縁の花
(本物を目指して心と心のネットワーク)
第86号
縁の花の原点
OOさん、僕はこう考えています。
僕は縁という種です。(そして君はその価値、僕の中学生活、また今の僕や、君に対する思いを知っています)
そして君は土地や水や肥料であり、その花を育てる人です。
君は縁の花をどのようにでも育てる事ができます。
例えば水や肥料をたくさんやって種を早く育て、大きな花を作る事もできます。
でも僕の縁の花はまだ咲く時期ではありません。
(菊が秋の花であって、冬の花でないように、お互いがまだ若いように思えます)
そして花はいつかは枯れてしまいます。段々時が経つに連れて、茎や葉や根まで枯れ、種を生めなくなるかもしれません。
そんな危険が高いのです。
又次に君は水や肥料をやってゆっくり大切に育てる事もできます。
確かにこのやり方ですと、花は小さくしか咲きません。
でも種(楽しい思い出)は確実に残ります。
そして縁(一年一度合うとか)という肥料があれば、また咲きます。
そして花の咲く季節(お互いに年を取った時)になった時、その花は大きく咲きます。
たぶん一生枯れる事はないでしょう。
次に君は種に水も肥料も与えない事もできます。
それでも種は(君の思い出)生きています。
しかし花の咲く事はないでしょう。
たぶんOOOがお互い最後の縁ですから。
OOさん後は君が僕の種(君に対する思い)について考える番です。
僕はそれについて何もいいません。(僕の種を君にすべて見せたつもりですから)
そして最初の手紙で書いたように、君が僕の事を本気で考えてくれるなら、それを受け入れるつもりです。
冒頭、突然いったい何を書き出したのかと、たぶん皆さんもびっくりした事だと思いますが、実はこれは僕が大学の頃に初めて書いたラブレターの一説です。
一度目でも、二度目でも返事が貰えず、やけのやんぱちで3度目の正直で出したラブレターの一部ですが、その結果は聞かないで下さい。
たぶん皆さんの想像通りです。
でもこの事が、今の僕を作っています。
というのもこのラブレターも今から読んだらくどくて赤面しそうな幼稚なものですが、ただ書くまでの僕は、およそ何か文章を書くという人間ではありませんでした。
自分に文章を書く才能があるなんて知らなかったのです。
ですからもしこの時、ラブレターを書かなかったら、今の僕はなく、当然縁の花も生まれて来る事はなかったと思います。
きっともっと別な本物活動をしていたと思います。
でもそうはなっていません。
僕は縁の花を書いていますし、今、やっと念願の縁の花を正式な情報誌として立ち上げる事ができたのですから。
が、そういった事から考えても、人の縁というのはつくづく不思議なものだと思います。
もし大学の頃、バイト場に、小学校からずっと好きだった彼女が(初恋)バイト仲間として入って来るという縁がなかったら、ラブレターも何もありません。
いや今から考えたら書かないと自分にけじめがつけられないように、天か何かの存在に追いつめられていたような気がします。
この時期に彼女に出会い、ラブレターを書き、見事に振られて、その悲しさからいろんな詩や文章を読んで貰える相手もいないのに、いつかきっと現れると信じて書いていた馬鹿らしい行動が、今、縁の花というものを書いている事につながっているからです。
そう考えると僕はまったく大学の頃から進歩していないのかもしれません。
しかしやはりこれらは、僕が生まれる前に全部計画されていた事だと思います。
彼女に合い、今、皆さんと出合い、こうして読者になって貰っている事は皆さんや僕が、あの世で相談して、計画した事であり、計画にまるっきり入っていない人はいないと思うのです。
まさしく縁というものはつくづく不思議なものだと思います。
又その証拠に、僕は縁の花という名前は、実は12年前の大学生の時にすでに決められていたという事をあげたいと思います。
冒頭にかいたラブレターの中で出てくる縁の花という言葉から取ったのです。
だけどこれは僕に取っては実に不思議な事です。
普通は何かの小説や情報誌を書く時でも作家や作者が苦労するのが題名や名前をどうしようかという事です。
これで何日も悩む人がいます。
でも縁の花の場合は、僕は少しも悩みませんでした。
今から3年半前、ふっと本物の情報誌を書こうと思って書き出した時に、気が付いたらもう名前を縁の花にしていました。
おそらく僕に取ってこのラブレターが、文章を書くという根本的なきっかけ、原点ですし、僕はこの詩というか、ラブレターの部分がずっと気に入っており、本物情報誌を書くという大切な事を決めた時に無意識にでもそれが出たのだと思います。
いえ、いいかえるなら、天か僕を指導している何かの存在に、おまえの情報誌はそれを目的としてやりなさいとインスピレーションのようなもので与えられたと思うのです。
ですから僕はこの名前を大切にしています。
自分でも何故かもの凄く気に入っていますし、皆さんの中にはこれをみどりの花と読んでがっかりさせる人もいますが、文章の内容はともかく名前だけは素晴らしいといって喜ばせてくれる人も多くいます。
だから今後もこの素晴らしい名前に恥じないように頑張りたいと思いますし、縁ある皆さんと一緒に名前の通り、縁をどんどん広げて、すべての読者が縁を持ててよかったと思える花を咲かせたいと思います。
しかしそういった単純な事だけではなく、この縁の花という言葉には、もっともっと大きな大きな願いが隠されているような気がします。
あの世で皆さんと僕がたぶん、大きな願いを持って付けたのだと思うのです。
そして実は僕が縁の花を書くというのは、その目的探しでもありました。
自分でもどうしてこんな名前を無意識の内につけたんだろう。
天は一体何をさせたいのだろうとずっと考えながら書いていたのですが、その答えは、第48号、本物一家で書いたように、皆さん一人一人の縁を切る事なく、どんな形でもいいから保って、いつかは本物という大きな木にまとめて、MGとか笑顔共和国や個性学などの人を幸せにできるものとの縁を作って、すべての人がそれぞれにあった花を咲かせて貰う事だと思います。
これがあの世で僕や皆さんが考えた願いだと思いますし、今でもそう思っています。
だけどそれだけではなく、僕はもっと大きな意味が隠されているような気がします。
それで縁の花を正式に書くに当たって、もう一度天の願いを考えてみようと図書館にいって、縁という言葉を調べて来ました。
笑顔共和国が笑顔というものを徹底的に調べているように、僕も一度縁の花で一番大切な縁というものを調べないといけない。
どうしたら縁を大切にできるか。縁とは一体何かという事などを皆さんと今後考えていきたいと思ったのです。
でも結論からいったら、僕には縁というものがまだよく分かりません。
えんという言葉を漢字にするだけでも、円から始まって園、炎、沿、延、煙、艶、焔、怨など、皆さんの知らない漢字を含めたら50近くもありますが、どうしてそんなにあるのかさえ分かりませんし、縁の意味を百科事典で調べても、1ふち。へり。2たよりにする。関係がある。3婚姻の関係。人間関係のつながり。と書いていますが、何か分かったようで分かりません。
ただ僕がえっと思ったのは4仏教で原因をたすけて結果を生じさせる作用。とある事です。
もちろん僕にはこの意味がよく分かりませんが、縁というのが仏教用語だという事を初めて知りました。
因縁、奇縁、宿縁、縁起、縁日なども全部仏教と縁のある言葉なのです。
が、これも僕には何かピーンと来ませんが、仏縁といえば、僕に取ってはやはり河内先生との縁です。
その縁が、縁の花の言葉の中に入っている、これは僕にはちょっとした驚きでした。
又縁を使った、縁につながる。縁にひかれる。縁もゆかりもない。縁を組むなどの言葉がありますが、その中に縁を結ぶという言葉があります。
この意味は夫婦、養子などの縁組をする。縁を組む。といえば、皆さんにも理解できると思いますが、それよりももっと深い意味として、仏道と縁をつなぐ、仏縁を結ぶ。(結縁)というものがあります。
これは僕に取っては、縁の花の大きな使命として、河内先生と皆さんとの縁をつなげる。縁を結び付けるという事を意味しているような気がします。
というのも縁の花には河内先生の願い、エネルギーが入っています。
それを皆さんに分かり易くいえば、波動、思いといえば分かって貰えると思いますが、縁の花を通して、私の存在を知って、私と縁をつなげて、共に私と同じ道を歩いて欲しいという願いです。
これが入っていますし、僕はその為に河内先生の事を書いたものは事前にすべて見せていますし、読者の名前だけは知らせています。
ですから皆さんは全員、河内先生と将来合う、合わないは関係なく、何らかの関わり、縁がある事になります。
これは実際にはなかなか感じられないかもしれませんが、河内先生の波動、エネルギーは縁の花を少し読むだけでも届いているのです。
この事も縁の花の隠された目的の一つ。
皆さんの幸せを願って、僕と皆さんが計画した縁の花のもの凄い特典の一つのような気がするのです。
しかしそれよりも僕がもっと驚いた言葉は、縁なき衆生(しゅじょう)という言葉と縁なき衆生は度(ど)し難(がた)しという言葉です。
この言葉は仏語でいえば、それぞれに、まず縁なき衆生は、仏縁をもたない為に仏に救われない人という意味があり、もう一つの縁なき衆生は度し難しは、すべてのものに慈悲をたれるという仏でも、仏縁のない者は救いがたいという意味があります。
もちろんその仏語の意味が転じて、現在用語で訳される意味もあるのですが、僕はこの仏語の意味に驚いています。
河内先生はよく衆生を救うといっておりますが、考えてみると河内先生と何にも縁がなければどうする事もできません。
でも皆さんはその縁を縁の花を通してすでに持っています。
ただこの河内先生との縁が仏の縁だという判断は皆さんに任せますが、少なくても僕はそうだと信じています。
そんな仏縁を皆さんは縁の花を通して、極めて濃い形で持っているだけでも凄く幸せな事だと思うのです。
だって衆生とは辞書によれば、この世の中に生きているすべてのものという意味があり、そんな衆生の人達の苦悩や迷いを救うのが仏の本願、一番の願いだからです。
ですからそこから判断して、皆さんの多くは後1歩か後2歩河内先生に近づけば、すべての迷いから精神的に救って貰える事になります。
僕はもしそれが本当なら縁の花にはとんでもない使命があると今更ながら喜んでいますが、もうすでに何人もの縁の花の読者が実際にそれを掴んでいるのです。
だから僕は他の人にも一日も早く掴んで欲しいと思っていますし、この縁の花の和、僕との縁を、今の何倍も広げる決心をしました。
この縁の花でないと河内先生との仏縁をつかめない読者が、この日本だけでもまだまだ1億人以上もいるのだから頑張らないといけません。
あの世で最終的にはどれだけの数の人に仏縁を伝える約束をして、皆さんと共に生まれて来たのかは分かりませんが、その堅い約束だけは果たしていきたいのです。
そして僕はその為にも縁の花を正式に書くに当たって、もう一度原点に戻る事にしました。
縁の花は最初ある女性に書いたラブレターから始まったのですから、その気持ちを忘れたくないのです。
それが冒頭に恥ずかしいものを皆さんに見せた理由です。
ですから僕は今後は皆さんにラブレターを書くつもりで縁の花を書いていきます。
特に独身の女性に対しては念入りにというのは冗談ですが、すべての読者の人に対して一緒に本物活動をやっていきたいと思っています。
MG活動でも、個性学でも、笑顔共和国でもデートを楽しむ感覚で誘いたいし、河内先生の事なども何かの宗教と誤解されるのではないかという不安を、何よりも皆さんを信頼して、恋人と文通する感覚であけっぴろげで書きたいと思います。
それが新しく正式に縁の花を書く上での僕の決意の1つです。
あの時、恋人としてとかいう欲を捨てて、ずっと友人としてでも幸せを見つめて生きたいと純粋に願って、必死で書いた気持ちで皆さん一人一人と接していきたいのです。
そんな僕のラブコールが早く届いて、皆さんと一緒に本物活動ができる事を願っています。
では皆さん、南 阿弥陀佛(僕と縁ある人だけでなく、その人の背景にいる目に見えないすべての霊までも救わせて下さい)
平成9年4月27日
追伸、僕に縁の花を書くきっかけを与えてくれた女性が、今何をしているのか、全然分かりません。
でもどこかで偶然合えたら、縁の花を書いている事、心から感謝と共に伝えたいです。
その時には是非読者にもなって欲しいといってみるつもりです。
僕の長年の夢が叶う事、祈って下さい。
そういったロマンを持つのも悪くはないと思います。