第三次接近遭遇
見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、
彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。
また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。
しかり、アァメン。
今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、
全能者にして主なる神が仰せになる、
ヨハネの黙示録 1章
神の御使いの天使は、雲に乗って現れた。
そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。
またそのとき、地のすべての民族は嘆き、
そして力と大いなる栄光を持って人の子が天の雲に乗ってくるのを、
人々は見るであろう。
聖書 マタイによる福音書 24章
また、イエスも「人の子が天の雲に乗って来る」と再臨を預言したのだ。この雲とは、何であろうか。
わたしが見ていると、
見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、
その周囲には輝きがあり、
たえず火を吹き出していた。
その火の中に青銅のように輝くものがあった。
聖書 エゼキエル書 1章
その周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出し、その火の中に青銅のように輝くものがある雲とは、何であろうか。それは、雲などではない。雲でカムフラージュした何かだ。現代でも、雲で覆われたUFOが、目撃されることがあるが、これは、UFOではないであろうか。そう、輝き、火とは、UFOのライトであり、青銅のように輝くものとは、UFOの機体である。
ヨハネもエゼキエルも、UFOを目撃したのである。ヨハネは、UFOを目撃しただけではなかった。その乗員からテレパシーを受けたようである。
「わたしはアルパであり、オメガである」。
あなたがたの兄弟であり、
共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、
わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、
パトモスという島にいた。
ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。
そして、わたしのうしろの方で、
ラッパのような大きな声がするのを聞いた。
ヨハネの黙示録 1章
御霊に感じたとは、テレパシー意外の何ものでもない。さらに、ヨハネはそのUFOの乗員を目撃したのだ。
そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。
ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。
それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、
胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、
目は燃える炎のようであった。
その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、
声は大水のとどろきのようであった。
その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、
顔は、強く照り輝く太陽のようであった。
わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。
ヨハネの黙示録 1章
確かにこの天使の姿は、宇宙人と類似性はある、しかし宇宙人には、雪のように白い羊毛のような髪の毛もないし、彼らの口からは両刃の剣など出てはいない。また、宇宙人の顔は照り輝く太陽のようではない。これはいったいどうしたことであろうか。
もちろんあまり正確に彼らの姿を描いてしまうと簡単に彼らの正体がばれてしまうこともあるが、それだけではないように思われる。預言は、象徴技法で書かれたのだ。この姿にも深い意味が込められていたのだ。羊とはキリスト教において重要な意味を持つ動物ではないか。イエスたち天使は、よき羊飼いとして羊、人類を導いてきたのではなかったのか。雪のように白い羊毛のような髪の毛とは、このことを暗示していたのだ。また口から出ているもろ刃の剣とは何であろうか。天使は、口、言葉で戦う。人間を介した天使と悪魔のこの戦いが、武力による戦いではなく、言葉による諜報戦であることを暗示しているのであろう。照り輝く太陽のような顔とは、なんであろうか。
月が、夜、闇、暗黒の王であるように、太陽は、昼、光、光の王である。預言では、悪魔的未来人を月に、天使的未来人を太陽に譬えることが多い。
あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。
わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。
テサロニケ人への第一の手紙 5章
では、燃える炎のような目、火で精練された光輝くしんちゅうのような足とは何を意味しているのであろうか。当然のことであるが炎、火とは、核戦争を暗示している。彼らがあの不要人類抹殺計画による核の炎をくぐり抜けたことを意味していたのだ。彼らは、核の火をくぐり抜け、決してさびない金に精練されたのである。決してさびて朽ちることのない永遠の生命を手に入れたのである。しかし天使の足は、永遠の生命を表わす金ではなく、さびて朽ち果てるしんちゅうであるのはどういうわけであろうか。
それはイエスの次の言葉に対応しているようである。
もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。
両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。
〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕
もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい、
中略
もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜きだしなさい。
両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
聖書 マルコによる福音書 9章
この終末、大艱難が起こった場合、天使的未来人はUFOによる空中携挙で天使を受け入れた人々を救済する計画を立てているのだが、イエスのこの言葉は、その空中携挙の心がまえを言っているのである。もし手が、足が、目が、、体の一部が罪を犯させるのであれば、それを切り捨てて天に上って神の国に入りなさい。もしあなたの体の一部でもある愛する者が聞き従わず罪を犯させるのであれば、そんなものは切り捨てて天に上って神の国に入りなさいという意味である。彼ら天使は未来から来た者もいるが、前の時間の世界で自分の体の一部である愛する者を切り捨てて天に上った者も多いのである。天使の足が永遠の生命を表わす金ではなくしんちゅうであったのは彼らのこの苦悩を象徴していたのだ。
すると、彼は右手をわたしの上において言った、
「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、
また、生きている者である。わたしは死んだことがあるが、
見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。
そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ころうとすることを、書きとめなさい。
あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。
すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。
ヨハネの黙示録 1章
「わたしは初めであり、終りであり」とは、それ以前に出た「わたしはアルパであり、オメガである」と同じ意味であるが、わたしは、タイムマシンで世の初めにも、終わりにも行ける。時間を自由に行き来できることを暗示しているのである。しかし、それだけではないような気もする。ヨハネの福音書の次の言葉と対応しているような気もするのだ。
初めに言があった。言は主と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは。これによってできた。
できたもののうち、
一つとしてこれによらないものはなかった。
この言は命であった。
ヨハネによる福音書 1章
我々人間は、言葉で思考し、思考を具体化している。言葉イコール思考、思念と言っても過言ではない。
(この宇宙の)初めに言(に譬えられる思念)があった。
言は主と共にあった。言(に譬えられる思念)は神であった。
この言(に譬えられる)は初めに神(の霊)と共にあった。
すべてのものは。これによってできた。
できたもののうち、
一つとしてこれによらないものはなかった。
この言は命(そのもの)であった。
この宇宙の初めには、思念を有した神の霊のみが存在したと言う意味である。そして、その神の霊は、その思念でこの宇宙を創造したのである。その思念体、霊を刻んで万物を創造したのである。ゆえに、我々の生命とは、初めであり終わりである神の生命自体なのである。天使も我々と同じ神の子であると宣言している気もするのだ。
彼らは、タイムマシンを完成することにより時の支配者になったのだ。それだけではない、彼らはバイオテクノロジーにより生命の謎を解き明かし、永遠の生命を得たのである。
すると、彼は右手をわたしの上において言った、
「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、
(タイムマシーンでいかなる時代にも行き来できる。)
また、生きている者である。わたしは死んだことがあるが、
見よ、(バイオテクノロジーのお陰で)世々限りなく生きている者である。
そして、(生命の秘密を解明し)死と黄泉とのかぎを持っている。
そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ころうとすることを、
書きとめなさい。
あなたがわたしの右手に見た七つの星と、
七つの金の燭台との奥義は、こうである。
すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、
七つの燭台は七つの教会である。