縁の花村まぐまぐ情報  

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  縁の花村まぐまぐ情報 第69号 2007年 6月29日

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1、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第2章「本能寺の変」
       「武田勝頼対徳川家康」二
 
 だから、徳川家康が、考えられる策の一つは、今、浜松城に迫ってくる勝頼と野戦を交えることですが、その勇気は、とうとう出ませんでした。三方ヶ原の戦いで、信玄に惨敗した記憶は、今も残っていますし、家臣も忘れていません。信長に対しては、長男の信康を殺された恨みもありましたが、織田軍の援軍無しで、勝てるとは思えませんでした。その上に武田軍は、浜松城に千人残した五千の徳川よりも、九千と、倍ちかく多いです。兵の質でも、強さに勝る甲斐、信濃の武田軍と、ここで戦う事は無謀だったのです。

 でも徳川家康もやはり知将でした。すぐに信長が討たれたかもしれないという現実から立ち直りました。結局、徳川家康が考えた策は、勝頼よりも先に、尾張に入るということでした。朝、まだ武田軍が、浜松城に来る前に、三千の守備兵を残して、三千の兵で、三河の岡崎城に向かったのです。ここで新しい情報を集め、信長の生死を確かめて、武田家よりも先に、尾張の清須城を奪おうとしたのです。

 また、そんな家康の決断は、勝頼を唸らせました。物見の報告で、浜松城から、3千の兵が出たことを知って、やっと家康も、信長の死を知ったのかと思いましたが、三河に向かったその判断力には、舌を巻いたのです。と同時に、もし、後一日、知るのが遅かったらと思うと、勝頼はとても残念でした。浜松城を抜けていたら、徳川家康は、完全に動けず、武田軍が、先に尾張に入ることは間違いはずでした。これでは先に、徳川に、入られるとしまうと思うと、悔しかったのです。

 でも勝頼も、打てる手は打っていました。まず、九千の兵から、駿河の兵、二千人を残して、駿河全体で、田中城に千、江尻城に穴山信君の兵、二千、蒲原城に千という兵を置いて、合計四千の兵で、自分達が留守にする駿河の守りを固めました。徳川軍、北条軍が、駿河に押し寄せても、三ヶ月から半年は、持ち堪えられるようにしていたのです。

 そして残りの七千の兵で、急いで、徳川家康の後を追いかけました。徳川家康が、尾張に行く事を、けん制するつもりだったのです。でも、そんな勝頼に、すぐに吉報が届きました。翌日の10日、先に、出撃した仁科盛信が、見事、清須城を、わずか二千の兵で落としたという報告が入ったのです。その10日は、岡崎に帰った家康が、二千の兵で尾張に入った瞬間でした。武田家は、家康よりも一日先に、清須城を落とすことに成功したのです。

 ですから勝頼は、その報告を受けると、ただちに、家康との直接の対決を避けるように、野田城から、足助城と、三河の山手を進むと、12日に尾張の国境に入ると、11日に、仁科盛信が占領した小牧城に入りました。仁科盛信が占領した、尾張の守りを固めることに成功したのです。

2、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第2章「本能寺の変」
       「仁科盛信の決断」一

 6月6日、二千の兵で、美濃に入った、仁科盛信の動きは、風林火山の風、そのものでした。6日に、岩村城、明智城を抜けると、一気に、岐阜城に進むルートを入り、9日には、鶏沼城にまで進むと、そこからは、南下して、岐阜城ではなく、清須城を目指しました。

 しかも、その間、織田兵の抵抗は、殆どありませんでした。織田信長が、死んだということは、織田軍の兵士、一人、一人の判断力を奪いました。何をしたらいいのか分からないまま、命を惜しんで、戦おうとしなかったのです。それで、仁科盛信は、清須城は、二千の兵でも、何とか奪えるという確信持ちました。岐阜城には滝川一益がいて、混乱しながらも、指揮を執っているのに対して、清須城には、誰も指揮を執っていないという情報が入ったからです。

 また、その仁科盛信の判断は、正解でした。3千の兵で、守りを固めていたはずの清須城は、武田軍が、清須に軍を抜けたという情報が入ると、二千ちかくの兵が逃げ出しました。後、千の兵も、9日の晩に、仁科盛信の軍が着くと、かがり火を焚いて脅かすと、七百ちかい兵が逃げ出して、残るは、三百と言う体たらくでした。尾張の兵、聞きしに勝る弱兵だったのです。

 10日の早朝、仁科盛信は、そんな清須城に、容赦なく攻め込んで、二刻で清須城を落とすことができました。三百の兵も、結局、逃げ道を残していたので、3分の1は、逃げ出していました。そんなに苦労はしなかったのです。でも、それでも、仁科盛信は、油断はしていませんでした。常に、徳川家康の存在が、頭にありました。その家康も、また、二千の兵で、尾張に入ったという報告を聞いた時には、一足先に、清須城に入れた幸運を諏訪大明神、八幡大菩薩のご加護に感謝したのです。

 だけど、それだけではなく、仁科盛信の動きは、敏速でした。11日には、もう一つの重要な城、信長がしばらくの間、居城にしていた小牧城にも、五百の兵で、無血で落とすことができました。小牧城の千の兵士も、清須城が落ち、武田軍が、今度は、自分達のところに来たと思うと逃げて、誰も残らなかったのです。事前に、仁科盛信が流した恐ろしいうわさと、信濃から、美濃に、どんどん武田軍が入っていることが大きかったのです。

 しかし、そんな仁科盛信に、明智光秀の使者が来たのは、10日でした。明智光秀は、6日に、仁科盛信が知らせを受けて入ったという知らせを受けた時は、その敏速さに驚きながらも、何度も使者を送っては、畿内の動きを伝えてくれていました。安土城、長浜城、佐和山城を占拠し、近江を抑えたという報告も貰っていたのです。

 だけど、今度の内容は驚くものでした。毛利家と戦っていた羽柴秀吉が、毛利家との和議を結ぶ事に成功し、7日には姫路に戻って、自分の方に、軍を向けているということでした。さすがの仁科盛信も、その羽柴秀吉の大返しには驚いてしまったのです。
しかも兵の数も、羽柴秀吉は、丹羽長秀、尾張信孝、摂津の池田恒興、中川清秀、高山長房なども味方にして、兵の数は圧倒的に、明智軍を超えていると言います。何と35千から4万と言い、明智軍の2倍はあるというのです。

 

3、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第2章「本能寺の変」
       「仁科盛信の決断」二 天王山の戦い

羽柴秀吉の軍が来る。仁科盛信は、その意味を瞬間に理解していました。もし、羽柴秀吉に、明智光秀が敗れたら、武田軍が、尾張を占領したとしても、すぐに、羽柴秀吉や徳川家康に攻め込まれて、撤退しないといけないことになる。三日天下に終ることを理解していたのです。

 だから、仁科盛信の行動は、敏速でした。明智光秀には、自分が、美濃に入っている武田軍1万以上を率いて、すぐに駆けつけるから、それまで、決戦を待って欲しいという返事を使者に伝えると、勝頼にそのことを伝える使者を出し、12日の日に、清須城と小牧城は、伊那軍、二千を残すと、清須城に到着した、諏訪、高遠、3千の軍を、自ら率いて、鶏沼城に引き返すと、中信の三千、北信の二千、飛騨、越中の二千の合計1万の軍が到着するのを待って、美濃で、武田軍に降伏してきた三千の兵を率いて、十四日には、明智光秀の待っている坂本城に向けて、合計、13千の軍を向けました。尾張、美濃は、後は、勝頼にすべて任せるという決断をしたのです。

 また、その仁科盛信の決断は、正解でした。不利と分かっていても、天王山のちかくの山崎あたりで、羽柴軍を向かえ討つ覚悟をしていた明智光秀は、12日に、仁科盛信の返事を聞くと、13日の決戦は避けて、一旦、坂本城まで、本軍を引く決断はしました。勝龍寺城に5千の兵を残して、羽柴軍を、自分が戻ってくるまで、何とか食い止めるように命令を出して、すぐに坂本城に兵を引いたのです。

 ですから、明智光秀と仁科盛信は、十八日に、坂本城あたりで、合流すると、十九日に、京都に入り、二十日、猛攻を凌いだ勝龍寺城に入ると、いよいよ二十日、羽柴秀吉率いる織田軍四万に対して、二万九千と兵は少ないですが、決戦することになりました。本来なら、1週間早い、十三日、三万五千対、一万六千という不利な局面で戦わないといけない局面を、武田軍、仁科盛信の大きな決断のおかげで、防ぐことができたのです。

 しかも、その戦いで、左翼を任された武田軍、仁科盛信の活躍は、戦国時代、最強と恐れられた武田軍そのものでした。特に、武田軍の先陣を務めた、諏訪、高遠軍、三千は、勝頼、仁科盛信が、指揮していた直属の部隊だけに、士気は非常に高く、迫ってきた池田恒興、丹羽長秀、織田信孝軍を相手にしませんでした。4倍の兵で、攻撃されても崩れなかったのです。それで戦いは、明智軍の優勢になりました。劣勢だった正面を任された斉藤利三の隊や、津田信春、伊勢貞興の隊も、息を吹き返しました。迫ってくる、羽柴秀長、中川清秀、高山右近の隊を押し返したのです。

 でも、その後に見せた仁科盛信の攻撃は、羽柴秀吉を恐怖に落としました。仁科盛信は、自ら率いた、中信と北信、合計五千も高遠、諏訪軍の援軍に向けると、倍もあった、池田恒興、丹羽長秀、織田信孝の軍を、完全に崩壊させました。池田恒興、織田信孝の首を取ったのです。こうして、最初の天王山の戦いは、明智軍の勝利になりました。羽柴秀吉の率いる織田連合軍は、もう少しで、崩壊寸前でした。それを防いだのは、武田軍の野戦の強さを恐れる羽柴秀吉が、合戦を、昼の1時頃から仕掛けた為でした。明智、武田、連合軍は、暗くなったので、合戦を停止したのです。

人が、生まれながら持っている性格や運勢が
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はっきり言って、これはすごいです。
          

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