いのちの風385号

十月十五日(金) 発信 nO八五 石黒大圓

今回のテーマ 大阪メチャハッピー祭

 

いつもありがとうございます。 日曜日に「大阪メチャハッピー祭」に行きました。 今年から

大阪城ホールという大きな会場に変わり雰囲気ががらりと変わっていました。 

背筋をすくっと立てて緩急自在に手足を動かす、その凛々しく躍動する若者たちの姿。 数千人の若武者の晴れ舞台だ。 1歳のヨチヨチ歩きの子から70歳の女性まで生き生きとして踊りを楽しんでいる。  

 

私が発信した踊り子募集のFAXで10人の人々が集まったのが、私と「祭」との関わりの最初でした。 そして私が最後に「祭」に関わったのは平成13年、「大阪メチャハッピー踊り子隊」の名前としては最後の舞台でした。 

「祭」事務局直属の「祭」宣伝部隊としての役を解かれ、1年後、独自運営の踊り子隊として踊りました。

  

壊滅状態の踊り子隊のメンバーに、新隊長としてFAXで檄をとばし立て直していきました。 そしてメチャハッピー祭のテーマ踊り「メチャハッピー大阪万歳」の歌詞にある「負けたらあかん、大阪の商売人、子どもたちに夢ある明日を、大阪の文化は日本一や」を大阪の街おこしとして人々に伝えていきました。 

廃れるつつある各地の商店街にも行きました。 また老人ホームや他府県のイベントにも参加して「私たちの踊りを見て、皆さん元気になってください」と呼びかけました。

  2年前に名前が「なにわ舞人」に変わった時点で新隊長に職を明け渡し、隊からも離れました。 それから大阪駅前の炊き出しや真冬の寝袋配布、そしてこの通信が本格化しました。 いい時期にすべてを手放してよかったと思っています。

 

 踊りのおかげで「オヤジ狩り」の後遺症で上へあがらなかった左腕も動くようになりました。 また生きていても死んでいた私が皆と一緒に、汗をかき体を動かして息をふきかえしました。 踊りのおかげで人生が変わりました。

  この効果は私だけのものではない。 生きる力を失いすさんだ心の子どもたちにも伝えたいと思う。 来年は子供たちや地域の大人が作っているチームに入って再び踊ろうと思っています。 

 

以下は4年前に「大阪メチャハッピー祭」の宣伝用に書いたチラシです。

 

『「いのちと出会い会」のような会を1つの発信基地として、皆が生きがいを持って生き生きと生きていく社会をどうやって作っていくか、を皆で考えて世間に広めて行きたいと考えています。

  「大阪メチャハッピー祭」は、大阪問屋街活性化協議会の関係で船場卸商店街の代表として参加しました。 昔、次男をなくした当初、子供を見るのは辛かった。 しかし今は、次男の分まで子供たち皆が元気で幸せになってほしいと願っています。 

しかし今大阪の青少年の補導が日本一とのこと。 悲しいことです。 これも大人が生きる力を示していないから。 大人の責任です。

  大阪の子供たちに夢と希望を、大人が見せてあげよう。 一緒に体を動かして、汗をかいて、元気になろうよ。 大人と子供が皆、力あわせ地域の人々と肩組み合って祭を作って行こう。 そして大阪の人、子どもたち、商売人も元気になろうやないか、と「踊り祭」は立ち上がりました。 

大阪の政、財、教育界の方々もこんな動きがほしかった。 ようやってくれはったと支援していただく方々が増えています。 金なし、人なしの中、皆、手弁当で日夜、準備して11月3日、第1回が開催できました。

  このような街おこしの運動が全国に波紋のように拡がり、子供たちや大人の目が輝き出せばすばらしい世の中になると信じています。 私もヘタや覚えが悪いとひやかされながら毎週踊りの練習に通っています。

  

この「祭」の元になったものに、「学び座」という映画があります。 北海道・稚内南中学が地域や父兄、先生方の協力と、ロック調にアレンジされたソーラン節の踊りで学校崩壊から更正した物語です。 

なかの一シーンで、主人公2人が海難事故で死んだ漁師の父親たちに声をかけながら、新しい「南中ソーラン節」を踊る場面がありました。 「お父ちゃんも海の底でソーランを踊っているだろうね」。 涙があふれました。 

古来、踊りは亡き人々への鎮魂の祈りでもありました。 私にとり、踊り参加は亡き妻子への鎮魂の意味があると、この映画で知りました。 そしてこの「南中ソーラン」は、全国民謡民舞大会で南中の生徒たちが踊り、優勝し、北海道の「YOSAKOIソーラン祭」に向かう全国の踊り子たちにとって、憧れの踊りとなっています。 

  

また最近TVで札幌の「YOSAKOIソーラン祭」(「大阪メチャハッピー祭」の原点になった)がガン闘病中の母を元気にしてやりたい、北海道で「よさこい」を見せてやりたいという一心で、ある北海道大学生が立ち上げたと聞きました。 

私と同じような苦しい看護の思いをした、たった1人の動きによって、9年で踊り子四万人、観光客250万人の祭に仕上がっていきました。 

  

この感動ある2つの話を聞く時、私がこの「踊り祭」に関わらせていただいたのは偶然ではなく、亡き2人の導きであったと思い感謝しています。 2人の鎮魂のためにも踊り祭を発展させ、そして同じ思いを持った方々とは「いのちと出会う会」で語り合って行きたいと思います。 

  そして、この2つの運動が全国に飛び火して活気あふれる世の中になっていくよう、2人に代わって支えていくつもりです。 このつたない文章で賛同いただけ、ご参集いただけましたら感謝にたえません』。

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