五月二十四日(月) 発信 nO四六 石黒大圓

5410056大阪市中央区久太郎町三―四―十八

(пZ六―六二五一―一四九六 一四九七)

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いつもありがとうございます。 台風がそれて良かったです。 「いのちと出会う会」には大雨のなか二十人ちかい方々が参加。 話題提供者、笹岡さんの壮絶人生に皆かたずを飲んで聞いていただきました。 

彼女の人生のあちこちに彼女を励まし見守る人々が配置され、彼女をつぶさぬようにしてくれていた。 彼女のガッツもさることながらその人々の絶妙なコンビネーションが彼女を支えてくれていたと見えました。 

これをサムシング・グレート(見えざる力)の加護ととるか、自分の努力の結果ととるか、でこれからの人生が変わると思いました。 自分にこのような試練を自分自身が与え、前世でこのような人生設計をして生まれてきた、と考えるのが私の立場です。 五月三十日の飯田史彦さんの講演はこの立場から、人生での「生きがいの創造」を語られます。

 

また先日ありました中野裕弓さんの講演では「三つの宇宙の法則」が語られました。

 偶然はない(すべてを前世で自分が人生設計してきたから。 すべてが予定通り、必然として来る) 

 世の中は絶妙なタイミングで動いている(もしも、の世界はない。 自分が見たい世界を見、経験したいものに適切な時に会うように自己設計しているから)

 宇宙は私をつぶさない(常に何かが私を支えてくれている) 飯田さんも中野さんも同じところに立っておられます。 

 

「会」のあと「文化創造倶楽部」参加者と「街山荘」で合同の二次会。 大宴会となりました。   

ところで通信に書きたいことは一杯あってメモや下書きもたくさん残っています。 しかし今回はなか休み。 我が家の二匹の猫のことから書いていきます。

 

通信が最近に始まった方のために改めて書かせていただきますが、二匹とも野良猫が天井裏で産んだ子。 両親が住んでいたこのビルに引っ越して来て、お寺さんの月参りがここへ変更になって初めて来られたその日。 それもお盆に、幼い二匹が天井裏から別々に落ちて来ました。 

これは妻子が戻ってきてくれたと信じ、二人の名を付けました。 黒いのがメスで妻の名「佐知子、さっちゃん」、黒白のハクビシンのような顔のオスは次男「邦之、クー君」と命名。

今週そのメス猫の体調が悪いらしく部屋のすみの涼しいところでじっとしている。 ダニ用の点滴液を二匹の首の皮膚の所に垂らした。 それを舐めてに当たったようなのです。 自分のは舐められないので、オスの首を舐めたのだろう。 

二人は仲が良い。 姉弟ということがわかっていたのだろう。 いつも一緒にくっついて暮らしている。 メスは頭がいいし、やさしい。 オスが私に怒られて小さくなっていると、飛んでいって体で覆って守ってやり体を舐めている。 「怖くないんだよ」と言っているよう。 まるで母親のようだ。 

私がメスの体を撫でてやっていると、オスがいつも飛んできて「僕も!」と体をすり寄せて来る。 そうするとメスはすぐに遠慮して交代してあげる。 そのいじらしさ。 かわいさ。 

そのメスの佐知子の元気がない。 時々姿が見えない。 長いすの下の暗い涼しいところでじーっとしている。 台所の天井近くの高い、風通しの良いところに隠れている。 こんなことは今までになかったので心配した。 

猫は人の目にふれない所で死ぬと聞いていたので、死ぬのかと思った。 ペットが死んで「ペット・ロス症候群」というウツ症状になる人がいると聞く。 十五年は一緒に暮らせると思っていたのに、覚悟した。  

私は打たれ強くなって、いまでは人生決まった道を歩んでいると考えるようになって、おかげで執着の気持ちを手放すことができます。 魂の底では人生は必然で動いていると知っていても、私の意識はそうはとらない。 

自分の意志でよりよき道を歩もうとする。 目前の二股の道のどちらを取るかと迷ったとき、右の道を選んだのは自分の意思と思う。 しかしそれもすでに前世で決めて来たことだ。 

今の生活、そして事件、事故、病気も死も、すべて自分が人生の適切な時こころの修行のために配置してきた。 つらい事もたのしい事、どんなことも起こるべくして起こると考えたら、すべてが受け入れられる。 

私は神仏の手の上で転がされていると思っています。 孫悟空が宇宙の果てまで飛んでいってもなお釈迦さまの手の上だった、という話と同じです。 このような真理を日本仏教は広く教えない。 

 

政治、経済、体制が変われば人間は幸せになれる、と体制批判に走る宗教者がいる。 戦争、災害、障害、貧困・・さえなければ人は幸せになれると考えがちだ。 それで宗教は本当に人を救えるのだろうか。 

豊かになれば、皆が健康、幸せでいれば、それで人間はいいのだろうか?  それなら天国を求めれば、そして楽な人生があればいいのだろうか?  

現世利益の新興宗教は苦しみから逃れ、楽を与える。 そんなもの本当の宗教ではない。 そんな極楽人生を出現させるのが目的なら、宗教はいらない。  

げんに豊かな日本でますます人々はこころ病んでいる。 そして宗教はその目的を果たせないないままだ。 どこか日本仏教の考え方がおかしいからだ。

 

そんな楽な人生だけで満足できるように人間が創造されているとは思わない。 苦しい試練を乗り越えることによって人間が成長できるように、遺伝子が組み込まれているのだと思う。 苦しみに耐える人々の横に寄り添って、一緒に涙を流しながら教え、導くのが宗教者の務めだ。    

その試練を否定して、困難な問題を排除しようとする人道的な活動が決して宗教の目的ではない。 反戦平和を唱えることも大事かもしれない。しかし今げんに戦っている人々を非難し、その家族を犯罪者の片割れのように見なすのはおかしい。 

戦わざるを得ない人々のこころの苦しみを受け入れ励まし、こころの救いを示す。 家族には他の日本国民に代わり、いのちを捧げようとしている夫、父、兄のために一緒に祈る。 宗教者の務めは試練の中にある人の横でともに無事を祈り、たましいの救いを神仏に願うことではないだろうか。  

 

内村鑑三師は反戦から一転、すでに開戦した限りは「他の日本人民のため、その犠牲となる崇高な使命のもと、よく戦え。そして兵士の家族とともにその痛みを分かち合え」と言われた。 

いま宗教者は批判という楽な方法に向かい、苦しみを分かち合う実践から逃避している。 自らの苦行を回避していると思う。

苦しみの元になっている政府や体制を批判する。 そのことは全てがお釈迦さまの手の上で味あわされている苦痛に対して、お釈迦さまに抗議することになるのではないか。 人知を超える目的をもって神仏はこの世界を動かしていると私は思う。 人間知で良い悪いを判断してよいのか。 人間が神のようにこの世界を支配しようとしてきて、いま壁にぶつかっているのではないか。 

 

人間が一番尊いという人権思想が、神仏の計らいという「目に見えない計画」より上だと考えるようになった。 神をも恐れぬ人間を生み出している。 

科学によって神の領域まで侵す力をもった人間が神を殺して、自分が神の地位につこうとしている。 なんでも人間の力で解決できる。思い通りにできる。 

謙虚さ、畏敬の念がなくなり傲慢になっている。 いますべての分野で神仏から「このままでよいのか」との問いかけが始まっていると思う。 

(中休みの猫の話から、いつの間にかまた肩怒らせた話題になってしまいました。 続きは次回に。 猫は大丈夫です。 元気になりました)

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