高柳健次郎先生がテレビを発明した

高柳健次郎先生をご存知でしょうか?

高柳先生は日本の科学技術の振興に多大な影響を与えている高橋財団の創始者で、電子式テレビの発明者として世界的に著名な科学者です。

 

明治以降、駆け足で欧米の科学文化を取り入れてきた我が国が、世界に誇れる科学技術で、現在もなお多くの人々がその恩恵に浴している基礎技術といえば、鳥潟右一先生の音声無線通信(無線電話やラジオ放送)と、高柳健次郎先生のテレビ送受信の二つが挙げられます。

 

大東亜戦争の開戦で日本のテレビ研究は中止となります。

テレビ研究の歴史は19世紀後半から始まって、実用段階に入ったのは1920年代(大正末期〜昭和初期)になってからのことです。

 

当時は機械式テレビと呼ばれていました。

走査線は30本程度ですから画像の鮮明度は低いものでした。

「テレビ事始め」(有斐閣発刊)によると、高柳健次郎先生がテレビの研究に入ったのは1923(大正12年)のことです。

 

最初は機械式テレビの研究をしていたのですが、機械式テレビの限界を感じ、ブラウン管に着目、これを使えば受像が可能ではないかと考えたのです。

 

1924(大正13年)高柳先生は満26歳、この年、郷里の静岡県浜松市に新しく高等学校が設立され、5月に助教員として奉職しました。

この浜松工業高校が高柳先生の電子式テレビ研究の本格的出発点になりました。

 

当時、日本では未だラジオ放送も始まっていなかったのですから、テレビで音声も映像も送るという発想がいかに突飛なことであったか想像できます。

 

多くの人々の理解と協力を得ながら、浜松工業高校という格好の研究の場を得て、研究が進み、192612月、ついに世界最初の電子式テレビが完成し、映像実験では、片仮名の「イ」の字が見事にブラウン管に黒々と浮かび上がったのです。

 

実験が成功したその日の夜遅く、校門を出た高柳先生は大正天皇崩御の号外を手にしますが、それは新しい時代、つまり昭和の始まりを告げるものでもありました。

 

1930(昭和5年)には昭和天皇にテレビジョンの実験を天覧に供し、それを契機に文部省や日本放送協会から研究費の援助を受けるようになり、昭和10年には送受信を含めた電子式テレビを完成させます。

 

1937(昭和12年)8月にNHKに移り、昭和15年に行われる予定だった東京オリンピック放送の準備をすることになりました。

オリンピックは戦争のため幻になってしまいましたが、昭和14年、放送会館の開館式に実験電波を出し、人の歩く映像を受信したという記録が残っています。

 

昭和16128日、日本軍が真珠湾攻撃をすることによって太平洋戦争に突入します。テレビの実権も放送も中止になり、高柳先生は海軍に応召、大佐から少将に進級し、将官になって電波兵器の開発に従事していたのですが、やがて敗戦を迎えます。

 

終戦になってGHQから命令が出て、戦時中、電波兵器に携わっていたので、テレビも含め、今後無線関係に携わってはならないということになったため、ビクターに移ることになりました。ビクターではビデオの基本原理を発明するなど、映像文化の発展に多大の貢献をしました。

 

これらの功績により、昭和56年文化勲章、平成元年には勲一等瑞宝章を受章、浜松市名誉市民、静岡大学名誉博士など多くの栄誉を受けましたが、平成27月、享年91歳でこの世を去りました。

 

世の中で発明品は数多くありますが、大正時代に発明されたもののうち、真空管はすでに使われなくなりましたが、現在でも世界中の人たちが毎日使用しているものでは、電話を発明したベルや、電球や電池を発明したエジソンは有名ですが、テレビを発明した高柳健次郎先生については、日本人ですらその名を知る人は多くありません。歴史から消されてしまったのです。

 

アメリカで取得したテレビのパテントは70件余り、それも太平洋戦争の敗戦により、高柳先生が所有していたパテントはアメリカに取り上げられてしまいました。(つづく)