縁の花村まぐまぐ情報  

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  縁の花村まぐまぐ情報 第70号 2007年 6月29日

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1、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「天王山の決戦」
      羽柴秀吉の撤退
 
 20日の晩、天王山で、羽柴秀吉は大きな苦衷の中にいました。山崎での戦いは、昼から行われ、兵力的には圧倒的に多いはずの羽柴秀吉率いる織田連合軍は、明智軍、武田軍に敗れました。それは、すべて武田軍の強さによるものでした。後、少し、夜になるのが遅くなったら、間違いなく、武田軍は、羽柴秀吉の本陣を突いて、羽柴軍は、崩壊しているはずでした。辛うじて、崩壊は免れて、兵を天王山にまで、引くことができたのです。

 しかし明日になれば分かりません。池田恒興、織田信孝を討ち取って、勢いづいている明智軍、武田軍が、攻めてくることは分かっています。それを緒戦の敗戦で、兵も多くなくしている羽柴秀吉に、防ぐ自信はありませんでした。羽柴秀吉の率いている連合軍は、寄り集まりで、一つにまとまっているわけではありません。明日になったら、逃げ出す兵もいる可能性があります。

 その上に、羽柴秀吉に恐怖を与えたのは、仁科盛信の存在でした。羽柴秀吉は、初めて聞く、この男の名前に、信玄の面影を感じました。山崎の戦いでみせた武田軍は、長篠の戦以降に見せた武田軍とはまったく違っていました。甲斐、信濃の兵は、尾張の兵、五人に匹敵するという話もありましたが、あれは嘘ではない。羽柴秀吉は、明日、再び、武田軍と戦っても、勝てる気はしなかったのです。

 だけど、それでは、ここで戦いを避けて撤退したら、今度は、明智光秀を討つチャンスが来るか、どうかも分かりません。秀吉が負けたとなれば、明智軍に加わらなかった、若狭の長岡親子や、大和の筒井順慶は、間違いなく、明智軍に加わります。その上に、河内、和泉の領地も明智光秀に取られる可能性が高いです。堺を、明智に握られることは、秀吉も避けたかったのです。しかも、この山崎の敗戦を知れば、和議に応じた毛利家もどうなるか分かりません。明智と結んだら、挟み撃ちにあった羽柴軍は、大きな危機を迎えることは、自明の理だったのです。

 と言って、では、明日、もう一度決戦をすれば、今度は、完全に敗北して、二度と立ち直れない可能性も高いです。仁科盛信の率いる武田軍がいるかぎり、勝てない、それは戦国時代の優れた武将である、秀吉が肌で感じたことだったのです。その上に、それは、他の武将も同じ思いでした。実際に戦った、丹羽長秀、織田信孝の兵だけでなく、武田軍強と言う思いは、全軍に蘇っていました。信玄健在の頃、恐れていた武田軍が復活、信玄が復活した感じでした。どの武将も、明日、再び、野戦で、決着をつけようとは言わなかったのです。

 それで、夜の軍義で、秀吉は、天王山から徹底を決断しました。夜のうちに、軍を下げて、富田城まで撤退する事にしました。ここで、守りを固めるつもりでした。軍師である黒田孝高の「武田軍もいつまでもこの地にはいないでしょう。美濃、尾張に、徳川家康、柴田勝家、北条も動く可能性も高いので、仁科盛信もすぐに兵を戻すでしょう」という進言が大きくものを言いました。仁科盛信が、引いた後、もう一度、明智軍と戦う決断をしたのです。

 

2、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「天王山の決戦」
      羽柴秀吉の誤算
 
 20日の晩、羽柴秀吉は、軍を引きました。それに強く反対するはずの信長の乳兄弟、池田恒興と、信長の三男、信孝は、戦死しています。反対する武将は、いませんでした。信長に謀反を起こした明智光秀に憎しよりも、武田軍の恐怖がそうさせたのです。特に、その中でも、信長の三男、信孝が討たれたことで、秀吉を非難武将もいて、秀吉は苦しい立場にいたのです。

 しかし、羽柴秀吉には、何故、京都を越えた天王山まで、武田軍が来ているのか、信じられない思いで一杯でした。もし、武田さえ、いなければ、自分が、明智光秀を倒して、天下人になれたという思いをなかなか消せませんでした。

 何故なら本来なら、1週間前、羽柴秀吉は、明智光秀の軍と、同じ、天王山と淀川の狭い土地、山崎で戦うはずでした。十二日まで、両軍は、そう想定していました。しかも戦えば、兵力的に有利な羽柴秀吉が、有利だったのです。

 でも、土壇場で、光秀は、勝龍寺城に、五千の兵を残して、坂本に撤退しました。決戦を避けたのです。だけど、この時点でも、秀吉は慌てませんでした。坂本まで引いても、明智光秀に援軍が増えるはずではありません。京都を押さえ、羽柴秀吉勢が、迫れば、日和見を決め込んでいる畿内の多くの勢力も、自分の味方をするのは明白でした。長岡親子や、筒井順慶にも使者を送っていて、自分の味方する可能性が高く、ますます羽柴秀吉に有利になるはずでした。

 だから不利を承知で、明智光秀は、山崎で、決戦を望むつもりだったのです。でも、そんな秀吉が、勝龍寺城に迫ったとき、信じられない情報が届きました。何と、武田軍が、岐阜を越えて、近江に入ったという知らせでした。これは、中国を大返した、羽柴秀吉を大いに驚かせました。羽柴秀吉が、中国から徹底できたのは、ある程度、明智光秀の謀反を内心察知していたからです。

 それと同じことが武田家も察知していたのか、それとも明智光秀から事前に知らされていたのか、分かりませんでしたが、本能寺の変の後、4日後の六日には、もう信濃を出て、十日には、清須城を落とし、十一日には、尾張を占領したという武田軍の動きは、自分と同じ大返しでした。長篠の戦以後、恐れなくなった武田家の恐怖が、再び覚えたのです。

 しかも、その武田家を率いる勝頼の弟、仁科盛信は、すごい勢いで、明智光秀に合流する動きをみせていると言います。このときに、秀吉は、明智光秀が何故、坂本に兵を引いたか、理解しました。武田軍の強力を期待し、再び、自分に挑んでくることが分かったのです。

 また、その仁科盛信の敏速な動きは、畿内の武将達に、寸時に伝わっていました。結局、日和見を決め込んでいる長岡親子、筒井順慶は動かず、自分の元には、信長が、討たれたと知って、逃げ出した丹羽長秀、織田信孝の兵、五千が戻ってきたぐらいでした。ここに、羽柴秀吉の目論見の大きな誤算が生まれたのです。

 そしてその誤算は、月々と大きな誤算を呼んで、羽柴秀吉は、一旦、兵を、天王山、山崎まで戻さないといけないはめになりました。もうすぐ、明智光秀が、武田軍を連れて、戻ってくると信じている勝龍寺城の兵の士気は高く、羽柴秀吉が、猛攻を仕掛けても落ちませんでした。羽柴秀吉は、勝龍寺城を残して、明智光秀と未知の武田軍とは戦をしたくなかったのです。

 だけど、この時点でも、羽柴秀吉は、戦は勝てると思っていました。兵力では、圧倒的に有利ですし、地理的にも、天王山を抑えて、有利だったからです。でも、それも仁科盛信率いる信濃の兵の強さが打ち崩しました。特に、軍神、諏訪大明神を信じる、諏訪、高遠の兵は、とても同じ人間とは思えませんでした。羽柴秀吉は、そんな武田軍に脅威を覚えながら、空しく撤退していったのです。

 

 

3、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「天王山の決戦」
      明智光秀と仁科盛信
 
621日、明智光秀は、天王山に上に登ると、撤退していく羽柴秀吉軍を見ていました。
 側には、側近の斉藤利三と、仁科盛信がいました。勝った。明智光秀は、天王山から、引き上げていく羽柴秀吉軍を見ながら、その実感がやっと湧いてくるのが隠せませんでした。この山崎での戦いは、後の天下人を決める大きな戦いだということがよく分かっていたのです。

 また、この戦いに勝利した意味は、明智光秀にとって、本当に大きかったです。羽柴秀吉に勝利したことで、当面の大きな、最大の脅威から免れることができただけでなく、日和見している自分の娘、お玉と嫁いでいる親戚になる長岡忠興や、本来なら与力になる筒井順慶も、この結果を知れば、自分の元に駆け込んでくることは、間違いないです。その時には、明智光秀は、心良く許すつもりでした。筒井順慶で1万、長岡親子で、3千の新たな兵が持てる計算をしていたのです。

しかし、もし、この結果を知っても、自分の味方にならないときは、軍を派遣して、すぐに攻撃する覚悟も決めていました。秀吉の脅威を打ち破り、背後を、武田軍が守っているので、明智軍には、その余裕がありました。兵力も、時間もあったのです。しかも、秀吉が守っている摂津は無理でも、河内、和泉に対しては、すぐに兵を出して、治めることは簡単でした。河内、和泉で新たに50万国、1万の兵を計算することができますし、和泉にある堺を手に入れることもできます。財源、お金と、鉄砲も、持つことができるのです。

そして、明智光秀は、それはすべて、武田信玄の息子、武田家の副将、自分の側にいる仁科盛信のおかげだという事もよく分かっていました。もし、12日に、すぐに駆けつけるという仁科盛信という返事がなかったら、自分は、1週間前、この天王山の地で、逆に破れ、明智一族や、嫁いだお玉に悲惨な運命が待っていたのではないか、明智光秀は、冷静にそう判断していたのです。その意味で言えば、仁科盛信には、本当に心から感謝していたのです。

でも、同じ武人として、明智光秀は、仁科盛信の力量も恐れていました。まだ若い仁科盛信に、信玄公の再来を感じていました。清須城から、使者の言葉で、すぐに戦況を正しく理解した頭のよさ、すぐに軍を動かしたすばしこさ、何よりも、戦えば、相手にすぐに脅威を与える、甲斐、信濃の兵の強さ、味方にすれば、頼もしいですが、敵にすれば、こんなに恐ろしい存在はいません。何故、主君だった織田信長が、信玄率いる武田家を恐れていたのか、よく分かったのです。

しかもその武田家は、本能寺の変以後、驚異的な速さで、美濃、尾張に侵攻して、尾張を支配し、今、岐阜城も占拠して、美濃も治めようとしています。これで、新たに110万石は得ることができます。従来の武田の領地である、甲斐、信濃、駿河、上野を加えたら、250万石にもなります。一躍、大大名です。その武田軍が、自分の敵になったら、それを考えると、戦国時代の性、不安もあったのです。

でも、今は、明智光秀にとっても、武田家にとっても、お互いを必要としていました。明智光秀には、北陸の柴田勝家という敵もいますし、秀吉も油断できません。武田家にも、徳川家康という敵がいます。力を合わせる必要があったのです。その後の天下の事は、仁科盛信や、武田勝頼と話し合って、決めようと明智光秀は決めていたのです。

ただ、明智光秀にも一つだけ分からない事がありました。それは、何故、仁科盛信や、武田家は、こんなに早く、軍を動かせたということです。明智光秀は、事前に本能寺の変を、武田に知らせていませんでした。自分自身、信長を討つと決めたのは、本能寺の変の直前で、機密保持の為、誰にも知らせませんでした。でも、武田は、それがわかっていたように、すぐに軍を動かしていました。それが、不思議で仕方がなかったのです。

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