情報天皇に達せず

「情報」という言葉は明治以前には存在しなかった言葉です。

評論家の草柳大蔵先生は、メディカル・エコノミー・ガゼット誌の19921月号に寄稿された連載「情報社会とはどんな社会か?」に、25年ほど前、企業経営の中に「情報」という言葉が持ち込まれた時、ダイヤモンド誌の対談相手の林雄二郎氏から「情報という言葉から何を連想しますか?」と質問されたとき、戦中派の草柳大蔵先生は「大本営情報参謀、情報戦、情報天皇に達せず、スパイ」と答えました。

 

質問した林雄二郎氏は「そうでしょうね」と苦笑されたのち、「情報という言葉が軍事用語ではなく、社会的用語として定着するかどうかまだ分かりませんがね」と言われた。

 

それなら今定着しているかというと、日本人の癖で、それぞれの分野で勝手に定着させているようである。

私のようにマスコミに身を置くものは「湾岸戦争では情報が少なく、かつ、アメリカ国防省に管理されていたので困った」という風に使う。

この場合の「情報」は「行動の意思決定をするために役立つ資料や知識」ということになる。

 

医療では、血糖値、尿たんぱく、血圧などの数値が治療法の選択に必要な情報となる。

 

松坂慶子が妊娠したとか、小川知子が幸福の科学に入信したとかいうのは芸能情報ということになる。このように私たちは全く違う意味内容を「情報」と呼び習わしている。便利な言葉ではあるが、言葉の本質にはなかなか接近できない。


 

辞書などには「情報」とは、ことの実際のありさまの知らせなどと書いてある。「情報」という言葉は森鴎外先生(軍医、小説家、劇作家、評論家)が「ナハリヒト」というドイツ語を苦心の末、当てはめて翻訳した言葉と伝えられている。

 

「情報」の「情」は人情、世情、陳情などと主観的であり、曖昧であり、非記号的性質を持っているのに対し、「報」は報告、時報と使われるように客観的、性格、記号的な性質を持っている。

つまり「情」と「報」は全く相反する性質を持っているのだが、20年以上も意味の矛盾に気づかずに使ってきたことになる。と書いています。(つづく)