縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

第409 号

民主主義国家 大日本国誕生

∞「江戸城開城」∞

豊臣秀慶が、大政奉還した後

大名の中心になったのは

豊臣家よりも、石高で凌いでいた

徳川家でした

徳川家は、15代藩主として

英明と期待されていた徳川慶喜が

就任していて

豊臣家の代わりに

大名、大名議員の中心になっていたのです

 

また、そんな徳川慶喜を中心とした大名は

西郷隆盛首相がしている露骨な大名苛め

藩の赤字を、藩の当主である大名に

押しつけるやり方に

反発していました

対決姿勢になっていたのです

 

それで、本当は、禁止されている事ですが

徳川家康が、絶対にしてはいけないと言っていた事ですが

裏から、西郷隆盛首相に敗れた

小栗上野介を、動かして

議員達に働き掛けさせて

西郷隆盛首相の藩の財政健全か法案に

反対の姿勢を示していました

このままでは、大名は、存在しなくなると

焦っていたのです

 

でも、そんな徳川慶喜の態度は

当然、西郷隆盛首相達の反感を買いました

徳川慶喜が、大名は、議員達の内閣に対して

一切、口を出さないという決まりを破るなら

叩き潰すまでだと言う事で

大きく対決姿勢に成っていたのです

 

しかも西郷隆盛首相は

各大名の影の働きで、

大名に選ばれた議員の中には

法案に、反対する議員が増えて

否決される恐れが出ると

ある強引な手段を実行しました

 

何と、西郷隆盛首相は

徳川家の本拠地、江戸に

薩摩の藩士を潜入させて

狼藉を行って

徳川の武士を怒らせて

徳川家の武士が

薩摩藩邸を襲わせるようにしました

徳川家の武士達に

武力を使わせて

政治の戦いから、武力の戦いに

持って行こうとしたのです

 

その上に、その西郷隆盛首相の策は

見事に成功しました

徳川慶喜は、そんな西郷隆盛首相の策を見抜いて

徳川の家臣団を必死で抑えていましたが

人望のない、徳川慶喜では

家臣を抑える事はできなくて

遂に、薩摩藩邸焼き打ち事件は起きてしまったのです

 

また、それに待っていましたと

西郷隆盛首相は、敏速に動きました

これは、政権に対する

徳川家の反乱だと言う名目で

日本軍を動かして

一気に、江戸に向かいました

江戸を制圧しようとしたのです

 

でも、これに対して

驚いたのは、徳川慶喜でした

徳川慶喜は、西郷隆盛首相が

そこまでやるとは思っていなかったのです

 

だけど、こうなったら

徳川慶喜には、もうどうする事もできませんでした

徳川家と、政府の日本軍では

最初から勝負にならない事は

誰にも分かっていました

武力が、違い過ぎるのです

 

それで、徳川慶喜は、江戸城に集まっている家臣を

ほっておいて、江戸城を去ると

上野の寛永寺大慈院において謹慎してしまったのです

 

だけど、それでも、西郷隆盛首相は

徳川慶喜を許そうとはしませんでした

ここで、徳川家を完全に潰して

多くの大名の見せしめにしようとしていたのです

 

しかし、それに、公然と反対した人物がいました

それが、徳川慶喜から、後を任された勝海舟元首相と

今度、3期を終えて、浪人になっている坂本龍馬元議員でした

二人は、他の多くの議員も引き連れて江戸に入ると

西郷隆盛首相と交渉に望みました

西郷隆盛首相に、徳川家をどうするのか

明確な答えを求めたのです

 

だけど、西郷隆盛首相は

そんな二人を無視して、日本軍を

江戸に入れて

江戸を制圧しようとしました

その後、勝海舟、坂本龍馬に会ったら

何も言えないと思っていたのです

 

でも、勝海舟元首相は、江戸の火消しに

江戸の町を焼き払わせるという大胆な策で

さすがの西郷隆盛首相も、日本軍を江戸に入れられませんでした

もし、大阪に次ぐ、第2の都市江戸が焼の原になったら

西郷隆盛首相の責任問題です

大名達に恩を感じている議員達によって

解任されるのは間違いありませんでした

これには、西郷隆盛首相も、参ってしまったのです

 

それで、駿河の国の駿府城で

西郷隆盛首相と勝海舟が、1対1で会談して

江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行い

江戸城にいる徳川武士は、全部追い出して

一旦江戸城を解放する事と

徳川慶喜は、最初から、政府に反乱する意志派はなかったので

その罪は、問われずに

大名の地位を放棄して

上院議員になる事で、決着をつけようとしました

一端は、話は、それでまとまろうとしていたのです

 

だけど、この時に、大久保利通内務大臣によって

大きな横槍が入りました

大久保利通内務大臣は、西郷隆盛首相に強く進言して

徳川家から、江戸城を奪い、相模と武蔵の国を

完全に召し上げる事を提案しました

この二カ国は、完全な国の領土して

上院議員になった、徳川家が

他の家の上院議員のように

国元に大きな影響力を持てないようにすべきだと言ったのです

 

しかも、大久保利通は、西郷隆盛首相に

江戸城に、京都にいる天皇が入る事を提案しました

天皇を京都から移す事で

京の公家や関白の豊臣家からも

天皇を離す事を提案したのです

 

それで、西郷隆盛首相は、これを強引に

勝海舟、坂本龍馬に呑ませようとしましたが

徳川家の家臣だった、勝海舟は

それでは、徳川家の面目が立たないと言って

絶対に認めようとしませんでした

 

しかも、それに、勝海舟と一緒に来ていた

坂本龍馬も同調して

西郷隆盛首相が、強引にそれをしようとしても

自分が、自分の同志の議員と反対して

絶対に、過半数は与えないので

この法案は通さない

西郷隆盛首相の今回の行為を

命がけで糾弾すると脅しました

二人は、死ぬ覚悟だったのです

 

それで最後には、西郷隆盛首相も折れて

相模と江戸城の周辺という事で

最終的な決着がつきました

江戸城は、無血で開城される事になったのです

 

 

∞「明治維新成る」∞

西郷隆盛が、江戸城を無血開城して

降伏した徳川家が、大名を捨てて

上院議員になった事で

もう抵抗する大名はなくなりました

徳川家と共に、反抗していた上杉家や伊達家、堀家などの

北陸、東北を中心とした奥羽越列藩同盟は

あっと言う間に崩壊しました

 

次々と、大名を捨てて

全国のすべての大名は

西郷隆盛出身の島津藩や島津家や

桂小五郎出身の長州藩も毛利家を

含めて上院議員になりました

 

これには、島津藩の藩主だった

島津久光は、西郷隆盛に騙されたと

激怒しましたが

どうする事もできず

後の祭りでした

世界中の人が驚いた

日本式の廃藩置県が、あっと言う間に実現したのです

 

しかも、西郷隆盛首相は、

豊臣秀慶を中心とした

上院議員と、話し合って

藩を整理して

県を作る事で

合意できていました

 

豊臣秀慶は、あえて、西郷隆盛に逆らわず

1万石などの小さな大名は

国から市になった所を

担当する事になりました

その市を担当する上院議員になったのです

 

また、廃藩置県を実現した西郷隆盛は

敏速に改革を進め

武士の階級を廃止し

天皇、華族などの皇族、大名から上院議員になった者達以外は

すべて平等になりました

武士は、藩が無くなった事で

一旦全員失業した後

新しい県、市の職員で

働けるようになりましたが

もう世襲は一切認められなくなりました

 

百姓、町人の子供でも

市でも、県の役人になれる事になったのです

ただ、大政奉還の時に決まった事で

役人の十人に一人は

上院議員が作っている有識者が

採用から、人事まで与えられていました

 

これは、同じ役所内に、別の流れの組織を作る事で

官僚組織に、常に、刺激と競争させる事が狙いでした

大名としての長年の経験で

そうしないと、官僚組織は、奢る事を

豊臣秀慶は、分かっていて

西郷隆盛首相が、変革を求めても

頑固に拒否し

西郷隆盛首相を最後には

説得したのです

 

そして、西郷隆盛は

武士の持っていた

ちょんまげや刀を持つ事も禁止して

西洋諸国と完全に同じにして

武士以外のものでも

兵隊になる徴兵制を実現させました

武士にとっては、大いに不満な事でしたが

西郷隆盛首相は、強引に実現させたのです

 

ただそれでも心配された

内乱は起きませんでした

どんな武士でも、武器の質が違う

日本軍と戦って

勝てるはずがない事は分かっていました

武力で抵抗する気力を無くしていたのです

 

だけど、その分、選挙で、仇を討とうという意志はありましたし

要人を暗殺しようとする人達も

出てきました

そんな事でしか

武士は、意志をみせられなくなっていたのです

 

でも、それは、歴史の流れからいえば

本当に、小さな事でした

豊臣秀吉が、死ぬ直前に作った

大日本帝国の議員のシステムは

賢明だった大名と、その大名に選ばれた優秀な議員達によって

対立と戦もありましたが

最終的には、新しいシステムに変更する事ができました

日本も、欧米諸国のような

完全な民主主義国家になる事ができたのです

新しい日本の明治維新は、なったのです