縁の花村まぐまぐ情報  

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  縁の花村まぐまぐ情報 第72号 2007年 6月29日

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1、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第4章「甲斐・上野攻防戦」
           柴田勝家

勝頼が、大垣城で、明智、武田連合軍の勝利を聞いたのは、六月二十三日の夜でした。しかも、戦場では、仁科盛信率いる武田軍が、無類の強さを発揮して、羽柴軍だけでなく、味方である明智軍まで恐れさせたという報告も入っていました。その仁科盛信の活躍は、勝頼を満足させました。父、信玄が、築いた武田家の栄光が蘇ったことを確信しました。敵が、武田軍を恐れることが、どれだけ大きな力を発揮するか、勝頼は、長篠の戦で大敗してから、良く理解していたのです。

また、その勝利の知らせは、すぐに大きな影響を与えました。岐阜城を攻めていた家康にも、その知らせは届いたのか、二十四日には城攻めを中断すると、二十五日には、兵を引き上げていました。その軍の中には、金華山にいた滝川一益の率いる千の兵もいて、勝頼は無血で、金華山も得ることができました。岐阜城を手に入れたのです。こうして、武田は、尾張と美濃を、大国、両藩を得ることができました。その領土は、明智光秀も越えて、日本で最大の大名になっていたのです。

しかも勝頼は、密かに連れてきていた人質だった信長の五男ご御坊丸を、岐阜城の城主にすると、ご御坊丸に、美濃半国を与えました。その上で、名前も、織田信正と名乗らせて、織田家の家督を継がせることを、内外に示しました。明智光秀も、了解を得られたので、発表したのです。

そしてその効果は、織田家中に大きな影響を与えました。織田家の家臣の中には、新しく藩主になった、織田信正の元に仕官を求めるものも現れていました。最早、織田家は、武田家に負けたということを、内外に示したのです。

しかし戦いは、まだ、これからでした。やっと、六月三十日、戻ってきた仁科盛信と合流したものの待っていたのは、新たな戦いでした。上杉家を越中の佐々成政に任せて、柴田勝家が、二万の大軍で、近江の木之本まで攻めて来ました。柴田勝家は、秀吉の敗戦を知り、自分でしか、明智、武田には勝てないと思ったのです。それに対して、明智光秀も、早速、斉藤利三に、二万の兵を預けると、長浜城まで進めました。明智光秀は、柴田勝家よりも、羽柴秀吉の方に脅威を感じていて、丹波の亀山城から動かず、天王山に二万の兵を配置したまま、警戒していたのです。

また、武田勝頼も、明智光秀の要請を受けると、仁科盛信に、新しく兵になった尾張、美濃の兵、一万の兵を加えた二万の兵で、近江の明智軍の元に援軍と送りました。勝頼は、明智光秀が天王山で勝利したことの意味を、このときに心から悟っていました。もし、あの時、仁科盛信が、明智光秀の要請を拒んだり、自分の了解を得るまでと、なかなか出撃しなかったりしたら、明智光秀は諦めて、秀吉の大軍に破れて、自分も、仁科盛信も負けていないのに、今頃、羽柴秀吉、徳川家康、柴田勝家に包囲されて、尾張、信濃を手放していることになっていました。

野戦で負けることは許されない。勝頼は、明智光秀が負けることは、武田が負けたことになることを悟っていました。どうしても、明智軍には、負けさせるわけには行かなかったのです。

 

2、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第4章「甲斐・上野攻防戦」
   北条家の上野侵攻

 仁科盛信を、今度は、柴田勝家との戦いに送った、二日後の七月二日、岐阜城にいた勝頼のもとに驚くべき報告が甲斐から、送られてきました。本能寺の変を知った後も、しばらく様子を見ていた北条家がついに動いたという知らせでした。北条家は、今までずっと静観していましたが、徳川家康から、何度も、参陣の要請があると、ついに北条軍、三万を上野に向けました。このままでは、武田家が、尾張、美濃を支配して、北条家も凌ぐ大名になるということが、北条家の当主、氏政にとっては許せなかったのです。

 ただ、北条氏政が、上野に侵攻したのは、それだけではありませんでした。北条氏政は、勝頼が、尾張、美濃を完全に支配する前に、念願の関東支配を完成させるつもりでした。遅かれ早かれ、武田家とは、戦うなり、和議を結ぶなり、対決する必要があります。
その時に、交渉する上でも、上野、四十九万石が必要だったのです。

 また、それは、武田勝頼が、もっとも恐れていた事でした。勝頼は、手薄になっている上野、甲斐、駿河に、北条軍、徳川軍が、連合して侵略してくることを恐れていました。尾張、美濃を手に入れても、駿河、甲斐、上野を取られたら、何にもならないのです。

 しかし、勝頼自身も、そのことを想定して、ある程度の程度は、事前に打っていました。駿河には、四千、兵が空っぽになっていた甲斐にも、新府城に、上野の兵、三千、上野にも五千の兵を配置していました。上野の守りでも、一番重要な美輪城に内藤  の子供である内藤    二千五百、沼田城に、真田の兵、千五百、同じく岩  にも、真田の兵、千を配置していました。これで、半年間、北条家の攻撃を凌ぐように命令していたのです。

 しかも、勝頼は、密かに、北条家に使者を使わして、和議も求めていました。以前の、同盟を密かに申し込んでいました。何とか、北条家が攻めてくるのを防ごうとしていたのです。

 でも徳川家康も、何とか、北条家を動かすことで必死でした。尾張、美濃で、武田家に遅れを取った以上、家康の残された手は、北条軍を動かすことでした。北条軍に、甲斐、上野を攻めさせ、その間に、自分も駿河か、尾張かを奪うつもりでした。その為に、北条家に、上野と甲斐、徳川は、駿河という条件をだしていました。それができない限り、武田軍に、両家は、このままでは滅ぼされると説得していて、北条家は、その言葉に動きました。このまま武田勝頼の思いのままにさせないという氏政の勝頼に対するライバル心、侮っている気持ちが、動かしたのです。

 

3、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第4章「甲斐・上野攻防戦」
   徳川家康の駿河侵攻

 また、73日、北条家の上野侵攻の翌日には、三河の徳川家康が、今度は、駿河に兵を向けたという報告も、甲斐から届きました。徳川家康と、北条氏政が示し合わせての軍事行動だということが判明したのです。それで、勝頼は、甲斐の兵六千と、美濃の兵4千、合計一万の兵を率いて、ただちに帰国する決断をしました。今、ここで、上野、駿河、甲斐を失う訳にはいきません。特に、甲斐は、最初の出陣の時に、全兵、六千を引き連れているので、守りは手薄です。

それは、上野から来た三千の兵を後に入れていますが、新府城はできたばかりで、まだまだ城としては不十分なところがあります。しかも新府城の守りは、勝頼の跡継ぎ、信勝に任せていますが、まだ戦の経験は豊富ではありません。敵が、甲斐に侵攻したら、新府城を焼いて、信濃にまで引いても構わないといっていますが、信勝が、それをするかは分かりません。

要害堅固の場所に建てた新府城が、無駄、無駄落ちるとは思いませんが、守る兵の数は、三千と手薄です。勝頼にしても、真田昌幸にしても、その事が分かっていたので、尾張、美濃に侵攻に成功したら、すぐに降伏して兵を、三千程度送る予定でいましたが、徳川家康との戦いの為に、そのゆとりがもてませんでした。やっと、三日前に、美濃の兵四千を、信濃の伊那のルートから送りましたが、間に合うかどうかは分かりません。

信濃の伊那から甲斐に入るには、急いでも六日はかかります。勝頼と真田昌幸にはしまったという気持ちがありました。北条は、どうせ、評定ばかりで、行動は起こさないだろうという勝頼、真田昌幸の油断があったのです。勝頼も、またライバルであった北条氏政を侮っていたのです。

しかし、その後の勝頼の行動は敏速でした。甲斐六千と尾張の兵四千の兵、合計一万で、すぐに少し危険ですが、三河、遠江の徳川領土のルートから、帰国を目指しました。岐阜城からなら、東海道のルートで急げば、六日で、駿河に到着します。信濃のルートよりも、遥かに早いのです。

しかも勝頼が、三河から侵攻したことを知れば、家康も迂闊には、甲斐には入れません。下手をして、駿河で勝頼と戦になったら、全滅する可能性もあります。そんな危険はしないだろうと思っていたのです。



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