縁の花村まぐまぐ情報  

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  縁の花村まぐまぐ情報 第75号 2007年 5月29日

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1、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
      第5章「天下平定」
      武田幕府誕生

武田幕府が、誕生したのは、安土会議の後、しばらくした九月九日でした。京都で、正式に行われました。菊の節句の日でした。明智光秀は、安土会議の後、勝頼に言ったように、必死で、昔、仕えていた足利義昭を説得しました。今、足利義昭が滞在している毛利家に頼んで、直接行って、長い間話し合いました。

その甲斐があって、とうとう足利義昭も、将軍の地位を、勝頼に譲ることに納得しました。明智光秀自身が、武田家と争う意思がないのですから仕方ありません。最終的には、明智光秀が、自分の領地、山城の国を割譲するとまでいったことが大きかったのです。

しかも武田勝頼は、そんな明智光秀に答える為にも、足利義昭が、将軍の地位を自分に正式に譲ってくれるのなら、中国の宋を建国した、趙匡胤の石刻遺訓で書いていた、「皇位を譲った柴氏一族を子々孫々に渡って面倒をみること」に習って、自分も、足利家の子孫の面倒をずっとみると約束しました。

それで将軍、足利義昭は、武田勝頼に、幕府を開く権利を、禅譲しました。今や、武田家の力は、織田信長が生きていた頃よりも、遥かに大きくなっています。東は、北条家、上杉家とは、同盟を結んでいます。織田信正や明智光秀も家臣として、仕えています。それに対抗できる家はありません。自分が今世話になっている毛利家も、武田家と和議を結びたがっています。もう足利義昭には、どうすることもできませんでした。

それに甲斐源氏として、由緒のある武田家は、足利家にも劣らない家柄です。その気になれば、実力で、将軍になって、幕府も開くことができます。明智光秀の言うとおり、ここで、戦国大名の一つとしてですが、由緒ある元将軍家の大名として栄えることを決めたのです。こうして、後、足利家は、武田幕府のもとで、山城一国の戦国大名としても、栄えることになるのです。


だから武田幕府は、天正1099日に正式に始まりました。京都で、天皇の前で、足利義昭や、公家、同盟国の、上杉家、北条家、毛利家、四国の長宗我部家なども参加している中で、盛大に行われました。京都にいる民も、参加して、その規模は、日本始まっていらいでした。新しい領地になった、但馬、播磨、摂津、河内、和泉、近江、越前、加賀、能登だけでなく、旧武田家の領土、甲斐、信濃、上野、駿河でも、3日間も祝いの祭りが行われたのです。

 

2、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
     第5章「天下平定」
       天下統一
武田田幕府が正式に決まったことで、天下統一は、急速に進みました。謙譲式に参加した毛利家、長宗我部家、北条家も、領土保全を条件に、臣下になりたいという申し込みもあったのです。しかし、武田勝頼は、後の世の中から戦をなくす為にも、毛利家や、長宗我部家、北条家が、今のような大藩であることを拒みました。上杉家には関しては、本能寺の変の前まで、同盟として戦ってきたので、越後と越中の一部で、五十万石を認めましたが、他の毛利家、長宗我部家、北条家とは、簡単に臣下に加えなかったのです。領土の半分から三分の一の割譲を求める厳しい条件を出したのです。

それで、戦になる事も心配されましたが、毛利家、長宗我部家、北条家には、戦う意志がありませんでした。今の武田家と戦っても、勝てないことは分かっていたのです。それで、交渉になりましたが、長宗我部家に関しては、明智光秀が担当しました。明智光秀は、本能寺の変が起きる前まで、長宗我部家との外交を担当していて、織田信長が、四国征伐を決めたことで、面目を潰されたことが、本能寺の変の理由の一つにもなっていました。

そのことをよく理解していた武田勝頼は、明智光秀に任せました。明智光秀は、長宗我部元親と粘り強く交渉して、土佐と阿波半国で、納得させました。長宗我部元親は、武田勝頼は、織田信長と違って、信頼できることは承知していて、それで了解したのです。

また、毛利家には、羽柴秀吉が担当しました。羽柴秀吉も、必死に説得して、毛利家に、長門、周防、石見の三カ国の大名として生きることを説得させました。納得しないのなら、自分が、再び、今度は武田家の兵を借りて、攻めると脅し、毛利輝元も承知しました。信長と違って、その後は、勝頼は、過酷なことはしないという、秀吉の言葉を信じて、最後まで、戦う気力はなかったのです。

そしてその後、北条家は、なかなか勝頼の説得に応じようとしませんでしたが、九州征伐が行われて、島津家が降参して、薩摩、大隈二カ国に封じられると、北条家も、勝頼の妻、北条夫人の仲立ちで応じました。勝頼は、最初は、北条家に対して、伊豆、相模、二カ国だけにしようとしていましたが、北条夫人の為に、駿河の国も与えました。こうして、北条家も五十万石の大名として、栄えることができたのです。

また、北条家の後、奥州の伊達家なども、全部、武田家の臣下になる事を求めてきました。その時に前提になったのは、領地の半分割譲でした。奥州の伊達家などは、納得していませんでしたが、しぶしぶ従ったのです。

でも、そのことによって、日本では、明智家以外には、100万石の大名はありませんでした。勝頼は、山城を足利家に割譲した明智光秀に対して、因幡、若狭、西近江を与え、唯一100万石を超える大名にしましたが、他の大名には、気前良くは領地は与えなかったのです。

それで、武田幕府は、大きな権力を持ち、300年後、明治維新を迎えたのです。しかも明治維新も、足利家から謙譲したことは大きな経験になりました。天皇家に、政権を帰す、大政奉還もスムーズに行ったのです。

 

3、縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
    第5章「天下平定」
     武田政権
 武田勝頼は、武田幕府が開いた後2年後、天下が統一すると、すぐに信勝に、征夷大将軍の職を譲ると、大御所になりました。大御所として、まだ若い信勝を見守ったのです。

 また武田幕府の誕生は、多くの武田家臣にも繁栄を約束しました。この中でも、最大の禄があったのは、真田昌幸でした。上野一国、五十万石を与えられて、譜代の家臣として、その後、武田幕府を支えました。真田家は、名君が多く、大きな力になりました。真田家は、その智謀を天下に生かすことができたのです。

 でも、それは真田家だけではありませんでした。武田勝頼は、今まで仕えてくれた家臣に対しては、心から感謝していました。。恩に報いる為にも、大きな領土は与えませんでしたが、たくさんの家臣に、1万石から2万石を与え、譜代の大名にしたり、千石以上を与えて、旗本として登用したりしたのです。

 しかも勝頼は、長篠の戦でなくなったものたちのことも忘れませんでした。信玄の重臣として活躍し、長篠の戦でも自分を諌めながらも、戦になったら、必死で戦ってくれた家臣の子孫には、大きな領土を与えました。特に山県、馬場、内藤と、生き残った高坂の、武田四重臣には、高坂の15万石から始まって、山県、馬場、内藤にも、12万石が与えられたのです。だから、後々まで、武田家の四家臣といわれるようになったのです。

 こうして武田政権は、家臣に恵まれて繁栄しました。しかも一族でも、紀州一国を与えられた仁科盛信は別格しても、穴山氏、木曽氏、小山田氏も、それぞれ、10万石の領地をもらえました。武田家の一族、家臣は、長い間、一族を繁栄させることができたのです。

 また、勝頼は、幕府を実権は、譜代の家臣にしか与えませんでした。明智光秀や上杉家、毛利家、北条家には、外様の大名として、領地の安堵を保障して、取り潰しは、しないようにしましたが、政権には入れなくしたのです。ですから、後々まで、武田政権は続くことになったのです。

 それと政治でも、武田幕府は、鎖国の政策はとりませんでした。オランダ以外のヨーロッパ諸国との貿易は続けたのです。ですから、日本の国民は、豊かになりました。信玄公以来の民を大切にする政治をしたのです。

 そして最後に、勝頼の妹、松姫は、織田信忠の死を知ると、尼になっていましたが、織田信忠の長男がいることを知ると、その子を育てていました。勝頼は、そんな妹の好きなようにさせていましたが、やがて松は、○○するようになりました。一番、武田家では長生きして、多くの御霊の供養してくれたのです。また、それは、仁科盛信の娘、小督も同じでした。小督も、仁科盛信から愛されて、この時代には珍しく自分の好きな人と結婚し、幸せになれました。小督は、ある男性と結婚して、ずっと姫様として、長生きして幸せに暮らしたのです。

 おわり


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