黒船は宇和島藩の提灯屋が造った

日本が植民地にならなかった理由がもう一つあります。

当時、日本が世界に誇れるものがありました。

それは教育レベルです。この教育レベルが大変高かったのです。

特に数学においては世界一でした。

欧米と比べても数学においては引けを取りませんでした。

日本では当時「和算」が日常的に活用されていたのです。

 

1853年に黒船が来てその3年後に自力で黒船を造っています。

もちろん、蒸気機関を積みました。そのタービンも自力で造っています。

 

四国の宇和島藩(愛媛県)はわずか9万8千石の小さな田舎の藩です。

しかも、黒船を造ったのは嘉蔵(かぞう)という提灯屋の職人です。

 

参勤交代でお国元宇和島に帰る伊達宗城(だて むねなり)の行列が品川を通りかかった時、ちょうど沖合いに黒船が停泊していました。

それを見た宗城はお国元へ帰り、家臣を呼びつけ「余も黒船が欲しい」とおっしゃったそうです。

 

黒船が欲しいといってもお金を出して買えるといったものでもなく、造る以外に方法はありません。

造るにしても図面があるわけでもなく、命ぜられた下級武士たちは黒船を見たこともありません。誰に造らせるかということも大問題です。

 

当時、藩には村田蔵六(のちの大村益次郎)が通訳として宇和島藩に来ていたそうですが、オランダの技師にタービンの図面を貰ってそれを参考にすることにしました。

 

士農工商と身分制度が確立している折から「工」の誰を選ぶかということになり、とりあえず、手先の器用なものにやらせることにしたのです。

手先の器用な者として下級武士たちが尊敬する職人がいました。提灯屋です。

下級武士たちが参勤交代で江戸に居るとき、内職する時は決まって傘貼りです。

傘貼りはピンとした竹の骨に紙を貼るのも難しいのに、あのぐにゃぐにゃした提灯に器用に紙を貼る提灯屋は下級武士たちにとって、黒船を造らせるには絶好の候補者だったのです。

 

さっそく、ご城下から嘉蔵という提灯屋が呼びつけられます。

下級武士たちはタービンの図面を嘉蔵に見せ造るように命じます。

嘉蔵は一晩でタービンを造ってきます。

宗城に見せますと「これで良い。本物を造れ。嘉蔵に金子(きんす)を取らせる」

とご褒美まで貰ってしまいます。

 

嘉蔵が一晩で造ったのはタービンの模型でした。

嘉蔵はタービンの図面を見て、竹ひごと木材と紙で模型を造ったのでした。

 

造ったのが模型と分かり「本物の黒船を造れ」と命ぜられ、驚いたのは提灯屋の嘉蔵です。命じた下級武士たちも驚きました。初めから黒船が「船」だと分かっておれば船大工に造らせれば良かったのです。

 

金子まで下賜され、今更「ミスキャストでした」とは下級武士たちも言えません。提灯屋の嘉蔵も馘首(くび)にしてれとは言えません。それこそ本物の首が飛びます。

 

嘉蔵も覚悟を決め「黒船はまだ見たことがない。見せてもらえば造れます」と申し出ます。下級武士たちも「それはそうだ」と納得できます。

そこに長崎に黒船が入港したと知らせが入ります。早速、下級武士たちと嘉蔵は長崎へ黒船を見に行きます。

 

黒船を見た嘉蔵は心臓部がタービンだということが分かりました。宇和島に帰った嘉蔵はタービンを鋳物で造り、船体は船大工に造らせます。

 

ようやく完成したタービンの蒸気圧をあげると大きな音とともに爆発してしまいます。それはそうでしょうね。鋳物で造ったのですから。

 

少し話がそれますが、この部分は日本人の性格を表す一つのポイントでもあります。なぜ鋳物で造ったかというと、タービンを外から眺めた時に表面がザラザラした感じだったので、嘉蔵はタービンの材質は鋳物で造ったものだと勘違いしたのです。

 

タービンは黒船の心臓部ではあっても、船室の暗いところ、しかも、油で汚れる場所に取り付けます。徳に表面をピカピカに磨き上げる必要はありません。

これがもし日本人だったら、たとえタービンであってもピカピカに磨き上げるところです。

 

さて、鋳物で造ったタービンは爆発して失敗に終わりました。

下級武士たちは嘉蔵に聞きます。

「ギブアップか?」嘉蔵は答えます。「ネバー・ギブアップ。見ただけだったから失敗した。今度は触ってみたい。触れば造る自信がある」と答えています。

下級武士たちも根は純情です。「そう言われてみればそうだろうな。では次に入港するまで待とう」ということになりました。

 

黒船がそうたびたび日本に来るわけはない。何らかの理由をつけて少しでも先送りしたい。というのが嘉蔵の本音でしょう。

 

しかし、嘉蔵はよほど運が悪いと見えて、またまた長崎に黒船が入ったという知らせが届きます。嫌がる嘉蔵を無理やり長崎に連れて黒船を見に行きます。

 

嘉蔵はタービンを叩いてみます。叩いてみてわかりました。

「なーんだ。鋳物ではなく鋼(はがね)だ」と。

今度は鋼でタービンを造りました。その結果、黒船(蒸気船)は見事に瀬戸内海を走りました。

 

日本の鋼に対する技術は当時でも世界一でした。

砂鉄から鋼を造る技術を持っていたのです。日本島はもちろんですが、兜のハチガネも鋼で出来ています。

 

鋼を造る技術は欧米より優れていたのではないかと思われます。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでは信長の鉄砲隊が活躍しましたが、スペインやポルトガルより技術は優れていました。種子島銃などは村の鍛冶屋が鋼で造ったものです。

 

当時、世界で最も教育が進んでいると言われたイギリスには、学校と名のつくものが300校余りあったそうですが、特権階級の人しか学べなかったそうです。しかし、日本には塾や寺子屋まで含めると30,000か所暗い存在したと言われており、読み、書き、そろばんは武士はもちろんのこと、農民の一部も、ものつくりや商いに携わる者はすべてといっていいくらい塾や寺子屋で学んでいました。

 

特に数学のレベルは世界一でした。欧米に比べて決して引けは取りません。

こんなエピソードが残されています。

JC・ヘップバーン(日本ではヘボンと呼ぶ)というアメリカの宣教医が1859年、横浜に来て診療所を開設し、子供たちに数学を教えようと塾を開きました。

 

外国人という物珍しさもあって、たくさんの子供たちが算数を習いに来ましたが、ヘボン氏は子供たちが足し算、引き算はおろか、掛け算や割り算まで暗算で答えを出すのに驚き、数学を教えることをあきらめ、子供たちの要望で英語を教えるようになり、その時8年間の苦心の末、ローマ字を考案しました。

塾の名称をヘボン塾というところから、ローマ字をヘボン式ローマ字と呼称するようになったのです。

 

掛け算の九九、割り算の九九は日本独自のものでしょうが、外国人から見ればオカルトの世界かもしれません。

特に和算は微分、積分、ほう物計算など、高等数学まで可能な素晴らしいものです。(つづく)