「菊」の日記  
          2007年6月号

                 
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                                  菊の日記コーナー


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簡単に分かります。
はっきり言って、これはすごいです。
          

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2007年06月30日
プラットホーム空の7月の予定です。

 プラットホーム空の予定は、7月7日、(土)、七夕、午前10時から12時半まで、新大阪のココセンターで、プラットホーム空(くう)01とプラットホーム空(くう)02が、合同であります。合同なので、いろんな人が集まります。菊も、参加します。ゲストは、一度だけ無料で参加できます。ぜひ、菊がいつも書いているプラットホーム空、何もしないから、智恵を持っている人達があつまる、ネットで結ばれる場に参加して欲しいと思います。

◆7月例会のご案内
【日 時】
2007年7月7日(土)10:00〜12:30 ココ プラザ702号(和室)

【場 所】
〒533-0033 大阪市東淀川区東中島1-13-13 
TEL.06-6370-5421
青少年文化創造ステーション(愛称:KOKO PLAZA ココ プラザ)

アクセスは・・・
http://www.kokoplaza.net/access/index.html

 また、7月13日(金)、午後6時頃から、ホロン会があります。場所は、水口先生の事務所です。プラットホームのメンバーなら誰でも参加可能です。水口先生たけでなく、いろんな駅長も参加されます。シナプスの会のメンバーです。水口先生がしているプラットホームと考えたらいいです。菊も参加します。ぜひ、皆さんもご参加しませんか。プラットホームのことは、実際に、水口先生や各駅長に聞くのが一番です。場所は、連絡頂けたらお知らせします。

 それと、7月20日、プラットホーム空(くう)03の例会があります。第3金曜日です。時間は、3時からです。場所は、いつものホーミーアスカ住環研所です。毎月、プラットホーム空(くう)03の例会は、第3金曜日か第3日曜日にします。ゲストとして、一回は、誰でも、参加可能です。是非、菊と何かのご縁のある皆さん、ご参加お願いします。
7月例会のご案内
【日 時】
2007年7月20日(金)午後3:00〜5:00 
【場 所】ホーミーアスカ住環研所
 〒537−0012大阪市東成区大今里3−16−19イーズ
今里2階205号室
電話      06−6977−6768

アクセスは・・・
http://www.geocities.jp/ennohana/yumenopuraxtokuu3/KAIJOTIZU.htm
 そして最後に、7月22日、日曜日、プラットホーム空(くう)03主催での水口先生や風の気概さんに来て頂いてのプラットホームの説明会をして貰えます。まだ、一度も聞いたことのない人は、是非、一度は聞いて欲しいと思います。水口先生も、風の気概さんも、少しでも皆さんに、分かって頂こうと、いろいろ考えて頂いています。是非、ご参加下さい。また、誰でもプラットホームに関心のある人は、聞いて下さい。参加料金は、千円です。まだまだ席は開いています。是非、是非、ご参加お待ちしています。参加される場合は、菊にメール下さい。待っています。
プラットホーム説明会(空03主催)

日時:7月22日(日) 13:00〜17:00
場所:大阪市立中央青年センター
http://www.chu-sei.com/index.htm
 A棟 3階 6号室

〒540−0006
大阪市中央区法円坂1-1-35
TEL 06−6943−5021
参加費:1000円(会場費代)
★会員の方はどなたでも参加できます。(会員の友人知人も可)


縁の花村まぐまぐ情報申し込みサイト
http://www.geocities.jp/ennohana/8ennohanamagmag.htm

縁の花 トップページ 
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2007年06月30日

縁の花村まぐまぐ情報 
第69号〜第81号 掲載しています


いつもありがとうございます。縁の花村まぐまぐ情報、第69号〜第81号まで、掲載しています。内容は、てんこ盛りです。興味あるものがあれば、お読み下さい。
また、縁の花村は、まぐまぐで情報発信しています。よかったら、読者になって下さい。
それと菊に、メール番号教えて頂けたら、縁の花村の村人として登録します。縁の花村、まぐまぐ情報を、送らせて頂いています。どうかよろしお願いします。

縁の花村まぐまぐ情報第69号
 1、「武田勝頼対徳川家康」二 2、「仁科盛信の決断」一  3、「仁科盛信の決断」二 天王山の戦い
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura69.htm


縁の花村まぐまぐ情報第70号
1、羽柴秀吉の撤退 2、羽柴秀吉の誤算 3、明智光秀と仁科盛信
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura70.htm

縁の花村まぐまぐ情報第71号
1、滝川一益  2、徳川家康の反撃  3、金華山の落城
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura67.htm

縁の花村まぐまぐ情報第72号
1、柴田勝家  2、北条家の上野侵攻  3、徳川家康の駿河侵攻
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura67.htm

     
縁の花村まぐまぐ情報第73号
1、新府城の攻防戦  2、新府城の攻防戦 信勝の活躍と、家康の敗戦  3、賤ヶ岳の戦い
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura73.htm



縁の花村まぐまぐ情報第74号
1、羽柴秀吉の降伏  2、安土会議  3、6月10日は、すごい日です
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura74.htm

縁の花村まぐまぐ情報第75号
1、武田幕府誕生   2、天下統一   3、武田政権
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura75.htm

縁の花村まぐまぐ情報第76号
1、なんでんかんでん村情報 第270号まで掲載しています。  2、菊の自己紹介  3、プラットホーム空(くう)03 6月例会のご報告
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura76.htm



縁の花村まぐまぐ情報第77号
1、水と油で、車が走る魔法の水が誕生しました。 2、時代の超大変化とユビキタス時代1
3、時代の超大変化とユビキタス時代U
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura77.htm

縁の花村まぐまぐ情報第78号
1、第21話「消えた姫」 山本勘助と由布姫の関係  2、山本勘助と由布姫の愛  3、山本勘助と由布姫の愛二
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura78.htm


縁の花村まぐまぐ情報第79号
1、縁の花 第232号「武田勝頼の復活」完成しています。  2、プラットホームシナプスの会の議事録について  3、「神と科学と奇跡の水」コーナー誕生しました
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura79.htm

縁の花村まぐまぐ情報第80号
 1、風林火山 第24話「越後の龍」 6月17日放送  2、風林火山 第24話「越後の龍」凄惨、血塗られた佐久侵攻戦  3、第23回 「河越夜戦」 6月10日放送
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura80.htm

縁の花村まぐまぐ情報第81号
1、風林火山 第22回 「三国激突」 6月3日放送 2、第25回 「非情の掟」 6月24日放送  3、ついにワンセグ買いました。
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohanamurajouhou/ennohanamura81.htm

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2007年06月27日

ついにワンセグ買いました。

皆さんにアドバイス貰っていましたが、ついに、懸案だった携帯買いました。時代は、どんどんと進化します。菊は、縁の花村の村長として、これから起こるユビキタス革命で、皆さんを次の高度情報社会にお連れするというお役があります。

しかも、智恵の場の仲間も、どんどん携帯を使ったビジネスを開発していきます。最新の高速通信ができないと、対応できなくなります。その上に、お財布携帯も、これからのことを考えて、まずは、菊自身がやる必要があります。ということで、買ったのです。必然のご縁だと思います。

またそんな菊が買ったのは、ドコモの携帯、6月22日にソニーから発売された903IのBRAVIAです。ワクセグです。早寝早起きで、家ではテレビみなくなりましたが、昔からテレビ子です。外にいて暇な時、テレビが見られたら、いいです。別に、音楽とか、ゲームもしない菊に、ワクセグはかかせないのです。

 それでいろいろ検討しましたが、ソニーになりました。5月頃、パナソニックの携帯、予約注文していましたが、6月になっても、手に入りませんでした。6月になってから、新しい904Iが発売されたということで、大幅に安くなったので、新しく販売されるソニーのものを見てから決めたいと思っていたのです。それで、デザインがいいということで、ソニーの携帯にしたのです。ちなみに色は赤色です。画像も前のものよりも大きく、綺麗です。とてもいいと思います。

 しかし、今まで知りませんでしたが、同じドコモの携帯なのに、機種やメーカーによって、操作の仕方、まったく違うのですね。これには驚きです。しばらくは、慣れるまで、いろんな操作覚えていないので、大変です。コンピューターのメーカーのキーボードのように、菊はある程度、統一されていると思っていました。びっくりです。

 でも、一番のびっくりは、そんな最新の携帯を持っていることだと思います。2年前まで、菊は携帯を持とうとはしませんでした。携帯の電磁波が怖かったのです。いえ、今も怖いです。だから、あまり携帯で、電話しようとは思いません。自分からは、あまり、携帯で電話しないのです。

 だけどあると確かに便利です。着信が残るので、電話に気が付かなかったときでも分かりますし、何よりもメールがいいです。会社に行く、バスの中で、いつもメールしています。
 
 そして2年前、どうしても必要なので、携帯を持ってみて、分かったということは確かに便利だということです。ミクシイや、バーチャル・オフィスも、携帯から見ています。前の産業革命は、英国で発明されたタービンが起しましたが、今回は、携帯という端末機だと思います。その時代の波にも乗り遅れないように、これからは、携帯は、菊はつねに最新のもの持っていきたいと思います。(o^-^o)


第25回 「非情の掟」 6月24日放送

 もし、山本勘助と、菊が話できたら、何を一番伝えたいと思っているでしょうか。それは、御霊の声が聞けない菊には分かりませんが、やはり、諏訪頼重公の呪いの事だと思います。何故なら、山本勘助が、軍師として、一番後悔していることは、諏訪頼重公を、騙した形で、自害させたことだと思うからです。

 というのも、戦国最強を誇った武田家が、滅亡したのには、いくつの理由がありますが、霊的に考えたら、古事記にも出てくる日本最古の神社の一つでもある諏訪神社の大祝、今で言えば、宮司で、諏訪を支配していた大名をだまし討ちしたことによって、大きな恨みを生み出したからです。一言で言えば諏訪家の呪いです。

 菊が、こんなことを書いたら、そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、菊には、そう思えるのです。いえ、少なくても、今回の風林火山は、その事に意識してドラマを作っていないと思いますが、無意識に、そう流れていると思います。

 特に、諏訪頼重が自害される前に、ドラマの中で、武田信玄に、自分の事はどうでもいいから、息子の虎王丸のことを頼んだことを覚えているでしょうか。それに対して、信玄は、諏訪家は、虎王丸に継がせると堅く約束しています。

 また勘助に対しても、東光寺で自害する前に、身分の低い山本勘助に頭を下げて、虎王丸のことを頼んでいます。それに対して、勘助も堅く約束しています。

 しかし、その約束は、由布姫に、信玄の四男、すなわち前世の菊かもしれない、諏訪四郎勝頼が生まれたことで、あっさりほごにそれ、虎王丸は、邪魔ものとして扱われます。利用価値がなくなったのです。いえ、勝頼かわいさのあまり、虎王丸は、信玄公、勘助にとっては、どうしても取り除かないといけない存在になったのです。

 しかも酷いのは、その後の虎王丸の事は、まったく分からないということです。歴史的にはっきりしたことは、まったく分かっていないのです。それで、いろんな説があります。
今日放送される第25回 「非情の掟」 では、山本勘助によって、虎王丸は、出家させて、駿河の、今川義元に預けられるそうですが、真実は違うと思います。

 やはり、菊自身、認めたくないですが、信玄や山本勘助が、由布姫には内緒で、殺したのだと思います。よく他の武田信玄の小説では、父頼重が、信玄に殺されたことを知った虎王丸が、信玄を恨むようになったという解釈もありますが、どうでしょうか。菊は、その説は違うと思います。とにかく、まったく分からないのです。

 ただ、虎王丸に対して信玄や勘助が、自分に内緒で、排除したことで大きな悲劇を生みました。由布姫と、勘助、信玄の信頼が壊れたのです。由布姫は、後に、すぐになくなっていますが、この事が精神的に大きな影響を与えたと菊は確信しているのです。

 そして虎王丸を排除したことで、諏訪頼重公の御霊の怒りが爆発しました。諏訪家の呪いが始まりました。諏訪家を支配され、自分の娘、由布姫を無理やり、信玄の側室にされても、黙っていた諏訪頼重公の御霊も、虎王丸が、殺されたことで、爆発しました。それは、由布姫の息子、勝頼が、諏訪家を引き継いでも駄目でした。

 信玄、山本勘助は、自分との固い約束、虎王丸の約束を破ったというわけです。そしてそれが、由布姫の死を招き、山本勘助の、川中島の戦いの死、跡継ぎの義信公の死を生みます。義信公は、頼重公と同じ東光寺で自刀しているのです。

 そしてその事が、武田家の家臣団に、目に見えなくても大きな心の亀裂を生みました。跡を武田勝頼が継ぐことに、諏訪家の乗っ取りだという意識を生んだのです。風林火山のドラマの中で、甘利虎泰が、その事を言っています。

 また、信玄公も、天下取りの最後になって、病気でなくなっています。死ぬ時に、諏訪頼重公の御霊が出てきて、乱心したそうです。そんな中で、後継者に武田勝頼ではなく、息子の信勝を指名するという、信じられないことをして、一枚岩を誇った武田家は、おかしくなるのです。

 でもここで言いたいことは、そんな諏訪頼重公を責めるのでなく、理解してあげることです。そんな諏訪頼重公の思いを理解してあげることです。今は、戦国時代ではありません。恨み、つらみは、五百年前の話です。少なくても、菊自身、今は、何とも思っていません。諏訪家でもあり、武田家でもあるからです。

 是非、皆さんも、これからの風林火山、そんな視点で見て下されば、一つの視点としては面白いと思いますし、そのことを皆さんが知ることによって、諏訪家の呪いは消え、諏訪家の御霊と武田家の御霊も、五百年後の今、正式に和解できると思っています。よろしくお願いします。


 大河ドラマ 風林火山 武田家一年日記
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2007年06月24日
風林火山 第22回 「三国激突」 6月3日放送
 第22話で、甲相駿の和解ができました。まるで、三国同盟の設立です。これには、歴史通の菊も正直驚いてしまいました。有名な、武田信玄、北条氏康、今川義元による善徳寺の会盟と呼ばれる三国同盟が成立したのは、天文23年といわれています。天文15年(1546年)、北条氏の河越夜戦が起こってから8年後です。いくらなんでも早すぎます。無茶だろうと思ったのです

でも、どうやら、このドラマでの三国激突と和解は、三国同盟とは違うみたいです。三国同盟が成立したのは、第一回目の川中島の戦いが終った後だからです。有名な三家の婚姻で、成立しています。すなわち、天文21年(1552年):今川義元の娘が武田信玄の子義信に 天文22年(1553年):武田信玄の娘が 北条氏康の子氏政に 天文23年(1554年):北条氏康の娘が 今川義元の子氏真にです。

だから、菊と同じように勘違いする人も多いと思いますが、違うのでご注意下さい。ただ、それでも、インターネットで調べたら、ドラマで放送されていた河東一乱(かとういちらん)は実際にあって、今川義元と北条氏康は、和睦しています。信玄が、その仲介をしています。これは本当の事です。

しかし真の和睦ではありませんでした。この後も、今川家と北条家は対立して、それを今川家の軍師、太原雪斎が中心になって、うまくまとめています。山本勘助が、それにどれだけの手腕を発揮したかは分かりませんが、同盟が成立させるのは、そんなに簡単なことではないということです。きっと、勘助も苦労したことでしょう。

 でもその成立は、三家に大きな利益をもたらしました。武田信玄と北条氏康は、共通の敵、上杉謙信と対抗できましたし、今川義元は、西に目を向けて、織田家との対立に専念できました。教科書の歴史にも登場する有名な同盟です。

 それを山本勘助や、太原雪斎が、どうまとめるか、楽しみにしたいと思います。たぶん、いろいろと苦労すると思うのです。特に、今川義元をどう説得するか、注目したいと思います。

 しかしそんな甲相駿の三国同盟も、今川義元が、桶狭間の戦いで討たれると、呆気なく崩壊していきます。領国に海のない信玄は、どうしても海を手に入れたいのですが、北条氏のいる関東方面、上杉家のある日本海には、入る込む隙はなく、義元がいなくなって、力の衰えた今川家に目を向け、反対した、嫡男を自害させてまでも、駿河に侵攻して、三国同盟は消滅します。山本勘助が、川中島で亡くなった後の話です。そんな人と人との約束だけではなく、家同士、しかも三家の約束のもろさも、知って欲しいと思います。

 さして最後に一言、ドラマで、今川義元は、見事に鉄砲で、凧の真ん中の的に命中させますが、あれはないですね。あの当時の鉄砲にそんな正確さがある訳ないです。あれだけは、堪忍して欲しかったです。

 大河ドラマ 風林火山 武田家一年日記
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2007年06月24日
第23回 「河越夜戦」 6月10日放送
 北条氏康は、河越夜戦で、関東管領、上杉憲政を破りました。8千対8万の戦いでした。戦国時代に起きた有名な三大奇襲戦の一つです。織田信長が、今川義元を破った桶狭間の戦い、毛利元就が、4千の兵で、2万以上の陶晴賢と戦い、勝った厳島の戦いと並び称されているのです。すなわち、北条氏康公は、織田信長や、毛利元就程は知られていませんが、戦国時代、高く評価されている武将の一人です。

 だから北条氏康公と、武田信玄公と、上杉謙信公の関東を巡る争いを、関東三国志といいます。中国の、魏、蜀、呉の有名な三国志の日本版というわけなのです。

 ですが、その「河越夜戦」に、山本勘助が、参加したかどうかは分かりません。そんな事実は残っていないので、誰も分からないのです。

 ただ、この時期に、山本勘助が、真田幸隆と密かに会い、世話になっていた上野の長野業正から離れて、信玄の家臣になることを薦めたのは間違いありません。真田家の資料にも、山本勘助が、信玄に頼ることを薦めたという文章が残っているからです。

 そしてその事が真田家を大きく変えました。真田家といえば、皆さんの多くは、大阪城で戦った真田幸村を思い浮かべるでしょうが、その真田家も、この時に、山本勘助の説得に応じなかったら、歴史に名前は残らなかったと思います。真田家は、信玄の父親である信虎によって、信濃から追い出され、信玄によって、再び、信濃に戻されたのです。

 また、後の真田幸隆は、山本勘助に、軍略を教わり、信濃の戦いで大活躍しますし、勘助が川中島の戦いで亡くなった後も、信玄の軍師として、高坂弾正と共に、信玄を支えます。上野の侵攻でも、謀略ぶりを発揮します。信玄が亡くなった翌年まで生きていたのです。

 しかも三男の昌幸は長篠の戦で、真田家の家督を継いだ長男の信綱と次兄・昌輝を亡くすと、真田家を正式に継いで、武田勝頼を支えます。新府城も真田昌幸が造っているのです。

 でもそれだけでなく、真田昌幸は、信玄公が、「我が眼」と称して寵愛したと伝えられているほどの武将で、早くから信玄にその才能を評価され、信玄から直接、軍略を教わっています。真田昌幸は、山本勘助に教わった、父幸隆や、信玄に、軍略を直接教わった、唯一の、信玄の軍略の後継者なのです。

 そしてそんな真田昌幸は、武田家が滅亡した後も、北条氏、徳川氏との駆け引きに勝利して、大名として独立し、第一次上田合戦で、徳川を破り、関が原の戦いの前哨戦の一つ、第二次上田合戦でも、徳川を破って、家康を苦しめています。

 その後、大阪城での、豊臣と徳川の戦いの前になくなっていますが、家康は、大坂冬の陣において真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」と訊ねながらガタガタと手を震わせたと言われていますし、昌幸から、山本勘助、信玄に教わった、軍略を教わった息子の幸村は、見事に、大阪城の戦いでも、徳川家康を追い詰めて、後一歩というところまでいきました。家康は、死を覚悟したといいます。山本勘助、信玄の軍略の勝利だったのです。是非、その事も、皆さんに知って頂いて、これからの真田家の活躍に期待したいと思います。

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2007年06月24日
風林火山 第24話「越後の龍」 
凄惨、血塗られた佐久侵攻戦

ただ、菊が、第24話「越後の龍」の放送は、ガクトさんの上杉謙信公のデビューよりも、もっと皆さんに注目して欲しいこと、知って欲しいことは、信玄公の凄惨、血塗られた佐久侵攻戦です。

というのも、信玄公は、内山城を攻め、その城兵を皆殺しにしています。でも、それは、少し歴史の事実とは違っていて、本当の歴史では、皆殺しにしたのは、内山城ではなく、志賀城です。内山城に立て籠もる大井貞清・貞重父子を攻め降伏させた後も、佐久地方の反乱は治まらず、手を焼いた信玄は、志賀城では、降伏を認めず、城兵三百余が戦死しています。

しかも、志賀城の城主であった笠原清繁の妻は甲斐郡内の小山田出羽守信有が貰い受け、同時に籠城していた多くの男女を生け捕りにし、親類縁者がある者は二貫文から十貫文で身請けされたが、その多くは黒川金山の坑夫や娼婦、奴婢として人身売買されたといいます。信玄は、そんな残酷なことをしているのです。

またその時に、志賀城の要請で、救援に来ていた関東管領・上杉憲政の軍を、信濃の小田井原で待ち受けて、戦をして勝っています。三千もの首を取っているのです。その上で、その三千もの生首を志賀城の回りに並べ立てて、城兵の戦意をなくしています。上杉憲政の援軍は来ないことを教えたのです。

しかしそれにしても残酷です。信玄は、この佐久地方では、多くの人々を苦しめているのです。その志賀城の事が、今後、放送されるのか、どうかは分かりませんが、菊は、皆さんに知って欲しいと思います。

そして信玄が、どうして佐久地方で、そんな残酷なことをしたのかは、今でも謎になっていますが、それを新田次郎さんの小説では、信玄自身の体調が悪く熱があったことや、この佐久地方を実験にして、そむくものに対しては、情けをかけるのか、あざとして許さないのか、その事を決めるつもりだったとか書いていますし、この大河ドラマでは、由布姫に、御屋形様は、情けの人、山本勘助がいなかったら、戦に負けていたといわれたことに反発して、残酷なことをしています。そんな信玄の心を描いているのです。

でも菊自身は、その当時の信玄の気持ちは分かりませんが、信玄公に、何かあったのだと思います。その事を、武田家の英霊が、ドラマが教えてくれている気がします。許されることではないですが、信玄の内面に何かあったのだと思いたいのす。

またその後も、信玄は、安曇の小岩嶽城などでも残酷なことをしていますが、やがて、恨みをかえば、いつまでも反抗は治まらないことを悟って、過酷なことはやらないようになっています。

それもすべて、頑固までも背いた佐久地方の人達のおかげです。それを、新田次郎は、武田信玄の小説で、「そむく佐久を殺せば、佐久は限りなくそむくでしょう。佐久の人ことごとく叛いて死に絶えても、草木が武田に叛くでしょう。」と戸石城での闘いを前に死を覚悟した、横田備中守高松の最期の言葉として、信玄に言わせています。信玄の佐久への過酷なまでの弾圧に対する、死を決した、武田家の家臣だった横田備中守高松の諫言です。

ですから前世、武田家のご縁を持つものとして、菊は、内山城や志賀城の城兵や、生首にされた上杉憲政の兵には、一言「ごめんなさい」と謝りたいですし、皆さんのおかげで、信玄公は、民に情けをかける名君になれたと感謝したいと思います。本当にありがとうございます。

大河ドラマ 風林火山 武田家一年日記
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2007年06月24日

風林火山 第24話「越後の龍」 6月17日放送

いよいよ、第24話で、上杉謙信公が出てきました。甲斐の虎と、越後の龍、宿命のライバルの登場です。また、この上杉謙信役をした、(Gackt:ガクト)さん、確かにカッコよくすぎですね。菊のプラットホームの仲間に、ワラさんがいます。このワラさんも、武田家が好きで、何故か、プラットホーム空(くう)01の例会でお会いしたら、武田家の話で盛り上がるのですが、そのワラさんも、ガクトさんが演じる上杉謙信公を楽しみにしていました。

菊自身、そんなガクトさんが何をしている人なのか、少しも知りませんでしたが、確かに、風林火山見て、カッコいいと思いました。きっと、上杉家の背景の御霊さんも、このガクトさんが演じる上杉謙信公には大喜びだと思います。だって、上杉謙信公は、関東で、北条氏と何度も戦い、領土を得られるのに、決して領土を取ろうとはしませんでした。関東管領として、まさに愚直に、何十年も要請された大名の領地を取り返しても、自分のものにはしなかったのです。

しかし、上杉謙信は、そういった信念で戦ったのですから、まだいいですが、領地も得られないことが分かっているのに、命をかけて戦った、上杉家の武将達はたまったものではないと思います。戦に勝っても、領地が貰えないのです。それでも、上杉謙信公を信じてついていったのですから、大したものです。ガクトさんの演じる上杉謙信公、やたら正義を強調していますが、あの当時、上杉謙信公を信じた上杉家の家臣は、それを信じていたのかもしれませんね。

菊としても、大河ドラマで、ガクトさんが、今までとは違った、異色な上杉謙信公を演じてくれたことに心から感謝したいです。本当にガクトさん、大河ドラマによくぞ出てくれてありがとうございます。

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神と科学と奇跡の水」コーナー誕生しました

今日は、6月23日です。
沖縄では、今日は、毎年、戦没者の慰霊の日として慰霊祭が行われています。
去年の2006年6月23日、菊は、不思議なご縁で、沖縄に行った事が思い出されます。
あの時、菊は、沖縄の英霊達にありがとうございますを届けに行きました。
菊の官能日記で書いたとおりです。
本当に懐かしいです。

きっと、今年も慰霊の塔がある沖縄の平和公園で、今年も慰霊祭盛大に行われています。
昼の暑い中を、各県の慰霊塔を歩いたことが思い出されます。
去年来た小泉元首相のように、今年は、安倍首相が行ったのかどうかは分かりませんが、沖縄の軍による民間人の自決強要の事実が、教科書から消されたということがあって、今年は大きな問題になっているはずです。
 沖縄の英霊達の冥福を願いたいと思います。

さて、その6月23日に、5月30日に、この世に生まれた「神と科学と奇跡の水」のコーナー、縁の花のサイトの仲で作られて頂くことにしました。
「神と科学と奇跡の水」の会も、立ち上げます。

 正直、世界初として誕生した「神と科学と奇跡の水」ですが、この世に出られるかは、どうかはまだ分かりません。でも、智恵を持った智閥の仲間が、それぞれのご縁で、地球や、人類のためにもうすでに急ピッチで、世に出そうと活動がんばっています。少しずつですが、いい方向に進んでいるそうです。

縁の花村も同じ智閥の一員として負けられません。天が、智閥の仲間に与えてくれたとして思えない「神と科学と奇跡の水」、少しでも、ご縁のある人に伝えたいと思います。
それで、縁の花のHPで、「神と科学と奇跡の水」のコーナーと「神と科学と奇跡の水」の会を誕生させました。

別に、菊自身が、6月23日に意識して、誕生させたわけではありませんでしたが、偶然そうなっていたのです。
きっと、これは偶然ではなく、必然だと思います。

だって、菊にとって、6月23日は、特別な日になっています。
去年、見た、あの沖縄の海の感動忘れません。
とても綺麗でした。
沖縄の英霊達のことも忘れません。
菊と今でも、一緒にいます。
沖縄や、日本をずっと平和にしたいと誓ったことも忘れません。
今も平和願っています。

その日に、「神と科学と奇跡の水」のコーナーや会、作らせて頂くことも、きっと御霊さんの導きだと思います。
この「神と科学と奇跡の水」で、地球を綺麗にして、世界を平和にしたいと思います。
そのことを6月23日が、教えてくれたのだと思います。
だから菊は、多くの智閥の仲間だけでなく、無数の御霊さんたちと一緒に、「神と科学と奇跡の水」世に出したいと思います
是非、皆さんも、ご関心があれば、「神と科学と奇跡の水」のコーナーを見てください。
「神と科学と奇跡の水」会に参加して頂けたら幸せです。

「神と科学と奇跡の水」コーナー
http://www.geocities.jp/ennohana/kametokagakutokisekinomezu/1kametokagakutokisekinomezu.htm

「神と科学と奇跡の水」の会趣旨説明
http://www.geocities.jp/ennohana/kametokagakutokisekinomezu/syusiseyumei20070623.htm


縁の花村まぐまぐ情報申し込みサイト
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2007年06月22日

プラットホーム シナプスの会の議事録について

いつも皆さん、ありがとうございます。

今、プラットホームのメンバーだけが参加できる新しいソーシャル・ネットワーキング、バーチャル・オフィスの中にあるバーチャル・カンパニーのビジネス情報に、6月7日のシナプス会議事録が掲載されています。ごめんなさい。ミクシイでは見られません。

このシナプスの会とは、全国の駅長や選ばれたIT専門家しか参加できない、プラットホームの 頭脳になります。ここで決まったことが、今後、プラットホーム全体で動いていくことになります。その議事録とは、菊が参加している智恵の場、プラットホームでは一番大切な情報です。


またシナプスの会の報告は、プラットホームの構想を考えた魔法使いさん、水口清一先生が、プラットホームのメンバー全体に伝えたいということで、シナプスの会のリーダー、風の気概さんが、作成してくれています。是非、皆さんも、そのことをご理解して、シナプスの会の議事録に注目して下さい。是非、毎回お読みくださいね。プラットホームは、本当にすばらしい場です。

それと、菊としては、今回、プラットホーム空(くう)03のメンバーであるchibatuさんが取り組もうとしている「神と科学と奇跡の水」に関して、シナプスの会議で、ご報告しました。この「神と科学と奇跡の水」は、とてもすばらしいものですが、すばらしいだけに、世に出るか、出られないかは、まだまだ未知数です。問題点が、たくさんあります。それで今、chibatuさんの仲間の人達が、いろんな智恵を出し合って、世に出られるように動いていますが、菊自身、何とか、プラットホーム全体でも、ご協力して、共に共生でやれたらいいなあと願っています。

そしてその為にも、chibatuさんには、風の気概さんと会って頂いています。いずれ正式に、「神と科学の奇跡の水」に関して、chibatuさんから、正式にお話があれば、風の気概さんと話して頂いて、条件を決めて頂いて、シナプスの会議で、皆さんにご承認頂いて、共生で、「神と科学と奇跡の水」世に出るお手伝いできたらいいなあと願っています。そうなることが、プラットホームのメンバーの皆さんにとっても、喜んで頂けることだと信じています。そのときがとても楽しみです。

また、プラットホーム空(くう)03としてですが、プラットホームの例会は、何もしないところなので、「神と科学と奇跡の水」に関しても何もしません。でも、プラットホームの例会で起こった事は、別会として、関心のある人達で、研究したりすることは認められているので、「神と科学と奇跡の水の会」を作って、関心のある、プラットホームのメンバーにはお伝えするつもりです。皆さんの中で、関心のある人は、菊まで、メール下さい。情報をお伝えします。

そしてここで、菊が、皆さんに言いたいことは、一つのプラットホームで起きることは、全体のプラットホームでも起きるということです。何もしない会だけに、必ず、そうなるみたいです。だから「神と科学と奇跡の水」確かにすごいものですが、それと同じようなものが、他のプラットホームでも現れると思いますし、それ以上のものが現れるかもしれません。実際に、今回のシナプスの会議に参加して、各駅長の報告を聞いて、そう思ったのです。

 だから、プラットホームは、今まで、この2年間以上、ビジネスの話はまったくありませんでしたが、これからは違うと思いますし、いろんな面白い、本当の商品やシステムの情報が出てくると思います。それだけプラットホームも、6年計画の3年間が終って、後の3年に入っていますが、智恵を持っている人達が、どんどん入っています。たぶん、これから、本当に面白いことか始まると期待しています。

それを皆さんが、どう判断されるかは自由ですが、菊がいいたいことは、今回の議事録の最後に、魔法使いさんが言っているように、「この「場」との関わりは、あくまで個人が、関りの深さや、濃さを決めるのです。そのかかわりの度合いによってえら得るものが違ってくるのです。あくまでも、自主的に関る必要があるのです、それは、個人の生き方に他ならないのです。」と言うことです。

たぶん、皆さんの多くは、全然分からないと思いますが、何かを感じた人は、菊に連絡下さいね。何もしない会、プラットホーム空3や、プラットホームにお誘いしたいと思います。




2007年06月21日

縁の花 第232号「武田勝頼の復活」
完成しています。


縁の花第232号 「武田勝頼」の復活、第一章から第十章まで完成しています。本当の歴史では、武田家は、織田信長が、6月2日、本能寺の変で倒れる3ヶ月前に、滅亡しています。わずか、織田・徳川軍に攻め込まれて、わずか、1ヶ月間も持たないという呆気ない最後でした。戦国時代最強といわれていた武田家が、どうしてそんな呆気なく滅亡したのか、今でも謎の一つだといわれています。

また、武田家が滅亡したことで、数々の悲劇が生まれました。信玄を恐れ、憎んでいた織田信長は、武田家が滅亡すると、容赦なく、武田家の家臣を惨殺しています。領地を安堵すると約束して、のこのこ降伏した武田家家臣で、殺されたものも多いです。

信玄の息子を匿ったということで、武田信玄に招かれた名僧の快川紹喜は「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」という有名な辞世の言葉を残して、弟子と一緒に、燃やされて死んでいます。

多くの悲劇が生まれているのです。その責任の多くは、やはり武田勝頼にあります。武田家が滅亡したことに関しては、いろんな原因がありますが、一番の責任は、武田勝頼にあるのです。

でも、その武田家も、後、3ヶ月、本能寺の変が起きた時まで続いていたら、歴史は、大きく変わっていたと思います。その時、武田勝頼が、菊が書いた作品のような行動しなかったとしても、後を継いだ、豊臣秀吉との関係をうまくしていたら、甲信駿を中心とした領国は守っていた可能性が高いですし、後に、甲信駿を支配した徳川家康が、天下を取ったように、武田勝頼が天下を取っていたかもしれません。いろんなシミュレーションが考えられるのです。

いえ、そんなことよりも、多くの家臣や、罪の無い、快川和尚などを殺されずに死んだと思います。幸い、本来の歴史では、武田家が滅亡した後、すぐに本能寺の変が起きて、甲斐、信濃の領土は、徳川と北条の争いで、徳川が勝ち、武田家の家臣は、信玄を尊敬する徳川家康の家臣として召抱えられ、後、徳川家康が、天下を取ったことで、幕臣として栄えることになります。

武田家の家臣は、旗本や代官として活躍します。大成功するのですが、それでも、勝頼としては、一族や多くの家臣を路頭に回せたことは、大きな悔いになっていたと思います。

それを今回の縁の花 第232号「武田勝頼の復活」でバーチャルの世界で、やり直すことができました。多くの武田家の家臣を幸せにすることができました。前世、もしかしたら、武田勝頼かもしれない菊に、取っては、どうしても書きたいことでした。シミュレーションの世界の物語、多くの武田家の御霊さんが、どう思っているかは分かりませんが、書かせて頂けてよかったと思います。きっと大きな意味、500年前に約束していたことだと思います。よかったら、是非、皆さんもお読み下さい。お願いします。

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2007年06月19日

風林火山 第21話 消えた姫
山本勘助と由布姫の愛二



 また、由布姫は、眠っている勘助を温めている間に、不思議な気分になっていました。諏訪の姫である由布姫は、諏訪神社が、古来、男女を奉っている神社であることはよく知っていました。

 何故なら、諏訪神社の祭礼、式年大祭といわれる、申年と寅年の7年に一度の御柱祭では、5丈5尺(約16.8m)の樅の木16本を山から切り出し四宮の四隅に御柱として建てる神事をしますが、この大きな柱が実は、男性の象徴を示すことも、諏訪家の姫として聞かされていたからです。今は、神霊の寄りつく柱(または神地境界)を意味する勇猛な盛大なお祭りということになっていましたが、昔は、違っていたのです。
 
それに自分が、今年、諏訪の姫としてした「御神渡り(おみわたり)」:真冬、諏訪湖が全面結氷し更に寒気が襲ってくると、湖面に亀裂が入り轟音とともに氷がせり上がる現象も、これは諏訪大明神(建御名方富命)が女神(八坂刀売命)のもとへ渡った跡だと信じられていました。諏訪七不思議の一つと言い伝えられてきたが、男性の神と女性の神の愛の現象だと思われていたのです。

しかも、諏訪湖の上社と下社はそれぞれ上社(男)が金剛界の大日如来、 下社(女)を胎蔵界の大日如来をあらわす神と考えられていました。つまり諏訪湖はその一つの湖水で、陰と陽の両方をあらわしています。これを「金胎不二」と言います。

この金胎(こんたい)とは、仏の専門用語で、仏 金剛界と胎蔵界という意味があり、不二(ふーに)とは、-対立していて二元的に見える事柄も、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであることを言います。

諏訪神社は、古来、男女の愛を奉る神だったのです。そして今、由布姫は、勘助とこうなっていることはすべて諏訪大明神のお導きだと確信していました。もし、勘助に意識があれば、絶対にこんな事は許さないだろうと思いました。いえ、信玄を崇拝している勘助は、どんなに自分に恋がれていても、絶対に自分を求めてこないことも分かっていました。

しかし、由布姫は、勘助が密かに、自分を好いてくれていることも、十分に分かっていました。自分の父親である諏訪頼重公の命を、乱世の戦国時代の掟としてたつように進言したことを、内心後悔し、苦しんでいることもよく分かっていました。

由布姫は、今、自分が、山本勘助にできることは、そんな山本勘助の自分に対する思いを、遂げさせてあげることだと思いました。それが、命がけで、自分を見つけてくれ、今、死ぬかもしれない山本勘助にできる唯一の感謝だと思ったのです。また由布姫は、今、意識のない山本勘助となら、それをしても許されると思いました。今宵、一度だけなら、愛する信玄も許してくれると思いました。今宵の事は、神々の世界の話で、山本勘助は、諏訪大明神の化身(建御名方富命)、自分は、女神の化身になっている気がしていたのです(八坂刀売命)

だから、由布姫は、山本勘助の思いを受けいれてあげました。信玄に教わったことをしました。意識のない山本勘助も、それで目覚めました。最初は、由布姫とは思わず、みつと思っていたのです。

なので、それが、由布姫と分かったとき、勘助は、本当に後悔しましたが、後の祭りでした。由布姫は、そんな山本勘助に、今宵だけ、一度だけ、誰にも言わない二人の秘密と何度もいい、山本勘助は、そんな由布姫を受け入れて、自分の思いを一度だけ果たしました。ここで、由布姫を拒めば、二人の信頼が消滅します。明日になれば、自分は、信玄の軍師、由布姫は、自分を信頼してくれる主君の、愛する女性に戻ると約束すると、一度だけ深く深く愛し合ったのです。

ですから、朝、二人は、普段の山本勘助と由布姫になっていました。二人は、その事は、死ぬまで内緒にして、自分達の役目を果たしたのです。

2007年06月19日

風林火山 第21話 消えた姫 
山本勘助と由布姫の愛


 山本勘助と諏訪の由布姫は、風林火山のドラマだけでなく、500年前、実際に、何か、深い愛情で繋がっていたのではないか、菊は、前回の日記でそう書きました。そう思いたいのです。

 しかしだからと言って、第21話の消えた姫にあるように、由布姫が、すきを見て、一人で逃げ出して、それを勘助が、一晩さまよった末に、ようやくお堂の中にいる由布姫を見つけ、二人で一晩すごすなんていうことはありえないと思います。これは、完全な作り話です。(o^-^o)

 だから菊は、大河ドラマ風林火山の脚本を書いている大森寿美男さんは、このシーンを省くのではないかと心配していました。それをされても仕方ないと思っていたのです。
 今までの小説や映画では、大きな見せ場ですが、事実という観点から見れば、消されても仕方ないのです。

 だけど、大森寿美男さんは、見事に書いてくれました。見事に描いてくれたのです。きっと、山本勘助の御霊も、由布姫の御霊も、喜んでいると思います。菊自身、熱くお礼を言いたいと思います。

 ただ、菊は、官能日記の菊でもあります。大河ドラマでは、山本勘助が、堂の中で、火をつけ、もう動けないという由布姫の足をさすって、一晩、雪が降っている諏訪のある土地で、二人だけで過ごしたシーンで終っていますが、もっともっと踏み込みたいと思います。本当に、心から、由布姫のことを愛していた山本勘助の思いを、一度は、叶えてあげたいと思うのです。それでこそ、菊が、武田日記を書く意味があると思うのです。

 ですから最後のシーン、少し変えたいと思います。山本勘助は、一晩、雪の中をさまよい、やっとお堂の中にいる由布姫を見つけ、由布姫が、心から信玄を愛しながらも、父親を殺した信玄に対してなかなか恨みが捨てられず、苦しんでいることを知ったことは、ドラマと同じです。

 そんな由布姫の気持ちに、信玄の寵愛を存分に受けて、信玄の和子を生んで欲しいといったのもそのままですし、もう足が動かないといった由布姫の足をさすったのも、そのとおりです。その後、由布姫は、山本勘助の胸で泣いていたのです。

 しかし、勘助は、その後、由布姫の前で倒れてしまいました。雪の寒い中で、命がけで、由布姫を探してさまよっていたのです。それが、普通です。由布姫をやっと、見つけたという安心感もありました。疲労が出てしまったのです。

 また、由布姫は、そんな勘助を、信玄と同じように、心から愛している自分に気がつきました。自分を見つける為に、命がけで探そうとしてくれた勘助です。勘助が倒れたことで、由布姫が意識していた、身分が違うという意識も、消えていたのです。

しかもその山本勘助は倒れ、服は、雪で、ずぶぬれです。外は、寒かったのか、身体は震えています。意識もないのか、うわごとで、由布姫に和子を、信玄の和子と呼んでいます。そこには、もう武田家の家臣ではなく、一人の男性しかいなかったのです。

 由布姫は、そんな山本勘助に対して、今、自分が、最初、何をしたらいいか分かりませんでした。だけど、勘助は、今、死にかけていることははっきりしています。このまま、勘助を死なせるわけにはいかなかったのです。

 やがて、由布姫は、ある一つの決断をしました。山本勘助が着ている濡れた服を全部脱がして、ふんどしだけの姿にすると、自分も着ている服を全部脱いで、勘助の身体を温めました。

 山国信濃では、雪で多くの人が、遭難し、亡くなっています。こういった時には、男女が温めあうことは、民の世界では許されること、当たり前のことでした。由布姫には、迷いは無かったのです。


大河ドラマ 風林火山 武田家一年日記
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2007年06月17日
大河ドラマ「風林火山」 第21話「消えた姫」
 山本勘助と由布姫の関係


大河ドラマの見所の一つは、信玄と山本勘助と由布姫の三角関係です。風林火山のドラマは、由布姫を巡る、山本勘助と信玄のお互いの信頼感と、それぞれの由布姫に対する愛を表現しているドラマだといってもいいと思います。

ただ、山本勘助と由布姫に、何か特別な関係があったのか、なかったのかは、菊自身にも分かりません。何故なら、小説、風林火山の話の中で、一番、着色しているのは、山本勘助と由布姫の関係だからです。これこそ、冷静に考えたら、作り話の可能性があります。

しかし、その反面、山本勘助と由布姫の恋愛関係のようなものがなかったら、風林火山は、これほど、ヒットすることはなかったと思います。山本勘助の一途に由布姫を思う愛が描かれたから、風林火山のドラマは、これほどの多くの人に愛されたと思うのです。

また、菊は、実際の五百年前の真実でも、山本勘助と由布姫の間に、何かの深い愛情があったと思いたいです。自分の父である頼重公を、騙して、甲府で自害させ、自分を、敵の信玄の側室になるように仕組んだ、片目で、傷だらけの本当に醜い老人を最初は憎みながらも、甲斐の中に、誰も味方がいない自分に対して、唯一の味方として、支えてくれた山本勘助、由布姫は、そんな山本勘助をどう思っていたのでしょうか。

と同時に、自分の進言で、信玄の側室になりましたが、決して幸せだったとはいえなかった由布姫に、山本勘助は、どんな感情をもっていたのでしょうか。何かの責任を感じていたのでしょうか。本当に美人で、身分の違う、気高き姫に、何か特別な感情を持っていたのでしょうか。

菊には正直分かりません。でも、菊は、二人に何かの深い愛、特別な関係があったと信じています。二人は、ある意味で、老人と、若い娘という年齢さがあっても、いつの頃か同志として支えあっていたような気がするのです。

何故なら、それが、風林火山のドラマが、菊や、皆さんに教えてくれた最大なことだからです。言い換えるなら、風林火山のドラマが、注目されなかったら、誰も、山本勘助と由布姫の関係に注目しなかったと思います。そんな事実は、歴史的にはないからです。

しかし、菊は、風林火山のドラマは、武田家の御霊さん達の思いが入っていると確信しています。それだけは、ドラマを見ていて、ますます自信が深まりました。

だから甲陽軍鑑は、武田家が、滅亡した後、いろいろ事実とは違うことも書かれたと思いますが、ある意味で、武田家の御霊に、守られていたとも考えています。その甲陽軍鑑を通して、風林火山のドラマは描かれています。作者の意志だけでなく、武田家の御霊の思いが入り込んで、今の風林火山があると思うのです。いえ、作者は、知らず知らず野内に、間違いなく書かされていると思います。

ですから、菊は、きっと山本勘助と由布姫には、肉体の関係はなくても、深い愛情で結ばれていたと思います。少なくても、女性の方からは、その姿が醜いといって、薄気味がられていた山本勘助を、由布姫は、ちゃんとまともに見ていた数少ない女性だったと信じるのですが、皆さんはどうですか。

是非、これからも、そんな気持ちで、風林火山のドラマ、これからも皆さんと楽しみたいと思います。

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2007年06月15日
時代の超大変化とユビキタス時代U

それをプラットホームで、シナプスの会議のリーダーしている風の気概さんの文章から、少し引用させて頂くと
「当時、唐突に、平成12年度の政策として、「e-Japan戦略」(e-Japan戦略とはバブル崩壊後の回復戦略で、米国、韓国のIT先進国に並ぶ環境を作り、ITによって高効率の仕事環境を整備することにありました)

「当時は、全国の状況をみられる立場にいましたので、たぶん、計画通りの進展は、無理で、適当なところで頓挫するだろう」と予測していました。しかし、国が、税金をテコに、グイグイとインフラを整備する圧倒的な力に驚かされました。有無を言わさぬ強引さであれよ。あれよ、いう間に2005年には、目標値をはるかに上回る成果を持って終了しました。

「2005年「e-Japan戦略」の成果の整備されたインフラを持って、国は、次の2010年に向けて「u-Japan戦略」すなわち、u-Japan戦略とは、いつでも、どこでも、何でも、つながるユビキタス・ネットワーク社会」をスタートさせたのです。

国は、この政策を持って、少子高齢化、雇用問題、教育問題、環境問題を含んだ様々な問題を、国民の閉塞感をも、この政策で解決しようとしているのです。

バブル崩壊までの高度成長経済の収束を図ろうとしているのです。平たく言ってくれた総務省の役人は何人もいました。「此処までやって来るのは大変だったろうが、これからの変化に対応できなくて、潰れる可能性のある企業は速やかに潰れて欲しい」と

「ふんだんな財源で=税金を思い切って投入する」、「成果が出るまで投入する」これが、「u-Japan戦略」でも同様に展開するでしょう。いや国は実現します」

 国は、もう「ユビキタス戦略」を決めたのです。国の舵はもう切られたのです。

 皆さんに、この事の真の意味が分かるでしょうか。今、やっと少しずつ、マスコミで、報道され始めた「ユビキタス」という言葉の真の意味が分かりますか。もうすぐ、日本は、ユビキタス社会で、劇的に変わります。江戸時代から明治に変わった以上の超大変化、真のIT革命が起きるのです。

 それは、菊自身も、まだたぶん分かっていないことだと思います。この地球上では、誰もが経験していないことです。どんなに頭がよくても、この世界とのご縁のない人が、分かる事は不可能なのです。

 でも、菊は、昔から幸運なことに、15年前、「なんでんかんでん村」の原裕一郎村長とご縁を持ったことで、その事を学ぶことができました。今は、他にも、プラットホーム構想を考えた水口清一先生ともご縁があります。しかも、原先生が言う、智閥の仲間や、プラットホームの仲間もたくさんいます。まだ、表面には見えませんが、少しずつ、時代を変える新しい志士達は、存在しようとしているのです。

 菊は、今、この事を一人でも多くの人に伝えたいと、心から願っています。それが、縁の花の本当の使命です。また、それは十分にできると確信しています。何故なら、菊には、原先生、水口先生、萩原さんという、この事を理解できている数少ない人達とのご縁があるからです。

 7月22日、萩原さんや、水口先生に来て頂いて、プラットホーム空(くう)03主催で、プラットホームの説明会があります。
きっと、これからの時代の話が聞かせて頂けると思います。
日時:7月22日(日) 13:00〜17:00
場所:大阪市立中央青年センター
http://www.chu-sei.com/index.htm
 A棟 3階 6号室
TEL 06−6943−5021
参加費:1000円(会場費代)



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2007年06月15日
時代の超大変化とユビキタス時代T

全国の縁の花を読んで頂いている読者の皆さん、縁の花村の村人さん、いつもありがとうございます。

 さて、縁の花は、15年ぐらい前から、新しい高度情報社会を創ることでがんばっていました。その時に、基準に置いていたのは、1990年のバブルの崩壊の時期を、幕末のペリーの来航と考えて、その25年後の2015年という時期でした。すべては、この時期に焦点をおいていました。

というのも、前回の日本の幕末の大変化、農業社会から、工業社会に変化した、歴史で言えば、1953年に起きたペリーの来航以後、15年後の1668年、明治維新が起きて、幕府が崩壊しています。そしてその時から、廃藩置県、士農工商制度の廃止、学制改革、地租改正、徴兵令、太陽暦などの様々な改革が行われ、10年後の明治10年、西南戦争が起きています。

このときに、最後まで残っていた武士の気質が、庶民が中心の兵であった政府軍に、最強といわれていた薩摩の武士が、あっけなく敗れたことで、見事になくなったと考えられているのです。

 だからそれと同じように、今度も、1990年のバブル崩壊の15年後、2005年から2007年に、今の体制は崩壊して、10年後の2015年には、新しい時代が完成していると考えていました。2015年には、次の高度情報社会は完成していると確信しているのです。

 しかし残念ながら、時代はアナグロの社会からデジタル社会に移行しようとしています。こんなに情報は氾濫しているのに、なかなか真実が見えてきません。本当に関心のない人しか、時代の流れは分からないのです。

 だけど、時代の流れが分かる人には、菊の言っていることが、菊以上に分かっているはずです。それが、ユビキタス時代といわれるものです。

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2007年06月15日
水と油で、車が走る  
魔法の水が誕生しました。


 いよいよ縁の花村も、世の中を変える本格的な活動を開始します。今、多くの同志、智閥の仲間が蒔いていた本当の種が、やっと実ろうとしています。水関係、IT関係、どんどん生まれようとしています。その中でも、この魔法の水は、本当にすごいです。まさしく世の中を画期的に変える魔法の水です。ご関心のある人は、是非、お読み下さい。
 魔法の水 ご紹介します。
http://www.geocities.jp/ennohana/mahounomizu/enno20070615.htm


美希    2007年06月15日

うわぁ〜〜〜!!!!(*^∀^*)

すごいすごいすごぉ〜〜〜〜い!!!!\(≧∀≦)ノシ

ついにそんなものが!!?

すごいです!!o(≧ω≦o)三(o≧ω≦)o゛

菊さん最高です!!(*^∀^*)

めっちゃ応援してます(*^^*)♪♪


ありがとうございます(^人^)

ヒロ   2007年06月15日

素晴らしい!

姫路の春風   2007年06月15日

ご無沙汰です 
水と油で、車が走る 魔法の水ついに誕生しました
 目につきましたので お伺いしました 

  この記事 紹介させてくださいね

トッポ    2007年06月15日

更に詳しい詳細がわかると面白いですね。
是非、日記でも紹介してくださいね。

ともちゃん  2007年06月16日
早く使いたいですね。

はいやーマン   2007年06月16日
凄いことになってるようですね。

どうやって作るのか、使うのか、早く知りたいですね。
うずうずしてま〜す。(0゜▽゜)0 ukiuki

菊    2007年06月16日
美希さん、ありがとうございます。
応援よろしくね、。

ヒロさんありがとうございます。
本当にすばらしいでしょう。

姫路の春風さん、ありがとうございます。
是非、お願いします。

トッポさんありがとうございます。
少しずつ、ご紹介していきますね。

ともちゃん、いよいよ智閥の活動、本格的になってきましたよ。ともちゃんも同志です。早く使ったね。

はいやーマンさんありがとうございます。
菊も、関西で、与えられたお役、精一杯やのますね。
でも、情報は、九州にいるはいやーマンさんのほうが、早いと思います。是非、実際の目で確認して、ご報告くださいね。
楽しみにしています。

イルカ   2007年06月16日
カキコ、遅れましたが、今後どお言う、展開になっていくのか
とても楽しみです。
ぜひ、良い方向え行く事、願ってます。

あれまーな    2007年06月16日
びっくりですね!
すごいです!

菊   2007年06月16日
イルカさん、ありがとうございます。
お互いによい方向に行くように、活動しましょうね。

あれまーなさん、びっくりしたでしょう。
でも、実感するのはこれからですよ。

2007年06月15日

プラットホーム空(くう)03 6月例会のご報告
 
 6月10日のプラットホーム空(くう)03の例会、おかげさまで、大成功しました。プラットホーム空(くう)03の例会の前にした、福岡の原先生の素質サプリメントのセミナーにも、20名以上の人が参加してくれました。プラットホーム空3のメンバーだけでなく、プラットホーム空(くう)01の、ミントさん、わらさん、merumoさんなど、他のプラットホームのメンバーも参加してくれました。心から感謝しています。

 また、素質サプリメントのセミナーも良かったです。生年月日で、分かる素質サプリメントも、何故、そうなのか、原点から話して頂けたのです。でも、それだけでなく、燃える水というか、神から頂いた魔法の水も、九州以外の本州で初公開して頂きました。実際にピンに入ったもの見せていただいたのです。匂いも、全員かかせて頂きました。

でもこれには驚きました。昔から、水と油は、混ざらないというのが常識でした。ことわざにもあるぐらいです。それが、油が6で、魔法の水の4で、見事に混ざり、5月31日に初めて、機械を使って誕生したものが、まだ分離せずに存在していることじたい奇跡です。

それを原先生は、得意の時代を変わる話と絡めて話してくれました。というのも、原先生によれば、木火土金水で言えば、今は、金の時代です。今の工業社会は、お金が何でも支配する時代だからです。でも、もうすぐ、金の時代から、情報や水の時代になるといわれています。2012年頃から本格的に始まる、ユビキタス時代です。その大切な時期に画期的なものが誕生しました。時代を変える水が生まれましたと話してくれたのです。

 しかもこの魔法の水、本当にすごいです。原理は、科学者ではないので分かりませんが、菊もよく知っていますが、九州大学に、今度定年で退職された高尾元助教授がいました。その高尾元助教授は、常温の原子転換の研究をされていました。

 それを皆さんに分かりやすく説明したら、鶏とか、牛などの動物を想像して下さい。実は、鶏や牛といった生物は、殆ど毎日同じものを食べています。人間のように、ビタミンが、どうとか、偏った食事とは言いません。しかし、健康です。食べ物が、体内の中で、別なものになっているのです。カルシウムやビタミンになっているのです。

 それと同じことが、今度の水では起こっている可能性が高いそうです。油と魔法の水に、よって新しいガソリンになったというのです。こうなると、菊には・・・・・です。
 でも、実際にあるのですから仕方ありません。しかも、その新しい魔法の水で、車が走っています。だから、今、この新しいガソリンは、高尾元助教授や、智閥の仲間に調べて貰っています。これからの検証に大きく期待したいと思います。

 そしてその後のプラットホーム空(くう)03の例会は、素質サプリメントのセミナーに参加してくれた人も、多く残ってくれて、大いに盛り上がりました。18名は参加してくれたと思います。

 また、ここでも、魔法の水の話が中心でした。今回、プラットホーム空(くう)03の例会に初参加した原先生も大いに熱くなった感じです。しかも、ラジオで、放送されたという魔法の水の話を、録音したというテープも聞きました。これは、菊が持っているので、聞きたい人は言って下さいね。もう、少しですが、マスコミでも紹介されたのです。

 そしてこの魔法の水は、ガソリンだけでなく、いろんなことに活用できるそうです。高価な化粧品にも使えたり、海水も分解できたりするそうです。だから、それが、本当なら、大変なことになります。・・・これからの魔法の水の力に期待したいと思います。

ただ、プラットホーム空(くう)03の例会は、何もしないことが、基本ですので、魔法の水に関しては、新たに研究会を立ち上げます。そこで関心のあるプラットホームのメンバーと研究していきたいと思います。

 そしてその後の二次会も大いに盛り上がりました。プラットホーム空(くう)01のcocoさんも駆けつけてくれて、本当によかったです。以上で、簡単に、プラットホーム空(くう)03 6月の報告終りたいと思います。

 次回のプラットホーム空(くう)03は、7月20日 第3金曜日、午後3時からです。
 プラットホーム空(くう)01とプラットホーム空(くう)02は、合同で、7月7日、土曜日です。
 プラットホーム空(くう)03が、主催する、水口先生や萩原さんに来て頂いて、プラットホームの構想を説明して頂く説明会は、7月22日です。関心のある人は、誰でも一回、ゲスト参加は可能です。無料です。是非、菊と何かのご縁がある人は、ご参加お願いします。

2007年06月15日
菊の自己紹介

 昨日、プラットホームのシナプス会議がありました。このシナプス会議とは、生物、人間の身体に例えたら、脳になります。全国のプラットホームのメンバー、組織の頭脳になるのです。

 また、このシナプスの会議は全国のプラットホームのメンバーでも駅長と、何か、特殊な技能、ITに関する技術を持っている人しか参加できません。菊は、先月から、プラットホーム空(くう)03の駅長をさせて頂いているので、参加させて頂いています。

 ここでは、いろんな事が話されますが、一つ、話題になったのは、プラットホームのソーシャル・ネットワーキング、「バーチャル・オフィス」にあるプロフィールの事でした。今、「バーチャル・オフィス」のプロフィールの項目が、充実しています。趣味、職業、専門領域などで、書くことがたくさんあるのです。

 だから、プラットホームのIT部門の専門家、バーチャル・オフィスを作って頂いている電脳魔王さんや、シナプス会議のリーダー、風の気概さんから、プロフィール、詳しく書くように依頼されました。

でも、菊自身、その意味、何が狙いなのか、よく分かりませんでしたが、説明を受けて納得しました。というのも、バーチャル・オフィスのプロフィールは、詳しく検索できるようになっています。ミクシイよりも、もっと、厳密にです。

ただ、個人情報を守る必要から、それができるのは、水口清一先生など、ごく限られた人ですが、この事とても大きいです。何故なら、今の時代、一流には、一流のスタッフがいます。
浜崎あゆみにも、イチロー選手にも、メンタル面、フィジカル面、テクニカル面、システムマネジメント・もちベーター、すべて一流のスタッフがいます。それで浜崎あゆみにしろ、イチローにしろ、あのように安定した活躍ができるのです。

でもそれは簡単なことではありません。企業経営者であれば、社員の方ができるかといえば、そんな事はありません。それはまれなことです。殆どは、外部の方々に、依存しています。そんな一流のスタッフが持てることは、本当にすごいことなのです。

しかし、それをプラットホームのメンバーは、全員持つことが可能になります。メンバーの人達、全員が、バーチャル・オフィスのプロフィールの中に、自分がプロとして、やれることを、詳しく書くことによってです。

例えば、プラットホーム空(くう)で言えば、健康面で言えば、気楽さん、メンタル面で言えば、空の仕掛け人さん、癒しの場ならcocoさん、イラストならルカさん、いろんな人がいます。どの人も、プロとしてやっていける人達です。

それが、全国のプラットホーム全体となると、その人脈は、とてつもなく大きいです。それをメンバーの人達は、自由に使うことができます。こういったことができるプロを知らないと頼んだら、検索して調べて貰えるのです。

これこそ、菊が、長年、夢見ていた高度情報社会の一つの姿です。いろんなプラットホームのメンバーの能力を、誰もが、自分の財産として使えるのです。ということで、菊自身、改めて、プロフィール作成しました。将来、そんな菊のプロフィールが、どんなご縁を呼ぶか分かりませんが、大きなご縁になること願っています。よかったら、とても長いですが、お読み頂けたら幸せです。
菊の自己紹介
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2007年06月09日

なんでんかんでん村情報 
第270号まで掲載しています。

 

 なんでんかんでん村情報第270号まで、縁の花「なんでんかんでん村」コーナーに掲載しています。特に、その中でも、「燃える水」の情報は必見です。

 今から、15年前、菊となんでんかんでん村の原裕一郎村長は、山梨県の清里に、高度情報科学セミナーというところで、合宿したことがあります。その時に、フリーエネルギーを研究していた地花敏彦先生から、いろんな話を聞かせて頂きました。もうすぐ、世の中にエネルギー革命が起こると聞いたのです。

 しかし、そういったものが世の中に登場したら、大変なことになります。人々の意識が変わらなかったら、開発されていても、世には出られないと教わったのです。

 その時期が、今なのか、まだ、もう少し先なのかは分かりませんが、原先生の言う智閥の仲間達を通して、「燃える水」とご縁が持てました。まさか、こんなご縁になるとは、夢にもおもいませんでした。そのことに深く、深く、感謝したいと思います。
 是非、皆さんも、これからの「なんでんかんでん村」情報や、縁の花村まぐまぐ情報に、注目して下さいね。いよいよ、ものすごいことになりますよ。

  なんでんかんでん村情報 第270号 燃える水
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2007年06月08日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
    第5章「天下平定」
     武田政権

 
武田勝頼は、武田幕府が開いた後2年後、天下が統一すると、すぐに信勝に、征夷大将軍の職を譲ると、大御所になりました。大御所として、まだ若い信勝を見守ったのです。

 また武田幕府の誕生は、多くの武田家臣にも繁栄を約束しました。この中でも、最大の禄があったのは、真田昌幸でした。上野一国、五十万石を与えられて、譜代の家臣として、その後、武田幕府を支えました。真田家は、名君が多く、大きな力になりました。真田家は、その智謀を天下に生かすことができたのです。

 でも、それは真田家だけではありませんでした。武田勝頼は、今まで仕えてくれた家臣に対しては、心から感謝していました。。恩に報いる為にも、大きな領土は与えませんでしたが、たくさんの家臣に、1万石から2万石を与え、譜代の大名にしたり、千石以上を与えて、旗本として登用したりしたのです。

 しかも勝頼は、長篠の戦でなくなったものたちのことも忘れませんでした。信玄の重臣として活躍し、長篠の戦でも自分を諌めながらも、戦になったら、必死で戦ってくれた家臣の子孫には、大きな領土を与えました。特に山県、馬場、内藤と、生き残った高坂の、武田四重臣には、高坂の15万石から始まって、山県、馬場、内藤にも、12万石が与えられたのです。だから、後々まで、武田家の四家臣といわれるようになったのです。

 こうして武田政権は、家臣に恵まれて繁栄しました。しかも一族でも、紀州一国を与えられた仁科盛信は別格しても、穴山氏、木曽氏、小山田氏も、それぞれ、10万石の領地をもらえました。武田家の一族、家臣は、長い間、一族を繁栄させることができたのです。

 また、勝頼は、幕府を実権は、譜代の家臣にしか与えませんでした。明智光秀や上杉家、毛利家、北条家には、外様の大名として、領地の安堵を保障して、取り潰しは、しないようにしましたが、政権には入れなくしたのです。ですから、後々まで、武田政権は続くことになったのです。

 それと政治でも、武田幕府は、鎖国の政策はとりませんでした。オランダ以外のヨーロッパ諸国との貿易は続けたのです。ですから、日本の国民は、豊かになりました。信玄公以来の民を大切にする政治をしたのです。

 そして最後に、勝頼の妹、松姫は、織田信忠の死を知ると、尼になっていましたが、織田信忠の長男がいることを知ると、その子を育てていました。勝頼は、そんな妹の好きなようにさせていましたが、やがて松は、○○するようになりました。一番、武田家では長生きして、多くの御霊の供養してくれたのです。また、それは、仁科盛信の娘、小督も同じでした。小督も、仁科盛信から愛されて、この時代には珍しく自分の好きな人と結婚し、幸せになれました。小督は、ある男性と結婚して、ずっと姫様として、長生きして幸せに暮らしたのです。

 おわり

2007年06月08日

縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
        第5章「天下平定」
           天下統一

田幕府が正式に決まったことで、天下統一は、急速に進みました。謙譲式に参加した毛利家、長宗我部家、北条家も、領土保全を条件に、臣下になりたいという申し込みもあったのです。しかし、武田勝頼は、後の世の中から戦をなくす為にも、毛利家や、長宗我部家、北条家が、今のような大藩であることを拒みました。上杉家には関しては、本能寺の変の前まで、同盟として戦ってきたので、越後と越中の一部で、五十万石を認めましたが、他の毛利家、長宗我部家、北条家とは、簡単に臣下に加えなかったのです。領土の半分から三分の一の割譲を求める厳しい条件を出したのです。

それで、戦になる事も心配されましたが、毛利家、長宗我部家、北条家には、戦う意志がありませんでした。今の武田家と戦っても、勝てないことは分かっていたのです。それで、交渉になりましたが、長宗我部家に関しては、明智光秀が担当しました。明智光秀は、本能寺の変が起きる前まで、長宗我部家との外交を担当していて、織田信長が、四国征伐を決めたことで、面目を潰されたことが、本能寺の変の理由の一つにもなっていました。

そのことをよく理解していた武田勝頼は、明智光秀に任せました。明智光秀は、長宗我部元親と粘り強く交渉して、土佐と阿波半国で、納得させました。長宗我部元親は、武田勝頼は、織田信長と違って、信頼できることは承知していて、それで了解したのです。

また、毛利家には、羽柴秀吉が担当しました。羽柴秀吉も、必死に説得して、毛利家に、長門、周防、石見の三カ国の大名として生きることを説得させました。納得しないのなら、自分が、再び、今度は武田家の兵を借りて、攻めると脅し、毛利輝元も承知しました。信長と違って、その後は、勝頼は、過酷なことはしないという、秀吉の言葉を信じて、最後まで、戦う気力はなかったのです。

そしてその後、北条家は、なかなか勝頼の説得に応じようとしませんでしたが、九州征伐が行われて、島津家が降参して、薩摩、大隈二カ国に封じられると、北条家も、勝頼の妻、北条夫人の仲立ちで応じました。勝頼は、最初は、北条家に対して、伊豆、相模、二カ国だけにしようとしていましたが、北条夫人の為に、駿河の国も与えました。こうして、北条家も五十万石の大名として、栄えることができたのです。

また、北条家の後、奥州の伊達家なども、全部、武田家の臣下になる事を求めてきました。その時に前提になったのは、領地の半分割譲でした。奥州の伊達家などは、納得していませんでしたが、しぶしぶ従ったのです。

でも、そのことによって、日本では、明智家以外には、100万石の大名はありませんでした。勝頼は、山城を足利家に割譲した明智光秀に対して、因幡、若狭、西近江を与え、唯一100万石を超える大名にしましたが、他の大名には、気前良くは領地は与えなかったのです。

それで、武田幕府は、大きな権力を持ち、300年後、明治維新を迎えたのです。しかも明治維新も、足利家から謙譲したことは大きな経験になりました。天皇家に、政権を帰す、大政奉還もスムーズに行ったのです。

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2007年06月08日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
            第5章「天下平定」
         武田幕府誕生


武田幕府が、誕生したのは、安土会議の後、しばらくした九月九日でした。京都で、正式に行われました。菊の節句の日でした。明智光秀は、安土会議の後、勝頼に言ったように、必死で、昔、仕えていた足利義昭を説得しました。今、足利義昭が滞在している毛利家に頼んで、直接行って、長い間話し合いました。

その甲斐があって、とうとう足利義昭も、将軍の地位を、勝頼に譲ることに納得しました。明智光秀自身が、武田家と争う意思がないのですから仕方ありません。最終的には、明智光秀が、自分の領地、山城の国を割譲するとまでいったことが大きかったのです。

しかも武田勝頼は、そんな明智光秀に答える為にも、足利義昭が、将軍の地位を自分に正式に譲ってくれるのなら、中国の宋を建国した、趙匡胤の石刻遺訓で書いていた、「皇位を譲った柴氏一族を子々孫々に渡って面倒をみること」に習って、自分も、足利家の子孫の面倒をずっとみると約束しました。

それで将軍、足利義昭は、武田勝頼に、幕府を開く権利を、禅譲しました。今や、武田家の力は、織田信長が生きていた頃よりも、遥かに大きくなっています。東は、北条家、上杉家とは、同盟を結んでいます。織田信正や明智光秀も家臣として、仕えています。それに対抗できる家はありません。自分が今世話になっている毛利家も、武田家と和議を結びたがっています。もう足利義昭には、どうすることもできませんでした。

それに甲斐源氏として、由緒のある武田家は、足利家にも劣らない家柄です。その気になれば、実力で、将軍になって、幕府も開くことができます。明智光秀の言うとおり、ここで、戦国大名の一つとしてですが、由緒ある元将軍家の大名として栄えることを決めたのです。こうして、後、足利家は、武田幕府のもとで、山城一国の戦国大名としても、栄えることになるのです。


だから武田幕府は、天正10年9月9日に正式に始まりました。京都で、天皇の前で、足利義昭や、公家、同盟国の、上杉家、北条家、毛利家、四国の長宗我部家なども参加している中で、盛大に行われました。京都にいる民も、参加して、その規模は、日本始まっていらいでした。新しい領地になった、但馬、播磨、摂津、河内、和泉、近江、越前、加賀、能登だけでなく、旧武田家の領土、甲斐、信濃、上野、駿河でも、3日間も祝いの祭りが行われたのです。

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2007年06月07日
6月10日は、すごい日です

いつもありがとうございます。
いよいよ6月のプラットホーム空(くう)03の例会が、6月10日、日曜日、午後3時から午後5時まであります。

今回は、菊の恩師で、福岡で、なんでんかんでん村の村長として活躍している原裕一郎先生、chibatuさんさんも来られます。プラットホーム空(くう)03の大切なメンバーの一人です。

その原先生は、生年月日で、人が生まれながら持っている、個性や素質を長年研究されて、素質サプリメントというものを、今、ご縁のある人に教えてくれています。四柱推命を元にしていますが、ものすごく当たっています。同じ、ホーミーアスカ住環研所で、12時からセミナーします。3千円ですが、是非、ご参加頂けたら幸せです。
素質サプリメントセミナー
http://www.geocities.jp/ennohana/sositugaku/enkoenkai20070610.htm



また、その後のプラットホーム空(くう)03の例会では、菊の恩師である原先生が、参加されます。プラットホーム空(くう)03の正式なメンバーになって頂いています。
何でもつい最近、原先生の智閥の仲間の人達で、燃える水なるものの開発に成功したそうです。
実験に成功した日の夜、早寝早起きの先生なのに、嬉しそうに、お電話くれました。
原先生の喜び、興奮が伝わってきました。
翌日の「なんでんかんでん村」情報で、早々と書いていました。
当日は、その燃える水も持参してくれます。
6月10日のプラットホーム空(くう)03は、とても面白くなりそうです。
しかも平日はお仕事なので、参加できなかったメンバーも、日曜日なので、参加してくれます。
誰でも、菊と何かのご縁がある人なら、1回だけゲスト参加はOKです。無料です。
是非、ご参加して下さい。
プラットホーム空(くう)03サイト
http://www.geocities.jp/ennohana/yumenopuraxtokuu3/yumenopuraku3.htm

プラットホーム空(くう)03例会 ホーミーアスカ住環研所
http://www.geocities.jp/ennohana/yumenopuraxtokuu3/KAIJOTIZU.htm


平成19年5月31日(木)
世界初!実験成功
なんでんかんでん村情報第270号
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2007年06月05日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
      第5章「天下平定」
       安土会議


武田勝頼と明智光秀が、近江の織田信長が造った安土城で会ったのは、八月十三日でした。羽柴秀吉との交渉がまとまり、和平が正式に決まった後、明智光秀が、勝頼のいる岐阜城で会いたいといったのです。それに対して、武田勝頼は、岐阜城ではなく、安土城にしようと提案しました。明智光秀は、信長に謀反を起こしたということで信頼がないことを気にしています。それに勝頼は、安土城に、自分が行くことで、答えたのです。だから勝頼は、弟で、副将の仁科盛信に、後はすべて任せると、念の為に、2万の大軍で、安土城に入ったのです。

しかし、それに対して最初、武田家の家臣は、最初反対しました。もし、信長と同じようにされたら、どうするのだというのです。でも、勝頼はあえて行きました。跡継ぎの信勝も、立派な武将になりました。弟の仁科盛信もいます。何も、心配がなかったのです。それに、明智光秀が、武田勝頼に、何の危害も加えるつもりはないことは分かっています。明智光秀も、勝頼を、信長と同じように、殺したら、天下の信頼は完全に失って、すぐに明知一族は、滅亡することは分かっています。勝頼は、何の不安もなかったのです。

また、明智光秀は、安土では、わずか三十名の家臣だけで待っていました。行く途中にある、近江の横山城、佐和山城、観音寺城も空でした。明智光秀も、それで勝頼に誠意を見せたのです。その上で、光秀は、武田勝頼と、安土城で、今後の天下の事を話しました。世に言う安土会議です。

ここで、明智光秀は、何故、自分が、主君である織田信長に謀反を起こしたのか、武田勝頼と二人きりになった時に説明しました。それは、天皇を守りたいということでした。ただ、その詳細は、武田勝頼も、明智光秀との約束なので、死ぬまで、詳しくは誰にも言いませんでした。勝頼と光秀の約束だったのです。勝頼は、それを最後まで守ったので、2007年の今も、詳しくは分からないのです。

そしてそんな光秀に対して、勝頼は、理解を示しました。明智光秀は、天下を取りたいために、信長に謀反を起こしたのではないことを認め、天皇家や武田家を救ってくれたことに、心から感謝したのです。

また、そんな明智光秀は感動し、安心すると、いくつかの条件を出しました。
それは天皇家をずっと尊重し、日本の財産として守ること。室町時代の足利家に対しても、それなりに優遇すること。日本から戦がない平和な世の中を築くこと。武田家が、天下をとっても、信玄公のように、民を大切にして、各大名に関しても、武力に訴えず、厳しい圧力や、取り潰しはしないこと。世に言う明智光秀の提言です。明智光秀は、それが、武田家が守ってくれるなら、信長に謀反を起こした自分ではなく、甲斐源氏として、家柄もはっきりしている、武田家が、足利家に変わって、武田幕府を開くべきだと薦めました。自分は、喜んで、家臣になると言い、足利義満にも、武田家に、幕府の権利を委譲するように説得すると誓ったのです。

こうして、武田幕府の誕生は決まりました。勝頼は、その二日後、八月十五日、織田信正を喪主とした盛大な信長の葬式をした後、本能寺の変、以後の処置を完全に決めました。
織田信正には、尾張一国を与えました。その中に、織田信雄と織田信孝に5万石ずつ与えています。柴田勝家には、美濃の半国を与え、残る半国は、前田利家や佐々成政などの柴田勝家の与力に与えました。同じように、羽柴秀吉にも、伊勢半国を与え、残りを、与力として活躍した、宇喜田秀家、丹羽長秀などに与えたのです。その代わり、越前、加賀、能登、播磨、但馬、因幡、美作、備前は、武田領としたのです。

これに対して、織田家の一族や、織田家の家臣からは不満が出ましたが、明智光秀自身が、手にした近江や、摂津などの国を、武田勝頼に委譲して、丹波、若狭、山城、三国の大名になったので文句は言えませんでした。明智光秀の、その行動で、織田家の家臣達も、しぶしぶ納得したのです。

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2007年06月03日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
     第5章「天下平定」
     羽柴秀吉の降伏


柴田勝家が、賤ヶ岳の戦を中止して、越前で、織田信正に降伏したことは、大きな影響を与えました。もう、明智軍、武田軍と敵対しているのは、摂津の富田でがんばっている羽柴秀吉だけになったのです。これで利に敏感な羽柴秀吉も、降伏を考えました。明智軍、武田軍が、ここまで有利と分かれば、背後にいる毛利家もどうなるか分かりません。明智軍、武田軍から要請されたら、断りきれるはずがないのです。

だから羽柴秀吉もあっさり降参しました。恩人である織田信長に謀反を起こした信長に降伏できないので、柴田勝家と同じように、織田信正に領地を差し上げて、織田信正に降伏したいと明智光秀に申し込んだのです。そうすることで、明智光秀と、武田勝頼が争うことを密かに願っていたのです。

しかし明智光秀は、その条件を飲みました。明智の家臣たちは、柴田勝家が、武田家の人質になっている織田信正に降伏したこと自体、武田家が裏で手を回して、策をめぐらせたことだと言って、憤慨していて、羽柴秀吉の降伏を受け入れるべきでないと反対していましたが、明智光秀は、承知したのです。

何故なら、明智光秀自身、武田家のやり方に憤慨しましたが、これ以上、いくさはしたくないというのが本音でした。特に、羽柴秀吉や、柴田勝家は、同じ織田家の仲間として、共に戦って仲間です。仲は、織田家の家中では、お互いにライバル同志なので、決していいということでもありませんが、一緒に戦ったいい思い出もたくさんあります。しかも、戦っている兵は、同じ織田家の兵です。戦は、もうこれ以上したくなかったのです。

 だけど、信長を殺した自分に、羽柴秀吉が、どんな事があっても、降参できるはずができないもの事実です。羽柴秀吉と同じように、何も持っていない自分を拾いあげ、一国以上の藩主にしてくれたのは、他ならぬ信長です。命の恩人です。その気持ちは、光秀自身、痛いほど分かっています。自分が、羽柴秀吉でも、絶対に降伏はできないだろうと思ったのです。

 また、羽柴秀吉にしろ、織田信雄にしろ、柴田勝家にしろ、織田信長が生きていたら、順調な人生でした。それをここまで狂わせたのは、他ならぬ明智光秀自身です。だから、明智光秀自身、羽柴秀吉や、柴田勝家に対してすまないと思う気持ちはありました。このままでは、羽柴秀吉も、柴田勝家も絶対許さないので、明智光秀は、愛する妻や家族、一族を守るためにも負けることは許されないので、必死に戦いましたが、できたら羽柴秀吉の妻、ねねなどの知っている人々、特に、女、子供は、戦国時代の倣いとはいえ、明智光秀は殺したくなかったのです。

それで光秀は、羽柴秀吉と交渉して、羽柴秀吉の条件だと、戦った家臣が納得しないので、摂津と但馬は、明智領としましたが、後は羽柴秀吉の言うように、播磨、因幡は、織田信正領、美作、備前は、宇喜田秀家領とすることで合意しました。これ以上、戦を長引かせて、愚図愚図したら、柴田勝家を降伏させた、武田勝頼が、羽柴秀吉の戦に介入することを恐れたのです。今、尾張、美濃、伊勢を手に入れ、徳川家康を家臣にして、上杉、北条とも同盟を結んでいる武田家と逆らって、戦をしても、とても勝ち目がない事は分かっていたのです。

そして、明智光秀は、羽柴秀吉が降伏すると、二人だけになって、素直に信長に謀反を起こして、殺したことを詫び、他の織田家の家臣にも詫びました。その上で、今度は、勝頼と、京都で会って、今後の事を話し合う決心をしたのです。

2007年06月02日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
      第5章「天下平定」
       賤ヶ岳の戦い

 七月十五日と十六日の八代の合戦で、家康を破ったことは、勝頼にとって大きな自信になりました。長篠の戦以降、自分は、家康、信長に、武将として劣っているのではないかと内心思っていましたが、その不安は完全に消えました。これからは、織田、徳川の時代ではなく、武田の時代だと確信したのです。

 また、それは北条家も同じでした。家康の敗戦を知ると、北条家も、上野から撤退しました。勝頼の要請で、越中の佐々成政をけん制していた上杉景勝も、勝頼の依頼で、上野に入ろうとしていました。もう武田家と戦っても、無駄だということが分かりました。尾張、美濃を手に入れた武田家の強大さが、北条家から戦意を奪いました。武田と北条の和議が始まろうとしていたのです。

 でも、戦自体は、まだ終りませんでした。伊勢では、北畠信雄と名乗っていた信雄が、織田の名字を名乗ると、尾張の岐阜城に攻めて来ました。北条家の相模に逃げ込んだ家康も、相模、伊豆には留まらずに、すぐに箱根を越えると、駿河を突破して、遠江に逃げました。武田家と北条家の和解を恐れ、すぐに大急ぎで、北条軍、一万の援軍の力を借りて、本国に逃げるしかありませんでした。北条氏政も、徳川家康が、突然、領国に入ってきたのに、戸惑い、厄介払いをしたくて、駿河まで、一万の兵を貸してくれたのです。

 それに対して、勝頼も、慌てて、蒲原城に兵を送りましたが、一日遅れで間に合いませんでした。まさか、家康が、ここまで早く、逃げるとはさすがの勝頼も予想していなかったのです。改めて、家康の武将としての偉大さを知ったのです。しかも、その為に、勝頼は、すぐに再び、尾張に向かうことになりました。まだ、戦は終っていないのです。しかし余裕はありました。もう、北条家が、武田家に戦を仕掛けてくることはありません。安心して、伊勢の織田信雄、三河の家康を叩けるのです。

また、賤ヶ岳で、柴田勝家とにらみ合っている、明智軍と仁科盛信の率いる武田軍のいる戦場も、ずっとにらみ合いの状態で、どちらも一歩も動こうとはしませんでした。柴田勝家も、二倍ちかい明智軍、武田軍を見たら、さすがに慎重になったのです。でも、勝頼が、尾張に戻ると、一気に、明智軍、武田軍、有利になりました。勝頼は、弱い織田信雄を徹底的に攻めて、近江に出ようとしている織田信雄を叩きました。わずか一ヶ月間の間で、織田信雄を、津城まで追い詰め、降伏させてしまったのです。

こうなっては、さすがの柴田勝家も、もうどうすることもできませんでした。その上に、徳川家康までも、勝頼の説得で、武田勝頼に降伏しました。家康は、これ以上戦っても、見込みがないことを悟って、本領安堵を条件に、武田方についたのです。しかも、上杉軍の猛攻も、激しく、越中を守っている佐々成政も、苦戦しています。

それで、柴田勝家も、賤ヶ岳から撤退して、越前に戻り、ここで、何と織田信正に降伏しました。明智光秀や勝頼には、降伏することはできませんが、織田信長の五男織田信正に、越前、加賀を貰って頂けるならという条件で降伏したのです。智将の真田昌幸が考えた謀略が成功したのです。

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2007年06月02日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第4章「甲斐・上野攻防戦」
   新府城の攻防戦 信勝の活躍と、家康の敗戦


家康が、甲斐に侵攻したのは、7月8日でした。1万の徳川全軍でした。3日と4日は、田中城、6日、江尻城を攻めてみて、意外と駿河の守りが堅いことに決断したのです。それで、7月10日、甲斐の北部にある新府城を攻めたのです。

でも、新府城も落ちませんでした。駿河の城を攻撃して、時間を費やしている内に、美濃の兵、四千は、到着していました。最初から、新府城を、北条の大軍と一緒に攻めていたら、わずか三千の守備兵しかいない新府城は、落ちた可能性がありますが、七千もいれば、別です。城主の留守を父から任された信勝も、たとえ、北条の大軍が来ても、新府城を守りぬく覚悟だったのです。

また、その士気の高さは、一日、攻めただけで、戦慣れしていた家康には分かりました。しかも間者の報告では、美濃の兵、四千が二日前に新府城に入ったというということです。もう一万で攻めても、落ちる城ではありません。その上に、激怒した勝頼が、三河から遠江に迫っているという報告も入っていました。家康は、すぐに新府城の攻撃を諦めました。尾張、美濃、駿河、甲斐とどこを攻めても、すぐに撤退ということで、家臣の信頼がなくなっていることは分かっていましたが、どうすることもできませんでした。時代の時流から外れるということは、運がないということがどういうことなのか、家康も痛感しました。本能寺の変の前の勝頼の気持ちが分かった気がしたのです。

こうして家康の新府城の攻撃は、わずか一日で終わり、信勝の名を上げる為に行われたのです。でも家康は、すぐれた武将でした。新府城の攻撃を諦めても、勝頼との決着は諦めませんでした。今なら、怒った武田勝頼よりと、同数の一万で、戦えます。甲斐国内で戦うことが不利なことは分かっていますが、万が一負けても、北条領に逃げ込むこともできます。今まで、不利と分かっていて、勝頼との戦いを避けたり、避けられたりしていましたが、ここで武将としてどうしても戦をしたかったのです。

それで、新府城の攻撃を諦めないふりをして勝頼を待ち、七月十五日、甲斐の八代で、戻ってきた、武田軍と戦ったのです。でも、その戦でも、家康は、勝てませんでした。三河の兵が強いと言っても、甲斐の兵の敵ではありませんでした。二日間、いくら戦っても、小競り合いでは負けてばかりだったのです。しかも家康が、いくら要請しても、北条家は、援軍は出そうとはしませんでした。上野でも、武田の守りは思ったよりも堅く、箕輪城さえ今だに落とせませんでした。武田の強さを痛感していたのです。

でも家康は、完全に負けませんでした。何とか、踏み止りました。武田の強さが分かっているので、正面からの野戦を避けていたことが大きかったです。だから家康は、新府城から信勝が五千の兵で、援軍が来ると分かると、これ以上の戦いの不利を悟って、撤退しました。五百名以上の死傷者を出しながらも、何とか、八代を離れて、北条領である相模に撤退することができたのです。

2007年06月02日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第4章「甲斐・上野攻防戦」
         新府城の攻防戦


7月3日、家康は、駿河に侵攻しました。羽柴秀吉が、天王山の戦いで敗れた以上、柴田勝家が、来ても、もう、尾張、美濃を武田家から奪うことは至難の業です。家康は、柴田勝家の力量を良く知っています。織田信長の元で、織田家筆頭になった人物です。武将として有能なのは間違いないです。

しかし、明智光秀や武田勝頼に勝てるかと言ったら、それは別です。圧倒的な優勢な兵力があれば別ですが、今のような劣勢だと難しいです。それは、家康にはよく分かっていました。家康は、今までずっと勝頼と戦ってきて、勝頼の武将としての力量も、高く評価していました。たぶん、柴田勝家は負けるとよんでいたのです。

でも家康は、その間に、何としても駿河を奪う必要がありました。駿河を奪わなければ、北条家との連絡が取れません。取れなかったら、今後、尾張まで手に入れた武田家とは、とても戦えません。自然に降伏するしか、道は残されていません。それで、柴田勝家が、近江に侵攻するという極秘情報を、北条家に伝えました。明智、武田と戦っている間に、上野、甲斐を手にいれるように唆したのです。

でも武田家を本気で怒らせることを恐れる北条氏政は、上野侵略には同意しても、甲斐侵攻は、まだ納得していませんでした。武田家の本国、甲斐に侵攻したとなれば、勝頼も激怒します。後々、再び、武田家と、和議を結ぶこともできなくなります。甲斐侵攻は、今はまだしないという返事が来ていました。家康の目論見、北条と武田が、甲斐、信濃と争っている間に、駿河を手にいれ、北条が、上野、甲斐を手に入れられるように、協力するという戦略は狂っていたのです。

だけど、家康は、諦めませんでした。何としても、駿河を奪う必要があったのです。でも、手薄なはずの駿河でも、本能寺の変の前とはまったく違った、以前の強力な武田軍がそこにはいました。田中城や、清水城を攻めてみて、家康は痛感しました。本能寺の変以降の武田軍の勝利は、もうすでに駿河の武田軍にも伝わっています。江尻城を守っている、自分に内応していた穴山信君も、もうそんな事はないかという感じで知らんぷりです。1万の兵で、田中城、江尻城を落とそうとしても、1ヶ月や、2ヶ月は必要な感じでした。城攻めが苦手な家康は、すぐに見切りをつけました。駿河を手にするのも容易ではないと思ったのです。

しかし、そんな家康にも、一つだけ落とせる可能性のある城がありました。それが、本来なら、甲斐にはないはずの新府城でした。新府城は、今まで、勝頼の父親である信玄が、「人は城、人は石垣、人は堀・・・・」と言って甲斐国内では、城を造らなかったのに、勝頼が、信長の侵攻を覚悟して、大急ぎで作らせた城です。要害堅固な場所にありますが、大急ぎで造っているので。まだまだ未完成な城の可能性があります。

しかも間者の報告だと、城兵の大半は、上野の兵三千で、甲斐の兵は、すべて勝頼の遠征に参加していないということでした。新府城の規模にしては手薄です。その上に、城主は、勝頼の息子、信勝ということでした。これなら落ちる可能性がある。うまくすれば、徳川軍が来たということだけで、信勝は、新府城を放棄する可能性もある。徳川家康は、そう思うと、冒険ですが、甲斐国内に入る決断をしました。新府城を落としたら、抵抗している駿河の兵も、意気消沈して、士気が落ちることを期待したのです。

2007年06月02日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第4章「甲斐・上野攻防戦」
       徳川家康の駿河侵攻


 また、7月3日、北条家の上野侵攻の翌日には、三河の徳川家康が、今度は、駿河に兵を向けたという報告も、甲斐から届きました。徳川家康と、北条氏政が示し合わせての軍事行動だということが判明したのです。それで、勝頼は、甲斐の兵六千と、美濃の兵4千、合計一万の兵を率いて、ただちに帰国する決断をしました。今、ここで、上野、駿河、甲斐を失う訳にはいきません。特に、甲斐は、最初の出陣の時に、全兵、六千を引き連れているので、守りは手薄です。

それは、上野から来た三千の兵を後に入れていますが、新府城はできたばかりで、まだまだ城としては不十分なところがあります。しかも新府城の守りは、勝頼の跡継ぎ、信勝に任せていますが、まだ戦の経験は豊富ではありません。敵が、甲斐に侵攻したら、新府城を焼いて、信濃にまで引いても構わないといっていますが、信勝が、それをするかは分かりません。

要害堅固の場所に建てた新府城が、無駄、無駄落ちるとは思いませんが、守る兵の数は、三千と手薄です。勝頼にしても、真田昌幸にしても、その事が分かっていたので、尾張、美濃に侵攻に成功したら、すぐに降伏して兵を、三千程度送る予定でいましたが、徳川家康との戦いの為に、そのゆとりがもてませんでした。やっと、三日前に、美濃の兵四千を、信濃の伊那のルートから送りましたが、間に合うかどうかは分かりません。

信濃の伊那から甲斐に入るには、急いでも六日はかかります。勝頼と真田昌幸にはしまったという気持ちがありました。北条は、どうせ、評定ばかりで、行動は起こさないだろうという勝頼、真田昌幸の油断があったのです。勝頼も、またライバルであった北条氏政を侮っていたのです。

しかし、その後の勝頼の行動は敏速でした。甲斐六千と尾張の兵四千の兵、合計一万で、すぐに少し危険ですが、三河、遠江の徳川領土のルートから、帰国を目指しました。岐阜城からなら、東海道のルートで急げば、六日で、駿河に到着します。信濃のルートよりも、遥かに早いのです。

しかも勝頼が、三河から侵攻したことを知れば、家康も迂闊には、甲斐には入れません。下手をして、駿河で勝頼と戦になったら、全滅する可能性もあります。そんな危険はしないだろうと思っていたのです。


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2007年06月02日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第4章「甲斐・上野攻防戦」
        北条家の上野侵攻


 仁科盛信を、今度は、柴田勝家との戦いに送った、二日後の七月二日、岐阜城にいた勝頼のもとに驚くべき報告が甲斐から、送られてきました。本能寺の変を知った後も、しばらく様子を見ていた北条家がついに動いたという知らせでした。北条家は、今までずっと静観していましたが、徳川家康から、何度も、参陣の要請があると、ついに北条軍、三万を上野に向けました。このままでは、武田家が、尾張、美濃を支配して、北条家も凌ぐ大名になるということが、北条家の当主、氏政にとっては許せなかったのです。

 ただ、北条氏政が、上野に侵攻したのは、それだけではありませんでした。北条氏政は、勝頼が、尾張、美濃を完全に支配する前に、念願の関東支配を完成させるつもりでした。遅かれ早かれ、武田家とは、戦うなり、和議を結ぶなり、対決する必要があります。
その時に、交渉する上でも、上野、四十九万石が必要だったのです。

 また、それは、武田勝頼が、もっとも恐れていた事でした。勝頼は、手薄になっている上野、甲斐、駿河に、北条軍、徳川軍が、連合して侵略してくることを恐れていました。尾張、美濃を手に入れても、駿河、甲斐、上野を取られたら、何にもならないのです。

 しかし、勝頼自身も、そのことを想定して、ある程度の程度は、事前に打っていました。駿河には、四千、兵が空っぽになっていた甲斐にも、新府城に、上野の兵、三千、上野にも五千の兵を配置していました。上野の守りでも、一番重要な美輪城に内藤  の子供である内藤    二千五百、沼田城に、真田の兵、千五百、同じく岩  にも、真田の兵、千を配置していました。これで、半年間、北条家の攻撃を凌ぐように命令していたのです。

 しかも、勝頼は、密かに、北条家に使者を使わして、和議も求めていました。以前の、同盟を密かに申し込んでいました。何とか、北条家が攻めてくるのを防ごうとしていたのです。

 でも徳川家康も、何とか、北条家を動かすことで必死でした。尾張、美濃で、武田家に遅れを取った以上、家康の残された手は、北条軍を動かすことでした。北条軍に、甲斐、上野を攻めさせ、その間に、自分も駿河か、尾張かを奪うつもりでした。その為に、北条家に、上野と甲斐、徳川は、駿河という条件をだしていました。それができない限り、武田軍に、両家は、このままでは滅ぼされると説得していて、北条家は、その言葉に動きました。このまま武田勝頼の思いのままにさせないという氏政の勝頼に対するライバル心、侮っている気持ちが、動かしたのです。


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縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第4章「甲斐・上野攻防戦」
           柴田勝家


勝頼が、大垣城で、明智、武田連合軍の勝利を聞いたのは、六月二十三日の夜でした。しかも、戦場では、仁科盛信率いる武田軍が、無類の強さを発揮して、羽柴軍だけでなく、味方である明智軍まで恐れさせたという報告も入っていました。その仁科盛信の活躍は、勝頼を満足させました。父、信玄が、築いた武田家の栄光が蘇ったことを確信しました。敵が、武田軍を恐れることが、どれだけ大きな力を発揮するか、勝頼は、長篠の戦で大敗してから、良く理解していたのです。

また、その勝利の知らせは、すぐに大きな影響を与えました。岐阜城を攻めていた家康にも、その知らせは届いたのか、二十四日には城攻めを中断すると、二十五日には、兵を引き上げていました。その軍の中には、金華山にいた滝川一益の率いる千の兵もいて、勝頼は無血で、金華山も得ることができました。岐阜城を手に入れたのです。こうして、武田は、尾張と美濃を、大国、両藩を得ることができました。その領土は、明智光秀も越えて、日本で最大の大名になっていたのです。

しかも勝頼は、密かに連れてきていた人質だった信長の五男ご御坊丸を、岐阜城の城主にすると、ご御坊丸に、美濃半国を与えました。その上で、名前も、織田信正と名乗らせて、織田家の家督を継がせることを、内外に示しました。明智光秀も、了解を得られたので、発表したのです。

そしてその効果は、織田家中に大きな影響を与えました。織田家の家臣の中には、新しく藩主になった、織田信正の元に仕官を求めるものも現れていました。最早、織田家は、武田家に負けたということを、内外に示したのです。

しかし戦いは、まだ、これからでした。やっと、六月三十日、戻ってきた仁科盛信と合流したものの待っていたのは、新たな戦いでした。上杉家を越中の佐々成政に任せて、柴田勝家が、二万の大軍で、近江の木之本まで攻めて来ました。柴田勝家は、秀吉の敗戦を知り、自分でしか、明智、武田には勝てないと思ったのです。それに対して、明智光秀も、早速、斉藤利三に、二万の兵を預けると、長浜城まで進めました。明智光秀は、柴田勝家よりも、羽柴秀吉の方に脅威を感じていて、丹波の亀山城から動かず、天王山に二万の兵を配置したまま、警戒していたのです。

また、武田勝頼も、明智光秀の要請を受けると、仁科盛信に、新しく兵になった尾張、美濃の兵、一万の兵を加えた二万の兵で、近江の明智軍の元に援軍と送りました。勝頼は、明智光秀が天王山で勝利したことの意味を、このときに心から悟っていました。もし、あの時、仁科盛信が、明智光秀の要請を拒んだり、自分の了解を得るまでと、なかなか出撃しなかったりしたら、明智光秀は諦めて、秀吉の大軍に破れて、自分も、仁科盛信も負けていないのに、今頃、羽柴秀吉、徳川家康、柴田勝家に包囲されて、尾張、信濃を手放していることになっていました。

野戦で負けることは許されない。勝頼は、明智光秀が負けることは、武田が負けたことになることを悟っていました。どうしても、明智軍には、負けさせるわけには行かなかったのです。

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2007年06月01日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「尾張・美濃攻略」
            金華山の落城

滝川一益が、金華山を下りて、徳川家康と会ったのは、六月二十日でした。徳川家康が迫ってきたことで、武田軍は、金華山の包囲を解きました。それで滝川一益は、徳川家康に会い、今の動きを正確に把握することができました。もうすぐ、猿、羽柴秀吉と、裏切りものの、家康が、天王山あたりで戦うことも知ったのです。

しかし、滝川一益の願いも空しく、勝利は、明智軍でした、仁科盛信率いる武田軍が、強兵ぶりを見せつけたという報告も教わったのです。また、その現実は、滝川一益にも大きな決断は求めました。家康は、岐阜城の攻撃を中止して、早々と、三河に兵を引くといいます。もし、滝川一益が、本能寺の変を知らせていたら、こんなことにはなっていなかったと不満げにいったのです。

それに対して、滝川一益は、家康も、信長の死を知ったら、すぐに尾張に兵を向けたではないかといいかけましたが、辞めました。今は、そんなことも言っても仕方ありません。すぐに、仁科盛信は、軍を戻し、勝頼と合流して、岐阜の金華山に篭っている自分を責めることは明白でした。それに対して、わずか千名の兵では、どうすることもできません。武田軍に包囲されたら、いつかは、金華山も落ちることは、明白だったのです。

また、それに対して、柴田勝家は、やっと軍を出したという知らせを届けてきましたが、岐阜にまで来るには、近江の長浜城、横山城、美濃の大垣城を抜ける必要があります。それを、明智、武田軍が黙って通すわけがありません。半年しても、金華山に来られない可能性があったのです。

そしてそんな中で、徳川家康が、勧めたのは、伊勢の木造城に落ちて、北畠信雄と合流して、伊勢の兵、1万二千で、自分と共に戦うということでした。家康は、最早、岐阜城が落ちた今、金華山に篭る意味はないといったのです。それで、滝川一益も、本拠である木造城で、武田軍と戦う決心をしました。この時期、北畠信雄は、信長の二男にも関わらず、無能なのか、何もしようとはせず、殆ど活躍はしませんでした。伊勢から出て、近江に出ていましたが、仁科盛信の軍が、尾張を占拠したと知ると、慌てて、伊勢に戻り、そこから出ようとはしませでした。

もし、北畠信雄が、尾張に援軍を出していたら、こんなことにはなっていませんでしたが、仁科盛信の動きは、武将としての力量が落ちる北畠信雄には信じられなかったのです。でも、信孝がなくなった今、織田家は、北畠信雄しかいません。滝川一益は、金華山を捨てると、伊勢の北畠信雄と最後まで戦う決心をしたのです。こうして、岐阜城の山、金華山も無血で落ち、岐阜城は、完全に武田のものになりました。美濃、尾張を武田は支配したのです。



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2007年06月01日
 縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「尾張・美濃攻略」
         徳川家康の反撃

勝頼は、六月十八日、岐阜城を落とすと、一息つきました。仁科盛信の率いる武田軍、一万が、明智光秀の救援に向かったと分かれば、岡崎にいる徳川家康が、再び動く可能性が高いです。それで必死に、十四日から、岐阜城を攻めていました。岐阜城を抑えたら、美濃の大半は、支配できます。岩村城、明知城の城兵も、降参してくる可能性が高いです。
勝頼も必死だったのです。

しかし、徳川家康ももっと必死でした。もし、尾張だけでなく、美濃も抑えられたら、三河、遠江の徳川家は、完全に、武田軍に包囲されてしまいます。領土でも、二百五十万石という、三河、遠江、五十万石の五倍もある大大名に武田家はなってしまいます。そんな武田家に逆らう力など、徳川にありません。何としても、武田家に、尾張、美濃を取られる訳にはいきません。家康は、仁科盛信の兵が、京都に向かったという知らせを、十五日に聞くと、ただちに、徳川軍、全軍1万で、十六日に小牧城、十七日には、清須城と攻撃したのです。

でも守りを固めている小牧城、清須城は、家康が攻めても落ちませんでした。兵の数が足りないのです。それで、家康は、十八日、勝頼りが攻めている岐阜城の救援に向かいました。何としても、岐阜城は、守る必要があったのです。けれど、それも一日違いでした。岐阜城は、落ちてしまったのです。

だけど、家康は、進軍をやめませんでした。家康の狙いは、岐阜城救援だけでなく、勝頼の首にあったからです。もはやこの局面を挽回するには、勝頼の首しかなかったのです。
でも、勝頼は、その事は理解していました。勝頼は、今、ここで徳川家康と戦うつもりはありませんでした。七千と一万では、いくら強い、甲斐、上野の兵といっても、三河の強兵と戦うのは不利です。しかも攻城戦で、兵は疲れていますし、千名ちかくの負傷兵も出しています。それで勝頼は、岐阜城に四千の兵を置くと、自分自身は、真田昌幸の勧めで、二千の兵を率いて、美濃の大垣城に入るという大きな決断をしました。

何故なら岐阜城に、四千の兵を入れて、守りを固めても、金華山を占領されているかぎり、岐阜城は、山の上から攻撃されます。徳川一万に城の外から、滝川軍に、城の上から、攻撃されたら、岐阜城は落ちる可能性がありますし、何よりも、金華山から石を落とされて、勝頼が負傷するという可能性もあります。そんな危険は避ける必要がありました。それで、万が一の時は、岐阜城の西側にある大垣城に入ることを考えていたのです。

また、この策は成功しました。十九日、家康は、岐阜城に迫ると、勝頼が大垣城に、去ったということを知って、勝頼が、自分と戦をする意思がないことを悟りました。このまま、大垣城に迫っても、明智光秀の領土になった、近江の長浜などに逃げるつもりだということを悟ったのです。それで、家康は、岐阜城を攻めました。金華山の滝川軍も、山の上から、大きな岩を落として、協力したのです。

でもそんな家康の攻撃も、二十二日、羽柴秀吉と、明智光秀の天下分け目の合戦に、明智軍が勝利したことが分かると、挫折しました。家康には、すぐに仁科盛信が、軍を引いて、戻ってくることは分かっていました。今、岐阜城で戦えば、兵力的に劣る徳川軍は、全滅してしまいます。どうしてこんなに裏目ばかり出るのか、家康は、天を恨みながらも即断に撤退しました。金華山の滝川軍に、そのことを知らせて、すぐに、滝川一益に、金華山から逃げることを勧めて、兵を三河に戻したのです。


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2007年06月01日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「尾張・美濃攻略」
              滝川一益


六月十九日、岐阜城に上にある金華山で、岐阜城を占領している武田軍を眺めながら、今だに信じられない思いで一杯でした。六月二日、織田信長が、本能寺の変で、討たれるまで、こんな事は考えられないことでした。長篠の戦で、上様、信長に大敗した武田軍は、崩壊寸前でした。滝川一益が、密かにばら撒いていた誓詞の効果もあって、織田家に内応する武田家臣も現れていました。木曽氏なども、いつでも武田家を裏切ることを約束していました。武田家など、いつでも滅ぼせるところまで進んでいたのです。

 しかし、六月二日、本能寺の変が起きると、信長がいなくなると、時の流れは、一気に逆流しました。滝川一益が、織田家臣の急報で、その事を知ったのは、六月四日の朝でした。明智光秀が、謀反を起こしたことを知ったのです。それで、滝川一益は、パニックを起こしてしまい、その後、どうしたらいいか分からなくなりました。滝川一益が、唯一した事は、北陸の柴田勝家や、清須城に、その事を知らせて、守りを固めることと、明智光秀や、徳川家、武田家の使者が、本能寺の変が起きたことを、本国の徳川家や武田家に報告するのを、一日でも防ぐことでした。

 美濃や、尾張に、他家の使者が通ることは許さず、見つけたら、同盟国の徳川の使者でも、捕らえる命令を出したのです。その為に、家康の元に、連絡が行くことは大幅に送れました。徳川の使者は、美濃、尾張を密かに抜けて、家康の元に知らせた為に、家康の元に、本能寺の変が起きたことが伝わったのは、六月八日でした。本来なら、六月五日には、伝わるはずだった情報は、遅れてしまったのです。

 でもその事がよかったのかどうかは、分かりませんでした。明智光秀の使者は、滝川一益が、手を打つ前に、岐阜城を抜けていたのか、すぐに武田家に知らせは届き、何と、六月六日には、美濃に、仁科盛信の軍が、侵略したという報告が届いていました。事前に光秀から知らせが行っていたのではないかと思うぐらいの速さだったのです。

 しかもそれに対する織田軍の崩壊は、滝川一益自身、信じられない思いでした。美濃の武将達は、わずか二千の仁科盛信の軍と戦おうともせず、仁科盛信の進軍を許しました。滝川一益の命令も、信長がいないとなると、従おうとはしなかったのです。それで、六月十日には、清須城が落ち、十一日には、小牧城も落ちました。清須城を守った兵は、武田軍が迫ったという情報が流れると、わずか三百になったというのです。

 上様、信長がいなくなると、こんなことになるのかと、滝川一益自身、改めて、信長の偉大さと、織田軍のもろさを痛感したのです。でも、それでも滝川一益自身、必死で織田家を支えました。兵の逃亡を防ぐ為に、岐阜城に監禁して、味方同士で見張るようにしたのです。だけど、滝川一益自身、それ以上は何をしたらいいのか分かりませんでした。命令してくれる信長いないと何もしていいのか分かりませんでした。ただ、岐阜城に篭城するしか考えられなかったのです。

 だけど、滝川一益は、それでも、勝頼が、七千の兵で、迫ると、必死で戦いました。もし、最低でも五千の兵がいたら、広い岐阜城を守ることも可能でしたが、3千の兵では、少なすぎました。四日後、岐阜城を占拠され、金華山に、兵を引き上げることになったのです。

 でも、滝川一益は、最後まで戦うつもりでした。北陸の柴田勝家には、何度も使者を使わせて、現状を報告していました。柴田勝家からも、すぐに軍を出すという使者も届いていました。滝川一益は、それを信じて、金華山で最後まで、戦うつもりだったのです。


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2007年06月01日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「尾張・美濃攻略」
           岐阜城攻略

六月十一日、尾張の小牧城に入った勝頼に、仁科盛信の伝令が届いたのは、直前でした。中国の毛利家と戦っていた秀吉が、毛利家と和議を結んで、9日に、姫路を出て、京都に向かっているとの、明智光秀から知らせが入ったというのです。しかも光秀は、兵力的にも、羽柴軍の半分程度しかなく、今戦えば負けるので、強力して欲しいという援護要請があり、自分は、信濃、美濃の兵を連れて、すぐに参陣するとのことでした。緊急事態なので、その事を承知して欲しいというのです。

だから勝頼は、その報告に驚きながらも、心良く承知しました。勝頼の側には、軍師、真田昌幸がついていました。真田昌幸は、明智光秀が敗れた時のことを、正しく判断していました。仁科盛信が、大急ぎで、明智軍を助ける決断をしたことを支持しました。仁科盛信は、信玄公と同じ戦略だと内心舌を巻きました。今、仁科盛信が、大急ぎで向かえば、畿内の武将は、日和見を決め込んで、明智光秀と羽柴秀吉は、五分に戦えると想ったのです。さすがの昌幸も、自分達、武田軍が、天王山で、圧倒的な力を発揮するとは思わなかったのです。

しかし、その反面、仁科盛信が、信濃の兵、1万以上連れて、京都に向かったので、勝頼は大忙しになりました。そのことを知った徳川家康が、再び動くことは想像できました。勝頼は、自分が率いる武田軍から、三千の兵を清須城に派遣すると、尾張の守りを固めました。尾張の清須城に武田軍三千、小牧城に武田軍千二百、勝幡城に武田軍八百と、兵を派遣して、尾張を事実上支配したのです。

 その上で、真田昌幸の勧めで、降参して来た尾張の兵も、家臣に加えていました。尾張の兵は、次々に、武田軍に参加を求めていたのです。それで、清須城は、五千、小牧城は三千、勝幡城に、二千という兵を配置できました。徳川家康が、一万の兵で攻撃しても、易々とは城は落とせなくなっていたのです。

 また勝頼は、その上で、残る三千の兵を率いると、美濃で、駆けつけた上野の兵、四千と合流して、七千の兵で、岐阜城にいる滝川一益を、六月十四日に攻めました。勝頼の動きも、仁科盛信に劣らずに、敏速だったのです。

 でも滝川一益が守る岐阜城は、清須城や小牧城のようにはいきませんでした。本能寺の変で、信長が明智光秀に討たれたことが分かると、岐阜城の五千の兵も、大混乱しましたが、滝川一益は、必死で兵をまとめました。その後、武田の武将仁科盛信が、六月六日に、美濃に侵略したという知らせを受けても、動揺はしませんでした。何とか、兵の逃亡を、できるだけ防いだのです。ですから、勝頼が、六月十四日、岐阜城を囲んだ時も、岐阜城には、三千の兵が残っていました。

 滝川一益は、岐阜城から、兵が一歩も出ることを許さなかったことが大きかったのです。しかし、三千の兵で、岐阜城を完全に守ることは不可能でした。岐阜城の兵は動揺して、士気は落ちていました。これに対して、七千の武田軍は、生き盛んでした。勝頼は、七千で全軍を持って、必死で攻撃したのです。

 それで、四日後、勝頼は、何とか、岐阜城を落とすことができました。滝川一益は、岐阜城を捨てて、岐阜城に上にある金華山に、残る兵、千五百を集めて、篭城する事になったのです。

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2007年06月01日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「天王山の決戦」
      明智光秀と仁科盛信三

 

天王山に、明智光秀と一緒に登っていた仁科盛信は、羽柴秀吉の軍が引いていくのを見ながら、今後のことを考えていました。羽柴軍を破ったことで、西側の当面の危機は去りました。摂津の富田に、兵を引いた羽柴軍が、すぐに引き返して、明智軍に挑んでいることは、考えらませんでした。いくら秀吉でも、戦線を立て直す必要があります。

その間に、山崎の戦いで勝利したことで、明智光秀には、日和見している畿内の武将からの援軍が期待できます。仁科盛信は、明智光秀に会って、共に戦い、その武将としての力量もはっきり分かりました。明智光秀が、自分の野心だけで、信長に謀反を起こした人物でないこともよく分かりました。若狭の長岡親子、大和の筒井順慶が、参陣することは時間の問題だと想ったのです。


 また、光秀が勝ったことに気を良くして、摂津富田に兵を向けず、河内、和泉に6千の軍を向けようとしている考えにも賛同しました。今、摂津富田に軍を向けて、富田城を落とせず、膠着しているところに、北陸の柴田勝家や、徳川家康に攻められたら、大変なことになります。ここは、指揮する武将がいない、河内、和泉を手に入れて、味方の兵の数を集めて、天王山で守りを固めることが最善の策です。天王山と淀川の狭い地域で、守りを固めたら、簡単に羽柴秀吉と言えども、軍を突入できません。ここは、天王山から出ずに、守りを固めるべきでした。それを実行している光秀の武将としての力も、冷静に判断していたのです。

 しかし仁科盛信は、この天王山にいつまでもいるつもりはありませんでした。勝頼からは、使者が何人も来て、岐阜、尾張の戦況は詳しく報告されていました。それによると、仁科盛信の軍が、明智光秀の援軍として向かったことを知った徳川家康は、再び、軍を尾張、美濃に向けて迫っているとのことでした。しかも柴田勝家も、越中から軍を引いて、出陣の用意をしているとのことでした。新たな戦が始まろうとしていたのです。

 だから仁科盛信は、明智光秀に、現状を伝えて、天王山の戦場を離れる了解を得ようとしました。本能寺の変を起こしてくれたことで、武田家を救ってくれた義理を返したと判断していたのです。でも、武田軍の強さを知った明智光秀は、なかなか最初は承知しませんでした。徳川軍の動きは、明智光秀にも伝わっていますが、今、武田軍が引いたら、再び、羽柴軍が引き返してくるのではないかと恐れたのです。
 
でも、結局、仁科盛信の、再び、羽柴秀吉が戻ってきたら、駆けつけるという言葉と、明智光秀の希望、中信、北信の兵、五千は、天王山に残すという条件を承知したことで、明智光秀も、納得しました。徳川家康の脅威は、明智光秀も、取り除く必要があったのです。明智光秀は、中信、北信、五千の強力な武田軍を得るだけでなく、その兵を万が一の時には、人質として使えることで、しぶしぶ承知したのです。

2007年06月01日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「天王山の決戦」
      明智光秀と仁科盛信二

 
それで、明智光秀は、仁科盛信に、六月十八日に、近江の坂本あたりで、武田軍を迎える時に聞いています。羽柴秀吉の中国大返しも驚きましたが、武田の大返しにも本当に驚いたからです。しかし、仁科盛信は、明智光秀の、「どうしてそんなに早く軍を動かせたのですか」という問いに、多くは語ろうとはしませんでした。「ただ、諏訪大明神、武田八幡大菩薩」のご加護、お告げがあったとしか言いませんでした。仁科盛信が、ただ、藁にもすがる思いで、何かが信長に起こることを期待していたという本当の事を言ったのは、後の話だったのです。
 
 しかし、そのことを詳しく話さなかった仁科盛信の判断は、明智光秀に大きな影響を与えました。明智光秀は、本能寺の変を起こす前、神仏に何度も願っていました。「自分が、信長を討つのは、天下を取りたいという野心の為でなく、天皇家を守るためです。」と訴えていたのです。その願いが、遠く、甲斐、信濃の武田家の神に伝わって、神が、武田軍を使わせてくれたのではないか。そんなことを思っていたのです。

 また、仁科盛信、武田勝頼は、神のお告げはないですが、心から、明智光秀に感謝し、支えるつもりでした。6月4日の深夜、明智光秀の使者が到着したという報告が来ると、すぐに駆けつけ、本能寺の変を知ると、すぐに使者を明智光秀に派遣しています。明智光秀の援軍の要請にすぐに応じると約束し、心から明智光秀の決断に賛同の意を表し、武田家を、信長の脅威から救ってくれた明智光秀に感謝しました。仁科盛信は、明智光秀を武田家の恩人と、心から遇するつもりだったのです。

 そして仁科盛信は、その言葉どおりの行動を示していました。事前に、何かあったら、兵を動かせるように、槍や刀、鎧などの武器も、伊那の何箇所の所に集めていたので、通達が来ると、兵は、重いものを持つ必要がなく、翌日の6日には集まることができました。武田家の持っている馬が、重い荷物を運んでくれていて、大きな力を発揮してくれたのです。
 
 しかもそれ以降も、仁科盛信は、毎日、使者を、二、三人派遣して、自分の動きを伝えさせていました。6日、美濃に出撃したこと、7日に、岩村城、明智城を抜けて、岐阜に目指していること、10日には、清須城を奪ったこと、全部報告していたのです。
 
 その上に、勝頼もまた、同じように、明智光秀に、遠く甲斐から、使者を派遣してくれていました。徳川家康に、本能寺の変の事が漏れることを恐れて、使者は、東海道ではなく、甲斐、信濃という遠回りをして派遣するか、武田水軍に護衛させて、堺にまで、使者を送らせていました。明智光秀との連絡を大切にしていたのです。

 それは、本能寺の変以後、自分が考えていたよりも遥かに支持されなかった明智光秀にとって、本当に涙が出るぐらい嬉しいことでした。不安を持っている家臣にも、仁科盛信や、武田勝頼の知らせを伝えることで、安心させることができました。もうすぐ、武田軍、2万が到着するという言葉は、説得力があったのです。

 しかしそんな明智光秀も、仁科盛信が、清須城を奪った後、すぐに駆けつけてくれるとは思っていませんでした。もし、仁科盛信が、武田家のことを考えているだけなら、自分の援軍として駆けつけずに、岐阜城を攻撃して、尾張、美濃の支配を完全なものにしてしまうはずでした。でも仁科盛信は、あえてそうせずに、自分の為に、美濃、尾張の攻略を、中断して駆けつけてくれました。仁科盛信に、自分と同じ天下を想う気持ちがあることを、その事実が示していました。明智光秀は、仁科盛信に脅威を感じながらも、心から味方として、信頼していたのです。



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2007年06月01日
縁の花 第223号「武田勝頼の復活」
       第3章「天王山の決戦」
      明智光秀と仁科盛信

 

6月21日、明智光秀は、天王山に上に登ると、撤退していく羽柴秀吉軍を見ていました。
 側には、側近の斉藤利三と、仁科盛信がいました。勝った。明智光秀は、天王山から、引き上げていく羽柴秀吉軍を見ながら、その実感がやっと湧いてくるのが隠せませんでした。この山崎での戦いは、後の天下人を決める大きな戦いだということがよく分かっていたのです。

 また、この戦いに勝利した意味は、明智光秀にとって、本当に大きかったです。羽柴秀吉に勝利したことで、当面の大きな、最大の脅威から免れることができただけでなく、日和見している自分の娘、お玉と嫁いでいる親戚になる長岡忠興や、本来なら与力になる筒井順慶も、この結果を知れば、自分の元に駆け込んでくることは、間違いないです。その時には、明智光秀は、心良く許すつもりでした。筒井順慶で1万、長岡親子で、3千の新たな兵が持てる計算をしていたのです。

しかし、もし、この結果を知っても、自分の味方にならないときは、軍を派遣して、すぐに攻撃する覚悟も決めていました。秀吉の脅威を打ち破り、背後を、武田軍が守っているので、明智軍には、その余裕がありました。兵力も、時間もあったのです。しかも、秀吉が守っている摂津は無理でも、河内、和泉に対しては、すぐに兵を出して、治めることは簡単でした。河内、和泉で新たに50万国、1万の兵を計算することができますし、和泉にある堺を手に入れることもできます。財源、お金と、鉄砲も、持つことができるのです。

そして、明智光秀は、それはすべて、武田信玄の息子、武田家の副将、自分の側にいる仁科盛信のおかげだという事もよく分かっていました。もし、12日に、すぐに駆けつけるという仁科盛信という返事がなかったら、自分は、1週間前、この天王山の地で、逆に破れ、明智一族や、嫁いだお玉に悲惨な運命が待っていたのではないか、明智光秀は、冷静にそう判断していたのです。その意味で言えば、仁科盛信には、本当に心から感謝していたのです。

でも、同じ武人として、明智光秀は、仁科盛信の力量も恐れていました。まだ若い仁科盛信に、信玄公の再来を感じていました。清須城から、使者の言葉で、すぐに戦況を正しく理解した頭のよさ、すぐに軍を動かしたすばしこさ、何よりも、戦えば、相手にすぐに脅威を与える、甲斐、信濃の兵の強さ、味方にすれば、頼もしいですが、敵にすれば、こんなに恐ろしい存在はいません。何故、主君だった織田信長が、信玄率いる武田家を恐れていたのか、よく分かったのです。

しかもその武田家は、本能寺の変以後、驚異的な速さで、美濃、尾張に侵攻して、尾張を支配し、今、岐阜城も占拠して、美濃も治めようとしています。これで、新たに110万石は得ることができます。従来の武田の領地である、甲斐、信濃、駿河、上野を加えたら、250万石にもなります。一躍、大大名です。その武田軍が、自分の敵になったら、それを考えると、戦国時代の性、不安もあったのです。

でも、今は、明智光秀にとっても、武田家にとっても、お互いを必要としていました。明智光秀には、北陸の柴田勝家という敵もいますし、秀吉も油断できません。武田家にも、徳川家康という敵がいます。力を合わせる必要があったのです。その後の天下の事は、仁科盛信や、武田勝頼と話し合って、決めようと明智光秀は決めていたのです。

ただ、明智光秀にも一つだけ分からない事がありました。それは、何故、仁科盛信や、武田家は、こんなに早く、軍を動かせたということです。明智光秀は、事前に本能寺の変を、武田に知らせていませんでした。自分自身、信長を討つと決めたのは、本能寺の変の直前で、機密保持の為、誰にも知らせませんでした。でも、武田は、それがわかっていたように、すぐに軍を動かしていました。それが、不思議で仕方がなかったのです。


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