縁の花村まぐまぐ情報  

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  縁の花村まぐまぐ情報 第74号 2007年 5月29日

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1、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第4章「甲斐・上野攻防戦」
   新府城の攻防戦

73日、家康は、駿河に侵攻しました。羽柴秀吉が、天王山の戦いで敗れた以上、柴田勝家が、来ても、もう、尾張、美濃を武田家から奪うことは至難の業です。家康は、柴田勝家の力量を良く知っています。織田信長の元で、織田家筆頭になった人物です。武将として有能なのは間違いないです。

しかし、明智光秀や武田勝頼に勝てるかと言ったら、それは別です。圧倒的な優勢な兵力があれば別ですが、今のような劣勢だと難しいです。それは、家康にはよく分かっていました。家康は、今までずっと勝頼と戦ってきて、勝頼の武将としての力量も、高く評価していました。たぶん、柴田勝家は負けるとよんでいたのです。

でも家康は、その間に、何としても駿河を奪う必要がありました。駿河を奪わなければ、北条家との連絡が取れません。取れなかったら、今後、尾張まで手に入れた武田家とは、とても戦えません。自然に降伏するしか、道は残されていません。それで、柴田勝家が、近江に侵攻するという極秘情報を、北条家に伝えました。明智、武田と戦っている間に、上野、甲斐を手にいれるように唆したのです。

でも武田家を本気で怒らせることを恐れる北条氏政は、上野侵略には同意しても、甲斐侵攻は、まだ納得していませんでした。武田家の本国、甲斐に侵攻したとなれば、勝頼も激怒します。後々、再び、武田家と、和議を結ぶこともできなくなります。甲斐侵攻は、今はまだしないという返事が来ていました。家康の目論見、北条と武田が、甲斐、信濃と争っている間に、駿河を手にいれ、北条が、上野、甲斐を手に入れられるように、協力するという戦略は狂っていたのです。

だけど、家康は、諦めませんでした。何としても、駿河を奪う必要があったのです。でも、手薄なはずの駿河でも、本能寺の変の前とはまったく違った、以前の強力な武田軍がそこにはいました。田中城や、清水城を攻めてみて、家康は痛感しました。本能寺の変以降の武田軍の勝利は、もうすでに駿河の武田軍にも伝わっています。江尻城を守っている、自分に内応していた穴山信君も、もうそんな事はないかという感じで知らんぷりです。1万の兵で、田中城、江尻城を落とそうとしても、1ヶ月や、2ヶ月は必要な感じでした。城攻めが苦手な家康は、すぐに見切りをつけました。駿河を手にするのも容易ではないと思ったのです。

しかし、そんな家康にも、一つだけ落とせる可能性のある城がありました。それが、本来なら、甲斐にはないはずの新府城でした。新府城は、今まで、勝頼の父親である信玄が、「人は城、人は石垣、人は堀・・・・」と言って甲斐国内では、城を造らなかったのに、勝頼が、信長の侵攻を覚悟して、大急ぎで作らせた城です。要害堅固な場所にありますが、大急ぎで造っているので。まだまだ未完成な城の可能性があります。

しかも間者の報告だと、城兵の大半は、上野の兵三千で、甲斐の兵は、すべて勝頼の遠征に参加していないということでした。新府城の規模にしては手薄です。その上に、城主は、勝頼の息子、信勝ということでした。これなら落ちる可能性がある。うまくすれば、徳川軍が来たということだけで、信勝は、新府城を放棄する可能性もある。徳川家康は、そう思うと、冒険ですが、甲斐国内に入る決断をしました。新府城を落としたら、抵抗している駿河の兵も、意気消沈して、士気が落ちることを期待したのです。

 

2、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第4章「甲斐・上野攻防戦」
   新府城の攻防戦 信勝の活躍と、家康の敗戦

家康が、甲斐に侵攻したのは、78日でした。1万の徳川全軍でした。3日と4日は、田中城、6日、江尻城を攻めてみて、意外と駿河の守りが堅いことに決断したのです。それで、710日、甲斐の北部にある新府城を攻めたのです。

でも、新府城も落ちませんでした。駿河の城を攻撃して、時間を費やしている内に、美濃の兵、四千は、到着していました。最初から、新府城を、北条の大軍と一緒に攻めていたら、わずか三千の守備兵しかいない新府城は、落ちた可能性がありますが、七千もいれば、別です。城主の留守を父から任された信勝も、たとえ、北条の大軍が来ても、新府城を守りぬく覚悟だったのです。

また、その士気の高さは、一日、攻めただけで、戦慣れしていた家康には分かりました。しかも間者の報告では、美濃の兵、四千が二日前に新府城に入ったというということです。もう一万で攻めても、落ちる城ではありません。その上に、激怒した勝頼が、三河から遠江に迫っているという報告も入っていました。家康は、すぐに新府城の攻撃を諦めました。尾張、美濃、駿河、甲斐とどこを攻めても、すぐに撤退ということで、家臣の信頼がなくなっていることは分かっていましたが、どうすることもできませんでした。時代の時流から外れるということは、運がないということがどういうことなのか、家康も痛感しました。本能寺の変の前の勝頼の気持ちが分かった気がしたのです。

こうして家康の新府城の攻撃は、わずか一日で終わり、信勝の名を上げる為に行われたのです。でも家康は、すぐれた武将でした。新府城の攻撃を諦めても、勝頼との決着は諦めませんでした。今なら、怒った武田勝頼よりと、同数の一万で、戦えます。甲斐国内で戦うことが不利なことは分かっていますが、万が一負けても、北条領に逃げ込むこともできます。今まで、不利と分かっていて、勝頼との戦いを避けたり、避けられたりしていましたが、ここで武将としてどうしても戦をしたかったのです。

それで、新府城の攻撃を諦めないふりをして勝頼を待ち、七月十五日、甲斐の八代で、戻ってきた、武田軍と戦ったのです。でも、その戦でも、家康は、勝てませんでした。三河の兵が強いと言っても、甲斐の兵の敵ではありませんでした。二日間、いくら戦っても、小競り合いでは負けてばかりだったのです。しかも家康が、いくら要請しても、北条家は、援軍は出そうとはしませんでした。上野でも、武田の守りは思ったよりも堅く、箕輪城さえ今だに落とせませんでした。武田の強さを痛感していたのです。

でも家康は、完全に負けませんでした。何とか、踏み止りました。武田の強さが分かっているので、正面からの野戦を避けていたことが大きかったです。だから家康は、新府城から信勝が五千の兵で、援軍が来ると分かると、これ以上の戦いの不利を悟って、撤退しました。五百名以上の死傷者を出しながらも、何とか、八代を離れて、北条領である相模に撤退することができたのです。

 

3、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
    第5章「天下平定」
     賤ヶ岳の戦い
 七月十五日と十六日の八代の合戦で、家康を破ったことは、勝頼にとって大きな自信になりました。長篠の戦以降、自分は、家康、信長に、武将として劣っているのではないかと内心思っていましたが、その不安は完全に消えました。これからは、織田、徳川の時代ではなく、武田の時代だと確信したのです。

 また、それは北条家も同じでした。家康の敗戦を知ると、北条家も、上野から撤退しました。勝頼の要請で、越中の佐々成政をけん制していた上杉景勝も、勝頼の依頼で、上野に入ろうとしていました。もう武田家と戦っても、無駄だということが分かりました。尾張、美濃を手に入れた武田家の強大さが、北条家から戦意を奪いました。武田と北条の和議が始まろうとしていたのです。

 でも、戦自体は、まだ終りませんでした。伊勢では、北畠信雄と名乗っていた信雄が、織田の名字を名乗ると、尾張の岐阜城に攻めて来ました。北条家の相模に逃げ込んだ家康も、相模、伊豆には留まらずに、すぐに箱根を越えると、駿河を突破して、遠江に逃げました。武田家と北条家の和解を恐れ、すぐに大急ぎで、北条軍、一万の援軍の力を借りて、本国に逃げるしかありませんでした。北条氏政も、徳川家康が、突然、領国に入ってきたのに、戸惑い、厄介払いをしたくて、駿河まで、一万の兵を貸してくれたのです。

 それに対して、勝頼も、慌てて、蒲原城に兵を送りましたが、一日遅れで間に合いませんでした。まさか、家康が、ここまで早く、逃げるとはさすがの勝頼も予想していなかったのです。改めて、家康の武将としての偉大さを知ったのです。しかも、その為に、勝頼は、すぐに再び、尾張に向かうことになりました。まだ、戦は終っていないのです。しかし余裕はありました。もう、北条家が、武田家に戦を仕掛けてくることはありません。安心して、伊勢の織田信雄、三河の家康を叩けるのです。

また、賤ヶ岳で、柴田勝家とにらみ合っている、明智軍と仁科盛信の率いる武田軍のいる戦場も、ずっとにらみ合いの状態で、どちらも一歩も動こうとはしませんでした。柴田勝家も、二倍ちかい明智軍、武田軍を見たら、さすがに慎重になったのです。でも、勝頼が、尾張に戻ると、一気に、明智軍、武田軍、有利になりました。勝頼は、弱い織田信雄を徹底的に攻めて、近江に出ようとしている織田信雄を叩きました。わずか一ヶ月間の間で、織田信雄を、津城まで追い詰め、降伏させてしまったのです。

こうなっては、さすがの柴田勝家も、もうどうすることもできませんでした。その上に、徳川家康までも、勝頼の説得で、武田勝頼に降伏しました。家康は、これ以上戦っても、見込みがないことを悟って、本領安堵を条件に、武田方についたのです。しかも、上杉軍の猛攻も、激しく、越中を守っている佐々成政も、苦戦しています。

それで、柴田勝家も、賤ヶ岳から撤退して、越前に戻り、ここで、何と織田信正に降伏しました。明智光秀や勝頼には、降伏することはできませんが、織田信長の五男織田信正に、越前、加賀を貰って頂けるならという条件で降伏したのです。智将の真田昌幸が考えた謀略が成功したのです。



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