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                  縁の花

   (魂が成長する正直な心と心のネットワーク誌)

             第198号

   戦国時代架空戦いえり

     (今川家・北条家・上杉家編)

    ∞「読者の皆さんありがとうございます」∞

縁の花も、ついに待望の200号が迫ってきました。

 ずっと記念すべき、第200号で何を書こうかと考えていましたが、もうタイトルは決まっています。

「武田信玄の上洛(天下取り)」です。

 これを是非、書きたいのです。

 というのも、紫陽花の前世に、武田信玄公の後継ぎ、武田勝頼公の魂の一部が入っています。

 これはもちろん確証がある訳ではありませんが、以前ある霊媒する方に言われたことがありますし、去年は不思議な縁で、黄桜さんや葉桜さんと、武田奉納紀行という事で、甲斐(山梨)、信濃(長野県)2泊3日で行っています。

 しかも紫陽花の周りには、前世、武田家と縁ある人が、信じられないぐらい集っています。

 こんな事は、普通ではないと確信しています。

 だから紫陽花自身、前世の記憶がある訳ではありませんが、この縁の花を書く時や瞑想する時には、前世、武田勝頼だったと信じる事にしています。

 そうしないと前世一緒だった多くの御魂に対して失礼だと想うのです。

 また、そんな武田勝頼公としての前世を持つ紫陽花の使命の一つに、武田家の英霊達を供養するというものがあります。

 戦国時代一緒に戦い、時を供に生きた同志の御魂を癒してあげたいのです。

 それで縁の花では、シミュレーション小説の形で、今迄も武田家の事を書いてきました。

 勝頼の兄である義信(よしのぶ)や、勝頼と高坂弾正を主人公した物語を書いて来たのです。

 でもそんな紫陽花も、御屋形様、信玄公を主人公にしたものはなかなか書けませんでした。

 信玄が、後、5年長生きしたら、あのまま2万5千以上の大軍を、三河から尾張に向けていたら、信長なんかやっつけて、武田家が天下を取れたというのは、あの当時の武田家の人間、上から下まで、誰でも信じていた事だと想います。

 武田信玄は、天下取りまで後1歩まで来ていました。

 それだけに上洛の途中で、病死した事は、武田信玄だけでなく、家臣までずっと無念だったと想います。

 それを、前世、武田勝頼である紫陽花が、今世、シミュレーション小説という形で、見事に天下取りを実現させる事は、紫陽花が今世できる大きな使命の一つです。

 是非、200号は、どんなに大変でも書きたいのです。

 しかし、紫陽花がやろうとしている事は、武田家だけではもちろんありません。

 戦国時代に生きた多くの霊達を癒してあげたいと想います。

 武田家を滅ぼした織田信長や徳川家康、ライバルとして戦った上杉謙信に対しても、今は、敵対心はありません。

 供養してあげたいと想いますし、戦国時代だけでなく、明治維新以降の日清・日露戦争の英霊や、大東亜戦争で亡くなった多くの英霊達も同じです。

 一人でも多くの英霊・御魂を供養して、霊界に帰してあげたいのです。

 それが、紫陽花が、今世、命を頂いた使命の一つだと想うのです。

 しかも嬉しい事に、こういった戦国時代ものや、大東亜戦争ものは、意外と皆さんの評判も悪くはありません。

 第189号「太平洋戦争架空戦いえり」にカウンターをつけるまでは、そうは想わなかったのですが、他の号と比べても、そんなに遜色がありません。

 いえ、むしろ、人気がある感じです。

 いろんな人が見てくれています。

 これは、正直言って、紫陽花にとっても意外な事でした。

 紫陽花自身、皆さんは、戦や戦争といった戦いに関しては、あまり興味がないと想っていたのです。

 でも、カウンターをつけた事で、こういった英霊や御魂を、シミュレーションの世界で供養するという事も、縁の花として、大きな意味がある事が分かりました。

 皆さんが支持してくれているのです。

紫陽花は、今、「無限の無限の幸せ」一杯なのです。

 それで、早速ですが、第198号では、まず、武田家とは特に縁がある、お隣の今川家や北条家、上杉家の事で書かせて頂きたいと想っています。

 あの頃に生きた多くの御魂さんに、こうしたらよかった、これならよかったという事を書きたいのです。

 ただ、紫陽花は、武田家の人間なので、どうしても武田家の視点で見る事になります。

 その事は、御承知願いますし、戦国時代の多くの御魂にも了解して貰いたいと想います。

 

 

       ∞「今川家ありがとうございます」∞

 室町時代から戦国時代に活躍した今川家がありました。

鎌倉幕府が滅びた時に、戦功をあげた初代範国が、駿河・遠江を任された時から、主にこの2カ国を治めている大名でした。

応仁の乱後、下克上の世界になった時でも、武田家や島津家と同じように、守護大名から、戦国大名に脱皮できた数少ない大名です。

しかも名門です。

祖先は、源義家で、足利、吉良と同じで、室町時代には俗伝で、御所(足利幕府)絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば、今川が継ぐと言われていたのです。

 また、甲斐の武田家にとっては、南側の位置にある強国で、信玄の父、信虎の時には、国内に攻められた事もあります。

 ちょうど、信玄が生まれた時で、信玄は躑躅ヶ崎の館ではなくて、詰め城のある要害山城で生まれているのです。

 しかし、信玄の姉が、今川義元に嫁いだ事で和解して、その後は義元が率いる今川家とは、ずっと同盟の関係でした。

 特に、1554(天文23)年3月には、今川家・武田家・北条家の三国で、有名な三国同盟を築く間柄でした。

 相模の北条家康(当時40歳)、駿河の今川義元(当時36歳)、甲斐の武田晴信(当時34歳)の3氏が駿河・善徳寺に集まり講和を結んでいるのです。

 しかも、9代目の義元の時は、東海道一の弓取りと言われていました。

 仏門に入った頃の養育係の大原雪斎を軍師として、母寿桂尼の助言を得ながらも、今川家を百万石の大名にしています。

 三河や、尾張の一部(20万石)を支配して、その当時、武田家、北条家を凌いで、全国でも随一の大名になっていました。

 天下を十分に狙える大名だったのです。

 その上に、義元は、武だけでなく文にも優れていました。

 7代目の氏親が制定した、国を治める元となる法律「今川仮名目録」三十三か条」に二十一ヶ条を追加していますし、国の経営にも尽力していました。

関所の撤廃や検地、知行制度、分国法の制定等の新政策を、国内の反対を抑えて、波風をたてずにかなり徹底的に断行しています。

これは優れた政治力です。

 それに何よりも紫陽花が評価する最大の功績は、京都の文化も好んで、町を華やかにした事です。

 民にとっては、それが一番の幸せだと想います。

 ですが、そんな今川義元も、歴史では評価を大きく落としています。

 永録3(1560)519日、桶狭間の戦いで、織田信長に殺されたからです。

 それ以後義元の評価は、25千もの大軍を率いながら、たった5千人にも及ばない織田信長に奇襲されて、負けたとあって、惨憺たるものです。

 姿は、公家のようにお歯黒で、馬にも乗れない小太りで、軍師の大原雪斎に何でも任せていたから、今川家は大きくなったのであって、義元自体には何の才能もないと想う人もいるのです。

 しかし紫陽花は、その程、今川家の存在にとって悔しい事はないと想います。

 義元は、信長の引き立て役で終わる程度の器ではなかったはずです。

 この頃、少し見直されていますが、テレビなどで登場する義元は、化粧して、かごに乗っている無様なカッコな姿で、紫陽花としても、とても残念です。

 今川家の存在にとって、自分の御屋形さんを貶められる程、無念な事はないと想うのです。

 そしてその後、義元の跡を継いだ10代、氏真の時に、今川家は滅びています。

 それを直接したのは、実は、武田家です。

 永禄11年(1568年)1213日、永らく保っていた三国同盟を破棄して攻め込んだ武田家によって、今川家は滅びました。

蹴鞠の天才だった氏真は、落ち目になった今川家を守る才覚はなくて、三河の徳川家康などに反抗されて、家臣団をまとめられず、あっさり滅亡しました。

その後、北条家や徳川家などを渡り歩いていますが、徳川家康が、幕府を開いた時に、わずかの知行を貰って、幕末まで続いたのです。

でも紫陽花は、今川義元が、桶狭間の戦いで死ななかったら、こんな事にならなかったと想います。

今川家が天下を取って、歴史に名将として名を残した可能性は大です。

いえ、本来なら、桶狭間の戦いで、今川義元が、織田信長に負けるはずはありませんでした。

兵力は5倍以上ですし、義元自体大きな作戦ミスはなかったと言われています。

信長が勝ったのは、偶然ではなくて、作戦勝ちだとは想いますが、突然に降ってきたという大雨に助けられた事も事実のような気がします。

今の時代で考えられている真実は、織田信長は、桶狭間という谷間で休息していた今川義元を迂回して奇襲かけたのではなくて桶狭間山に本陣を据えている義元を、大雨に助けられて強襲して破ったと考えられています。

これには何よりも今川家におごりがあっただろうし、丸根、鷲津の両砦などの部下を見殺しにしてまで、今川の兵力を分散させた信長のすごさがありますが、紫陽花は、今川義元が、信長に討たれたのが残念でなりません。

もし、今川義元が、当然のように勝っていたら、その後の歴史は大きく変わり、武田家や北条家や天下の行方も大きく変わったと想うのです。

是非、そんな歴史をシミュレーションしたいと想います。

               

∞「今川義元の上洛」∞

永録3(1560)519日、今川軍は、織田軍との戦いの最中でした。

兵力は、25千対45百ぐらいです。

しかも相手は大うつけと言われている織田信長です。

負ける要素はありません。

今川義元は、最初から勝利を確信していました。

この為に、武田家・北条家とは三国同盟を結び、織田信長の家臣、鳴海城の山口左馬助父子などを寝返えりさせています。

勝てることは疑っていなかったのです。

また、今川義元は、この戦で勝って、織田家を滅ぼしたら、いよいよ上洛の準備をするつもりでした。

尾張、57万石を支配できたら、今川家は、137万石の大名になってしまいます。

その後の美濃、斉藤家とは和平を結んで進めば、京都までは一直線です。

三好  とは戦わないといけないかもしれませんが、十分に戦えます。

足利家に人がいず、吉良家は、問題外です。

自分が治めないと、天下はいつまでも安定しない、義元は将軍になって、足利家の代わりに、今川幕府を起こすつもりだったのです。

しかし、岡崎城でそんな事を思案していた義元に、衝撃な知らせが入りました。

何と、織田信長が、桶狭間山にいた本陣を強襲して、有能な家臣が多く死んだというのです。

しかも自分の影武者も首を取られたといいます。

その報告を聞いて、今川義元は寒気がしました。

本来なら、本陣に今川義元はいるはずでした。

ただ、2、3日前に、今川義元は作戦を一部変更しました。

織田信長は、兵で言えば、今川軍よりも圧倒的に少ないです。

そんな織田軍が取る方法といえば、清洲城で籠城するか、討って出て、しゃむに、自分の首を取ろうとするかです。

今川義元は、自分よりは遥かに年下の信長をまったく相手にはしませんでしたが、うつけものと評判の信長は、何をやってくるか分からないという気持ちがありました。

よく考えたら、そんな信長の前に、今川家最大の弱点になる自分の首をみせる必要はありません。

それでかごにしか乗れない義元は、わずか5百の兵を残して、岡崎城に待機して、後の4千五百の兵で本隊を進ませました。

一般の兵には指揮にかかわるので、影武者を使って、本隊に義元がいるという事にしていたのです。

だけど、そうしなかったら、自分は、今ごろ桶狭間で死んでいた可能性が大きいです。

命拾いしたのです。

でも、そこからの義元の行動は、さすがは東海道一の弓取りです。

岡崎城から伝令を出すと、動揺する各武将に、一歩も撤退をさせず、逃げ帰った本隊と合流すると、今度は油断なく、軍を進めました。

信長を侮っていた義元は、目が冷めて、ここで信長を倒しておかないと、大変な事になると判断したのです。

こうして、信長の抵抗は、あっけなく終わりました。

義元の首が偽者だったとした信長は、その後は復讐に燃える今川軍の前に、抵抗できず、清洲城で篭城しましたが、結局敗れてしまいました。

今川義元は、5ヶ月ちかい清洲城の籠城戦の後、尾張の国も支配下に入れたのです。

しかしここで、本陣にいた有能な家臣が多く討たれた事は、義元にとっては大きな痛手でした。

この後、義元は、3年間、大きな戦は避けたのです。

でも、その後、気力を取り戻した義元は、上洛の軍を起こしました。

美濃の斉藤家は、戦わずに、今川家に従いました。

近江の六角家、浅井家も同じです。

今川家は、家柄でいえば、自分達よりも遥かに上です。

滅ぼされるよりも、従うほうを選んだのです。

ここが、足利将軍の権威を借りて、上洛した織田信長と大きく違っていたのです。

また、この時に京都を治めていた三好長慶も、幸運にも死んで、三好家は、内部分裂を起こして、急速に力を落としていました。

上洛する今川連合軍4万以上と戦えるはずがありません。

義元の上洛は、殆ど、抵抗もなく成功しています。

こうして義元は天下人になったのです。

だけど、その後、今川家の時代は長くは続きませんでした。

駿河から京都に住むようになった義元は、文の才能もあって、天皇家とも友好関係を築き、足利将軍にも、政治力で将軍職をうまく引き継ぐ事に成功しましたが、寿命がここでつきてしまいました。

今川家の存在には申し訳ありませんが、桶狭間山の戦いで亡くなっていた命をここまで伸ばすのが限界です。

今川義元は、桶狭間の戦いの後、5年後、京都で、病気でなくなってしまったのです。

ですが、それは今川家にとっては衝撃でした。

後継ぎの氏真は、天下を治める器ではありません。

まだ安定しない天下を治める力などありません。

京都風の生活に溺れた氏真は、まったく政治に関心はなかったのです。

ただし、その事は義元もよく分かっていました。

義元は、何故か、松平を徳川に名字を変えた、徳川元康を高く評価していて、元康を完全に今川一門にすると、跡取りの氏真の事を頼んでいました。

昔、今川家の人質であった徳川元康は、今川家を支える武将になっていたのです。

こうして徳川元康は、本国の三河だけでなく、尾張も任される今川家随一の大名になっていたのです。

だけど、ここに牙を向いたのは、武田信玄でした。

義元なら仕方がないと諦めていた信玄も、その跡を継いだ氏真が愚直だと見ると、天下に目を向けます。

というのも、今川家によって、西の道を閉ざされていた信玄は、川中島の戦いで、上杉家の戦いに、ほぼ決着をつけると、西上野を、奪い力をつけると、駿河を狙う決心をします。

領土を増やして、家臣を納得させないといけない信玄は、戦わないといけない宿命があります。

義元が生きていた頃は、天下は残念すると、北の上杉謙信との戦いだけに専念していましたが、今なら、念願の海のある駿河・遠江を奪う事も可能です。

信玄は、大きな賭けに出ようとしました。

今川を攻める事を、北条家に納得させようとするのです。

しかし、この信玄の企ては成功しませんでした。

畿内も治めている今川家の力を恐れる北条家は、納得しませんでした。

徳川元康も、北条家が襲われた時は、武田と戦うと誓っています。

武田家は遠江、駿河は北条家という提案も断ってきたのです。

しかも長男の義信の反対するので、さすがの信玄も、残念しました。

義元が残した三国同盟の効果は大きかったのです。

こうして今川家と武田家の戦いは、すんでのところで避けられました。

信玄は、結局、上杉家との戦いに専念して、幸せの内に、寿命を終えたのです。

しかし、これで、今川家の天下が治まったかといえば、そんな事はありえません。

氏真では天下を治めることは不可能です。

今川家内の内乱も起きる可能性は高いですし、浅井、六角、朝倉などもやがて反乱する事になります。

徳川元康でさえ分かりません。

ただ、その時に、信玄の跡を継いだ、勝頼の兄義信が、どう判断するかは分かりませんが、今川氏真の妹を妻にしている義信なら、今川氏真を助けて、一緒に戦った可能性が大です。

でもそれ以上は、とても紫陽花には、シミュレーションできません

 

(追伸、悔しいです。こんなはずではなかったです。紫陽花は、今川義元が亡くなられた後、武田家と今川家は戦をする事になると想っていました。駿河を抑え、遠江、三河、尾張の一部を任される事になる徳川元康と戦い、信玄公が勝つ事を書くつもりでした。しかし、どうしてもそれをシミュレーションできませんでした。実際の戦いでも、信玄は、駿河を攻めた後、徳川家と北条家に挟まれる形で戦う事になって苦戦しています。その事を考えたら、義元亡き後と言っても、今川家と、とても戦う事はできません。それを武田家の英霊や、今川家の英霊も望んでいると想います)

 

 

     ∞「北条家ありがとうございます」∞

関東の雄、北条家は、天正18(1590)年、小田原評定で有名な、小田原合戦で滅亡してしまいます。

豊臣秀吉率いる20万の大軍で、小田原城を囲まれ、5万の大軍で籠城したものの、領内の各城を次々と落とされて、本当にあっけない最後でした。

ろくな抵抗もしていません。

この北条家が滅亡した事で、戦国時代は初代の北条早雲で始まり、5代目の氏直の代で終わり、安土・桃山時代を迎えます。

特に、豊臣秀吉の実力を完全に見誤った四代目、氏政、氏照、氏邦らの強行派は、救いない人物だと想われています。

紫陽花自身も、正直信じられません。

天下を取ろうとしている秀吉に逆らうなど愚の直行です。

五代目氏直や、氏規に政権を任せていたら、家を保つ事はできた気がするのです。

しかし、それでもいずれは、北条家は滅びる運命にあったと想います。

何故なら、関東の強大な領土を持つ北条家はあまりにも大きすぎます。

秀吉以外でも、天下を取った人物なら、誰でも脅威を感じるはずです。

よほど当主がしっかりしていないかぎり、家を守る事は不可能です。

氏政が、秀吉に従えなかったのも、そこに大きな原因があったと想うのです。

でも、そんな北条家でも、家を保つ方法は一つだけあったと想います。

それは北条家が天下を取るか、強力な同盟国に天下を取らせる事です。

そうすれば、北条家も安泰です。

紫陽花は、そう想うのです。

また、ではそんな北条家が、天下取りのレースに参加できる時期があったとしたら、それは織田信長が、中央に覇権を握る前しかなかったと想います。

すなわち、織田信長が、上洛してから、武田信玄や上杉謙信と争った時だけです。

その後、織田信長が本能寺で明智光秀に殺された時もチャンスだったと想いますが、秀吉があっと言う間に中央を抑えています。

徳川家康と甲斐・信濃を巡って争わず、強力な同盟を結んだとしても、秀吉に勝てたかどうかは分かりません。

家康が、柴田勝家、北条家と同盟を結んだとしても、中央を抑えている秀吉は強いです。

どちらが勝つかは分かりませんが、まずは不可能です。

しかも、信長があの時に信長が本能寺で死ぬなんて、まったく誰も予想もしなかった事だと想います。

そういった事で、シミュレーションできないと想うのです。

では、次に具体的にいつシミュレーションしたらいいかという事ですが、紫陽花は、織田信長が上洛しようとした永禄11(1568)年にしかなかったと想います。

その後では、武田信玄も、上杉謙信も、寿命がつきてしまいます。

とても織田信長と最後まで戦えなかったと想うのです。

そして実は、この時に、三代目氏康、四代目氏政は、大きな決断をしています。

三国同盟の一つ、甲斐の武田が、今川義元が死んだ後、落ち目になった駿河の国に侵攻し、北条家は、それに激怒すると、駿河の国を賭けて、武田家と戦う事になります。

事前に武田家からは、今川家を分配しようとする申し込みもありましたが、北条家は断りました。

今川家との同盟を重んじたのです。

でも紫陽花は、この時に、北条家が、武田家と結んで、天下取りの道に歩く事はできたと想っています。

それが、歴史に突然に登場してきた織田信長の存在です。

何故なら、織田信長が、上洛しようとしていた事は、関東にいた北条家にも分かっていたはずです。

もし、織田信長の上洛が成功して、信長が中央を握る事になったら大変な事になる事は、少しは予想できたはずです。

紫陽花は、この時に、北条家が、武田家と手を握っていたらと、想うと残念で仕方ありません。

織田・徳川の同盟に勝るとも劣らない同盟が組む事ができていたら、両家で天下を取れたと想うのです。

では早速シミュレーションしたいと想います。

 

        ∞「北条氏政の天下取り」∞

永禄10(1567)年は、北条家にとっては、大きな節目の年でした。

この年の8月、武田信玄が、自分に謀反した、嫡男の義信を自害させるという事件が起きています。

これは、同盟国である今川家に対する意見の対立から生じた事は明白です。

信玄は、駿河侵攻に反対する義信を殺しました。

そこまでしてまで駿河を手に入れようとする信玄の並々ならぬ決意を感じたのです。

しかし、その時の北条家の決断は、武田が駿河に侵攻したら、武田と戦うという事でした。

北条家は、当主の座を3代目の氏康が、4代目の氏政に譲っているとは言っても、事実上は、すべて動かしています。

信玄や謙信とも互角に戦える氏康に、氏政が逆らう事はありません。

その氏康は、武田との戦をする覚悟していました。

自分の娘、早河が嫁いでいる今川家を、何の落ち度もないのに、一方的に三国同盟を破棄してまで攻める武田は許せませんでした。

武門の名折れだと考えていたのです。

でも、氏政の考えは、少し違いました。

武田が許せないのは同じです。

しかし、義元が亡き後の当主の氏真に、当主としての器量があるとは想えません。

父、義元を討った織田信長に対して戦うとしないなど、覇気がなさすぎます。

いずれこのままほっといたら武田が滅ぼさなくても、徳川家か織田家に滅ぼされる事は明白です。

今川家が滅亡する事は時の流れだと考えていたのです。

だけど、それに比べて武田家は違います。

信玄は名将です。

戦をさせたら、北条家でも勝てるかどうかは分かりませんし、頼りになる味方でした。

上杉家との戦いでも、今迄協同で戦ってきました。

関東の地でも、武田家は、北条家の依頼で、軍を西上野、武蔵に進めると、松山城を協同で落としています。

北条家から見ても頼れる存在です。

氏政自身、信玄には恩を感じていたのです。

しかも氏政の正室、黄梅院殿は、武田信玄の娘で、夫婦仲はとてもよかったです。

子供も、後継ぎの長男氏直から始まって、国増丸 氏房 直重、直定 新太郎・・・・と産んでいます。

もし、北条家と武田家が争えば、正室の黄梅院殿を甲斐に送り返す事になります。

そんな事になれば、黄梅院は嘆き悲しんで、死んでしまうかもしれません。

氏政には、それが不憫でなりませんでした。

むしろ、武田信玄が、今川に侵入するというのなら、北条も一緒に攻め込んで、駿河を奪う方がいいのではないかと考えていました。

今川の為に、武田と争うのは、止めた方がいいのではないかと想っていたのです。

でも、氏政には、当主の自分の意見をなかなか父、氏康に言う事はできませんでした。

父、氏康の器は、自分の目から見ても偉大すぎます。

言っても、父、氏康が納得するとは想えなかったのです。

しかし、そんな氏政に決心させることが起こりました。

織田信長の登場です。

小国の当主だった織田信長は、今川義元を討つ事で、尾張一国を平定すると、苦戦しながらも、7年以上の年月をかけて、美濃、斉藤家を攻略し、今や、武田家や北条家を凌ぐ百万石以上の大名になっています。

その織田信長が、足利義満の要請を受け入れて、上洛しようとしています。

畿内には、今の織田の軍に逆らえる力のある大名はいません。

このままでは織田信長が中央を抑えて、最後は関東の北条家と対立する事になるかもしれません。

氏政自身、長い間、戦国時代が続いて、天下を平定する人物が現れる事を意識した事など一度もありませんでしたが、織田信長の彗星のような登場で、それを意識しました。

北条家が滅亡する事があるとしたら、それは上杉家でもなければ、武田家でもない、中央から攻めて込む家があった時だと確信したのです。

だから、氏政は意を決すると、自分の考えを素直に言いました。

いくら関東を北条家が支配しても、中央で天下取りを目指す相手が登場したら、北条は大国だけに滅ぼされてしまう。

自分としては、武田家との同盟をより一層深めて、武田家に天下を取らせたい。

それ以外、長い目でみた場合、北条家が、関東で生き残る道はないと想うと言ったのです。

そしてその決断は、氏康自身を動かしました。

氏政に、大国北条家を動かす器量にかける事は、氏康自身が一番よく分かっていました。

関東で争っているかぎりでは、難攻不落の小田原城がある北条家を滅ぼす事は難しくても、中央から大軍で攻めてきたら滅びる事になります。

北条氏康自身、密かにその事を覚悟していたのです。

ですから、氏政の判断に、氏康は同意しました。

氏政を見直したのです。

こうして急遽、北条家の方針は、一遍しました。

氏政の使者が、武田家に行ったのです。

また、この氏政の使者の言葉は、武田信玄も驚かせました。

使者は、駿河内に、今川家を3万石で、残す事を承知するのであれば、武田家が遠江に侵攻する事を認め、北条家も駿河に攻め込む約束をしました。

北条家としては、初代早雲から恩義のある今川家を滅亡させる事はできず、北条家としても面目を保つ為にも考えた苦肉の案でした。

氏政は、今川家の存続という名案を考えついたのです。

そしてその案は、武田信玄も動かしました。

信玄自身、北条家を敵にまわす、駿河攻めには不安な気持ちがありました。

遠江が武田家、駿河は北条家という提案は、自分が言った事でもある以上、申し分のない条件だったのです。

ただ、信玄の方でも問題がない訳ではありませんでした。

一つは、徳川家とはすでに、遠江が、徳川家、駿河は武田家という盟約を結んでいることと、駿河の金山をどうするかという事です。

実は、武田家の金山から取れる金の量は年々減っていて、信玄としては駿河の金山はどうしても手に入れたいものでした。

その為に、今川侵攻を決断したのです。

徳川家との盟約は、いずれ戦う相手ですから、北条家が味方についてくれるなら破棄するのは簡単ですが、金山は手に入れたかったのです。

だけど、その信玄の思案は、氏政の好意で、何とか合意に結び付きました。

氏政は、駿河にある金山は、武田家と北条家が共同で開発する事に同意したのです。

しかも氏政は、その後も見据えていました。

信玄が、信長と戦い、将来、上洛するのであれば、北条家も喜んで協力する。

関東を北条家に任せる事を約束してくれるなら、武田家に天下を取って欲しいという事まで、使者は内々に言っていました。

信玄は、北条と供に、天下を目指す決心をしたのです。

こうして翌年に行われた今川侵攻は、大成功しました。

徳川家康は、突然、盟約を破棄した武田家に怒りを覚えていましたが、どうする事もできませんでした。

武田家は遠江、北条家は駿河に同時に攻め込み、今川氏真は、駿府から一歩も出る事はできなかったのです。

こうして今川攻略は、瞬く間に終わりました。

氏真も、駿府をせめようとしない氏政の説得に応じて、抵抗を諦めました。

掛川城で抵抗していた重臣朝比奈泰朝なども、氏真の命令で、武田家に城を明け渡したのです。

北条家にしろ、武田家にしろ殆ど、兵を損失せずに一国を得る事ができたのです。

しかもその事に怒りを覚えていた徳川家康が、上杉謙信と同盟を結び、上杉謙信が家康の依頼で、川中島に入っても、相・甲同盟はびくともしませんでした。

武田家は遠江から兵を引いても、その分、北条家から遠江の城に援軍が派遣されました。

徳川家康は、1歩も遠江に入れませんでした。

織田信長も、様子を見るように言っていたのです。

しかし、武田家と北条家の強固な同盟は、織田信長に脅威を与えました。

いつまでも京都にいられなくなったのです。

こうして、武田家と織田家は対決する方向へと大きく進み始めました。

それで信玄は、松姫と織田家の嫡男、信忠との婚約の破棄も考え始めます。

武田家からは、信忠を慕っている松姫の気持ちを考えて、破棄はしませんが、信長から破談される覚悟をしたのです。

 でもその代わりに、北条家との同盟を強くする事が求められ、武田勝頼と北条氏康の六女、桂林

院との結婚も決まりましたし、勝頼の嫡男、信勝と北条家の姫との婚約も約束ができました。

 将来、信勝と北条の姫とに生まれた男子の子供に、武田家の跡を継がせる約束ができていました。

 その人物を、北条家との約束で、天下人にしようとしたのです。

 また、この氏政と信玄の構想は、見事に実現しました。

 1年後、遠江を固めた信玄は、北条氏政自身が率いる援軍1万を加えた3万5千の軍で、10月に、三河の徳川を攻め、まず吉田城を破竹の勢いで落とすと、織田・徳川連合軍を岡崎城の戦で、見事に破りました。

 吉田城の次に、本城岡崎城を囲んだ武田・北条軍に対して、徳川家康の強い要請を受けて、しぶしぶ織田信長自身も、2万5千の大軍を率いて、戦いましたが、武田・北条軍の敵ではありませんでした。

 期待した鉄砲も、数は1千程しか集らず、野戦では武田・北条の敵ではありませんでした。

 信玄は、岡崎城から少し離れた距離に、馬柵を造ろうとした信長に対して、馬柵を造らせずに、一気に攻勢を仕掛け、織田・徳川連合軍、3万を破りました。

 期待した上杉謙信からの軍も、雪が積る冬では兵は動かせない上に、川中島の海津城に北条家からの援軍、3千を含めて、5千もいる以上、どうする事もできません。

 信玄は、妻の三条氏の妹が嫁いでいる本願寺に手をまわして、越中の一向一揆にも、越後の牽制を依頼して、打つ手は磐石でした。

 信長も、どうする事もできなかったのです。

 そして岡崎の戦いで、織田・徳川連合軍を破った信玄・氏政は、三河西半分の領土保全を条件に降伏した徳川家康も味方にすると、豊かな尾張にも攻め込み、20万石を手にしました。

 信玄が密かに求めていた、金山に変わる新たな財源、経済力を手にしたのです。

 しかもその後も、武田家・北条家の戦は、順調に進みました。

 三河武士の徳川家を味方にできた事は大きかったです。

 畿内でも、織田家に逆らう大名は多く、浅井家も完全に離れました。

 信玄は、そんな信長に対して、翌年には、尾張の攻め込むと、清洲城以外の城は、全部落としました。

 美濃でも、岩村城を落とすと、東美濃も手に入れました。

 残るは、岐阜本城になったのです。

 こうして、信長との対決も終わりました。

 信玄は、松姫と信長の嫡男、信忠の婚約を復活させると、織田家の保全を条件に、信長を隠退させると、遂に、氏政と一緒に上洛しました。

 その上で、足利義満に対しては、信玄は、信長の味方をしていた事を理由に追放すると、武田家は、念願の天下を取りました。

 上杉家も、毛利家も、そんな武田・北条連合軍の力に恐れをなすと、逆らおうとしませんでした。

 武田・北条家は、上杉家には、越中・越後2カ国、毛利家には、長門・周防・石見・安芸の4カ国に抑える事に成功し、北条家は、武田家から西上野、上杉家から東上野を割譲されると、念願の関東全土を手に入れる事ができたのです。

信玄が亡くなったのは、その後すぐでした。

真実の歴史と同じ、元亀3年(1573年)4月12日に京都で亡くなっています。

信玄は、氏政の決断によって、残りの人生5年を、本当に有効に使う事ができたのです。

 また、その後も、後を継いだ勝頼と氏政の関係は、良好でしたし、勝頼と妻である北条氏康の妹、

桂林院との中も非常によかったです。

 子供はできませんでしたが、勝頼は、自分よりも十歳以上も若い桂林院を大事にしたのです。

その上に信玄は、天下を取らせてくれたのは北条家という事で、その恩は、遺言としても数々残していましたし、将来、関東を手にした巨大な北条家と武田家が戦う事だけは、絶対にさけるつもりでした。

そんな信玄が、最後に考えた手は、世間を驚かせた有名な武田家と北条家の対等の合併でした。

勝頼は、その遺言を実行して、武田家と北条家は、一つになり、北条家の家臣は、信勝に仕えたのです。

そして氏政・氏直親子は、勝頼の相談役になると、20万石の知行を貰うと関東で悠悠自適な生活をしました。

勝頼に対しても、一切遠慮する事無く、気楽に死ぬまで暮らしたのです。

(武田家と北条家は絶対に戦ってはいけませんでした。実際に、有名な三国同盟を築いた間柄ですし、長い間、上杉謙信とは共同で戦っていました。その時は、お互いに大きく勢力を伸ばしていたのです。しかし、そんな関係が一時、武田信玄の今川侵攻で壊れた事があります。三国同盟が破棄され、武田家と北条家は戦ったのです。でも、すぐにお互いの力を認め、双方に益がない事に気づくと再び、北条氏康の遺言で和解しています。そんな武田家と北条家が再び争う事になったのは、上杉謙信以後の跡目争い、御館の乱で、景虎と景勝が争い、勝頼が、北条家からの養子の景虎の裏切って、景勝の味方をした事がきっかけですが、紫陽花は、その前から両家の関係は半分壊れていたと想います。強固な関係は持てなかったのです。でも強固な関係が勝頼・氏政という偉大な父親を持ったもの同志で、築く事ができたら武田家も北条家も簡単に滅びる事はなかったと確信しています。実際に、武田家があんなに簡単に滅びたのは、西の織田・徳川だけでなく、東の北条も敵に回した事で挟み撃ちになったからですし、北条家が最終的に滅びたのも、武田家の代わりをした徳川家が、秀吉についたからです。しょせん、徳川は、北条よりも織田・豊臣との絆が強く、強固な関係を気づく事はできませんでした。勝頼や、家康が、強くそれを望んでも、氏政には理解できなかったのです。だけど、氏政に、中央まで視野にいれる事ができる目を持っていたら、武田家と北条家は、織田家・徳川家に勝るとも劣らない対等の同盟を気づく事は十分可能だったと想います。

何故なら、勝頼と正室である北条氏康の六女、桂林院との仲は最高によかったですし、両家には、隣どうしという事で、長く友好を結んでいたという歴史があります。例え、武田家が天下を取ったとしても、関東の覇者になった北条家を滅ぼす事はしなかったと想うのです。対等に合併さえできたと想うのです。この物語は、武田勝頼として、そんな想いで書かせて頂きました)

 

 

   ∞「上杉家にありがとうございます」∞

上杉家は、武田家、北条家とは違って、幕末まで生き残った家柄です。

上杉謙信以後、後を継いだ景勝にも、織田信長との戦いや、関ヶ原の敗戦といったいろんな難題がありましたが、謙信以来の武門の家として生き残りました。

出羽米沢で最終的には15万石ですが、明治まで残ったのです。

また、そんな上杉家を有名にしたのは、川中島で竜虎の対決と言われた武田信玄と上杉謙信との戦いでした。

信玄と謙信は、ここで長い間、10年ちかく争ったのです。

しかし、この戦いが、結局、武田信玄の天下取りを阻んだと言われています。

京都とはあまりにも遠い川中島の土地で、本当に貴重な30歳〜40歳代を、上杉家との戦いの為に費やしてしまったからです。

だから紫陽花は、もし、越後の国に上杉謙信がいなかったら、武田家は、信濃を抑えた後、越後・越中と領土を広げ、織田信長が、桶狭間の戦いで、勝利した後、力をつける前に、美濃を占領する事で、織田家を抑える事が可能だったのではないかと想うと残念でなりません。

信長よりも、遥かに早く生まれた利点が、生かせたと想うのです。

ですが運命は、信玄に、上杉謙信という最大のライバルを与えました。

信玄は、決して望みませんでしたが、謙信と戦う事で、貴重な時間を失い、上洛する事ができなかったのです。

ですから紫陽花は、信玄が、もし、歴史を一度だけやり直せるとしたら、この上杉謙信との戦いを避ける事を必ず選んだ気がしています。

もし、川中島で戦わなかったら、4回目の戦いで、弟の信繁や、軍師の山本勘助が死ぬ事はありませんでした。

貴重な兵、3千人も失わずにすんでいます。

今から考えたら、絶対に川中島で、上杉謙信と戦ってはいけなかったのです。

また、それは上杉謙信にも言える事でした。

関東管領職を引き継いだ上杉謙信の敵は、関東の北条家です。

もし、武田家と川中島で争わなかったら、北条家との戦いに専念できます。

北条家に関東をやすやすと取られる事はなかったと想います。

関東の北条家を駆逐して、念願だった関東に平和をもたらす事もできたかもしれないのです。

ですから、紫陽花は、川中島の戦いは、武田・上杉両家にとって、必要がなかったと想うのです。

では、次に、それでは両家が川中島で戦わないと言うシミュレーションができるかという事ですが、紫陽花自身、難しかったと想います。

南を今川家、東を北条家に支配されている武田家としては、一つにまとまっていない攻め易い、北側の信濃に侵攻したのは自然ですし、その流れから、越後の国境北信を取る事で、上杉家に脅威を与えてしまったのも仕方がなかったと想います。

それ以外に選択肢はなかったと想うのです。

言い換えるなら、武田信玄は、上杉謙信と戦う運命だったのです。

しかし実際に上杉謙信と戦って、これは強いと想った時点で、早い段階で和議を結ぶ事は可能だったと想います。

上杉謙信が、北信の領土を取られて追い出された村上義清などの願いを聞いて、北信を攻めて来た時は無理としても、一度戦えば、その実力が分かったはずです。

この上杉謙信との戦いは、なかなか決着がつかないと分かった時点で、信玄が謙信に頭を下げていたら、謙信の要求を聞いて和議を結ぶ事ができたら、武田家と上杉家は、二度と戦う事はなかったのではないか、紫陽花はそう確信しています。

義理堅い上杉謙信は、約定を自ら破る事は決してないと想うのです。

また、信玄自身も、亡くなる直前に、勝頼に、上杉謙信と戦った愚かさを遺言として残しています。

「自分は、意地から最後まで謙信と戦ったが、お前は謙信を頼れ、謙信は若いお前が頼れば、きっと力になってくれる」そう助言しています。

 信玄は、謙信と戦う事で、上杉謙信という人物がどういった人間か、よく分かっていたのです。

 だから、紫陽花は、信玄と謙信の和解を早い内に実現させたいです。

 お互いが激しく戦う前、一回目の川中島の戦いが終わった後が、唯一のチャンスだったと想いますが、それをシミュレーションしたいのです。

 

        ∞「関東管領上杉謙信」∞

1553年の冬、武田信玄の軍師、山本勘助はずっと思い悩んでいました。

8月、北信の布施という所で戦った上杉家との戦が、大きな原因でした。

謙信は、北信の武将、村上義清や中信の武将、小笠原長時の要請を受けて、二人の旧領土を回復するという名目で、川中島方面に侵攻しましたが、その力は噂どおりでした。

山本勘助にもなると、戦気が分かるのか、一目兵を見るとその力が分かります。

上杉軍全体が、謙信を本当に信頼しているのが分かります。

これは容易ならぬ敵だという事で、山本勘助は上杉謙信を恐れました。

川中島の第1回目の戦い自体は、お互いに警戒して、布施方面で行われたものの小競り合い程度で終わりましたが、勘助には、これは相当長引くという判断ができました。

こんな事になるのなら、北信の村上義清を追い出すのではなかったという後悔があったのです。

しかし、まだ若い晴信(信玄)は、そんな気持ちは、まったくありませんでした。

むしろ、謙信との戦を楽しむ気持ちがあったのです。

でも、勘助は、上杉家との戦いは、避けるつもりでした。

川中島で途惑っていたら、密かに願っていた武田家の天下統一も実現しない可能性があります。

勘助には、時が勿体なかったのです。

だから勘助は、躑躅ヶ崎館で、粘りよく晴信に、上杉家との和平を説きました。

村上義清に北信の領土をある程度返してやる事を勧めました。

それを餌に、上杉家との堅い和平を結ぶ事を提案したのです。

ですが、晴信も、この勘助の提案には、応じようとはしませんでした。

北信の領土を返すという事は、その土地を褒美として与えた家臣にも、新たなる土地を与えるか、返上させなければなりません。

そんな事をしたら、家臣の不満を招きます。

晴信としては、勘助が次に提案した策、武田家・今川家・北条家との三国同盟の方に、魅力を感じていたのです。

だけど、勘助は必死に武田家の利点を説きました。

「上杉家の脅威がなければ、軍を木曽家に向けて、攻略したら美濃から京都に向けられる、上洛できる」と必死に説得し、晴信から了解を得たのです。

 また、その後の勘助の行動は、敏速でした。

 この事を武田家内でも、晴信以外には、誰にも内密にすると、翌年、1554年にわずかの家臣と越後に入ると、春日山城で上杉謙信と会っているのです。

 しかも、そこで勘助が提案した内容は、上杉謙信を驚かせました。

 勘助は、北信の村上家の領土半分を返すので、もう攻め込まないで欲しいと単刀直入に言ったのです。

 でも謙信は、その勘助の提案に、触手が動いたももの、なかなか応じようとはしませんでした。

 山本勘助は、上杉家に対しては、絶対に戦いを仕掛けないので、上杉家も武田家とはいかなることがあっても戦をしない事を約束して欲しいと和議を求めていて、信玄との戦いを密かに楽しもうとしている謙信をがっかりさせました。

 謙信は、好敵手の信玄と思い切り戦ってみたかったのです。

 でも信玄が嫌だというのであれば仕方ありません。

 謙信は、勘助に、北信の半分ではなく、村上家の旧領土を全部返せとか、中信の小笠原家の領土も返せといった無理難題をいう事で、武田家との和平を断ろうとしたのです。

 だけど、その気持ちは勘助に見抜かれていました。

 勘助は、そんな上杉謙信の提案をあっさり承知すると、今度は粘り強く武田家の言い分を言いました。

 何故なら北信全部とかましてや中信まで、返すなどは武田家としては、絶対に飲めない話です。

 そんなことをしたら、命懸けで、小笠原家や村上家と戦ってきた武田家臣の大反対にあって、大変な事になります。

 絶対に飲めない話だったのです。

 けれど、10年後であれば、返す事も可能です。

 新たな土地を得る事ができたら、家臣に与える事もできます。

 山本勘助は、それをあっさり承知すると、、ただし10年後にして欲しいという条件をつけたのです。

 だけど、それでは謙信も納得しませんでした。

 結局、上杉家に頼った村上義清、小笠原長時・・・などの意志を確認する事で話はつきました。

 村上義清にしろ、小笠原長時にしろ、居候の辛さは身に染みています。

 領土を生きている内に返して貰える事が保障されるならと、その条件を飲む事に応じました。

 結局村上義清には雨飾城、小笠原長時には、葛山城が与えられ、5年後に村上家の旧領土全部、10年後には、中信の小笠原家の旧領土、全部返却される事が決まりました。

 勘助は、川中島を上杉に渡すという大幅な譲歩したのです。

 でもその代わりに勘助は、武田家と上杉家との永遠の平和を勝ち取りました。

 上杉謙信は、同盟関係でなくても、武田家とは戦をしない事を誓いました。

 武田家は、上杉家の命令も聞かずとも敵対しないかぎり、侵略されない事は保障されたのです。

 こうして勘助は、やっと甲斐に帰れました。

 武田家の家臣の中には、不満を持つものがいましたが、信玄がうまく説得したのです。

 これが後に有名な川中島での戦いではなく、川中島の和議と呼ばれる、世間を驚かせた出来事になるのです。

 また、その後の武田家は、敏速でした。

 家臣を納得させる為には、新しい領地が必要です。

 上杉家の脅威がなくなった信玄は、翌年1554年、木曽を攻めて、木曽家を降伏させました。

 その後、目を美濃に向けたのです。

 しかし、そんな武田家に慌てたのは、今川義元と軍師大原雪斎でした。

 信玄が謙信と北信で長い期間戦ってくれることを望んでいたのに、それは武田家と上杉家の和解で実現しませんでした。

 このまま武田家が、美濃を攻略したら、今川家が上洛するのは不可能になるのです。

 けれど、そうはいっても、今、同盟を結んでいる武田家と争えば、北条家とも戦っているので大変な事になります。

 義元が織田家を滅ぼして、尾張・美濃と進むか、信玄が、美濃を攻略するのが早いか、競争になったのです。

 その中で、今川義元は、敵対していた北条氏康との和平を1954年に実現させると、実際よりも3年早い、1997年に織田家に強引に攻めて、桶狭間の戦いで、あっけなく討たれてしまいます。

 武田家の見えない脅威に焦っていたのが、原因だったのです。

 けれど、その事は武田家に取ってはラッキーでした。

 信玄は、北条家との同盟は、謙信の事に遠慮したのか結ばなかったので、有名な三国同盟は結んでいませんでしたが、今川家には大きな脅威を感じていました。

 美濃を巡って、戦になる覚悟もしていたのです。

 でも跡を継いだ今川氏真には、そんな器量はありません。

 今川家には、敵討ちという事で、徳川・織田を牽制させて、見事に美濃の斉藤家を討つ事に成功しました。

 岩村城や明智城を占領して、東美濃の一部を抑えていた信玄は、本当の歴史で、今川義元が亡くなった年、1567年には、大攻勢を仕掛けて、美濃全土を占領したのです。

 しかし、その事は織田信長には、衝撃でした。

 美濃を抑えられたら、上洛はできません。

 信長は仕方なく、伊勢に進路を取ったのです。

 こうして天下取りのレースは、武田家が有利に進みました。

 関東では上杉家と北条家が争っています。

 武田家は、関東管領になった謙信の北条を討つ求めにも丁寧に断ると、どちらにもつかない中立な立場をとりました。

 上杉家・北条家は、関東で力が膠着していてなかなか決着がつけられなくなったのです。

 その中で、信玄は、謙信との約束、5年後に村上家の旧領土を返すと、弟で副将である信頼する信繁に、甲斐・信濃の守りを任せるといよいよ上洛しました。

 2万5千の大軍だったのです。

 そしてそんな武田軍に対抗する勢力は存在せず、上洛は見事に成功しました。

 その後、信玄は、畿内を抑えると、尾張の織田家や越前の朝倉家といった反対する勢力には、戦を仕掛けていったのです。

 でも、上杉謙信は、武田信玄との約定を守って、最後まで兵は向けようとはしませんでした。

 織田信長や朝倉義景は、上杉謙信に同盟を申し込みましたが、約定がある以上断りました。

 足利義昭の武田信玄を打つようにという書状が来ても、動かなかったのです。

 だから武田信玄の天下取りは順調に進み、武田家は、織田家、朝倉家を滅ぼし、本願寺の一向一揆を倒して、畿内を治めると、後は1年事に、中国・四国・九州と平定し、最後に関東に目を向けたのです。

 でも、ここで生きたのは、謙信との約定でした。

 信玄は、謙信を心から尊敬していたのか、約定を破棄しようとはせず、上杉家・北条家・武田家の話し合いで解決しようとしました。

 関東管領の謙信をたてたのです。

 だから謙信も、今や天下を治めた武田信玄と争うとはせず、上杉家は越後・上野2カ国、北条家は、伊豆・相模・武蔵の3カ国で納得しました。

 以後関東の争いは終わり、信玄はそれで安心すると、安らかに亡くなりました。

 こうして信玄は、実際の年齢と同じ、1973年まで生き、謙信も念願の上洛すると、京都で暮らす事ができたのです。

 そしてその後の武田家は、勝頼の兄である義信が後を継ぎ、義信に子供がいなかった事で、その後を、勝頼の嫡男、信勝が継ぎました。

 しかも、新しい歴史では、信玄の弟、名補佐役の信繁が健在です。

信繁は、義信、信勝を支え、武田幕府は、その後、明治を迎えるまで続いたのです。

 では皆さん、縁の花 第198号「戦国時代架空戦いえり」読んで頂いて「ありがとうございます」

 

(歴史では武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いが有名ですが、絶対に戦ってはいけない戦だったと紫陽花は想っています。父、信玄公は、上杉謙信と戦った事で、10数年以上の長い年月を費やしてしまいました。それでも決着はつけられず、得た領土は、本当にわずかです。しかも川中島の4回目の戦いでは、弟で、名補佐役でもあった信繁公や、軍師の山本勘助などの有能な家臣を亡くし、何よりも4千人ちかい兵を亡くしています。絶対にさせないといけない戦いでした。歴史にもし、と言う言葉はありませんが、上杉謙信が越後にいなかったら、信玄公は、越後・越中・能登と収め、今川義元が桶狭間の戦いで討たれ、美濃の斉藤家を治めるまでの7年間の間に、今度は、南や東に出ると、美濃や、駿河・遠江の今川を抑えていると想うのです。おそらく織田信長の名前は、桶狭間の戦いに勝利しただけで終わったと想うのです。しかも、謙信がいなかったら、川中島の戦いがなかったら、山本勘助や、何よりも弟の信繁が死ぬ事はありませんでした。信繁は、自他ともに認める武田家の副将で、秀吉の弟、秀長さえ尊敬していた人物です。信虎から兄信玄を除いて、後継ぎにしようとして貰えたのを、拒んだ兄想いの人物です。もし、信繁がずっと健在だったら、兄義信と信玄が対立する事もなかったかもしれませんし、信玄公が亡くなった後、勝頼と武田の家臣が対立する事もなかったかもしれません。本当に惜しい人物を亡くしたのです。だから、今回のシミュレーションでは、まさか、上杉謙信公がいなくなるという事はできませんので、和解する方法を考えました。信玄公自身も、亡くなる前に、一番後悔した事は、川中島で謙信と長い間戦ってしまった事だと想います。紫陽花としては、前から考えていた、謙信と和解する唯一の策を実行できてとても嬉しいですし、信玄公と謙信公が、戦わずに、お互いに分かり合えた事には、上杉家の英霊も喜んでくれていると確信しています。ありがとうございます))

   平成16年(2004年)11月27日

 

 追伸、「戦国時代架空戦いえり」今川・北条・上杉編どうでしたか。

 戦国時代に詳しい人の中には、武田家にあまりにも都合がよくできていると想う人がいると想いますが、紫陽花自身は、そうは想いません。

 きっと、(今川家・北条家・上杉家)の英霊も喜んでくれたと想いますし、いろいろご指導して頂いた気がします。

 武田の英霊だけでなく、今川・北条・上杉の英霊とも一緒に書いた気がするのです。

 だから紫陽花としては、最高の供養になった気がしています。

 書かせて頂いて心からよかったと想います。

 また、他にも以前から、豊臣家などで書きたい事もありますし、織田家でも書いて見てもいいと想います。
 その時にはお付きあいして頂けたら幸せです。

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