縁の花村まぐまぐ情報  

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  縁の花村まぐまぐ情報 第72号 2007年 6月29日

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1、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「尾張・美濃攻略」
              滝川一益

六月十九日、岐阜城に上にある金華山で、岐阜城を占領している武田軍を眺めながら、今だに信じられない思いで一杯でした。六月二日、織田信長が、本能寺の変で、討たれるまで、こんな事は考えられないことでした。長篠の戦で、上様、信長に大敗した武田軍は、崩壊寸前でした。滝川一益が、密かにばら撒いていた誓詞の効果もあって、織田家に内応する武田家臣も現れていました。木曽氏なども、いつでも武田家を裏切ることを約束していました。武田家など、いつでも滅ぼせるところまで進んでいたのです。

 しかし、六月二日、本能寺の変が起きると、信長がいなくなると、時の流れは、一気に逆流しました。滝川一益が、織田家臣の急報で、その事を知ったのは、六月四日の朝でした。明智光秀が、謀反を起こしたことを知ったのです。それで、滝川一益は、パニックを起こしてしまい、その後、どうしたらいいか分からなくなりました。滝川一益が、唯一した事は、北陸の柴田勝家や、清須城に、その事を知らせて、守りを固めることと、明智光秀や、徳川家、武田家の使者が、本能寺の変が起きたことを、本国の徳川家や武田家に報告するのを、一日でも防ぐことでした。

 美濃や、尾張に、他家の使者が通ることは許さず、見つけたら、同盟国の徳川の使者でも、捕らえる命令を出したのです。その為に、家康の元に、連絡が行くことは大幅に送れました。徳川の使者は、美濃、尾張を密かに抜けて、家康の元に知らせた為に、家康の元に、本能寺の変が起きたことが伝わったのは、六月八日でした。本来なら、六月五日には、伝わるはずだった情報は、遅れてしまったのです。

 でもその事がよかったのかどうかは、分かりませんでした。明智光秀の使者は、滝川一益が、手を打つ前に、岐阜城を抜けていたのか、すぐに武田家に知らせは届き、何と、六月六日には、美濃に、仁科盛信の軍が、侵略したという報告が届いていました。事前に光秀から知らせが行っていたのではないかと思うぐらいの速さだったのです。

 しかもそれに対する織田軍の崩壊は、滝川一益自身、信じられない思いでした。美濃の武将達は、わずか二千の仁科盛信の軍と戦おうともせず、仁科盛信の進軍を許しました。滝川一益の命令も、信長がいないとなると、従おうとはしなかったのです。それで、六月十日には、清須城が落ち、十一日には、小牧城も落ちました。清須城を守った兵は、武田軍が迫ったという情報が流れると、わずか三百になったというのです。

 上様、信長がいなくなると、こんなことになるのかと、滝川一益自身、改めて、信長の偉大さと、織田軍のもろさを痛感したのです。でも、それでも滝川一益自身、必死で織田家を支えました。兵の逃亡を防ぐ為に、岐阜城に監禁して、味方同士で見張るようにしたのです。だけど、滝川一益自身、それ以上は何をしたらいいのか分かりませんでした。命令してくれる信長いないと何もしていいのか分かりませんでした。ただ、岐阜城に篭城するしか考えられなかったのです。

 だけど、滝川一益は、それでも、勝頼が、七千の兵で、迫ると、必死で戦いました。もし、最低でも五千の兵がいたら、広い岐阜城を守ることも可能でしたが、3千の兵では、少なすぎました。四日後、岐阜城を占拠され、金華山に、兵を引き上げることになったのです。

 でも、滝川一益は、最後まで戦うつもりでした。北陸の柴田勝家には、何度も使者を使わせて、現状を報告していました。柴田勝家からも、すぐに軍を出すという使者も届いていました。滝川一益は、それを信じて、金華山で最後まで、戦うつもりだったのです。

 

2、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「尾張・美濃攻略」
         徳川家康の反撃
勝頼は、六月十八日、岐阜城を落とすと、一息つきました。仁科盛信の率いる武田軍、一万が、明智光秀の救援に向かったと分かれば、岡崎にいる徳川家康が、再び動く可能性が高いです。それで必死に、十四日から、岐阜城を攻めていました。岐阜城を抑えたら、美濃の大半は、支配できます。岩村城、明知城の城兵も、降参してくる可能性が高いです。
勝頼も必死だったのです。

しかし、徳川家康ももっと必死でした。もし、尾張だけでなく、美濃も抑えられたら、三河、遠江の徳川家は、完全に、武田軍に包囲されてしまいます。領土でも、二百五十万石という、三河、遠江、五十万石の五倍もある大大名に武田家はなってしまいます。そんな武田家に逆らう力など、徳川にありません。何としても、武田家に、尾張、美濃を取られる訳にはいきません。家康は、仁科盛信の兵が、京都に向かったという知らせを、十五日に聞くと、ただちに、徳川軍、全軍1万で、十六日に小牧城、十七日には、清須城と攻撃したのです。

でも守りを固めている小牧城、清須城は、家康が攻めても落ちませんでした。兵の数が足りないのです。それで、家康は、十八日、勝頼りが攻めている岐阜城の救援に向かいました。何としても、岐阜城は、守る必要があったのです。けれど、それも一日違いでした。岐阜城は、落ちてしまったのです。

だけど、家康は、進軍をやめませんでした。家康の狙いは、岐阜城救援だけでなく、勝頼の首にあったからです。もはやこの局面を挽回するには、勝頼の首しかなかったのです。
でも、勝頼は、その事は理解していました。勝頼は、今、ここで徳川家康と戦うつもりはありませんでした。七千と一万では、いくら強い、甲斐、上野の兵といっても、三河の強兵と戦うのは不利です。しかも攻城戦で、兵は疲れていますし、千名ちかくの負傷兵も出しています。それで勝頼は、岐阜城に四千の兵を置くと、自分自身は、真田昌幸の勧めで、二千の兵を率いて、美濃の大垣城に入るという大きな決断をしました。

何故なら岐阜城に、四千の兵を入れて、守りを固めても、金華山を占領されているかぎり、岐阜城は、山の上から攻撃されます。徳川一万に城の外から、滝川軍に、城の上から、攻撃されたら、岐阜城は落ちる可能性がありますし、何よりも、金華山から石を落とされて、勝頼が負傷するという可能性もあります。そんな危険は避ける必要がありました。それで、万が一の時は、岐阜城の西側にある大垣城に入ることを考えていたのです。

また、この策は成功しました。十九日、家康は、岐阜城に迫ると、勝頼が大垣城に、去ったということを知って、勝頼が、自分と戦をする意思がないことを悟りました。このまま、大垣城に迫っても、明智光秀の領土になった、近江の長浜などに逃げるつもりだということを悟ったのです。それで、家康は、岐阜城を攻めました。金華山の滝川軍も、山の上から、大きな岩を落として、協力したのです。

でもそんな家康の攻撃も、二十二日、羽柴秀吉と、明智光秀の天下分け目の合戦に、明智軍が勝利したことが分かると、挫折しました。家康には、すぐに仁科盛信が、軍を引いて、戻ってくることは分かっていました。今、岐阜城で戦えば、兵力的に劣る徳川軍は、全滅してしまいます。どうしてこんなに裏目ばかり出るのか、家康は、天を恨みながらも即断に撤退しました。金華山の滝川軍に、そのことを知らせて、すぐに、滝川一益に、金華山から逃げることを勧めて、兵を三河に戻したのです。

 

3、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「尾張・美濃攻略」
            金華山の落城
滝川一益が、金華山を下りて、徳川家康と会ったのは、六月二十日でした。徳川家康が迫ってきたことで、武田軍は、金華山の包囲を解きました。それで滝川一益は、徳川家康に会い、今の動きを正確に把握することができました。もうすぐ、猿、羽柴秀吉と、裏切りものの、家康が、天王山あたりで戦うことも知ったのです。

しかし、滝川一益の願いも空しく、勝利は、明智軍でした、仁科盛信率いる武田軍が、強兵ぶりを見せつけたという報告も教わったのです。また、その現実は、滝川一益にも大きな決断は求めました。家康は、岐阜城の攻撃を中止して、早々と、三河に兵を引くといいます。もし、滝川一益が、本能寺の変を知らせていたら、こんなことにはなっていなかったと不満げにいったのです。

それに対して、滝川一益は、家康も、信長の死を知ったら、すぐに尾張に兵を向けたではないかといいかけましたが、辞めました。今は、そんなことも言っても仕方ありません。すぐに、仁科盛信は、軍を戻し、勝頼と合流して、岐阜の金華山に篭っている自分を責めることは明白でした。それに対して、わずか千名の兵では、どうすることもできません。武田軍に包囲されたら、いつかは、金華山も落ちることは、明白だったのです。

また、それに対して、柴田勝家は、やっと軍を出したという知らせを届けてきましたが、岐阜にまで来るには、近江の長浜城、横山城、美濃の大垣城を抜ける必要があります。それを、明智、武田軍が黙って通すわけがありません。半年しても、金華山に来られない可能性があったのです。

そしてそんな中で、徳川家康が、勧めたのは、伊勢の木造城に落ちて、北畠信雄と合流して、伊勢の兵、1万二千で、自分と共に戦うということでした。家康は、最早、岐阜城が落ちた今、金華山に篭る意味はないといったのです。それで、滝川一益も、本拠である木造城で、武田軍と戦う決心をしました。この時期、北畠信雄は、信長の二男にも関わらず、無能なのか、何もしようとはせず、殆ど活躍はしませんでした。伊勢から出て、近江に出ていましたが、仁科盛信の軍が、尾張を占拠したと知ると、慌てて、伊勢に戻り、そこから出ようとはしませでした。

もし、北畠信雄が、尾張に援軍を出していたら、こんなことにはなっていませんでしたが、仁科盛信の動きは、武将としての力量が落ちる北畠信雄には信じられなかったのです。でも、信孝がなくなった今、織田家は、北畠信雄しかいません。滝川一益は、金華山を捨てると、伊勢の北畠信雄と最後まで戦う決心をしたのです。こうして、岐阜城の山、金華山も無血で落ち、岐阜城は、完全に武田のものになりました。美濃、尾張を武田は支配したのです。

 

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