縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

第405号

第15代藩主 豊臣秀慶の苦悩

∞「勝海舟首相の改革」∞

井伊直弼首相が、水戸の武士を中心とした人達に襲われた事で

重症の為、後を継いだのは、副首相をしていた安藤信正でしたが

日本は、初めて大きなテロが起きた事で動揺して

何も決められない国になってしまいました

調整型の人物が、求められて

強烈な指導力を持った人物が、日本の首相になる事はありませんでしたし

そんな人物が、大名が選んだ議員の中にはいなかったのです

 

しかし、その反面、井伊直弼の後

再び、日本の首相、政治家を襲う人物もいませんでした

その当時の武士が持っていた武器、刀、鉄砲は

時代遅れで、日本の警察、軍が持っていた武器とは

大きな差がありました

日本政府は、首相、大臣に対する警備を強化して

武士が、集団で襲っても、成功する見込みは無くなっていたのです

 

だけど、一番の理由は、議会がある事でした

過激派の藩、長州藩や佐竹藩からも

自由に、自分達の意見を言える議員を

議会に送れる事ができました

特に、そうせい公と家臣から呼ばれ

愚公だと思われていた毛利敬親公は

吉田松陰を、何故か、異常に信頼して

重用した為に

長州藩からは、吉田松陰の松下村塾の弟子である

過激な思想の人物、桂小五郎・久坂玄瑞・高杉晋作・

伊藤博文・井上馨・大村益次郎・吉田稔麿・山形有朋などを

次々と議員に送りこんで

自分達の意見を、政府に主張していました

秀吉の時代には、大藩として、120石の国高を持ち

その後も、新田開発なので、200万石を持っている長州藩では

多くの議員を、議会に送り込む事も可能だったのです

 

それに対して、日本政府も、豊臣家も

議員管理委員会も

何も反対しませんでした

そんな権限はなかったのです

 

だから、桂小五郎・久坂玄瑞・高杉晋作達は

議会でも、大暴れしていました

過激な発言を繰り返し

時の首相を困らせていたのです

 

しかし、そんな過激な意見は

議会では、大きな勢力にはなれませんでした

徳川藩の改革派、豊臣家の適塾派、佐竹藩の水戸派

長宗我部藩の武市半平太派、島津藩の改革、斉彬派の中に

賛同する議員がいましたが

大抵の藩の議員は、保守的で

桂小五郎・久坂玄瑞・高杉晋作達を

毛嫌いする議員も多かったのです

 

でも、時代は、大きな変革を求めていました

日本を取り囲む欧米諸国は待ってくれず

国内で、紛争している日本を狙っていました

日本は、島津斉彬首相によって

何とか守られた外交の成果を失われようとしていたのです

 

だけど、日本政府にいる数少ない要人も

必死に日本を守ろうとしていました

特に、大名の中心である

豊臣家は、責任感があって

必死でした

当主である14代豊臣秀茂は

能力的には、自身は、優れていなくても

人望に優れ、私欲に捕らわれずに

日本の舵を任せられる人物を首相にして

日本を任せようとしていたのです

 

そして、16年間の議員達の政府の後

4年間、戦国大名達が任される人物が

日本の首相になれる時

豊臣秀茂が、豊臣家の家臣や

他の戦国大名達の大反対を

初めて、押し切って

日本の首相にしたのは

大ほら吹きとしても有名だった

徳川藩の元議員だった勝海舟でした

豊臣秀茂は、何故か、勝海舟と、そのお弟子と言う

風変りな長宗我部藩の自由人、坂本龍馬議員を

気にいっていて

日本の首相に据えると

自由に、政治をさせていたのです

 

でも、そんな勝海舟首相を持ってしても

日本の改革は進みませんでした

勝海舟首相は、陸軍よりも、海軍の大幅の拡張

高杉晋作議員、大村益次郎議員の提唱する

武士だけでなく、百姓、町民などの国民の徴兵制度

議員制度と議員管理制度の改革などを

豊臣秀茂の理解と

議員の改革派の支持で

実行しようとしましたが

大名議会、議員議会の大反対で

まったく成立しようとしなかったのです

 

また、そんな中で

日本の将来を憂いていた豊臣秀茂は

心労のあまり、大阪城で

妻である孝明天皇の妹、和宮親子内親王に見守られて

急死してしまいました

日本は、大きく混乱したのです

 

そしてそんな中で、豊臣家の当主は

第15代藩主として、秀茂の遺言で

豊臣秀慶がなりました

秀茂と和宮の子供、幼い亀之助は、まだ2歳で

16代当主は約束されていましたが

この難局の当主は務まらないので

豊臣秀頼の側室の子だった国松の血筋で

英明を称えられた豊臣秀慶が当主になったのです

 

でもそんな豊臣秀慶も

何もできませんでした

秀茂が死んだ後

豊臣家を中心とした大名の政権に残された任期は

1年もありませんでした

 

これでは、豊臣秀慶は

反りが合わない勝海舟首相を辞めさせる事はできませんでした

そんな事をしたら、勝海舟首相を支持しているグループが

納得するはずがなく

ますます大混乱をするのは

間違いありませんでした

豊臣秀慶は、その手腕を発揮する事はできず

時の流れに任せるしかなかったのです

 

 

豊臣秀慶の苦悩

慶応31867)年9月6日

豊臣秀慶は、大きな苦悩の中にいました

秀茂の後を継いで、第15代目の当主になったものの

秀茂の死去によって

時代の流れは、急速に豊臣家にとって悪化して

取り返しのつかない事になっていました

 

豊臣秀慶が、勝海舟の改革案をすべて葬ろうとした事に怒りを持った

改革派の議員や大名議員が、

大名議員の政権の任期が終わった後の政権

8月1日から始まっていた首相総選挙で

島津藩の元議員だった人望のある西郷隆盛を

首相に押していました

 

西郷隆盛なら、勝てると判断していましたし

実際に、西郷隆盛は、有利に展開していました

9月1日の第1回首相総選挙

9月5日の第2回首相総選挙でも

過半数は、取れませんでしたが

圧倒的な大差で勝利していました

 

なので、9月15日の最終首相総選挙は

残った島津藩の元議員西郷隆盛と

徳川藩の元議員小栗上野介の一騎打ちでしたが

ほぼ、西郷隆盛が勝つのは確実でした

小栗上野介は、頭の切れる優秀な人材でしたが

人望がなく、とても西郷隆盛に勝てるとは思えませんでした

多くの議員達は、今まで、自分達を縛っていた

大名達の議員管理委員会や大名の議員に対する制度の改革を

自分達を選んでくれた大名に逆らう事になっても

望んでいたのです

 

しかも、これには、政府の開国路線を支持しつつ

政府の改革を求めている対薩摩、島津藩を中心とした改革派議員達とは

何事にも対立して

敵対していた

仲の悪かった急進的な破約攘夷論の長州藩の議員を中心とした急伸的な議員達が

盟約を結んだ事も大きかったです

土佐藩の議員、坂本龍馬議員や中岡慎太郎議員の斡旋もあって

政治同盟が、慶応2121日に誕生していました

世にいう薩長同盟の誕生です

 

その上に、その同盟の中で

大規模な政治改革が約束されていました

薩長同盟で、初めて、自分達を監視している

議員を、選んでいる大名達の議員管理委員会の改革が

約束されていて

豊臣家の持つ政治の権利も

大幅に、奪われようとしていました

 

また、豊臣秀慶にとって困った事は

本来なら、議員には、大名で作る

議員管理委員会に対して

何かをする資格はないのですが

豊臣秀茂が、急進派の議員達に押されて

約束していた事です

次の議員の政権での元で

石田三成首相の時から

270年ちかく続いていた政権の中で

初めて、議員選挙委員会、大名達の改革を

されようとしていたのです

 

なので、勝海舟首相の後に

もし、西郷隆盛が首相になったら

大変な事が起きる可能性がありました

西郷隆盛は、可愛がられていた藩主で

亡くなった島津斉彬首相の教えで

議員管理委員会や議員制度改革を

本気で、しようとしていたので

何をするか分からなかったのです

下手をしたら、西郷隆盛は

首相になったら

日本軍を動かしかねない

聡明な豊臣秀慶は、その事を恐れていたのです

 

でも、豊臣秀慶が、必死で動いても

西郷隆盛の勝利は、覆る事はありそうもありませんでした

それぐらい、この時の西郷隆盛は、決意を固め

エネルギーギッシュで

オーラが溢れていました

とても勝てそうではなかったのです

 

しかし、そんな西郷隆盛の決意を

豊臣秀慶以外に唯一分かっていた人物がいました

それが、坂本龍馬の存在でした

 

坂本龍馬は、西郷隆盛とも親交があって

西郷隆盛の心にある深い決意を理解していました

西郷隆盛は、首相になったら

戦をしても、今の日本の体制を壊そうとしている

自分を引き立ててくれた、唯一の藩主

島津斉彬公の意思を

自分は、どんなに悪者になっても

やり遂げる決心だと思っていたのです

 

しかし、それは、坂本龍馬の考えとは

大きく違いました

坂本龍馬は、日本に、内乱を起こしてはならないと思っていました

西郷隆盛が、日本の首相になって

日本の軍を動かして

反対勢力の豊臣家や多くの大名と戦ったら

軍の装備が違うので

簡単に、制圧できる事は分かっています

内乱と言える程のものでもないのです

 

だけど、そんな事をしたら

恨みが残ります

豊臣家の人々も、潰された戦国大名の人達も

新政権を許さないでしょう

長い間、恨みは、ずっと残るのです

 

しかも、豊臣秀吉が

死ぬ際に作った

日本の独特の議員制度と

戦国大名の存在が

消滅してしまいます

坂本龍馬は、それを何とか残したいと考えていました

今の時代、もう戦国大名も、武士自体も必用ないですが

何とか、遺恨が、残らない形で

新しい制度を作る事はできないか

そう真剣に考え、行動していたのです

 
 

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