縁の花村まぐまぐ情報  

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  縁の花村まぐまぐ情報 第68号 2007年 5月30日

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1、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
   「仁科盛信の動き」
 
 武田家中の中で、本能寺の変を一番、最初に知ったのは、仁科盛信でした。仁科盛信は、勝頼と相談して、その時、信濃の伊那にある吉岡城にいました。もし、上方で何かがあったとしても、距離的に遠い、高遠城には、なかなかその情報が入りません。一番、早く届くのは、伊那の吉岡城あたりでした。できるだけ、織田領に近いところで、武田家の忍者から、連絡があるのを待っていたのです。

 そんなの仁科盛信の元に、明智光秀からの使者が到着したのは、二日後の六月四日の晩でした。織田家でも、まさか明智光秀が謀反を起すとは夢にも思っていませんでした。まったく警戒はしておらず、織田家中の明智光秀が、使者を派遣しても、怪しむ人物はいませんでした。明智光秀は、堂々と、使者の乗せた馬を走らせて、岐阜城や、東美濃の岩村城に派遣するというようにみせて、信濃の武田家に、つなぎをとったのです。

 また、その知らせは、事前に、何かあったら、すぐに自分に知らせるように、仁科盛信のもとにすぐに届きました。仁科盛信は、その明智の使者からの言葉と文面を受け取り、信じられない思いでした。まさか、明智光秀が謀反を起すなど、予想もしていなかったのです。でも、信長が、急死することを願い、その時のために、最大限の準備をしていた仁科盛信の行動は、驚くほど敏速でした。

 直ちに、勝頼や真田昌幸と、事前に打ち合わせていた、信長が急死したという合図の狼煙を上げると、甲斐の新府城で待つ、勝頼に、使者の派遣を命じました。その上に、勝頼の了解も貰わずに、伊那の兵に、明日、出陣するという命令を出させ、実際に、翌朝の六月五日、伊那の兵、3千人を率いて、美濃に出陣しました。それは、まだ織田信長が、本能寺の変で、明智光秀の謀反で打たれたことを知らない、岩村城や、明智城の兵達を、本当に驚かせる行動だったのです。

 そして、そんな仁科盛信と同じように、武田勝頼の行動も敏速でした。勝頼も、まさか信長が急死するとは、まったく信じていませんでした。でも、事前に、想定して、準備していたことは大きかったです。合図の狼煙も、準備していたので、信玄公が造った狼煙のシステムも、完全に機能して、その日の晩、遅く勝頼は、織田信長が、何かの謀反で死んだことを知り、その日の晩に内に、甲斐国内や武田全領土に、出陣の命令を出していたのです。

  縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
   「知将仁科盛信の活躍と徳川家康の不運」
 
 六月五日の朝、岐阜城にいる滝川一益の知らせで、信長が、明智光秀の謀反で、死んだことを知った岩村城、明智城の織田兵は、針をついた大騒ぎでした。そんなことが起こるとは信じられなかったのです。でも、その事を事前に知っていたのか、武田軍は、1万という嘘のうわさを出しながら、進軍しています。どちらの城も攻撃せず、岐阜の方に進軍しているのです。

 岩村城、明智城の兵達は、そんな武田軍の行動が信じられませんでした。そんな事をしたら、岐阜城と岩村城で、挟み撃ちで、すぐに武田軍は全滅します。でも、信長の訃報を知って、初めて、岩村城、明智城の武将達も、武田軍の行動が理解できたのです。だけど、信長、信忠だけでなく、森蘭丸という主をなくした岩村城にしろ、明智城にしろ、何もすることができませんでした。以前、戦って、野戦での武田軍の強さはよく分かっています。どれだけの兵がいるのかも分からないまま、野戦を仕掛けても、二千や千の兵では、武田軍に勝てるとは思えませんでした。城を固めるしかできなかったのです。

 また、そんな岩村城、明智城の行動は、仁科盛信の予想通りでした。もし、自分の予測とは違って、織田軍が、信長の急死でも、敏速な反応をしたら、仁科盛信の軍は、全滅します。しかし、仁科盛信は、これにすべてをかける覚悟でした。諏訪などの援軍を待たず、どんどん、織田領に、わずか3千の軍で、進撃していったのです。

 そしてそんな仁科盛信に負けまいと、甲斐の武田勝頼も、敏速に軍を動かしていました。
同じく、六月五日の昼には、まだ集まっていない兵は待たずに、甲斐から、駿河に出撃しました。事前に、信長に万が一の事があれば、甲斐、駿河の全軍で、遠江の徳川を攻めて、徳川家康をけん制して、徳川軍が、尾張、美濃に来ることを阻むということを約束していました。どうしても、距離的な近い、三河の徳川が、清須や、岐阜を、先におさえることは、防ぎたかったのです

 また、この策は当たりました。岐阜城の滝川一益は、同盟している徳川に、信長が本能寺の変で亡くなった知らせは送りませんでした。一角の武将である滝川一益は、それが、何を意味するか、正確に理解していました。信長だけでなく、信忠も死んだことを知ったら、徳川家康が、尾張、美濃に攻め込んでくることを恐れたのです。

 だから、五月、京都から、信長と別れて、武田家の用心の為に、遠江の浜松城に帰国していた徳川家康が、信長の死を知ったのは、遅れてしまいました。武田家は、六月八日には、甲斐、駿河、遠江の兵、九千で、遠江に侵攻し、そのことを慌てて、信長に知らせるために、使者を向けて、その使者が、清須に入った時に、織田家中の様子がおかしいので、織田の人間から聞きだして、慌てて、浜松にいる、家康に知らせたのです。

 でもそのときでは、もう遅すぎました。家康が事情知ったのは、六月十一日の晩でしたが、その時には、武田軍は、もう浜松城を突破していたのです。


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縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
    「武田勝頼対徳川家康」
 
 徳川家康には、何故、武田勝頼が、1万ちかくの軍を率いて、突如攻めて来たのか、理解できませんでした。事前に内通している穴山信君からも知らせはありませんでした。勝頼は、真田昌幸の意見を取り入れて、駿河の各港に、家臣を派遣していました。穴山信君の動きを用心していたのです。そのかいがあって、清水港に、明智光秀の使者が入って、信長が倒れた情報が入っても、機密を防ぐことができました。家臣は、その情報を、駿河のどの武将に知らせずに、直接勝頼に知らせたのです。

 しかも勝頼は、武田水軍を三河、遠江に派遣して、船から徳川家の使者が入ることを防ぎました。徳川家と親しい、堺の商人や、京都にいる徳川家のものから、連絡が来るのを防ごうとしたのです。
 だから、六月六日、突如、遠江に、3千の武田軍が侵攻したときには、さすがの家康も驚きました。信長が、毛利攻めをしている時に、自棄になった勝頼が、攻めてくる可能性はありましたし、その為に、家康自身、安土城で、信長の接待を受けた後、堺を見学もせずに、帰国しましたが、本当に武田軍が攻めてくるとは思わなかったのです。

 しかも、八日の日に、遠江に侵攻した本隊、六千の武田勝頼の動きも、常識外れでした。勝頼は、つい最近落とされた高天神城などの城に見向きもせず、直接、自分のいる浜松城に向かっていました。これも常識では考えられない行動なのです。

 ですから家康は、最初、猪武者の勝頼が、最後の大博打をする気になったと判断しました。浜松城にいる自分に決戦を求めに来たと判断したのです。でも、家康は、そんな勝頼の愚かさを笑いながらも、決戦するつもりはありませんでした。武田家の野戦の強さは、痛いほど分かっています。浜松城に、六千の兵を集めましたが、あくまでも篭城するつもりでした。家康は、三河の岡崎城に三千、吉田城に千と留守兵も置いて、守りに徹するつもりでした。そうすれば、諦めて、勝頼は、軍を戻すと思ったのです。

 そんな家康の元に、信長が本能寺で、明智光秀に討たれたという報告が来たのは、八日の晩でした。京都に駐在している家臣からの知らせが、やっと届いたのです。それで家康は、勝頼の狙いが、遠江、三河ではなく、尾張、美濃だということを悟ったのです。しかも、大将だった今川義元が桶狭間の戦いでなくしたことのある家康には、その勝頼の試みは、成功する予感がありました。今なら、尾張、美濃を取れる可能性が高いと思ったのです。

 だけど、家康には、すぐにはなにも考えることもできませんでした。信長の存在は、家康にとっても、偉大すぎました。しばらくの間は、呆然として、家臣に叱咤激励されて、やっと少し落ち着くことができたのです。また、そんな家康を悩ませたのは、信長の安否がはっきりしないということでした。続いて京都から来た家臣の報告では、信長の生きている可能性があるという事でした。信長の生死ははっきりしなかったのです。


これでは、家康自身、尾張、美濃に軍を入れることはできませんでした。もし、信長が生きていたら、尾張、美濃に侵攻する自分に激怒します。慎重な家康には、そんなばくちは打てなかったのです。同盟国の織田に、大義名分のない侵略は、やりにくかったのです。
しかも、武田軍は、高天神城を抜けてどんどん迫ってきています。明日の昼には、浜松城にまで来ます。今、尾張に、三河に残っている数少ない兵を、終わりに向けたら、浜松城を抜けた、武田軍に簡単に、岡崎城も取られてしまいます。

戦略家として優れている家康は、その時に、何故、勝頼が、遠江に侵攻したことが分かりました。尾張に近い、三河の兵を、浜松の自分のところに集めるつもりなのだということが分かったのです。
でも、今更、それが分かっても、家康には、何もできませんでした。信長を無くしたというショックから、その気力を奪っていたのです。いえ、家康よりも、徳川家臣に与えたショックが大きく、とても今、武田と戦をする気持ちは出てこなかったのです。

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