にたて」という教えとも、一致するようで、やはりある程度、本当の事だと思いますが、皆さんはどう思いますか。

 

 

                ∞「阿弥陀四十八願」∞

 仏教の教えや、阿弥陀如来の事、いろいろ紹介しました。

 きっと皆さんの中に、驚きや、参考になる事もあったのではないかと思います。

 特に、河内晢先生の縁についた人には、喜んで頂いたのではないかと思います。

 さて、その情報の中でも、阿弥陀如来が、釈迦が仏になる前よりも、ずっと遥、十却の昔に、人間だったといえば、驚かれると思います。

 正式には、世自在王仏の時代、釈迦が、インドにある釈迦国の国王として生まれたと同じように、無諍念王という王に生まれたのです。

 また、無諍念王は、名を「法蔵比丘」改めて、世自在王仏のもとで修業しました。

 その修業中に、法蔵比丘は、世自在王仏から、ニ百億もの仏国土を案内して貰う機会に恵まれ、自分もまた優れた浄土を建立したいと思い立ち、苦しんでいる多くの、一切の衆生を救いましょうと四十八願をたてたといいます。

 それが、阿弥陀四十八願といわれるものです。

 そして法蔵比丘は、四十八願を成就する為に、修業を積み、遂に「南無阿弥陀仏」の名号となって、西方十億土をすぎたところに、極楽浄土を建設し、生仏されました。

 阿弥陀如来になったというのです。

 だから阿弥陀如来は、もともと、人間が仏になったという事になりますし、紫陽花達も願(志願)をたてて、努力すれば、仏、阿弥陀如来になれるという事になるのです。

 この世に生を受けているすべての人が、同じ四十八願をたてて、それを実現できたら、如来になる事が、可能だという事になるのです。

 では次に、四十八願というのは、いったいどんな願かという事ですが、本願寺などでは、全部分かっているのでしょうが、紫陽花が調べている仏教の本では、四十八願を全部、紹介されていませんでした。

 難解で、究めて分かりずらいらしいのです。

 でも有名なものとして、まず、法蔵比丘さんは、「阿弥陀如来とは何か」で、書いたように、光明無量、寿命無量でありたいという願をたてたといいます。

 光明とは知慧を、寿命とは慈悲を象徴しており、法蔵比丘は、自分の知慧も慈悲も限りがあってはならないという願をたてたという事になります。

 すなわち、その浄土で生まれた人もまた、光明無量、寿命無量という事になりますが、そんなすごい願をたてたという事になるのです。

 しかし、四十八の願の中で、もっとも重要な願といわれているのは、十八番目の王本願と呼ばれている誓いです。

 この中で、法蔵比丘さんは、「どんな悪人でもかまわない。心の底から私を信じ、極楽浄土に生まれ変わりたいと願う者がいて、わずか十遍でも「南無阿弥陀仏」と私の名号を唱えたら、その者を必ずこの浄土に生まれ変われるようにしたい」という願をたてています。

 しかも法蔵比丘は、「私が仏となる事ができても、この四十八願が一つでも、成就しないならば、私は絶対に仏にならない」という厳しい誓いをたてています。

要するに「すべての人が、如来(仏)のみ名を称えて、浄土に生まれることがないならば、わたしはけっして仏にならない。自分も救われてはならない」と決意表明をしているのです。

 ですから、法蔵比丘が、阿弥陀如来になったという事は、阿弥陀如来は、一度、四十八願を全部、成就させて、一切の衆生を救っていると言う事になります。

 本当に、法蔵比丘は、すごい人だったのです。

 しかし、紫陽花は、実は、この阿弥陀四十八願は、今も生きていると考えています。

 昔、一切の衆生を救ったから、この十八の願はしないというのも、おかしな話です。

 阿弥陀如来が、この世に生きているのなら、同じ願をするはずです。

 だから紫陽花は、河内晢先生が、阿弥陀如来だったら、口に出さなくても、この済度がうまくいかず、有縁の死者霊や、多くの人類を救えなかったら、仏、阿弥陀如来をやめる決意があるのではないかという気がしています。

 そんな事を、河内晢先生が、口に出したら、済度の縁の人達がパニックを起すので、河内晢先生は、一言も言わないので、何ともいえませんが、紫陽花としては、そういった先生だと信じたいです。

 と同時に、ここで、紫陽花が済度をガンバッテいる皆さんに、是非、伝えたい事は、済度人のふがいなさで、今回の済度が成就しなかったら、河内晢先生は、阿弥陀如来をやめると思いますが、それでもいいのですかという事です。

 ただし、紫陽花自身は、紫陽花達の駄目な責任で、河内晢先生が、阿弥陀如来をやめたら申し訳ないので、どうかこの十八の願は、無効にして欲しいと、心から願っていますし、大体、紫陽花にはいう資格はありませんが、済度の人達にも、済度、本当にガンバッテ欲しいと思います。

 又、実は、仏教の中では、紫陽花達、済度人の事も予言されています。

 それが、河内晢先生が、よく済度の人達にいう、菩薩と言う言葉です。

 河内晢先生は、貴方達は、菩薩になるのでしょう。

 今のままなら、ぼさっとですといいますが、紫陽花は、菩薩という言葉の中に、河内晢先生の大きな願い、紫陽花達、済度人の願があると思っています。

 というのも、弥勒菩薩という菩薩かいます。

 この弥勒菩薩は、未来に下界に降(くだ)って、衆生を救うとされる菩薩です。

 別名「未来仏」とか「当来仏」、慈氏(じし)菩薩ともいいます。

 すなわち、釈迦の滅亡後、56億7000万年後、釈迦の救いに漏れた人達を救いに降りられる仏様です。

 現在は兜率天(とそつてん)にて、その機を待っているといわれていますが、「弥勒下生経(げしようきよう)によると、弥勒は兜率天より閻浮堤(えんぶだい)を観察し、翅頭(きとう)城の大臣を父母として選び、母の胎内に降り、その右脇より生まれ、三十ニ相を備え、竜華樹(りゆうじゅ)の下で悟りを開き、魔訶迦葉(まかかしよう)から釈尊の衣を受け取り、三度にわたる法会(ほうえ)で300億ちかくの人を迷いから救うとされているのです。

要するに、紫陽花なりの解釈だと、人間の母親の胎内から 生まれ、竜華樹の下で悟りを開いて仏になって、お釈迦様の救い漏れた人々を救うという事なのです。

 そして紫陽花は、仏教の世界で考えたら、56億年7000万年後ではなく、この弥勒菩薩は、人類が危機を迎えている、今の時代に誕生しないとおかしいと思います。

 何故なら、環境問題、人口増加問題、世界的な経済問題、温室効果やオゾン層の破壊など、人類は、抱えている問題は、仏、天なしでは解決できないからです。

それに、釈迦の滅亡後、56億7000万年と言うのは、年月ではなく、地球の人口が、56億7000万人になった頃と言う説がありますし、都率天の一日は、人間界の四百年に相当するという説もあります。

 今、現在、弥勒菩薩が生まれてきていると考えても、全然おかしくないのです。

 しかも紫陽花は、もし弥勒菩薩が出てくるのであれば、一人ではないと思います。

 多くの人が、菩薩にならないと、とてもこの人類が抱えている難局を乗り越えられないと思うのです。

 だから、今の時代に、世界中で、多くの菩薩さんが、生まれていると思うのです。

 また紫陽花は、たくさんの人が菩薩になるのなら、河内先生の済度の人達が、弥勒菩薩や、阿弥陀如来の脇侍である、観世音菩薩や、勢至菩薩、になる可能性もわずかですが、あると思っています。

 何しろ、河内晢先生自身が、貴方が弥勒菩薩になるのでしょういっていますし、今世、済度を計画する為に、本当に長い年月、何億年もかけているといっています。

 釈迦の滅亡後というのがお釈迦様の事ではなく、別の人だった。

 阿弥陀如来、法蔵比丘が、阿弥陀48願を成し遂げて、阿弥陀如来になった時が、釈迦の滅亡だと考えれば、少し苦しいですが、済度の人達と何となく、結びつきます。

 紫陽花達、済度人が、極楽浄土でずっと阿弥陀如来の説法を聞いており、今世、阿弥陀如来が、救い漏らした人達、有縁の死者霊になった衆生を救いに来たと考えれば、考えられなくもないのです。

 ただ、正直いって、この事は、紫陽花自身、ものすごいこじつけのような気がします。

 いえ、こじつけ以外のなにものでもありません。(笑)

だって、はっきりいって、今の済度の状態だったら、紫陽花を含めて、とても済度人は、菩薩になれるとは思えません。

そんな資格はまったくありませんし、今、本当の活動をしている、笑顔共和国や地球村や、波動やありがとう村の人達や、ちゃんとしたボランティア活動などをやっている人達の方が、あるような気がします。

たぶん、本当の真理は、済度人、済度人でないは関係なく、いろんな本当活動をしている人達、全員、菩薩になるのですが、紫陽花としては、河内晢先生は、自分が阿弥陀如来になれたように、紫陽花達も、仏、弥勒菩薩や地蔵菩薩などの・・・菩薩にしようとしてくれていると信じてあげたいです。

では、皆さん、これで。・・・・・

平成14521

 

 追伸、2007年7月7日、七夕の日、まったく意識していなかったのですが、縁の花のHPを見たある人と、大阪で初めてお会いする事になりました。
昔、菊がやっていた済度のご縁の人です。
その人と、空海さんが、嵯峨天皇から賜った、世界遺産でもある、京都の東寺に行きました。
ここで空海さんは、多くの弟子と共に、密教をしていて、東寺は、真言密教の根本道場となっていたのです。

しかもそこでは、偶然にも、夜から、環境問題に関わる大きな世界的な行事をするということで、忙しくしていました。
何と、世界で見れば、20億人が参加した行事です。
これも、何か大きな意味がある気がします。

また、その後、久しぶりに、京都の河内先生の講演会に参加して、河内晢先生のお話聞きました。
河内先生のご縁は、21世紀になってから活動はしていませんが、情報は得ていました。
相変わらずお元気でした。

でも、河内晢先生も、7月1日が誕生日なので、もう60歳、還暦になります。
いよいよ河内先生の活動も最後の仕上がりになるそうです。
菊自身、それが成就するのか、しないのかは分かりませんが、以前、追伸として書いた文章は、消すことにします。
ご迷惑をおかけした済度の仲間には、申し訳ないと思います。

しかも驚くことに、その追伸の最後に、「2007年頃、河内晢先生が、本当の阿弥陀如来だと、紫陽花自身が思えたら、その時には、紹介したいと思います。」と書いています。
正直言えば、河内先生が、本当の阿弥陀如来だと思えたのと聞かれたら、思えていませんと答えますが、菊自身、2007年頃、済度のご縁を、再び、紹介すると書いていたこと、忘れていました。
京都の講演会で、済度の仲間に、お会いして、その事を言われて、驚きです。

自分でも、まったく無意識に、2007年と書いたのかもしれません。
菊の魂が、そう望んでいたことなのかな。
確か、2005年と書いて、まだ、その時期になっていないので、2007年にした記憶がありますが、2007年7月7日に、再び、済度のご縁についたことは、何か、天の大いなる意志、河内先生の願いを感じました。

ということで、昔書いていた追伸の文章は消すことにしました。
河内先生の済度のご縁に関心ある人は、菊にメール下さい。
済度を今も、実践している人をご紹介したいと思います。

  2007年7月9日


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