五月七日(金) 発信 nO四一 石黒大圓

Eメール ishiguro@a1.heysay.net

 

いつもありがとうございます。 連休はいかがお過ごしでしたか。 雨が多くて残念でした。 

私のパソコンのトラブルは、ウイルス感染によるものらしいです。(結局、感染ではなかったです) 四月三十日に全国いっせいに広がったものと聞きました。 せっかくのメールのグループ送信もしばらくお預けになります。 

 

先月末に日教組とは反対の立場で、日本の伝統と文化を大切に考えている大阪教育連盟の依頼で、「釜が崎と日本の課題」について話をさせていただきました。 今までのFAXを読み直し論点を整理して日本の課題としてまとめました。 

 

一つは亡き妻子に対する思いから、野宿者支援と拉致被害者救済とが私の中で結びついていること。 これは時々書きましたが、この思いが政治的発言へとエスカレートして行ったのです。

  

二つは支援活動はクリスチャンの専売特許ではないということ。 日本と大阪の名誉のため祖国と郷土を愛する愛国者と、そして「仏教者」が担わなくてはいけない。 

我が家の宗教、日蓮宗の開祖日蓮上人は「われ日本の柱とならん」と言われた。 自分が日本を背負っていると見なす凛とした気概をもつ。 また宮沢賢治は「世界全体が幸せにならないうちは、個人の幸せなどない」と言った。 

この言葉と、有名な「アメニモマケズ・・」の遺文は法華経の真髄をあらわしている。 熱烈な法華経信者としての彼の面目躍如である。 この活動はこの世に理想の仏国土を築く一里塚です。

 

三つアフリカ難民でさえ日本の野宿者の実情をビデオで見て、豊かな大国日本そして日本人を非難する。 そのような不名誉な国におとしめさせないためにも、心ある日本人は立ち上がらなければならないと思う。 

貧しい人がいても助けない社会人のために損をするなど、経済に反することはしたくない社会、おのれのことしか眼中にない社会に陥ってはいけないのではないか。

大阪の路上で苦しむ同胞に、礼儀と誠の心をもって尽くす姿を見て、外国の人々は日本には今も武士道と日本精神が生きていると感じ、尊敬のまなざしを向けると思うのです。 

それこそ真の国家安全保障になると信じます。 私の考えは甘いでしょうか。

 

四つは野宿者救済が「被抑圧民救済」になっているということ。 大東亜戦争(太平洋戦争)の目的の一つが、欧米列強の支配下にあったアジア諸国の被抑圧民解放であった。 日本は差別されている有色民族や被抑圧民の解放をする歴史的使命を今も持っていると思う。 

聖徳太子や光明皇后の「貧しく小さくされた人々」への慈悲のまなざし。 これこそ日本の伝統だ。 社会の底辺にいる人々に手に差し伸べる使命を自覚すべきと思うのですが、いかがでしょうか。 

 

「肩いからせて何、大げさなこと言うてんねん」と思われるかもしれません。 しかし私はこの信念があったからこそ今も支援活動を続けていると改めて発見したのです。

 

 そしてこのことからも、アメリカやフセイン残党テロ組織の抑圧からイラクの人々を救う役割を自衛隊に担ってほしいと思います。 早くイラクが国連の統治下での復興に移行し、親日的なイラクに国連軍の一員として、もっと自衛隊を派遣して支援を強化すべきと思う。

 アラブの国々が親日的なのは何故か。 日露戦争だった。 有色人種として初めて白色人種に勝って、再び大東亜戦争で西欧列強に対して一国で戦いを挑んだ。 

神風特別特攻隊もテロリストたちにとっては誇るべき存在だったのだろう。 自爆テロは神風から学んでいる。 

神風特攻隊と同様に、彼らも自分のいのちを超える「公」のいのちのために進んで自分のいのちを捧げている。 特攻隊の若者も自爆テロの若者も強制されてではなく、喜んで「大義」にいのちを捧げている。 

 

彼らは自分がいのちをなげうって守ろうとした「国」「正義」「家族」・・の行く末をいま空の上から見守ってくれている。 だから「平和」を叫ぶのだ、と言う人がいる。 しかしそう言う人々はただ自分のささやかな家庭を守りたいだけ。 面倒に巻き込まれたくない小市民でしかない。 

いのちを投げ出して自分の「いのちの価値を超えるもの」を守ろうとした彼らとは本質的に問題意識がちがう。                    

いのちは地球より重い」それは認める。 しかし自分のいのち以上の存在もこの世にあると認識できるのは人間だけだ。 そこから宗教も芸術、文化も生まれてきている。 自分の一個のいのちだけに執着するのは動物と変わらない。

 

公」の理想を考えず、ただ「私」だけに関心を持つようになったのが現代の日本人だ。 「公」のために働き奉仕する。 そして皆から喜んでもらって、じぶんが人の役に立っていることがうれしい。 それが人間の本能ではないだろうか。 

自分を度外視して考えることをしなくなったのは日本の悲劇だ。

線路に落ちた見ず知らずの人を助けようとして飛び込み、いのちを落とした二人の日本人と韓国人がいた。 韓国では彼は英雄になり、日本人の方はもう誰にも知られなくなってしまった。

日本人に、この自分という存在を超えるものがある。 自分のいのちに代えてでも守るべきものがある、という感覚がなくなってしまっている。  

  

戦後の人権、平和教育で、自分の「いのち」が何よりも代えがたいという「いのち」の一面のみが強調されてきて、みな「自己チュー」動物になってしまっている。 社会の中での個人の権利ばかりが主張され、自らの責任や義務が忘れられている。 

路上に寝ざるを得ない野宿者に冷たいまなざしを向け、無視して横を通り過ぎる人々。 これが戦後教育のなれの果てだ。

私の「いのちと出会う会」はそんなちっぽけな「いのちを大切にしましょう」というような会にはしたくない。 「わたしに何かしてください」ではなく「私に何か出来ることはありませんか」と動かざるを得ない気持ちになってもらうために行なっているのだと思うようになって来ました。     

 

「私」より「公」が大事だと思わせるのは、戦前教育の復活だと考える人はそう思えばいい。 しかし私」の氾濫はきっとこの日本社会を世界から笑い者の国にしてしまうと思う。

 高級ブランドバッグを持ち、髪を茶髪にしてしか自分をアピールできない日本人。 中身のなさを外面を飾って「個性だ」「オンリーワン」だと誇っている。

マレーシアのマハティール氏は、昔は「ルック・イースト・日本精神に学べ」と言っていた。 しかし今は「茶髪の人間が国じゅうに満ちあふれるままにしている堕落した精神の日本には学ぶな」と反面教師扱いしている。

 

自分は自分の力で生きている。 世間は自分とは関係ない。 他人の世話で生きている、とは思わない。 給食のとき「手を合わせる」のは宗教行事だから止めさせろ。 給食代は払っているのだから「いただきます」などと強制的に言わせるな、と訴える戦後教育を受けたPTAの親。 

自分がいかに多くの人々や動植物の命のおかげで生かさせてもらっているか、を戦後、学校でも家庭でも教えられていない。 戦前は自分を主張することができなかった、だから今、君たちは自我、個性を主張せよと教えられてきた。 戦前否定の教育の上に、エゴの教育がまかり通っている。 

  

『なにごとがおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙あふるる』 西行法師

日本人は眼に見えないものの実在を信じ、常に感謝の気持ちで生きてきた。 「世間様のおかげで生かさせてもらっている」「いつもおてんと様が見てござる」というのが日本人の神学だ。

  その神学に反する言動をしたのが「人質」になった三人とその家族だった。 日本人の誰も彼らの尊い活動を否定していない。 ただ最初に「世間の皆様にご心配、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」の一言があれば。 そして心配してくれた世間への感謝、また救出に関わってくれた人々への感謝の言葉を述べる儀式があれば。 あんな騒動は起こらなかった。 

ただ自分たちの行動の正当性を主張し、感謝や謙虚な気持ちを表さなかったために人々の怒りに火を注いだのだ。 戦後教育の見本が白昼のもとにさらけだされた。

  

彼らのように政治活動に利用され、また政治や行政に訴えて物事を解決しようという考え方は民主主権の本来のあり方とは違う。 一人ででも祖国を自らの力で立派な国にしよう、我々が祖国のために何が出来るのかと問いかけながら、日々汗を流して実践することが一番大事と思う。

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