八月十七日(火) 発信 nO六九 石黒大圓

Eメール ishiguro@a1.heysay.net

いつもありがとうございます。 皆様お盆はいかが過ごされたでしょうか。 お盆の支度はどのようにされましたか。 我が家では果物・野菜・お菓子・食事などを仏前に供えて、また盆提灯に火を灯し、お寺さんのお参りを待ちました。  

もっともこれらは妹たちがやってきて全部準備してくれたのですが。 野宿者用に今頃届いた男女の秋冬ものの未整理のダンボール。 カレーの炊き出しのリーダーからもらった米の袋の山などなど。 「あしがらさん」一歩手前になっていた部屋を片付けてくれました。 兄貴としては自分の仕事で精一杯で無精していました。

先祖や亡き人びとの戒名を書く経木(木を薄く削いだ塔婆)。 これだけは自分で書いて仏前に並べて供養してもらいました。 またキュウリに「おがら」で四足をつけてに見立て仏前に供え「これに乗って皆んな早く帰っておいで」と願いました。 またナスビにも足をつけてに見立て「帰りはこれに乗ってゆっくりして帰りよ」と念じました。 これらは妻からの引継ぎです。 

十三日にはおがらを焚き迎え火をしました。 亡き人々があの世から戻ってきてまた一緒にすごすのです。 十六日深夜には送り火をして「よう帰ってきてくれたな。 また来年会おうな」と送ります。 盆踊りも死者と一緒に踊って再会を楽しみ別れをいとおしむものです。 死者とはいつも共生しているという日本の良き伝統です。

前回の「憎しみに報いるに憎しみをもってなす」は蒋介石の「怨み(うらみ)に報いるに徳(恩)をもってなす」の言葉をまねたものです。 この言葉は今はほとんどの方がご存知ないようです。 戦後すぐに中国国民党政府・蒋介石総統によって発せられたこの言葉に、多くの日本人は深く感動し涙を流したのです。 日本軍が残した戦争の傷跡がまだなまなましい時に「日本人に対するうらみに対してうらみをもって報復するな。 それが我々中国人の仁義だ」と言ってくれたのです。

以下は文春新書「蒋介石」保阪正康著二三四ページからの引用です。

『(要約)昭和二十年八月十五日、降伏の意志をあらわす天皇の玉音放送が日本である一時間前(彼はそのことを事前に知っていた)蒋介石は中国国民と兵士に向かって声明を読み上げた。 

「同胞よ、中国には『人の旧悪を思わず』と『人に善を成す』という高い徳性がある。 われわれは一貫して、日本軍を好戦的な敵として考えて、日本人民は敵とせず、と主張してきた。 今日、われわれ連合国は共同してその日本軍閥を打倒した。 日本に投降条件を厳しく守ってもらわなければならない。 しかしわれわれは仇(かたき)に報復を加えてはならず、敵国の罪なき人民に侮辱を加えてもいけない。 彼らが日本軍閥によって愚弄され、あざむかれていたことに同情し、自ら誤りと罪悪から脱出するように反省すればいい。 もし今まで敵がわれわれに暴力を行なったからといって、それに暴力で報いたなら、さらに彼らが優越感でわれわれを辱めたように、われわれもまた彼らを辱めたならば、それは怨みを持って怨みに報いることになり、それは永久に続くことになる。 それはわれわれ仁義の士の目的とするところではない。・・・」

これが有名な「怨みに報いるに怨みをもってせず」の言である。 この言は中国に送られていた日本軍兵士や居留民の心を打った。 やがて日本に伝えられたときも心に響く言となったのである。 一九八〇年代に、私が取材したある陸軍省の将校は、この言を十五日の夜になって聞いたとき、人目につかぬよう涙をふいたとも告白していた』以上略。

戦乱のあと日本軍に対する憎しみが渦巻く中国で報復はするなと叫んだ蒋介石将軍。 何が彼をそう言わせたのか。 クリスチャンとしての彼に「汝の敵を愛せよ」の言葉が心の隅にあったからか? もっと現実的な目的があったからか? とにかくこの言葉があったために中国全土に百万人はいたであろう日本人将兵や居留民は全員大きな混乱もなく整然と帰国できた。 満州においてソ連のように日本人を急襲し惨殺し混乱の極におとしめ、満州残留孤児の悲劇をもたらしたようなことは中国本土では起きなかった。   

本心がどうであれ日本人はこの終戦時の大恩を故・蒋介石将軍に感謝すべきであり、このような考え方が平和を生みだすことを子々孫々まで語り継ぐべきである。 とくに親共産・反国民党・反戦平和の人はこの事実を肝に銘じてほしい。 

中国でのサッカー事件のような狂乱は蒋介石政権下ならば起きなかった。 中国共産党・江沢民の反日主義教育によって引き起こされた。 幼いころからの偏った教育の恐ろしさがよくわかる。 そのような教育を受けた中国の若者は日本を武力攻撃してもとは感じない。 一方反日教育された日本の若者は中国に侵略されても非は日本にあると考える。 ともに教育の恐ろしさである。 日本で朝日新聞以上に親中国・反台湾の拠点・日中友好協会(画家の平山郁夫氏会長)でも異例とも言える中国批判の声明が出された。 当の朝日が驚いているほどだ。 

一方ある書にはこのように書かれてある。

『満州事変は関東軍が始めた謀略戦争だったが、日中戦争は蒋介石が始めた日本袋叩きの国際的謀略戦争だった。 首都南京占領で年内に決着をつけるつもりだった日本を相手に、ソ連、英、米、フランスの支援を得つつ重慶に退き、日本の消耗を図って見事勝利に持ち込んだ。 これで蒋介石は日本けん制の目的(中国に手出しさせない)を達成した。

そして息継ぐひまもなく次なる目標、中国共産軍抹殺に取り組む。 日本軍に中共軍討伐を邪魔させないため、日本の敗北のさい自国軍民に「報復するな」と命じ、日本軍には、共産軍ではなく国民党軍に降伏せよと指示して共産軍に日本の武器が渡るのを避けた。 御用済みの日本軍民は早々に日本に送還して中共軍討伐に備えた。 

日本袋叩きから中共軍への切り替えを「以徳報怨(徳を以て怨みに報いる)」演説で表明した蒋介石の対応の見事さは感嘆に値する。米軍には負けたが中国軍には負けていないを考えていた日本人が、しみじみ「負けた」と思ったのは、この蒋介石の八月十五日、重慶からのラジオ放送が伝えた「寛大」な処置に由来する』以上

中国人の徳性の高さに負けたとするか、そう見せかけた戦略に負けたのか、判断は人それぞれがすればよい。 私は蒋介石の権謀術数というか知恵比べに日本は負けたと思います。 後に蒋介石政権は当然のように日本に膨大な賠償金を請求しようとしていたのです。 日本人を許しても、日本国の罪を許したわけではないのです。 

メール仲間のある教授から以下の示唆をいただきました。

『降伏したとはいうものの大陸には日本軍の大軍が存在していただけでなく、治安の維持を当面日本軍に頼らなければならない状況にあった。 さらに日本という共通の敵の存在によって可能であった国共合作(国民党と共産党との共同戦線)が崩壊し、中共が支配権を拡大しようとしていた。 日本軍が中共についたり国内で反乱したりしないで平穏に帰国してもらうための策が「怨みに報いるに徳を以ってする」だった。

蒋介石が最終的に賠償を放棄した理由

1、冷戦激化によるアメリカ対日占領政策の変化により、それまでの賠償取立て政策を放棄して日本をアメリカ圏にとどめるために同盟国にも賠償放棄を働きかけた。 すでに内戦で中共に敗れアメリカに安全保障を依存しなければならない蒋介石にとっては、その要請を断る選択はできなかった。

2、日本が大陸(特に満州)と台湾に残した資産は膨大なもので、蒋介石・国民党が要求しようとしていた賠償額を大きく上回るものであったため、賠償放棄しても損はなかった。(なお国民党が台湾に逃げてきてから接収した日本資産はすべて国民党の資産となったため国民党は現在でも世界でもっとも豊かな金持ち政党である)』

  戦後米・中の事情で日本がいかに幸運に恵まれていたか、その恩恵に感謝すべきと思います。 この恩恵は日本の行く末を案じつつ亡くなられた戦没者・英霊のおかげと信じます。

 

八月は「いのちと出会う会」も「カレーの炊き出し」も休みです。 毎週夜九時の大阪駅前南口の炊き出しと清掃は、カトリック関係者は夏休みですが有志だけで続けています。 どうぞ一度のぞきにおいで下さい。


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