縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

第407号

日本の新明治維新

∞「大政奉還成る」∞

慶応31867)年9月9

坂本龍馬議員と大阪城に会った翌日

宮中では、菊の節句の日

豊臣秀慶大名は、大名議員を集める緊急動議を

大名担当大臣に求めて、承認を得ると

伏見城で、大名議員を全員集めて

爆弾発言をしました

豊臣家が今まで、朝廷に任されていた政権の権利は

国民に、委ねると言うのです

 

しかも、豊臣家は、率先して

大名として持っている

地方の権限や、議員を選ぶ権利は返上して

上院議員になると言うものでした

今まで、地方税として国民から年貢、税金を取っていた大名が

今後は、国民からの税金、給与を貰う立場になったと言うのです

 

他の大名議員や、大名から選ばれて大名議員になったものが

びっくり、仰天するのも無理ありませんでした

まったくの寝に耳に水の話だったのです

 

なので、豊臣秀慶から、事前に相談された

豊臣家の重臣や大名担当大臣も、豊臣家恩子の大名、大名議員も反対して

豊臣秀慶を説得しようしましたが

無駄でした

豊臣秀慶の決意は、覆る事はありませんでした

英明な豊臣秀慶には、坂本龍馬の言うように

今の時代に、大名家が生き残るのは

大名の地位を捨てて、新たなものになるしかない

それには、上院議員が、一番、最適だと思っていたのです

 

また、その豊臣英慶の大政奉還には

勝海舟首相などの大名、大名議員達に選ばれた

勝海舟内閣は、大賛成でした

日本の為の豊臣秀吉公以来の

大英断だと称え

大名議員議会で

早速、一切の修正はなしで

緊急の可決を求めました

 

915日の首相総選挙の前に

議員議会に可決されるには

99日か、10日に

可決しないと間に合わないので

99日に、緊急議案として求めたのです

 

しかも、その豊臣秀慶の案に

大名議員は、反対しようにも

なかなかできませんでした

 

というのも、豊臣秀慶の案は

あくまでも、豊臣家単独でする事でした

他の戦国大名に、従う義務はありませんでした

なので、大名に選ばれた多くの大名議員も

国元の藩主に、意見を聞くと言う言い逃れもできませんでした

 

何故なら、あくまでも、豊臣家が、単独でするという事

主君である豊臣秀慶の英断に

一応、家臣である大名議員が、反対する事など

許されなかったのです

 

だから、99日、豊臣秀慶の大政奉還は

伏見城で、大名議員達の、満場の拍手の元

圧倒的な賛成で可決されました

勝海舟首相や各大臣は、主君の豊臣秀慶に

恥をかかせてはいけないと

全議員の賛成を求めていました

それで、豊臣家の事を思って、涙ながら棄権した5票以外は

全員賛成して

議員議院に送られたのです

 

また、その大政奉還の案に

驚いたのは、西郷隆盛でした

坂本龍馬議員が、勝海舟首相の元で

大政奉還という策を実現しようと

こそこそと動き回っている事は知っていましたが

そんな事は、実現するはずがないと

鼻で笑っていました

いくら龍馬でも、そんな事ができるはずがない

誇り高い、自分を偉ぶっている豊臣秀慶が

応じるはずがないと思っていたのです

 

でも、何と豊臣秀慶は

土佐藩から建白されたものを

あっさり受け入れ

その日、早速大名議会で

緊急動議して、圧倒的な賛成で

可決してしまったのです

その早技に、西郷隆盛は

何もできなかったのです

 

しかも、その豊臣秀慶の英断で

西郷隆盛が有利だった首相総選挙の風向きも

一夜で変わってしまいました

豊臣秀慶の大政奉還を

受け入れるか、受け入れないかが

一番の総選挙の争点になってしまったのです

 

その上に、豊臣秀慶の策か

坂本龍馬の策なのか分かりませんが

狡猾なのは

豊臣秀慶が、今度の首相が決まる15日の前に

議員議会で、可決、承認されなかったら

一切、白紙にする事も

大名議会で可決され、承認されていた事です

大政奉還は、一切無効になってしまうのです

 

なので、西郷隆盛は、早急に決断する必要がありました

対抗馬小栗上野介は、早速賛成を宣言して

9月13日の議員議会で

緊急議案として、可決する事を約束し

西郷隆盛は、そんな大切なことを

議員の議会で、協議も十分にせずに

すぐに決めるべきでないと反対を匂わせても

許される雰囲気ではなかったのです

 

また、その上に、この豊臣秀慶の大政奉還の決断に

涙を流して、秀慶公、よくぞ決断された

この人の為に、命をかけると

多くの仲間の語ったと言われる坂本龍馬は

命がけで、大政奉還を、議員議会で認めさせようとしていました

 

その為に、坂本龍馬は、各議員や大名を積極的に回ると

この大政奉還の賛成を求め

土佐藩だけでなく、西郷隆盛などの改革派と

豊臣家などの保守派の対立を本当に心配していた

中間派の議員を大きく動かしました

多くの議員が、これで、坂本龍馬の言うように

西郷隆盛達と、豊臣秀慶の対決は避けられるとほっとしたのです

 

それで、大勢を見ていた西郷隆盛も

長州、土佐、改革派の仲間と評議して

12日には、賛成を表明しました

議員の立場で考えたら

大名の干渉を受けないという事は

どの議員にも悪い事でないし

どの政権にとってもよい事でした

反対する理由はありませんでした

 

しかも、自分が、考えていた大名に対する改革案よりは

手ゆるいものでしたが

自分の考えとも一致している事も多かったです

 

なので、豊臣秀慶にうまくかわされたのは

悔しかったですが

西郷隆盛も納得しました

何よりも、もし、ここで、自分が反対したら

首相総選挙で、小栗上野介に敗北する勢いだったのです

 

だから、9月13日、議員議会でも

豊臣秀慶の豊臣家の大政奉還は

圧倒的な議員の拍手と

賛成票で、可決されました

大政奉還は成って

日本だけでなく

世界の人々、欧米人にも

無血革命だと、驚かせ

日本人の評価を高めたのです

 

 

∞「明治維新」∞

豊臣秀慶が、大政奉還を実現した二日後

9月15日、勝海舟首相に変わる議員達による

首相総選挙が行われ西郷隆盛が

小栗上野介を大差で破って

日本の首相になりました

 

西郷隆盛は、豊臣秀慶が提案した大政奉還に

不賛成の為に

一時は、小栗上野介候補に

迫られる勢いでしたが

大政奉還を全面的に、承認する決断をした事で

坂本龍馬を中心とした土佐派や勝海舟派などの

穏健の改革派の議員達が

再び、支持してくれた事で勝利しました

極めて異例な事でしたが

島津藩の下級藩士だった西郷隆盛は

日本の首相になったのです

 

また、それと同時に

年号も、明治と改めらました

大政奉還が実現した事で

いよいよ日本は、新しく生まれ変わると言う事で

関白の豊臣秀慶が、最後の置き土産に

孝明天皇が亡くなった後の朝廷に働き掛けて

慶応の年号を変える事を求めていました

 

それに対して、孝明天皇が亡くなった後

孝明天皇の第二皇子で

まだ幼さない天皇を擁している朝廷は

関白豊臣秀慶の願いを聞き入れて

慶応という年号から

明治と言う年号に改めてくれました

豊臣家は、大政奉還によって

日本最大の大名という地位を捨てて

議員、内閣に対する大きな影響力を失いましたが

天皇家に対する力は、以前ありました

関白として、朝廷を束ねる力は

失わなかったのです

 

と言うのも、一部の朝廷の人間の中には

岩倉具視のように

西郷隆盛達、急進改革派と手を組んで

豊臣家を滅ぼして

大名の地位だけでなく

関白の地位も奪って

豊臣家から、朝廷の権限を

取り返そうと思っていた策謀家もいましたが

豊臣秀慶が、大政奉還を実行した事で

肩すかしをされました

 

西郷隆盛や、大久保利通は

完全に、豊臣秀慶が

政府に対する権限を捨てた事で

敵対心を無くし

関白の地位を、奪おうとは思いませんでした

 

それ以上は、豊臣家を追い詰めようとはしませんでしたし

その権限も、今度の大政奉還を認めた事で

議員や内閣にもありませんでした

それをできるのは、日本国民だけ

日本国民の3分の2の賛成が必要だったのです

 

しかし、豊臣家は、それで良くても

他の大名は違いました

西郷隆盛首相の最大の仕事は

日本の維新です

日本の根本的な改革です

その中でも、一番先に、改革する存在が

大名でした

西郷隆盛は、容赦しなかったのです

 

それで、日本全国の大名の中には

藩の財政が弱い、赤字の藩が多い

小大名を中心とした藩が激しく攻められました

藩の赤字は、許されず

藩の財政を、早急に健全にすることを求められたのです

 

だけど、それは、地方である藩の財政を立て直すだけが目的ではなく

西郷隆盛の親友で、内務大臣として、活躍している

片腕の大久保利通の策略でありました

どの藩の財政も、今の時代は、戦国時代から大きく変わった事で

苦しんでいました

 

と言うのも、もちろん、どの藩も、時代に合わせて

必死で、財政をよくしようとしましたが

藩を運営するのは、武士だけに限られていて

いろんな昔からの仕来たりや

武士の間の階級も邪魔をしていて

なかなか、藩政の改革もできませんでした

大久保利通は、そこをついて来たのです

 

なので、小さな藩や、豊臣家恩顧の大名の中には

主君である豊臣家に続けと

国民に、地方の藩の政権や、議員に対する権限を

返還しようとする大名が、続出しました

 

何故なら、西郷隆盛首相は、大名達に、主君である豊臣家と同じように

大名の権限を捨てて、上院議員になるように求めていました

それを行った大名の藩の財政は、すべて大名自身が負わなくていい

でも、大名として、今後も続けていくものは

藩の財政の責任は、大名自身に取らせると言ったので

大名の中には、豊臣家に続けと

大名を捨てて、上院議員になるものが続出しました

主君である豊臣秀慶が、自ら生き残る道を作ってくれた事が

大きかったのです

 

また、豊臣秀慶は、そんな後から上院議員になった大名達を

暖かく歓迎して、その者達と

上院議員の決まりを決めて行きました

上院議員の決まりを決める

委員会を何人かの有能な人達で作って

作って行こうとしましたが

時の西郷隆盛首相や内閣には

決して口を出そうとはしませんでした

 

西郷隆盛首相の方針に

反発している徳川家を中心とした多くの大名や

それを支持している反西郷隆盛派の議員の戦いに

賢明な豊臣秀慶喜は、決して巻き込まれないようにしていたのです

 

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