縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

第393号

石田三成、徳川家康の戦い

∞「第1回首相総選挙」∞

慶長5年3月、二カ月前から

豊臣家を中心とした

抽選で選ばれた12大名家が選んだ1名ずつの家臣

村上家、前田家、稲葉家、川尻家、片桐家、吉川家、

中川家、秋月家、木下家、津田家、佐野家、石川家

12人と議長を兼ねた豊臣家の代表で

議論されていた

大阪城での議員管理委員会の

結論は出ました

 

また、それは、全国の大名を驚かせるものでした

議員管理委員会は

全国各地の大名家からも

意見を聞いて、石田三成が、暫定で首相になった事を認め

それは、仕方がなかった事だとしても

議員達の首相総選挙で

正式に、首相を決める事を求めました

 

慶長5年7月1日から7月末までに

議員20名推薦による

首相の立候補者が決められ

その立候補者達で、首相選挙を始め8月1日から始め

91日に、完全な無記名方式で、第1回投票をして

そこで、議員の過半数を得る人物が現れるまで

最下位の人物は、落選して

最終的には、9月15日までに決着して

新しい首相を決める事が決まったのです

 

しかも、その首相選挙に関しては

170名の議員に対しては

一切の賄賂などの汚職は

厳禁と言う事も

強く示されました

判明した時は

議員資格剥奪だけでなく

切腹も言い渡されたのです

 

また、それに合わせて

議員選挙制度改革の問題に関しても

9月15日に、首相が決まった後

1週間後に

今の暫定の議員の中で

抽選が行われて

3分の1は、退任する事になりました

 

その代わりに、当初の予定通りに

大名の石高と都市に応じて

各大名が選んだ議員が

3分の1程、選ばれる事も

決まりました

 

後は、当初の予定通りに

4年事に行われ

議員の任期は、12年間とされたのです

 

と、同時に、その議員を選ぶのも

議員になる2年前に選ばれて

議員管理委員会が作った教育機関で

事前に、徹底的に教育される事も決まりました

 

と言うのも、石田三成首相や大臣などの政府側からは

大名が選ぶ議員は

自藩の利益を考える人材を選ぶと言う問題点を指摘され

議員管理委員会は、それを認めて

議員は、藩ではなく、国家の事を考える事から始まって

いろんな知識を教育する事が必用だと言う事になりました

 

しかも、その中には、諸外国の事や

諸外国の言葉、仕来たりなどもありました

議員達は、京都の伏見城近くに

一か所に集められ、徹底的に英才教育される事になったのです

 

しかし、そんな議員選挙委員会の決定にも

石田三成首相は、別段驚きませんでした

事前に、議員管理委員会の考えは

議長役をしている豊臣家から報告されていて

石田三成首相は知っていました

 

なので、これは石田三成首相も納得の上での事でした

石田三成は、後2年後に

首相選挙が行われるよりも

今、行われた方が

自分達にとっては、得だと考えていました

反石田三成派の大名も、今なら体制が整っていないし

議員達の、自分に対する支持も

2年後よりは、今の方があります

 

その上、何よりも、首相総選挙の意味も

反石田家の議員、大名も、今なら分かっていないと

石田三成は、考えて油断していました

今だったら、確実に勝てると言う自信があったのです

 

しかし、7月1日に

首相立候補者の受付が始まると

7月1日に、早々と立候補した石田三成以外には

石田三成派の議員達の圧力もあって

立候補ものが現れなくて

石田三成の不戦勝だと思っていた

首相総選挙は

誰もが予想していなかった事が起こりました

 

何と、7月7日に、

徳川家康が、突然、徳川家を隠居して

家督を、息子、秀忠に譲る事を表明すると

それを豊臣家に提出して後

徳川家の唯一の代表

本多正信の嫡男、本多正純を中心とした

徳川家と親しい大名の議員

20人以上の推薦を受けて

7月21日に、首相に立候補して

全国の大名達を驚かせたのです

 

また、これは

徳川家康の一番の側近である

本田正信が、必死で考えていた策でした

天下取りを諦めていない主君、家康の気持ちを

よく分かっていた本田正信は

必死で、政府の制度を勉強し

首相を決める首相総選挙が行われる事を

じっと待っていました

議員管理委員会の方針も

ある程度分かっていて

もうすぐ、首相総選挙がある事も

予想していたのです

 

だから、本多正信は

徳川家康にも

それがあるまでは

石田三成に対しても

刺激するような事はせず

耐えに、耐えるように言っていました

徳川家康が、首相に立候補するなど

まったくおくびにも出さなかったのです

 

しかも、本田正信の作戦は

実に巧妙で、

事前に、息子の本田正純に

石田三成以外の人物を探して

とにかく選挙しないといけない

石田三成野不戦勝だけは避けないといけないと言って

多くの仲間を集めた後

徳川家康公は、どうだと打診して

多くの議員を驚かせ

もし、家康公が、立候補したら

推薦してくれるかと言って

承認を得たものでした

本田正純は、見事に、この作戦で

70名もの議員を

徳川家康陣営に集めたのです

 

 

しかも、反石田派の加藤清正、福島正則にも

同じように、家を隠居させた後

その70名の議員の中から

20名の議員を振り分けて

推薦を集め

3人が、次々に

立候補しました

7月25日に、福島正則

7月末日に、加藤清正が

立候補しました

 

本田正信は、選挙も戦も同じものだと言う事で

その優れた手腕を、主君の為に発揮したのです

 

∞「首相総選挙 石田三成と

徳川家康の戦い」∞

慶長5年8月1日から始まった

日本の第1回首相総選挙は

激しい選挙になりました

 

というのも、圧倒的に有利で

不戦勝で、勝利するとさえ思っていた

石田三成派の議員は

7月中頃から徳川家康、福島正則、加藤清正の名前が出ると

大きく狼狽えました

まさか、大名の元藩主が立候補するとは予想もしなかったのです

 

それで、慌てて、露骨に、議員に圧力掛けて

何とか、議員に、推薦を辞めさせようとしましたが

返って、議員の反発を受けて

徳川家康、福島正則、加藤清正陣営に、入れてしまいました

3人は、立候補を実現させて

石田陣営は、完全に、奇襲攻撃を受けたのです

 

しかも福島正則、加藤清正は

今までの、石田三成の恨みが爆発したかのように

激しく、石田三成を批判しました

最初は、選挙になれていないのか

石田三成の個人攻撃をしたのです

それで、石田三成は、同じ豊臣家の大名からも

こんなに人望がないのかと

改めて分かったのです

 

でも、それに対して

徳川家康は、石田三成個人の非難をせず

あくまでも、政策で、対抗していました

特に、石田三成の政策

豊臣家が、御奉公として

各大名に、1万石について

二つの神社を造るように命令した事も

8月18日に、全国一斉の豊国祭りを開催する事はいい事だが

早急しすぎて、大名の負担が大きすぎた

すべては、裏に石田三成がいる

という事で、攻撃していました

 

その上に、自分が、首相になっても

秀吉の遺言である

大名同士の戦は絶対に起こさない事や

石田三成は、自分に野心があって

天下を取るつもりなどと言っているが

そんな事は馬鹿げた事だ

と強く強調すると

自分が、首相になった時には

徳川家も、税を納める事も約束しました

 

石田三成政権では

納税する気は起きなかったし

それは、他の大名の多くも同じだが

自分は違う

他の大名も、自分が説得したら

きっと、税を納めるだろうと

魅力的な事を言っていました

徳川家が、税を払うという事は

財源が限られている今の政権には

とても魅力的な提案だったのです

 

だから、徳川家康の支持は

どんどん議員達の間で広がりました

戦国の乱世を生き、

小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉を破り

五大老の筆頭となり

250万石の大大名の徳川家康が

若手の議員に対しても

自ら、頭を下げて、頼んだ姿は

議員達を感動させたのです

 

また、それに対して

石田三成は、福島正則、加藤清正の個人攻撃の挑発に

引っかからないようにしても

ついつい、釣られて、個人攻撃してしまいましたし

徳川家康に関しては

敏感に反応しすぎて

徳川家の狸おやじは

天下を狙っている

首相になったら

議会を乗っ取って

大きな戦を、起こすと言う事から

頭を離す事はできませんでした

 

どうしても、徳川家康の言う政策に

対抗する事が出来なくて

遅れを取ってしまい

器の違いを、見せてしまいました

 

特に、8月18日、秀吉の命日に

秀吉の遺言で行われた

全国一斉の豊国祭りは

あくまでも、豊臣家の御奉公で合って

自分は、裏から、大名達に、過酷な事を

豊臣家に命じてしていないという

しらじらしい嘘を言って

返って、議員達を失望させたのです

 

しかし、それでも、石田三成は有利でした

徳川家康は、余りにも、偉大すぎて

政権を取った時に、実際に何をするか

未知数で、不安がありましたし

福島正則、加藤清正は、武将としては優れていても

政治家には、まだ、慣れていませんでした

途中から、石田三成の個人攻撃を止めて

政策と言ったものを出しましたが

石田三成陣営から攻撃されると

ぼろが出てしまったのです

 

そしてその中で、限られた

170議員達で

1か月間と言う長い時間をかけた

第1回目の首相総選挙が、9月1日に行われ

石田三成は、豊臣家の代表、真田幸村や政権の各大臣や

上杉家の家老、直江兼続

大名の佐竹義宣、宇喜多家秀家、小西行長などにも

密かに、応援を受けて

75票を獲得して1位になりました

 

その後に、徳川家康が、52票を獲得し

加藤清正が、28票、福島正則が、15票を獲得して

まずは、福島正則が、落選となったのです

 

でも、この結果は、石田三成を動転させました

石田三成は、何とか、第1回目で

過半数を超える事が出来ると思っていたのです

 

だけど過半数の85票を得る事はできなかったので

首相総選挙は、まだまだ続きました

石田三成陣営も、徳川家康陣営も、加藤清正陣営も

必死に戦って

9月5日に、第2回目の首相総選挙が行われ

石田三成は、80票、徳川家康は、59票、加藤清正は31票を

獲得しました

 

なので、今度の第2回目では、加藤清正が落選しましたが

石田三成も票を、少し増やす事ができました

心配された福島正則の票は

徳川家康陣営だけに流れず

石田三成は、後、5票以上で

勝利する所まで行ったのです

 

そして9月15日までの10日間

石田三成と徳川家康は、決勝選挙という事で

激しい戦いをしました

石田三成も、徳川家康も

加藤清正を支持した議員に対して

1対1で会って、自分の支持を訴えたり

石田三成と徳川家康が

直接、討論すると言った対決もしました

何しろ、170票しかないので

選挙は、本当に細やかに行われたのです

 

また、そんな第1回首相総選挙ですが

殆どの人の予想は

石田三成の辛くも勝利と言ったものでした

加藤清正を支持した議員の中には

反石田三成の大名出身の議員も多くいましたが

豊臣家恩顧の大名なので

徳川家康を支持する事はできないだろうと思っていたのです

 


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