2月2日(水)発信 bS02 石黒大圓
今回のテーマ PPK/日の丸/天皇/君が代/釜が崎の仏様/湯河原/都の西北
いつもありがとうございます。 もう今年も1月が終わりました。 1月行く、1月逃げる、3月去る、と言われます。 今年も昨年同様に光陰矢のごとしで、あっという間に終えることでしょう。
パソコンのキーを叩く手の甲がしわくちゃな肌になって来ました。 若い時はつるつるしていたのにあの艶はどこに行ったのでしょうか。 父の手の甲を思い出します。 私も老人の域に入ったのでしょうか。
P・P・K
いつかこの世界ともおさらばの時が来るのでしょう。 私にはこの世には何の未練もないし、皆のいる本当の世界とやらへ早く行くのもいいなと思っているので、命もフットワークも軽いものです。
今は次の世界を見る楽しみもあります。 先に行った人々と「やーッ! やーッ!」と声掛け合う日もいつか来ることでしょう。
普通の人にはまねできない心境ですから、できるだけアホなことをしています。 ドンキホーテのように唯物主義との戦いだと叫んだり「同じアホなら踊らにゃ損々」と踊って、心臓麻痺にでもなれば本望です。
P・P・K。 寝込まずにピン・ピン・コロリと行きたいもの。 そんなことを言ったりやったりさせてもらっている自分の恵まれた境遇に感謝しています。 その恵みに対するお礼として動き回っているのが今の生活です。
日本国旗・日の丸
1月27日は「日本国旗・制定記念日」 御堂筋を本町から難波まで200人余りが日の丸を振りながら行進しました。 「祝祭日には国旗を揚げましょう」と日の丸を手で高く掲げ、声を上げて歩くのです。
「念法新教」という仏教系の宗教団体が今年も参加者の半分を占めていました。 出発時に「崇教真光」のプラカードもありましたが参加者はわずか。 「キリストの幕屋」も来てほしかった。
昔なら「生長の家」が大部隊で参加もしただろうに、今は内部事情が変わったのか参加がありません。 創設者谷口雅春氏の意志を継いで、日本の伝統と文化を大切にする宗教として今こそおおいに活動してほしいものです。
私は以前は国旗や国歌を振り回すのには反対でした。 日本が国旗・国歌を忠誠の対象としていたのは非常時。 西洋列強からの侵略を阻止するために挙国一致が必要でした。
その明治以降の国家非常の時代に、天皇も国旗・国歌も前面に押し出す必要がありました。 そのために西洋の帝国主義を真似て天皇制を武装したのです。
国民一致団結して西洋列強に対する祖国防衛戦を始めざるを得なかったのです。 日本が西洋に追いついて非常時でなくなった時には「武装せる天皇制」から「非武装の天皇制」に戻るべきだったと思っています。 それが古来からあり方でした。
天皇
天皇は古来から「君臨すれども統治せず」と御簾の後ろで神秘的に存在しておられました。 政治の全責任を負う元首として天皇がおられたら、いつか日本が再び他国に占領されるようなことになった時には、今度こそ真っ先に抹殺されてしまいます。
天皇も天皇制も日本からなくなります。 武士に対して武力で対抗した後鳥羽上皇が、流罪にあったようなことが起こります。 古来から日本の天皇としての機能は西洋の皇帝や国王と違うのです。
天皇が権力を持っておられて、将来、唯物主義者が革命を起こし政権を取ったら、フランス革命の時のように天皇はギロチン台に載せられます。
象徴として存在された方が日本の古来からの伝統に合致します。
猛暑の時も酷寒の時も、クーラーも暖房もない祭祀場で、汗を流し、そして寒さに耐えながら、日本国の安泰を祈っておられる。
そのように宮中で祭祀を四六時中執りおこなっておられる。 日本中に平安・無事・愛・感謝の祈りの念を送っておられる。 日本国民はそんな天皇の日常での本当のお姿を知らないのです。
そしてそれこそ本来の天皇の神国日本での祭祀の総元締めとしてお姿です。
日本国歌・君が代
現在の日本国憲法に定める日本国の象徴が天皇です。 その君(天皇)の世が過去から悠久に時代を経て今も、そして未来永劫、平安に続いてほしいという願いを込めたものが「君が代」です。
「君が代」は天皇礼賛の歌だと歌うのを拒否する人々がいます。 しかし天皇が日本の象徴だと憲法が定めているのなら、「君が代」は「日本および日本民族」が永久に平和に繁栄し存続することを願う歌です。
「君が代」を否定することは日本国憲法を否定することです。 そのように高市早苗さんがTV討論で福島社民党党首や辻元清美に反論して、喝采をあびたそうです。
そうしたら後で番組収録後に2人から「よくもTVの前で恥をかかせた」と食ってかかられました。 2人もこの3段論法の正しさを知っているのです。 ただそれを隠して日本国民を欺こうとしているだけなのです。
「君が代」も「日の丸」も「武装せる天皇制」をかっては補強するものでした。 しかし今のこの平和な時代には象徴としての天皇と同じように御簾の後ろに国旗も国歌も納めておくのが古来からの伝統にのっとると思っていました。
国旗や国歌を振り回すのは侵略好きな西洋や共産主義国のお家芸にしとけばいいと思っていました。
しかしあまりにも日本では国旗・国歌が無視されすぎています。 「君が代」の歌詞も歌い方も学校では教えられていません。
かってはオリンピック選手が表彰台の上で「君が代」が歌えなかったのです。 これはどうみても正常ではありません。
外国人のように胸に手を当てて直立不動で国旗や国旗に敬意を表す、というマナーさえ日本の学校では教えられていません。
ある時に外国でその国の国旗掲揚をしている時に、直立不動の姿勢を止めて日本人が仕事に取りかかりました。 それに対して「その行為はわが国に対する侮辱だ」として銃で取り囲まれたという例もありました。
日本では国旗・国歌など軍国主義だ、民族主義的だ、国際平和主義でない、と批判されます。 しかし日本を一歩出れば国旗・国歌は祖国愛の象徴として敬意を表されています。
共産国でも国旗・国歌は尊ばれています。 日本の常識は世界の非常識なのです。 だから世界の常識に戻って「国旗を掲げましょう」の運動に私は参加するようになったのです。(続)
釜が崎に住む仏様
先日釜が崎で仏様に会いました。 商店街の路上に寝ている野宿者に寝袋を配りに行って、車の所に戻ってきてポケットを探ってみたら車の鍵がない。
あっ大変なことになった。 スペアーキーを作っていなかった。 明日ここまで歩いて来て、ホンダへこの車をレッカーで運んで行って・・・とおおごとになるとショックでした。
その時天の声がしました。 「鍵を失くしたんとちゃいますか。 警察の届けようかと思ってんけど、僕ここで帰って来はるの待ってたんですよ」
ここへ車で着いた時に仲間と携帯で連絡を取っていて、ポケットから落ちたようです。 それを見つけて2台、路上駐車しているホンダの車のどちらかの人のものだと、帰ってくるのを待っていてくれたと言うのです。
まさに捨てる神あれば拾う神あり。 お礼を言うとすぐにその人は自転車で帰っていきました。 後ろ姿を見送りながらに最敬礼していました。
釜が崎に住んでいる人はすこし人間としてレベルの低い人のように世間では思われている。 しかしこんなすばらしい人もいたのです。
大阪市内なら鍵が落ちていてもほっとくか、足で蹴られてどこかへ無くなっている。 神仏のご恩、決して忘れません。
山王商店街で寝袋を配っている時、毛布を頭からかぶってジャンパーだけで寝ている人がいました。 「お休みの所すみませんが、寝袋いりませんか」と聞くと「いる、いる」との声。 それからが、ほろ酔いかげんのオッチャンとのながーい会話。
「まーまー座れ」と路上が座敷に早変わり。 毛布を引っぱり座布団代わりになる。 九州弁で世間話を延々とされる。 「まあ吸えや」とタバコを1本くれる。
神戸の震災以来吸っていないタバコをオッチャンと一緒に吸う。 まるで親子のよう。 年は私の方が上かも知らないが。 別れ際に「お礼や」と5円玉をくれたのでした。 その気持ちがありがたい。
天王寺駅西口には前回配った時より新しい人々が寝に来ていて10個ほど配る。 酔っ払ってるらしい人が合掌してくれる。
私たちはサンタクロースが乗るただのトナカイのような者です。 寝袋のカンパをしていただいた方々がサンタクロースのプレゼントを作ってくれたのです。
私たちはそれを運んでいるだけ。 合掌なんてもったいない。 カンパ支援者の代わりに心のお礼を受け取らせていただきました。
湯河原
東郷さんは本当に意外ですが病弱の時期が長く、たびたび療養のために湯河原や熱海に来られたようです。 奇遇にもその湯河原に東郷さんの発表をした次の日に、東京の友人たちと集合して35年ぶりに一泊しました。
温泉水泳、マイク取り合いのカラオケ、崖の坂道に咲く1分咲きの花をめでる梅林めぐり、みやげ試食めぐり、完全に元気中年モード。
そしてボウーリングでは若さ爆発。 私はTOPを走っていたのにがんばりすぎて腕の筋をグキ。 2回戦は見事ドンケツとなってしまいました。
ジェット・コースターのような私の人生そのものでした。 神様は公平です。
そば屋で昼食していて昔の先輩後輩の名前がでたり、写真から昔の思い出が湧き出てきて本当に懐かしかったです。 つまらない不平不満と自信喪失で英語クラブESSを1年半で止めてしまって。 人生狂わせてしまって、アメリカへ行ってまた狂って。
しかしそれが今の人生の伏線になっています。 神様は無駄なことはなさらない。 こんなこと書いて、私はクリスチャンではありません。 日本は「神の国」と思っていますから。
都の西北
宴会では女性軍の飲みっぷりに下戸ぞろいの男たちは圧倒されました。 最後にエールのまねをさせられ「フレー、フレー,WASEDA」。
そして続いて校歌を歌ったときに嫌なトラウマがまた心の中から湧いて出て来ました。
四年生最後の大学祭の時に左翼学生活動家と対立しました。 「セクト(分派)主義の校歌など歌うな」と叫んで「(元・ソ連国歌の)『ザ・インターナショナル』を歌おう」と左翼活動家が割り込んできました。 大きな輪になって歌うグループが2つに分かれてしまったのです。
私たち校歌組は国歌組(その時は国歌とは知らなかった)に「お前ら母校に誇りがないのか」と体当たりしていきました。 皆、泣きながら訴えました。
それ以来、母校とその学生たちを偏見の目でみるようになりました。 今のサヨクへの反感の下地がこの時にできたのです。
湯河原からの帰り際に駅前であんみつを皆で食べました。 昔の甘い思い出を最後まで楽しみました。 肌がつるっとしていた頃の青春の思い出が、手の甲のしわを伸ばしてくれる気がします。
あの甘い思い出はあんみつでもかないませんから。
皆さんも昔の甘い思い出を大事にしてください。 この人生を終える時、心を支えてくれる大切な宝となるかもしれませんので。