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       縁の花

     (魂が成長する正直な心と心のネットワーク誌)

              第184号

      紫陽花の講演

      ∞「新風書房文化創造倶楽部のご案内」∞

 詠人不知さんの「ありがとうおじさんのどう生きたらいいの?」や寺田清一先生の『ありがとうございます「感謝は光」「感謝は全て」』の本を出版した事でも、有名な新風書房の小野元裕さんは、文化創造倶楽部というものをしています。

これは、紫陽花は行った事はないのですが、大阪の天王寺区にある、6人ぐらいしか入れない本当に狭い部屋で、基本的に夜の6時半から8時半まで開催されるものです。

うたい文句は、「余暇・アフター5(ファイブ)・休日を利用して、勉強会、研究会、読書家に参加しませんか?さらに進んであなたが中心になって開いてみませんか?」です。

小野元裕さんは、もう何年もそういった事をしています。

借りている部屋が、小さいという事は、それだけ家賃が安いという事ですし、6人程度であれば、何とか自然に集ります。

紫陽花は、前から本当にうまいやり方だなあと感心していましたし、毎日、すばらしい人との出会いがあって、すてきな話が聞ける小野元裕さんが羨ましかったのです。

しかも内容は、笑顔研究会、ミステリーやまと学、古代史塾、阪神タイガース研究会、自分発見口座(文句勇太郎さん)、韓国を知る会、日本人の心・・・・など様々です。

それぞれの分野で、一流の「日本語の中のドイツ語」研究家、写真家、会社の社長、文化創造倶楽部助教授、人間関係研究家、詩人、演出家などが、月から金・土まで、自分の話したいテーマで、ボランティアで話してくれるのです。  

その上に3月のスケジュールを見せて頂きましたが一杯です。

大阪では、新聞などでも紹介されている、結構有名な会なのです。

ですが、今度、紫陽花は、何と、その文化創造倶楽部でお話をさせて頂く合縁を頂きました。

本当に光栄です。

去年、友人の阪井健二さんが、土生神社の宮司になるという事で、6月頃にお祝いがあった時に、初めて小野元裕さんとお会いした時、帰りの電車で、一緒になった時に、来年の3月にお話をするお約束していたのです。

ただ、何しろ9ヶ月間も開いている話です。

正直言って、もう半分忘れていましたが、今度、正式にご案内を頂いたので、日程も分かりました。

3月11日(木曜日)夜の6時半からです。

名称は、自然の摂理に即した生活を考える会で、内容は「ありがとうございます」の力です。

 正直どんな話をするのかは、これから考えますが、参加費は1回千円です。

是非、皆さんも聞きに来て下さい。

ただし、参加できる人は、6人なので、予約はお早めにお願いします。

                 ∞「紫陽花のお話」∞

 新風書房の文化創造倶楽部さんでお話をする事ですが、一体、何のお話をしようかと正直迷います。

 何しろ、人前でお話するのは、この4年ぐらいやっていません。

 しかし、一体、何についてお話させて貰おうかと考えるのは、とても楽しいです。

 紫陽花は、書くだけでなく、お話するのも実は大好きなのです。

 ただ、それでも人にお話をするというのは大変なので、多くの講師のように、文化創造倶楽部で、毎月、1回ずつ、3年、4年もかけて、30回、40回も話す事ができるかといえば、とても自信はありませんが、今回の与えて頂いた合縁だけは、精一杯果たしたいと想います。

 また、縁の花の代表である紫陽花が、お話をするのですから、テーマはやはり縁の話にしたいと想っています。

 縁について語りたいです。

 今迄、紫陽花自身、「縁についてどう取り組んでいたか」、「縁とは一体何だと想うか」「縁を大切にする生き方をする為に、どんな事をしてきたか」その体験談を1時間程度話させて頂いて、その後、新風書房の小野元裕さんを含めた7人ぐらいの人と、紫陽花が、今後、将来、ずっと永続的な縁を持たせて頂く事を意識して話したいと想うのです。

 題して、名称は、「人との出会い、縁を考える会」「内容は、21世紀の縁、智閥とは何か」です。

 さて、それでは日数も少ないので、今から原稿、レジメを書いて、練習をしたいと想います。

 是非、皆さんには、練習相手になって貰おうと想います

                「紫陽花の名刺」

 まず、会場は、講師の紫陽花を含めて、8人で一杯になる狭い部屋です。

 実際に行った事はありませんが、その場で名刺交換はできると想います。

 だから、紫陽花は、最初に、8人の人と、簡単に名刺交換をしたいと想います。

 どんな人が集まってくれるのかは分かりませんし、もしかしたら、2、3人という事も考えられますが、とにかく、聞いて頂ける方は、どんな人か、事前に分かった方がいいと想います。

 その上で話をしたいのです。

 また、最初に紫陽花が、話をしたいのは名刺の話です。

 実は、紫陽花の名刺は、何種類かあります。

 花の名刺を、コンピューターを使って、作っています。

 はがきのソフトを使えば、簡単に、今の時代名刺もできるのです。

 しかも、自分で名刺を作る方が、印刷屋さんに頼むよりもはるかに安いですし、気にいったものができます。

 紫陽花の場合は、とくかく花に拘るので、背景の画面は、紫陽花、朝顔、タンポポ、向日葵などの花ですし、会社のロゴマークも、いくつかの紫陽花の花にしています。

 こういった名刺を、渡す時には、何種類か見せて、気に入ったものを選んで頂いています。

 そうすれば、印象に残るのでいいと想うのです。

 だから、紫陽花は、今回集って頂いた人には、その事をお話して、皆さんも作ってみる事をお勧めしたいと想います。

 名刺の紙は、みどり電器や、上新電機などの大型の店に行けば、売っています。

 後は、コンピューター、プリンター、はがきのソフトがあればできます。

面倒でも、自分の個性を出す意味でもお勧めしたいのです。

 また、次に、紫陽花が話したいのは、名刺の内容です。

 名刺には、「本当情報誌 縁の花」「縁の花村村長 紫陽花」「ありがとうございます推進運動」「代表編集長」「名前」「住所」「電話番号」「メール番号」「ホームページのアドレス」が書いています。

 これも初めてお会いする人もいると想うので、簡単に説明したいと思います。 

 まず、「本当情報誌 縁の花」ですが、これは、実物をお見せするつもりです。

 縁の花の小冊子や、コピー印刷したものをお見せしたいと想います。

 そうすれば、口で説明するよりも、簡単に分かって貰えると想うのです。

 また、その後で、インターネット上のバーチャルの世界で、縁の花村というものをしていて、紫陽花はそこの村長をしている事や、「ありがとうおじさん」が大好きで、ありがとうございますの言葉を普及させるお手伝いをしている事も簡単に話したいです。

 その後は、メールや縁の花のホームページがある事をお知らせして、人との出会い、縁は大好きなので、是非、皆さんとも、これを機会に、一生合縁を持ちたい事をお願いするつもりです。

 では前置きが長くなりました。今から始めたいと想います。

 

            「本当情報誌 縁の花誕生」

「皆さん、こんばんは。縁の花という情報誌を、今から10年以上も前から書いている岩谷です。今日は、文化創造倶楽部さんで、皆さんと初めてお会いできる縁を頂いて、無限の無限の幸せで一杯です。というのもお話を頂いたのは、去年の6月頃です。友人の阪井健二さんが、岸和田の土生(はぶ)神社に宮司に就任したという事で、それをお祝いする会で、阪井健二さんの仲間がたくさん集った時でした。紫陽花も、お世話役として、参加させて頂きました。その時に、同じように参加していた小野元裕さんを、阪井宮司からご紹介して戴きました。阪井宮司さんには、是非、小野元裕さんを紹介して欲しいと頼んでいたのです。なぜなら、前から小野元裕さんの事は、阪井宮司から聞いていました。縁の花という情報誌を書くものとしては、新風書房さんの存在は、見逃せません。特に「ありがとうおじさん」を紹介した、詠人不知さんの「ありがとうおじさんのどう生きたら言いの?」や、寺田清一先生の「ありがとうございます 感謝は光 感謝は全て」の本を出版した事は、紫陽花にとっては憧れです。どちらの本もものすごく売れていますし、何よりも、ありがとうおじさんを世に出した功績は大きいと想います。ものすごく羨ましいです。いつか、縁の花もそういった何万冊も売れる本になったらいいなあと想いながら、いろんな話を小野元裕さんに聞かせて頂きたいと想っていたのです」

 

「また、その時にいろんな話を聞かせて頂きました。文化創造倶楽部さんについても、阪井宮司から聞いていましたが、資料を見せて頂く事で、良く分かりました。まず、資料を見て驚いたのは、夕方の6時半から8時半まで、毎日、こんなにいろんな人がお話をするのかという事です。お話する人は、その分野では一流の人で、何十回も続けている人が多かったです。紫陽花の知っている人もいました。しかしそんな文化創造倶楽部でお話をしないかと帰りの電車で言われて時は光栄でしたが、正直、来年の3月にお願いしますといわれた時にはびっくりしました。9ヶ月間もあります。その間、スケジュールが一杯なのです。これにはびっくりしました。たぶん、噂に聞いている小さな部屋で、6人程度と人を絞っている事で、無理をしないからできると想うのですが、継続は力と言いますが、なかなかやれる事ではありません。小野元裕さんは、本当にこういった事が好きなのだと想います。そしてそのエネルギーは、縁の楽しさにあると想います。なぜなら、人との出会い、縁というものは、ものすごく面白いからです。」

 

「というのも、明日、誰に会えるかは、誰にも分かりません。今の世の中には、本当にユニークな面白い人がたくさんいます。そういった人と、文化創造倶楽部を通して、毎日、合縁がある小野元裕さんは、本当に幸せだと想います。紫陽花から見れば、いろんな苦労はあるでしょうが、毎日、新しい刺激があると想うのです。本当にうまいやり方だなあと想って感心しました。目から鱗が落ちた気がします。また、実は紫陽花も、今日は、どんな人と縁を持てるのか、ものすごく楽しみにしていました。知っている人もいますが、知らない人もいます。この2時間で、今後、皆さんと、一生のお付き合いができることを願って、今までの紫陽花の体験をお話したいと想います」

 

「そもそも紫陽花が、縁の花という本当情報誌を書いたのは、平成5年11月です。この時、紫陽花の人生は、大きな転換期を迎えていました。大学を卒業してから、ずっと、3、4回、天職しながらもサラリーマンとして勤めていたのですが、それが見事に挫折したのです。というのも、平成3年6月に、紫陽花は自分の人生を大きく変える転換期の縁になる、MG(高度情報科学セミナー)というところと出会いました。今もここで知り合った人で、読者になってくれる人はいるのですが、紫陽花はMGに入った事で目覚めました。何故なら、MGでは、世の中を自分達の力、人々の草の根運動で、自分達の理想とする福祉や環境に貢献できる社会にしようと呼び掛けて、それに共鳴した全国から多くの人が参加している不思議な所でした。紫陽花は、そこで、多くのMGの同志と縁を持つ事で、初めて、同じ価値観を持った人と縁を持つ喜びを知ったのです。

 何故なら、それまでの紫陽花は、心の中で、どこかに孤独感がありました。会社の同僚や、学校の友人とも、それなりには付き合っていましたが、根本的な所で違いました。紫陽花は、あの当時、ノストラダムスの大予言や、宇野正美先生の「影の政府」の話などを結構信じていました。日本や世界の将来に危機感を感じていました。ですから、それがない人に対しては、波長が合わないというか、どこかの面で、本当の合縁が持てなかったのです。しかし、それがMGの志士達は違いました。紫陽花が、MGに参加した事で、体験として知った事は、自分の近所や、会社の同僚の中には、なかなか同じ志、日本を何とかするという気持ちは持っている人はいなくても、全国でみれば、たくさんいるという事です」

 

「これは、紫陽花にとってはすごい発見だったのです。そしてMGで、まず、最初に学んだ事は、もうすぐ、コンピューターなどの通信回線が急速に発達する事で、同じ価値観や同じ理想を持つ人達が、コンピューターを使ったネットワークを持つ事で、大きな力を持つようになるという事でした。今までの会社という組織、財閥に代わって、MGのような智閥という組織ができるというのです。この智閥に関しては、大事な事なので、後で詳しく説明しますが、紫陽花は、この智閥という考えが大好きでした。だって会社の同僚と話をしても、くだらない会社の愚痴話や野球の話ですが、MGの人達だと、日本の将来や、自分達の夢の話ができます。これからの日本の社会は、MGのいうような高度情報社会になって、智閥という存在が大きな力になっていると確信したのです。でも、MGは結局、いろんな要因があって、失敗しました。MGは、急速に大きくなっていましたが、マスコミに、平成4年6月17日に詐欺会社と報道された事もあって、それ以後おかしくなったのです。草の根運動でどんどん全国的に大きくなっているMGを、恐れたいろんな勢力に潰されたのだと想います。また、紫陽花自身も、MGに力を入れすぎていたという事もあって、いろんなことがあって、会社を辞めたのです。その後、年齢もあって、なかなか会社に就職ができない中で、MGの事を広めようとしていたのですが、縁の花は、そんな中で、誕生しました。一人でも多くの人に、MGの構想を知って欲しいと想った紫陽花は、得意の文章で、MGの事を書く事にしたのです」

 

「それが縁の花です。平成11月に、第1号「マルチメディア」が誕生したのです。また、この時に、どうして名前が、縁の花になったかという事ですが、今から考えても不思議です。紫陽花が、書く前から、この名前になっていたような気がしています。昔、ある女性に、縁の花という名前のラブレターを出した事があります。紫陽花が、文書を書くようになったきっかけを頂いた女性ですが、その事が、縁の花をやろうとした時に、鮮明に想い出されて、気がつけば、自然に縁の花としていたのです。また、縁の花という題名にした事で、紫陽花自身、縁というものを一体、何だろうと考えるようになりました。神様から、そんな課題を与えられた気がしたのです。」

 

 

             ∞「縁とは一体何なの」∞

「縁とは一体何か、どうしたら、人と人の縁を大切にできるか。本来、縁とはどんな意味があるのか。この10年間、縁の花というものを通して、紫陽花はそういった事をいろいろ考えてきました。良く考えれば、縁を花咲かせるという意味の「縁の花」という題名のものを書いているのです。言霊の力もあって、そうなるのが当たり前なのです。

 しかし、紫陽花自身、まだまだ縁については分かっていません。道半ばです。たぶん、紫陽花が、縁の花をずっと最後まで書き続けるまで、一生追い求めるテーマだと想うのです。だから、この頃やっと分かった事ですが、「縁の花」とはすごい名前をつけてしまったなあと想います。今更、逃げ出せないですが、天から、本当にすばらしい名前を頂いたと本当に感謝しているのです。

また紫陽花自身、縁の花を書いて、まず感じた事は、人との縁を持つ事の難しさです。何故なら「縁の花」は、最初は、前の会社の同僚や、友人などの身近な人達に送らせて頂きました。なかなかMGの事を説明できない人に、縁の花を出す事で知って貰いたいと考えたのです。確か、40人ぐらいの人に出したと想います。でも、反応はさっぱりでした。一人も返事はなかったと想います。それは、紫陽花には予想外でした。特に期待した訳ではありませんが、何人かの人は、「こういった事を始めたの」という程度の返事をくれると想っていたのです。それで、これはMGの事をお誘いしようとした自分の想いが、いけなかったのではないかと反省して、MG以外の事、紫陽花の近況や、皆さんとの縁を大切にしたいという事を書きましたが、それでも駄目でした。やはり、何も連絡がなかったのです」

 

「それで紫陽花は、縁に付いて考えてみました。縁とは一体何だろうと想いました。縁の花を送った人は、紫陽花とは縁があった人です。何らかな縁があった人です。少なくても紫陽花は、そう想っていました。それが、紫陽花が書いた縁の花を、大学の頃からの友人や、昔の会社の同僚は、誰も受け入れてくれませんでした。紫陽花との縁は、簡単に無視された事になるのです。しかし、よく考えら、紫陽花は、それも仕方がないと想いました。立場が違えば、紫陽花もそうしたかもしれません。紫陽花自身、人と人との縁を大切にしようという意識を今迄、持った事もなかったからです。今の社会では、それが自然なのだと分かったのです。

 また、紫陽花自身、良く考えれば、30年間、どれだけ人の縁を大切にしてきただろうかと考えると反省しました。何故なら、小学校から考えれば、中学校、高校、大学と進んだ間に、多くの人と縁を持つました。単純に計算しても、1クラス40人として、大学までの16年間で、640人になります。だけど、この中で、どれだけの人の人と縁を持てたかといえば、恥ずかしながら、紫陽花の場合は全然だからです。どうしてもクラスが代わってしまうと自然に縁が離れていたのです。しかも紫陽花の場合は、男子校だったので、同窓会が特にある訳ではありません。いえ、人に自慢できる学歴や社会的地位がありません。やはり、同窓生に行くのにも、抵抗がありました。日々の生活の忙しさもあって、いつの間にか、誰とも特別に会いたいとは想わなくなっていたのです。だって、学校では、勉強をしろという事は教わっても、人との縁を大切にしろという事は、一度も教わった事はありませんでした。その手段も、特に教わったことがない事にも気がついたのです」

 

「だから、皆さんはどうか分かりませんが、紫陽花は、無理はないと想います。たぶん、皆さんの中には、学校からずっと付き合っているという友人も、何人かいるとは想いますが、そんなに多くはいないと想います。今の学校というシステムは、縁をずっと持てるようになっていないと想うのです。でも、考えたら本当に勿体無いです。1クラスで1年間もかけています。それを16年間もかけたのですから、最低でも20人から30人の人と、今もずっと縁が持てるようになっても本来ならいいはずです。それが、人間の幸せの一つです。なのに縁は、学歴とかお金と同じように大切なはずなのに、あまりにも縁に関して、置き去りにしていたのではないか。紫陽花は、そう反省したのです。

 そして紫陽花は、今迄の友人や同僚に縁の花を送るのは、郵送賃がかかるので大変なので、一切止めると、本当の世界で知り合った人達に、送るようになりました。ある程度同じ価値観を持った人に送らないと縁は持って貰えない。縁を持つのは、家が近いとか、同じ職場よりも、波長が合うという方が、もっと大切だという事にやっと気が付いたのです」

 

「それで、講演会や、本当の集いで、知り合った人達に、縁の花を送るようになりました。具体的にいえば、笑顔共和国や、地球村、生きがいの創造などです。MG自体がうまくいっていなかったので、高度情報社会の話を止めて、自分の興味のある事を書き始めました。感動した事、日々、ワクワク・ドキドキした事を書いて、縁有る人に、郵送で、無料で送るようにしたのです。それが、縁の花 第36号「福田純子」や第37号「高木善之」    (地球村)、第65号「飯田史彦 生きがいの創造」です。そうすれば、さすがは皆さん意識が高いのか、ある程度の反応がありました。縁の花を出す事で、喜んでくれる人もいましたし、支縁金を頂けるようにもなりました。何とか必要な分だけは、不思議と頂けるようになったのです。だから、紫陽花自身も、ある程度は、満足していました。出会った人達との縁を保つ為なら、1、2ヶ月間に一度出す縁の花は、例え、赤字でも紫陽花には安いコストだったのです。また、そんな中で、紫陽花は、有名なものでなく、これからのものも書く喜びも知りました。まだあまり知られていないものを、縁の花で書く事で、読者の人が、縁が持ってくれるのは本当に嬉しかったです。存在感というか、生きがいを見つけた気がしました。紫陽花は、自分の為でなく、紫陽花と縁有る仲間の人達の為に、縁の花を書くようになりました。やがてある●●●という先生の事を一押しで書くようになったのです」

 

 

「しかし、その反面、組織の難しさも実感しました。組織というものは難しいです。どうしても、自分達がやっているもの以外は受け付けない面があります。縁の花で、他の事を書いてもまったく関心を持って頂けませんし、正直な意見を書いても非難したと受け取られてしまいます。しかも、組織の人と縁を持つと、その組織が続いている間はいいのですが、離れてしまうと、その人達との縁も切れてしまいます。個人的なお付き合いがなかなかできないのです。だから、紫陽花自身考えてしまいました。縁の花は、あくまで、個人と個人で縁を持ちたいですし、自由に何でも書きたいものを書きたいです。●●●のグループの人達には、お世話になりましたが、何か違うと想ったのです。そしてそんな中で、紫陽花自身は、●●●の縁とは、少し距離もおきながら、住まい塾や、「天皇の真実」の河内正臣先生、意志表明書や遺伝子の村上和雄先生の事を書くようにもなりました。どこかの組織に入るのではなく、少し距離を置いた所から、書きたいものを書くというようになりました。自分から探さなくても、待っていたら、縁の神様というか天が運んでくるのか、自然に書きたい事がでてきます。

紫陽花は、それを書く事で、笑顔の花や「天皇の真実」の花、住まい塾の花、遺伝子の花を咲かせ、支縁金を頂いている人や、自分が本当にお世話になっている人、読んで欲しい人に読んで貰って、あくまで個人的なお付き合いをして貰おうと想ったのです」

 

 

        ∞「縁の花のホームページの誕生」∞

「そしてそんな状態が20世紀まで続いていましたが、21世紀になると、新しい転換期をやっと迎えるようになりました。縁の花のホームページの誕生です。前からホームページを作ったらいいと勧めてくれる人がいましたが、紫陽花自身、なかなかホームページを持ちたいとは想いませんでした。高度情報社会というものを勉強していたのに、恥ずかしながら、ホームページには、少し否定的でした。まだインターネットをするのは、操作が面倒で、結構お金がかかる時期だったので、持ちたいとは想わなかったのです。でも、そんな紫陽花も、やっとインターネットと縁を持てるようになりました。これも天意というか、うまく誘導されたのだと想いますが、どうしても必要にかられて、新しいコンピューターを買ったのですが、すぐにインターネットの世界にはまってしまいました」

 

「いろんな人のホームページを見ていたら、紫陽花も「縁の花」のホームページが欲しくなったのです。それで、ホームページを作るのは結構苦労しましたが、何とか、縁の花のホームページを作成する事ができました。2000年10月に縁の花のホームページが誕生したのです。しかも、「縁の花」のホームページが誕生した事で、紫陽花には分からなかった利点がたくさんある事に気が付きました。まず、ホームページを掲載する費用は安いという事です。縁の花のホームページで、1000円ぐらいです。今は、容量が100バイトまで無料なプロバイダーもあるので、殆どかからないものもあるのです。しかも、それで第1号から第182号まで殆ど載せています。今までの定期的に縁の花を郵送で出していた事を考えたら、比較になりません。紫陽花は、正直ほっとしました。縁の花の読者は、ピークで200人、その当時でも100人以上には出していました。3ヵ月間に1度、四季に出していると言っても、コピー代や郵送賃を考えたら、結構大変です。4、5万円は一回にかかるので負担が大変でした。支縁金では、とても足りなかったのです。だから、紫陽花は、迷いましたが、できるだけホームページを見て貰う事に切り替えました。支縁金を頂いている人と、本当に読んで欲しい人や号しか送らないようにしました。後は、勝手に見て下さいという風にしたのです」

 

「それで、縁の花としては、本当に楽になりました。縁の花のホームページだけなら、1ヶ月間で千円程度ですみましたし、郵送で送るのも、読者を絞った事で、1万円はかからなくなりました。その分、紫陽花の負担はなくなったのです。無限の無限の幸せだったのです。しかもホームページには、カウンターという機能があります。何人の人が見てくれるか分かるのです。これは、紫陽花にとってはものすごい励みになりました。正直いって、カウンターは、最初は、そんなになくて、他のサイトのように、1日に何百カウンターもあるという事はありませんでしたが、全国の人が、紫陽花のしらない所で見てくれていると想うと、本当に嬉しかったです。縁の花は、21世紀になってからは、自然にホームページを中心に活躍するようになったのです」

 

「しかしその反面、ホームページは、紫陽花が期待した程の反応はありませんでした。最初は、全国の人が見てくれるので、感想をたくさんの人が、くれるのではないかと想いましたが、

そんな事はありませんでした。たまにメールをくれる人もいるのですが、遠くの人が多いので、なかなか直接縁が持てるわけではないのです。本当に難しいものだと想います。しかも無料で見て貰っているので、支縁金もまったく入りませんでした。一応、支縁金コーナーは作っていたのですが、この4年間で、支援してくれた人は、数えるぐらいしかいません。よく、マスコミの報道なので、ホームページで利益を得ている人もいるといいますが、紫陽花には信じられません。商売は下手だと想いますが、こういった事は難しいと想うのです。でも、紫陽花にとって、一番の意外な事は、まだまだコンピューターや、インターネットをする人が、周りに少ない事でした。縁の花のホームページを作ったので、よかったら見て下さいといっても、「インターネットはしないのです」という人が、殆どです。これは、紫陽花には意外でした。ホームページを作ったから、何でもかんでもいいという訳ではない事がよく分かりました。直接、合って縁を持つという事も、大切だという事は、実感したのです」

 

「でも、それでもやはり、ホームページは作って、正解だったと想います。インターネットで見てくれる人は、見てくれるからです。ホームページを見てくれる人には、縁の花や紫陽花のことを説明せずに分かって貰えるのです。本当に安いと想います。また、縁の花のホームページは、すべて花の画像で、一杯にしています。背景の画像は、向日葵、紫陽花、ユリ、タンポポ、蓮の花などで一杯ですし、いろんな花のイラストをつけています。ホームページ上では、いろんな花が咲いているので、見て頂いている人にはとても好評なのです。しかも縁の花のホームページを見てくれるという事は、間接的に、紫陽花と縁を持ってくれるという事にもなります。皆さんのコンピューターのお気に入りに登録して貰ったら、定期的に縁の花のホームページを通して、紫陽花の最新の動きを分かって貰えると想うのです。だから、皆さんにも、これを合縁に、縁の花のホームページを見て頂きたいと想います。縁の花のホームページは、今、第183号まで書いています。今度、1号から183号までの殆どを見て貰えるようにしたので、気にいったものは、是非、見て欲しいと想います。そうすれば、目に見えなくても、この今回の合縁が、繋がるという事になります。縁の花が少し咲いたという事になると想うのです」

 

 

      ∞「縁の花の小冊子の誕生」∞

「しかし、ホームページを開設しただけでは、多くの人との縁が咲いたという訳ではありません。縁の花は、少しずつ成長しています。次に、縁の花の転機になったのは、2002年に出す事になった小冊子と「ありがとうございます」の縁でした。

 というのも、ホームページの画面で見るのと、実際に紙の紙面、本で見るのは違います。本の方が、はるかに読みやすいです。しかし、縁の花を本にするのは、紫陽花にとっては夢でしたが、実現するのは難しいと想っていました。本を自費出版で作成するのは、ものすごく高いと想っていたので、諦めていたのです。だけど、時代はデフレです。ものの値段が、ものすごく安くなっています。それは、本の世界でも同じです。コンピューターを使うので、昔に比べても驚くぐらい安くできるようになっていたのです。また、その中で、不思議な合縁を頂いて、紫陽花もやっと本を小冊子ですが、4冊作る事ができました。鹿児島県に、「天皇の真実」の仲間の人がいて、その人が印刷屋さんという事で、激安で、小冊子を作って頂けるようになったのです。それが、今日、皆さんにプレゼントしたものなのです」

 

「また、小冊子を作った事で、紫陽花自身分かった事があります。まず、紫陽花が驚いたのは、外見が大切だという事です。同じ内容でも、コピー印刷と、小冊子では、見る人の反応は違います。小冊子だと渡すだけでも、「へえ、本も書いているの」という事になります。少しだけですが、一目おかれます。紫陽花は、その人の反応に最初は、びっくりしたのです。

 ですから、今は、「縁の花」の小冊子は、名刺代わりだと想っています。結局、後で、名刺交換した人に縁の花を送るよりも、今、その場で渡すほうが、郵送賃が必要ありません。

小冊子には、住所や電話番号、ホームページやメールのアドレスも書いています。興味のある人とは、縁が繋がると想うのです。それで、小冊子は、自分が持っていても仕方がないので、縁ができた人には、貰って頂くようにしているのです」

 

「しかし、その反面、縁の花の小冊子を作って分かった事もあります。それは本を作るのは簡単ですが、お届けするのはとても難しいという事です。無料で、いろんな人に、貰って頂くのは、とても大変なのです。それは痛感しました。というのも、最初に作った、縁の花 第106号「幸福を生む住まい塾」は、アスカの松岡所長のおかげで、ほぼ千冊なくなりましたが、第133号「天皇の真実」と第150号「日本・原爆開発の真実」はさっぱりだからです。内容に自信はありますが、まだまだ、「天皇」の事を理解される時代にはなっていない感じです。ずっと紫陽花の家で、お休みしているのです。でも、そんな紫陽花にとって救世主になってくれたのは、「ありがとうございます」の縁でした。「ありがとうおじさん」については、小野元裕さんの方が、お世話になっていると想いますが、縁の花としても大変なお世話になっています。今から考えたら、縁の花の小冊子の合縁を頂いたのは、「ありがとうおじさん」と会ってすぐでした。「ありがとうおじさん」の事を、小冊子で書かせて頂く為に、合縁を頂いたような気がするのです」

 

「何故なら、縁の花 第161号「ありがとうございます」の小冊子は、新風書房さんに比べたら、お恥ずかしいかぎりですが、それでもヒットしました。去年、1年間で、いろんな人のおかげで千冊全部紫陽花の手元から離れて、新しく、今度は桜色で作ったのです。これは、紫陽花にとっては大きかったです。本を作る喜びを知る事ができたからです。しかも、いい本は、1度誕生すると、一人歩きをするという事も分かりました。縁有る人に渡したいからといって、100冊単位で買って頂ける人がいて、そういった人が小冊子を渡してくれる事で、縁は、どんどん一人歩きをして、読んだ人からも、注文を頂けるようになりました。紫陽花が、寝ている時でも、縁の花の小冊子は活躍してくれています。縁から縁へと回っているのです。これは、紫陽花にとっては、大きな喜びだったのです」

 

「そしてその事で、紫陽花が確信したのは、「ありがとうございます」の言葉のすばらしさです。「ありがとうおじさん」の事は、多くの人が熱心に言っているので、今回、紫陽花がここで話しませんが、「ありがとうございます」とずっと唱える事は、いろんな幸運を運んでくれると想います。「ありがとうございます」効果があるのです。また、紫陽花自身、縁の花を書くものとして学んだ事は、やはり書くのなら、多くの人が受け入れやすいものをテーマにして、書く事が大切だという事です。やはり書く以上は、多くの人に、読んで欲しいです。それで、縁の花は、第161号「ありがとうございます」から、何号か、「ありがとうございます」をテーマにした号を書いています。第162号「笑顔共和国七夕祈念IN「ありがとう村」第165号「すべてにありがとうございます」第166号「すべての縁にありがとうございます」第170号「ありがとうございますの雛型づくり」第171号「ありがとう広場」第175号「惟喬親王祭」(ありがとうございます祭り)第181号「広島第2回ありがとうございます祭り」と書いていますし、他にも、第177号「武田家/諏訪の神々「ありがとうございます」奉納紀行で、戦国時代に活躍した武田家の存在に「ありがとうございます」していますし、第180号「フォトン・ベルトにありがとうございます」では、フォトン・ベルトにありがとうございますしています。是非、お読み頂けたらと想います。縁の花として「ありがとうございます」の事をこれからも、書いていける事が「無限の無限の喜び」の一つなのです」

 

「また、この事で縁の花を見てくれる人は急に増えました。ありがとう広場で、リンクして頂けた事もものすごく大きかったです。全国のいろんな「ありがとうございます」の人達が、紫陽花の知らないところで、縁を持ってくれています。一度「ありがとう村」に行った時に、いろんな人が、縁の花のHPを知ってくれている事にびっくりした経験があるのです。だから、今、縁の花のホームページは、平均して、1日50人以上の人が見てくれています。1ヶ月間で1000カウンターは進んでいます。最初に比べたら夢のようです。1万アドレスも簡単に突破したのです。ですから、今、紫陽花の夢は、縁の花のホームページのアドレスを、もっともっと増やして、10万アドレスにする事ですし、縁の花の小冊子ではなくて、本を作成する事です。「ありがとうございます」関係を、全部小冊子で作成するのは、大変なので、1冊の本にまとめて作りたいと想っています。題名は、縁の花「ありがとうございます」シリーズです。その時には、是非、皆さんにも、紹介したいとは想いますが、正直いつになるかは分かりません。本を作るとなると、自費出版でもある程度のお金が必要ですし、何よりも、その本の縁が広げられるかが問題です。作っただけで、いつまでも紫陽花の手元から離れないというのであれば問題です。本は、小冊子のよりは高くなって、800円から1000円でしたいと想うので、紫陽花自身、作成しても、本が、一人歩きしてくれる自信がないので、できるまで無理はしないでいようと想っているのです。

 

 

         ∞「縁の花村」∞

「またそんな中で、2003年、8月7日、花の日に、縁の花は、再び成長しました。縁の花村が誕生したのです。この縁の花村とは、簡単に説明すれば、インターネットのバーチャルの世界で創られている村です。ホームページで、縁の花村を立ち上げて、縁の花村の村人になってくれる人を募集して、メールで村民になった人には、メルマガ方式で登録して、縁の花村情報として、いろんな情報を無料で送っています。また、その縁の花村情報は、紫陽花と縁有る人達のいろんな情報を使わせて頂いています。MGの頃からの同志であるM総合研究所の森義光さんは、たった一人ながらすごい情報を送ってくれます。影の政府の情報や最新の経済情報などを送ってくれるのです。また、他にも今度京都市市長選挙に立候補した新井信介先生が送ってくれる、政治の情報や中国情報、能力開発の坂木理恵さんの情報、「なんでんかんでん村」の原裕一郎村長の「なんでんかんでん村」情報なども送っています。1週間に1度のペースで、送らせて頂いているのです。これが、今の縁の花村なのです」

 

「そして縁の花村を立ち上げる事で、紫陽花にとっては、「無限の無限の幸せ」が一つできました。というのも、縁の花のホームページは、見るのは自由なので、誰が見てくれているのかは分かりません。今日は、何人の人が見てくれたという数字しか確認できないのです。でも、縁の花村に、その人が申し込んでくれた時に、初めてその人が、どんな人なのか分かります。名前(匿名)県、メール番号、簡単な自己紹介などを書いて貰うので、初めて、その人の事が分かるのです。この事は、紫陽花にとっては、とても大きい喜びです。何故なら、その人とは、これから縁の花村の村人として、一生のお付き合いをして貰えるかもしれないからです、縁の花情報を通して、いろんな情報をお届けする事ができるのです。しかも、それに関しての費用は、殆どかかりません。ADSLを使って、メールで送るので、ADSL代だけでいいのです。だから、紫陽花は、縁の花村に、ものすごく力を入れています。縁の花を始めた時には、まさか縁の花村を創る事になるとは夢にも想いませんでしたが、確かに、縁の花村が成功して、何千人の人と縁が持てたら、縁の花が咲いたという事になります。その第1歩になると想うのです。ただ、それには、これからやる事がたくさんあります。メルマガ方式で、いろんな情報を送るだけでは、他の多くのメルマガと同じです。縁を持ったといえません。仏像を作っても魂が入っていなかったら何にもならないからです。縁の花村の村民に、村人の自覚と村民に対する愛をもって貰わないと、何の意味もないのです。だから、紫陽花は、縁の花村を、日本や世界でもまだどこにもできていない智閥にしようと想っているのです」

 

「しかし、智閥と言われても、皆さんはまだピーンと来ないと想いますが、簡単にいえば、社会が新しくなる時にできる新しい組織です。原裕一郎先生は、この事を、人類の歴史をふりかえって説明しています。というのも人間は実に弱い動物です。一人では生きてはいけません。腕力も強くないし、足も遅いです。だから昔、魚や動物などの獲物を取って食べていた狩猟時代、人間は群れを作っていました。群れの中でしか生きる事ができなかったのです。また、この時代の価値観は、腕力が強いとか、足が速いというものでした。力がすべてでした。頭がいいというものは、あまり関係がありませんでしたし、親に力があっても、子供に力がなかったら、権力は持てなかったのです。でも、それが、農業社会になって、いろんな作物を育てる時代になると、力よりも、血が大切になってきました。時には、戦国時代のような事がありましたが、多くは、江戸時代に代表されるように血縁というものが大きかったです。大名の子供は大名で、力がなくても、頭が少し変でも、構いませんでした。どの血で繋がっているか、閨閥というものに大きな価値があったのです。しかし、それは産業革命によって、工業社会になった事で大きく変わりました。日本でいえば、明治維新です。それまでの江戸時代になかった、会社というものが現れて、お金を持っているものに一番の価値がある時代になりました。財閥というものに支配されるようになったのです」

 

「これが、今、紫陽花達が生きている時代です。今の世の中は、お金しだいだと殆どの人が想っていると想いますが、それが工業社会の常識なのです。しかし、今、時代は大きく変っています。コンピューターや通信回線の発達で、人類は、新たな道具を持てるようになっています。高度情報社会の始まりです。もうすぐデジタルテレビの普及なので、簡単に誰もが端末を、テレビを扱うように使えるようになります。コンピューターや、携帯電話はなかなか誰もが扱えきれていませんが、もっと使い易くなるのです。この時、2007年から8年には、高度情報社会が、本格的に始まるのです。そう原先生は、断言しているのです。また、その時に社会も大きく変わるといわれています。今度はお金ではなくて、情報、(縁)というものに一番の価値がある時代になります。今のお金を多く持っている存在が権力を持っている社会から、いろんな情報を持っている存在が、権力を持つ社会になるのです。これが、紫陽花が目指している縁の花村なのです」

 

「そしてそういった時代がくるよ。これからは智閥だよと教えてくれたのは、実は、紫陽花の恩師である「なんでんかんでん村」の原裕一郎村長です。原裕一郎村長は、智閥の元祖です。日本で一番、最初に智閥の存在を予言して、智閥という名前も考えた人なのです。しかも原村長は、MGの前、平成元年の頃からこの事を予言していたそうです。インターネットが、出て来る前です。本当にすごい先生だと想います。さすがは紫陽花の恩師なのです。しかし、智閥ができるには、まだまだ時間が必要です。日本で一番、最初に、株式会社を創ったのは、幕末に活躍した坂本竜馬です。坂本竜馬は、土佐藩を脱藩した浪人達を中心とした同志を集めて、海援隊を創りました。その海援隊が、いろんな困難を乗り越えながらも、坂本竜馬の暗殺後、三菱という日本で最大の財閥になりました。これと同じように、智閥が誕生するのにも、時間が必要ですし、いろんな困難がともないます」

 

「今、原裕一郎先生は、そんな長年の智閥創りの為に、「なんでんかんでん村」を1年以上前に始めています。わずか19名から始めた村人は、1年目には493名になりました。村人には、「なんでんかんでん村情報」を無料で送ってくれています。今は134号まで進んでいます。また縁の花村では、この「なんでんかんでん村」情報を紹介させていますが、とても好評です。縁の花村の紹介で、「なんでんかんでん村」の村人になってくれる人が、「縁の花村」よりも多いのです。だけど、まだまだ、智閥は完成していません。原裕一郎先生は、自分が生きている間にできるかと言っていますが、紫陽花には分かりません。何故なら智閥を理解するには、会社を考えたら、いいと想っています。昔、藩というものがあって、武士はそこから禄という収入を得ていたように、会社は、給料というお金を支払う事で、社員を繋ぎ止めています。これと同じように、智閥も参加してくれる人に、収入というものが必要になります。原裕一郎先生は、その為に、「なんでんかんでん村」のビジネスモデルを構築しようとしています。わずかでも「なんでんかんでん村」に収入が入って、それを村人に還元されるようにならないと、村人しての自覚が生まれて来ないと想うのです」

 

「でもそれだけでは、まだまだ智閥とはいえません。もっと大切なのは、村に対する愛です。会社に愛社精神があるように、智閥にも愛が必要です。自分は、○○○という智閥の一員だという自覚、愛が必要です。同じ智閥の人達の為なら、自分にできる事はなんでもするという気持ちが大切になるのです。何故なら、それが生まれた時に、智閥は本格的に始まるからです。紫陽花は、そう想っているのです。そしてそれができた時に、智閥は、どんどん大きくなって、いろんなものを飲みこんでいきます。保険、銀行、学校、出版、車、スーパー、電器といったいろんな企業も、村人さんを通して、智閥に参加していきます。最後には、出産の病院から、子供の服、七五三、学校、塾、就職、結婚、出産、葬式までのありとあらゆる事に、智閥を通してするようになります。「どうせするなら、どうせ買うなら、同じ村人から」という愛で、結ばれるようになるのです」

 

「今、原裕一郎村長は、将来の「なんでんかんでん村」の村人の為に、高齢にもかかわらず奮闘しています。紫陽花自身、原裕一郎村長が生きている間に、「なんでんかんでん村」が、理想としているところまで行くかどうかは分かりませんが、紫陽花なりに協力できる事は、したいと想っていますし、紫陽花は、紫陽花の理想とする智閥を作りたいと想っています。それが、「縁の花村」なのです。しかし、これがなかなかうまくいっていません。一つ、平成の坂本竜馬になってみようかという志はあるのですが、尊敬する坂本竜馬さんのような実力は、ないみたいです。なかなか村人さんが増えてくれないのです。でも、紫陽花は諦めるつもりはありません。智閥は、まだ、世界の何処にも誕生していません。自分なりのオンリーワンの村を目指していたらいいと想うのです」

 

        『紫陽花村長の「無限の無限の幸せ」』

「また、それが、紫陽花村長としての紫陽花の生きがいでもあります。残念ながら、縁の花村は、まだまだ収入は発生していないので、慢性的に予算不足ですし、何よりも全国に散らばっているので、多くの村人が一同に集ってお酒を飲むという事も不可能ですが、それでも紫陽花は、それを楽しみに顔晴り(ガンバリ)たいからです。何故なら、ご近所の人や、職場の同僚と飲むよりも、同じ価値観を持っている村人さん達と飲む酒の方が、遥かに美味しいからです。夢や志の話ができるので、紫陽花は大好きなのです。ですから紫陽花は、縁の花村はどんな事があっても止めるつもりはありません。それが、天から与えられた紫陽花の使命、縁の花の意味だと確信しているのです。また、紫陽花としては、縁の花村が、今後、どう発展していくのは未知数ですが、年一回のツアーぐらいはしたいと想っています。去年、縁の花村第1回ツアーとして、第177号で書いた、『武田家/諏訪神々の「ありがとうございます奉納紀行」をしましたが、たまには、縁の花村ツアーを、無理をしない形でしたいと想っています。それが年に1回でもできたら最高だと想うのです。そして、2012年12月22日には、第182号「アセンションに向けて」でも書いたように、紫陽花は、必ず、縁の花村 第○○回、フォトン・ベルトツアーを今から、天と一緒に企画したいと想っています。どれだけの縁の花村の村人さんや「なんでんかんでん村」の村人さんと迎える事ができるかは分かりませんが、一人でも多くの人と迎えたいです。フォトン・ベルトに突入する事で、地球や人類がアセンションするかどうかは分かりませんが、最低でも、「縁の花村」で百人は集めたいと考えているのです。

 

「また、「縁の花村」は「なんでんかんでん村」だけでなく、「伊路波村」や「ひふみ村」「元気アップ村」などの他の多くの村さんとも仲良くさせて貰って、これからも進むつもりです。というのも、縁とは不思議です。正直言って紫陽花の智閥の夢は、MG構想が失敗した事で終わっていました。その後、原裕一郎先生や伊路波村の村長さんは、まったく別な会社DDNさんに参加されたりしましたが、紫陽花はしなかったからです。それが、4年後、まったく予想もしなかった「ありがとうおじさん」の縁に付いた時に、自然に結びついていました。DDNさんは、構想の一貫として、日本サイバー村という大きな村を作っており、その日本サイバー村の中に、「なんでんかんでん村」や何よりも「ありがとう村」を応援している「伊路波村」「やすらぎの村」「広島ひふみ村」などがいたからです。これには、紫陽花は何かの運命を感じました。とても偶然とは想えません。智閥の夢が、「「ありがとうございます」の言葉と一緒にやってきてくれたからです。それで、紫陽花は、しばらく考えて、「なんでんかんでん村」を見習って、「縁の花村」を作らせて頂く事にしたのです。

 

「しかしその反面、縁の花村としては、すばらしい「伊路波村」や「やすらぎの村」「広島ひふみ村」さんとどう縁を持たせて頂けるかは未知数です。紫陽花村長のガンバリしだいですが、他の村長さんは、立派すぎて、どう縁が持てるかは紫陽花には分からないのです。ただ、「なんでんかんでん村」さん以外の村や日本サイバー村さんが、智閥になるのかどうかは、紫陽花には、今の時点では分かっていません。神様、天のみが知る事ですが、紫陽花は、紫陽花村長として、精一杯の事をしたいと想います。それが紫陽花の村長の「無限の無限の幸せ」なのです。よかったら、皆さんも是非参加して欲しいと想います」

 

 最後に、紫陽花の講演内容は、ここで終わります。

 時間でいえば、1時間ちょっとになると想います。

 その後は、小野元裕さんや参加してくれた人と、フリートークして終わりたいと想います。

「では皆さん、縁の花 第183号「紫陽花の講演」を聞いて頂いて「ありがとうございます」「よかったら実際に聞きに来て下さい」

平成16214

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