七月二十日(火) 発信 nO六一 石黒大圓

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いつもありがとうございます。 先月末から大阪駅前炊き出しの横では、素人集団が天神祭りの「コンチキチン、コンチキチン」の鐘を鳴らし、道端で竜おどりを踊っている。 京都では同じく「コンチキチン」と祇園祭の山鉾巡行が行なわれた。 私は昔はあのきらびやかな祭りは古代朝鮮文化の輸入品という考えでいましたが、今は違います。 古代に多くの渡来朝鮮人がやってきて先進の文化を未開の日本に伝えた。 古代日本文化はなんでも古代朝鮮文化の模倣という考え方はおかしいと今では思います。 朝鮮民族文化優越思想がこの中にはある。 近代朝鮮は日本に虐げられたが古代は朝鮮の方が日本の先生で優秀だった、という考え方。 それが韓国、北朝鮮の両方にあり、左派もこの考えで日本を見下し、日本の文化の独自性を低く見たがっている。 

日本には誇るべき文化などない。 皆んな韓国、中国の模倣文化だと言いたげである。 そして自分に都合が悪い史実は隠そうとする。 三十年ほど付かず離れず古代史を見てきてそう思う。 近代史も古代史も反日教育の材料にされている。

古代の日本に来た人々、朝鮮人であろうと中国人であろうと、日本の地で生活し始めた人々はみんな日本人となる。 明確な国も国境もない時代に戦乱に追われ飢饉に追われやってきた人々に国籍などない。 彼らの文化がどれほど優秀であろうと日本で日本の色に染め替えられている。   

日本にそのように染め替えられる高い文化度などなかったと左派が判断するのは認識不足だ。 すべて今の感覚で古代も近代も判断していたら誤った価値観をもってしまう。 そのようにさせているのが左派のカビ臭くなったマルクス主義歴史観である。 日本への誇りを失わせようとしている現行の歴史教科書は彼らのよりどころとなっている。 彼らが反日洗脳の武器にしている、この教科書を変えないと子供たちは日本を蔑視し、日本は世界の笑いものになる。

先週のエミコ・シールさんの「いのちと出会う会」でのお話は感動ものでした。 今までで最高の一つでした。 詳しいことはまた後に。 二次会が深夜まであり帰ってみたら、ネコの佐知子が布団のうえにウンコをしてやがる。 私の部屋に入り込んで出られなくてしまって、もらしたのだろう。 外でオスの邦之がにゃーにゃー鳴いていると思ったらこのありさま。 いいことばかりは続かない。 何の因果か深夜に洗濯となる。 男やもめはこれからも奮闘しなくては。

(「そんなんもう再婚せなあかんで」とは言わないで下さい。 猫の妻子(姉弟)二人の家族だけで十分です。 体と心を鍛えれば百歳まで介護などいらなく出来るはずです。 しかしなにも長生きしたいと言っているのではありません。 人生に目的もなく長生きしても仕方がない。 

内村鑑三師は「自分が生きている間に世の中が少しでも良くなるように自分は貢献できたか。 私がこの世に残せる最大の遺産は私がいかに立派に誇れる人生を生きたかだ」とその著書「後世への最大遺物」に述べている。 そんな遺産が残せたら明日死んでも本望です。 私の才能では長生きしてもどれだけ残せるか疑問ですが)

「NHKラジオ深夜便・心の時代」で地獄のニューギニア戦線から生還された造形作家、三橋さんの話がありました。 部隊は全滅し四度も死線を乗り越えられた体験は想像を絶します。 その極限状況で多くの不思議体験をされている。   

私が米軍の至近爆弾で体が宙に飛ばされていた時、もう一人の自分が横でそれを見ていたと。 また重態で治療所で死にかけていた時、自分の父がすでに亡くなっている姿を見ている。 また父も死ぬ間際に「あの子はは死んではいない、今も生きている」と言っていたという。 父子が重態の時に互いに心と心はつながっていて相手のことを見ていたのだ。 不思議な体験だ。

(これは臨死体験でよく言われる分身体験です。 雪山で遭難した時もう一人の自分がそばにいて、言葉はなくとも励ましてくれ無事下山ができ生き延びられたという体験を聞いたことがある。 また映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」に登場したラインフォルト・メスナーという世界的に有名な登山家は、山からまっ逆さまに転落した時もう一人の自分が冷静にそれを見ていたという。 

以前「いのちと出会う会」の話題提供者になっていただいた渡辺さんは沖縄で「こんな馬鹿な戦争で殺されてたまるか」と脱走し海を漂っていたときに死にかけた。 そのとき目の前に現れたのは家の玄関だった。 魂が抜けて日本の自分の家まで帰っていたのだった。 戦死者の魂が戦死報告が来る前に家に帰っていたという話と同じ類です。 また日露戦争の激戦地二〇三高地でロシア兵を悩ませた白い日本兵の話があります。 撃ち殺しても撃ち殺しても死なず攻め上ってくる日本兵たちにロシア陣地はパニックに陥ったという。 白い軍服を着た日本兵などは存在しなかったのに。 亡くなった兵士の霊が白い姿でなおも攻め上っていったのだろう、とのうわさが立った。 勇ましくも哀れで悲しい逸話です。

 病院で「ご臨終です」といわれた病人が別の透明な体で病室の天井まで上がっていって死体となっている自分を見たという典型的な臨死体験はこれらの多くの報告から考えて本物と思う。

人は極限状況になって死にそうになった時、突然にもう一人の魂をいうべきものが体から抜け出すのだ。 私の次男がお通夜の晩に長男の体に入ったのもこの透明な生命体だったのだろう)

  三橋さんは高齢になってもニューギニアへの思い絶ち難く慰霊、鎮魂のため再び訪れられた。 そこで聞いたのは現地の人が旧日本兵の亡霊を見ると。 またそこの知事が言うのには「今の日本人は何を考えているのか。 まったく慰霊のことを忘れてしまっている。 国のためと思って亡くなった兵士たちの亡霊がでるのは当たり前だ」。 四十年ぶりの慰霊団など遅すぎるのだ。 知事はオランダからの独立闘争の勇士で、戦後二千人もの日本兵が家族を日本に残し残留し、独立戦争をともに戦ってくれ、千人もインドネシアのために命を捧げてくれたことに感謝している。 そして慰霊塔のための土地を提供してくれた。 

知事が言われた「日本人はなにか勘違いしている。 慰霊と戦争の罪悪とはまったく別のものだ。 また戦争が正当化されることはありえない。 しかしそれをごちゃごちゃにしてしまって、亡くなった方々に手を合わせることを忘れるようでは駄目ですよ。 今は昔のような日本人がどこかにいなくなったんじゃないですか。 しっかりお参りしてください」 また知事は日本統治時代の日本の教育を受けた方で非常に親日家であり、材木の輸出についても日本ならいくらでも売ってあげよう、他国は駄目だと言われる。 亡き英霊がインドネシアに残してくれた親日感情に日本人は感謝しなくてはならない。 

鎮魂は行動で示さなくてはならない。 いま戦争を知らない子供たちに戦争の姿を知らせ、自分の意見を持たさなければいけない。 それが亡くなった人々への唯一の鎮魂である。 私は近くの小学校などへ戦争の語り部として行っている。 「昔私が小学校で日露戦争の二〇三高地での体験を聞いた時教えられたのは 『塹壕のなかで一週間、食料の生のナス一本手に持ち顔も上げらなかった。 まわりは皆んな亡くなった。 ひどい目にあわされた。 兵士さんは勇ましいとか日本は強いとか、そんなもんじゃないんだよ』 その話を聞いたあと十年後に私が戦場に立つとは思わなかった。 あなたたちもうかうかしていたら、いつそんな目に会っているかわからない。 だからしっかり戦争がどういうものか自分の意見を持ちなさい。 特に女の子は母として一番つらい目に会うんだから。 しかし平和ボケの大人と違い、純真な若者たちは身近な人間関係を拡大した形で戦争をとらえ「侵略された時に単にLOVE&PEACEだけでよいのか」と問い直してくる。 『叩かれたら叩き返したらいいじゃなの』と無抵抗主義に対する反発もある。 暴力を受けた時、いじめられた時にどう対処したらいいのかという所から発想している。 「戦いが始まっても武力攻撃してはいけない。 お話し合いで解決できるんですよ」という教師がいるが、「先生そんなこと言っていたら戦場ではたちまち殺されてしまいますよ」と答えている。 きれい事では済まない。 実際に戦争を仕掛けられてきたら、占領されたら、そんなのんきなことでいいのか。 私は戦争反対だが、この危機の時代に過去の数百万戦死者の命の教訓を生かしてほしいと思う」

 

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