七月三十日(金) 発信 nO六四 石黒大圓

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いつもありがとうございます。 (前回の続き)

前から「何故四天王寺は仏教の寺なのに鳥居があるのか」がわからなかった。 知人が神奈備という神社を扱ったホームページから取ってくれたものが驚愕の内容だったのでお伝えします。

四天王寺 願成就宮(守屋祠)

祭神 物部守屋

『物部氏蘇我氏の崇仏論争は両氏の権力争いでもあった。 七世紀前半、物部氏は滅びるのである。三百年以上前の長髄彦(ナガスネヒコ)敗北に続く物部の東国落ちであり、物部の東国での歴史が二重になるのである。 

四天王寺は元々大阪城付近にあったともされており、その北側に元々の磐船(いわふね)神社ニギハヤヒの命の降臨地)があったとの事であるが、現在の四天王寺が伝えられている創建時の模様とほとんど変わりがないとの事で、初めからこの地に建立されたとも考えられる。

東端の絵堂の横に守屋祠が鎮座している。

願成就宮と呼んでいる。 聖徳太子の誓いによって物部氏の土地を没収し物部氏の部民を使役して四天王寺を建立したのであるが、これを守屋公の霊がお許しになった事、さらにお助けになった事で、無事四天王寺が出来た事を願いが成就できたとして、守屋公を祀ったと伝えられている。

聖徳太子創建の宝塚・中山寺(元は枚方・中山観音寺)にも同じ様な伝えが残っている。

  四天王寺西門に鳥居がある。 西方浄土(昔は四天王寺の西には海がひらけ、海に沈む夕日が見え、その様子が荘厳であり西方極楽浄土を連想させた)から俗界を経て聖域である四天王寺境内への結界を現すものとされているが、物部氏関係の神社地に四天王寺を建立したのかも知れない。 全ての寺院に鳥居があるわけではない。 生駒の長弓寺とイザナギ神社(パソコンにこの漢字がない。 日本の歴史伝承が葬られつつある気がした)のように、後世寺院の勢いが増し、神社が寺の鎮守(地主神)になっていった可能性もある。 長弓寺や四天王寺などは物部氏の神社跡かもしれない。

  この四天王寺の旧名は荒墓邑と言った。 山号は「荒陵山」である。 アラハカであり、謎の神アラハバキに通じる』 以上

 

知人へのお礼の手紙(今回加筆して大幅増)

四天王寺の鳥居の資料をありがとうございました。 面白いものがありました。 

神武天皇が南九州・日向から東征してきた時、土着の長髄彦と生駒山脈をはさんで戦闘が始まり神武は敗北した。 当時大阪平野は湖海になっていて、上町台地が半島のように突き出していた。 そしてその海の東端の海岸線になる生駒山脈の西側、枚岡神社あたりが激戦地になった。 (このあたりに「日下(くさか)」という地名があるが「日の本」と呼ばれ「日本」の語源になったといわれる) 

神武天皇は太陽信仰をもっていたので、東(太陽)に向かって戦っては負けると判断して、南に迂回して紀伊半島の南・熊野から再上陸して、北へ向かい大和で長髄彦と決戦して勝利した。 そして橿原神宮で日本の初代天皇として即位し、皇室と大和朝廷の始まりとなった。

神武天皇に敗れた長髄彦と兄の安日彦(アビヒコ・住吉区我孫子(あびこ)の語源らしい)が逃れていったところが東北で、そこでアラハバキ神を祭って信仰していたと、津軽の古文書にあります。 そして長髄彦の子孫は安部氏を名乗った。 天王寺の阿倍野はその先祖の名にちなむ。彼らはアイヌ族ではなかったかとも、銅鐸を祭っていた種族ではなかったかともいわれている。 

長髄彦は河内・大和を支配した大王であり、その巨大古墳が我が家の新墓がある富雄と旧墓のある大和郡山の間にある。 両墓にお参りする時その前をいつも車で通っていて気がつきました。 登美のナガスネ彦と呼ばれていたのでその古墳の前に登美神社として祭られています。 近鉄・富雄駅も学園前駅の周辺の登美が丘も彼の名に由来する。

神武より早く河内や大和の地に降臨したのが、ニギハヤヒ神磐船神社交野市私市)や奈良の三輪神社の祭神といわれる)です。 ニギハヤヒは土着の大王・長髄彦と婚姻関係を作り同盟して神武と戦ったが敗れた。 しかし神武と同じ天孫民族とわかり赦され、大和朝廷に仕えた。 その末裔が物部氏で神社を日本で創建した古い氏族です。 

のちに蘇我氏との戦いで守屋を殺された物部氏はナガスネ彦と同じように東に逃れ、一族は守屋氏として諏訪大社の神主になった。 諏訪神社は巨木を坂道をすべらせて運ぶ御柱祭りで有名です。 それ以外にこの神社の前宮でかって行なわれていた「御頭祭」という祭りがあり、それが旧約聖書の記述とそっくりの祭りなのです。  

旧約聖書にありますが、神に命じられてアブラハムが息子イサクを神に捧げ物として殺そうとした、まさにその時に神に止められ、神への信仰を試された。 そのシーンがすべて再現される祭りなのです。 前宮の祭紳は「ミシャクチ神」といい「misakuchi」と「イサク」の名がその中にある。 

聖書ではイサクの代わりに藪に引っ掛かって傷ついた雄羊が生贄に捧げられたが、ここでは耳が裂けた牡鹿が常に捧げられていた。 しかも前宮の背後の山が守矢とよばれ、イスラエルのエルサレム神殿があった山もモリヤ山なのです。 物部守屋そして守屋氏。 単なる偶然でしょうか。またここの由緒ある社家の屋根には十字架の家紋がある。 なにか謎めいている。

これが古代イスラエル人とユダヤ教が日本に来ていたという説の一つとみなされている。 また神社の神輿も、モーゼが神からもらった十戒が刻まれた石の入った契約の箱を担ぐ、古代イスラエルで行なわれていた神事とそっくりといわれる。 他にも古代日本文化と古代イスラエル文化の類似は何十とあるのですが、今回はこれだけをお知らせします。

物部氏は古代ユダヤの血を引く氏族で、彼らの創った日本神道そのものが旧約聖書をベースにしているのではないか。 古い日本の神社には神殿はなく拝殿だけで、信仰の対象は山や古木などで大自然のなかに存在する神を拝む。 偶像崇拝でない宗教は世界でユダヤ教、イスラム教そして日本神道だけです。 

前にも書きましたが聖徳太子は古代キリスト教・景教の信者であったと言われ、四天王寺がもともと仏教の寺として建立されたのか疑問です。 古代日本でキリスト教と神道がほとんど同じものなら、クリスチャンの聖徳太子が建てた四天王寺に鳥居があっても不思議ではない。 まして四天王寺の地にもともと物部氏の神社が建っていたならなおさらだ。 (仏教と神道が混交した神仏混合時代に寺に鳥居が建てられたという意見もありますが) また四天王寺を守るという神社が四天王寺のまわりに多くある。 守るのがなぜお寺でないのかも不思議です。 

私の家のそばに坐摩(いかすり)神社があります。この神社を神奈備のホームページで調べると面白いことが書かれていました。

坐摩神社 大阪市中央区久太郎町渡辺三号

『(略)坐摩神社の元の鎮座地は渡辺橋(中の島に架かる)の近くで新羅江と呼ばれた所である。 ここから久太郎町に遷座したのであるが、この久太郎とは百済の当て字であり、往古の浪速の地は朝鮮渡来人で一杯だったようだ(略)』

久宝も百済かもしれない。 坐摩神社は日本全国の渡辺氏の出生地であり、むかし上町台地が半島の形の時、その先端部に鎮座していた。 日本列島に渡来してきた人々がここにたどり着いて集落や祭りの社をつくったのだろう。 大阪の古地図には百済島や新羅島があり、心斎橋や西区の白髪橋は「新羅橋」だったらしい。

  また坐摩神社の元の鎮座地は、先程の磐船神社の鎮座地とも重なり、かなり古い歴史をもつ両社がなにか関係あるような気がする。 坐摩神社の鳥居は鳥居の左右に二つの小鳥居が付き「三つ鳥居」となっている。 奈良の三輪神社にも三つ鳥居があり、先日の京都の木島神社と同じで、上から見ると三角形となるように組んだ三つ鳥居もある。 聖書の三位一体ここにあり?(続)



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