七月二十六日(月) 発信 nO六三 石黒大圓

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いつもありがとうございます。 前回に古代史の話をしたのでまた石黒のほら吹き古代史ワールドをご紹介させていただきます。 最近、法隆寺がやはり再建されていたとか、キトラ古墳に古代朝鮮の高句麗の影響がみられるとか、いろいろ発見が相次いでいます。 私の知識は浅く広くて深く突っ込まれると転倒するくらいのものです。 ご関心が起これば幸い。 あとはご自分でお調べてください。 読みが浅かったらあしからずご容赦ください。

  まずは聖徳太子について。 以前に聖徳太子は仏教の聖人ではなく、古代キリスト教・景教の信者だったのでは?という説を紹介しました。 後世の仏教の僧侶が太子を聖人に祭り上げたらしい。 この景教徒説はキリスト教の一派が唱えていますが昔からあった研究です。 私に時間がなくて詳しくは調べられていませんが。

  一方「聖徳太子はいなかった」という説も出てきています。 左派からも右派からも出ていて面白い展開になって来ている。 右派知識人の谷沢永一氏が新潮新書にこのタイトルで著書を出された。 それに対して右派の神道専門家から反論が出てバトルになりそうな気配。 聖徳太子は日本の精神史の根元にいる方。 これは日本のルーツ探しをして来た私にとっては興味津々です。

  左派は「聖徳太子はいなかった」という議論をすることで「日本にはたいした偉人はいなかった」とことごとく日本の名誉ある歴史を否定しようとする。 偉大だったのは権力に抵抗した下層人民の英雄で権力側に尊敬すべき英雄などいなかったと主張するのです。 

抑圧された人民が権力に抵抗してきた歴史が世界(日本)の歴史。 最終的に人民が権力を握り共産主義として勝利する、というマルクス主義歴史観がかって世界の思想界を支配した。 しかしこの考えは共産主義世界の非人間性が明るみになって世界から非難され、ベルリンの壁崩壊とともに共産主義思想は崩壊していった。 

しかしここ日本だけは社会党、共産党は衰退しているのに、日本歴史学会はいまだに共産主義歴史観が信奉され、それが日本の教科書に反映している。 だから「日本はひどい国」と教える日本の教科書を読む子は自国に対する誇りを失い「日本は恥ずべき国」と自国を蔑視し「おじいちゃんは戦争で人殺しをしてきた」と父祖を軽蔑するようになった。 極左過激派はこの日本の教科書と日教組の先生に洗脳されて、日本憎しと日本を破壊しようとゲバ棒を振り回していた。 

また攻撃的な通信になってハリネズミみたいになってしまいました。 本当は嫌なんです。 怒ってばかりでは「ええとこに生まれ変われないよ」と心の声が聞こえてきます。 しかし言わないことにはこの日本の将来は駄目になると思うので、やはり地獄へ落ちようともこの通信は続けます。 

古田武彦氏がかって「邪馬台国はなかった」という著書を書き、邪馬台国北九州説を唱えている。 邪馬台国のことが記されている中国の「魏志倭人伝」には「邪馬」と書かれている。 「邪馬台」と勝手に書き換え、しかもそれを「やまと」と読んで「大和」=「奈良」に邪馬台国があったと考える人が多い。 古田氏は「倭国」や、それを統一した「邪馬国」は一貫して北九州にあったと言う。 

隋の皇帝に「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す」と書いた国書を送り、皇帝を怒らせたという有名な話がある。 これを送ったのは「タリシホコ」という王であり、天子を名乗り、後宮には女性数百人がいたとある。 一般常識ではこれを送ったのは普通、聖徳太子とされているが、太子の名は「うまやどの皇子」という名で皇太子であり、王ではなく人物像が一致しない。 「タリシホコ」は北九州の王であり、有名な「倭の五王」も彼の前の北九州の王たちである。 

日本には先進の九州王朝があり、近畿にも、出雲にも、関東にも、東北にも別に王朝があった。 「日本」と称した「近畿王朝」が古くからの北九州の王朝を征服し「大和天皇王朝」となった。 それは奈良に都が作られる少し前のことだった。   

中国の史書にも「併合した」とある。 古事記や日本書紀の記事も九州王朝の歴史伝承を盗んで書いたもので、その記述は信用できない。 法隆寺やその中の仏像なども元は北九州にあったものを移築したもの。 北九州王朝の都は「大宰府」にあったという。 

私はけっしてこの古田説の信奉者ではないし、ダイジェストしか読んでいなくて詳しくはないので、不信感をもたれる方は直接、彼の四十冊はある著書のなかの一冊でもお読み下さい。 そしてここでも聖徳太子の影がうすいことがわかる。 太子は謎の人物である。 

  これに左派がいう「日本の古代の歴史は古代朝鮮各国からの渡来人が移民して開拓してきた歴史だ」という朝鮮人植民史観が加わると、何がなにやらわからなくなる。 私もかって「日本の中の朝鮮文化」という雑誌を講読していて関心がありました。 ある本に日本の古代の多くの人も神々も朝鮮半島から来たとあり、びっくりしてのめり込んだのが三十年前。 日本のルーツを求めていた頃でした。 

司馬遼太郎さん金達寿さんなどが執筆者のこの雑誌から多くの本が世にでました。 金さんも独自に「日本の中の朝鮮文化」という十冊余りの本のシリーズで日本各地にある古代朝鮮からきた文化遺跡や人、神々を訪ねる旅をしておられた。 「古代朝鮮文化の影響がある」とよく遺跡の説明にあるが、その文化をたずさえて朝鮮から人が来ていたというのが本当です。 彼も朝鮮人としてのルーツを求めておられたのでしょう。  

その当時多くの渡来人が戦乱の続く朝鮮から逃れ日本列島にやってきて豪族となり群雄割拠となっていた。 奈良の飛鳥にいた人々の八割ほどは朝鮮渡来の人々であったという。 「奈良」も朝鮮語で「くに」と言う意味。 いかに日本が朝鮮からの影響を受けていたかがわかる。

そして古代朝鮮の百済から来たといわれる蘇我氏が最後に事実上の「大王」として君臨した。。 戦国の世を治め徳川氏が将軍になった頃「天皇」は伝統的・宗教的な権威でしかなかったのと同じ。 しかし蘇我氏が権力を乱用し天皇を暗殺したり、聖徳太子やその子孫を抹殺したりする目に余る行動をした。 

そのため中大江皇子と中臣鎌足がクーデターを起こし蘇我氏を滅ぼした。 そして聖徳太子の理想を実現するため天皇の下での国家統一をはかり「大化の改新」という革命を行なったといわれる。 蘇我氏が滅んだ時に宮中にあった古代から伝わった日本と皇室の歴史書がすべて焼かれてしまったので、鎌足の子の藤原不比等が古事記・日本書紀を新たに作成したといわれる。

仏教を信奉していた蘇我氏とともに聖徳太子は、神道を信奉していた物部氏を打ち破って仏教という信仰によって日本を統一しようとした。 

この物部氏を滅ぼす戦いにのぞんで仏教の「四天王」に祈願し、戦勝が成就したため感謝して建てたのが大阪市天王寺区にある「四天王寺」といわれる。 私の今回の通信の本論はこの四天王寺だったのですが残念、時間ぎれ。 残りは次回に。

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