いのちの風 bS27
7月27日(木)発信 石黒大圓(だいえん)
今回のテーマ 天神祭/炊き出し/心斎橋イベント/ビッグイシュー/自殺/堕胎殺人
いつもありがとうございます。 天神祭りも終わり大阪もいよいよ本格的な夏。
暑い! やはり地球温暖化で日本は亜熱帯に突入でしょうか。
今週月曜の大阪駅前の炊き出しは「天神祭」のための交通規制に出くわし、桜の宮教会に預けている、衣類や掃除道具などが入れてある車を取りに行けなくて、オートバイで周辺をぐるぐる。
ヘルメットの中が汗だく、タオルを中に入れて汗取りに。 ひらひらと風になびいて、まるで鎧の甲のよう。 サムライの暴走族!
結局、桜の宮が陸の孤島のようになっていて、たどり着けない。
それためオートバイに乗せていた新しい衣類と洗面道具と、北野教会へ別の人に取りに行ってもらったおにぎりだけを配布。
駅前の清掃ができなかったために、せっかく掃除目当てに来てくれた知人や、掃除の後のコーヒーやお菓子を準備していただいていた女性スタッフには申し訳なかったです。
新聞を読んでいても天神祭りの日でヤバイと状況が把握できていなかった。
そんな盲目の時がある。 しまったと思っても後の祭りの時がある。
オートバイ走行中あたりの様子を見ていて、浴衣姿や着物姿の女性が多くなっている。
精神世界系民族派としてはうれしい限りです。
心も日本的になって支那に負けないタフな大和撫子になってほしいものです。
大阪の町もオッチャンも元気出せ
あの日は野宿のオッチャンやオバッチャンの集まりが悪かった。
先週もせっかく30人近くもボランティアや医者が健康診断所を大阪駅前に開いてくれたのに、わずかしか集まらず、野宿している現場へ巡回していただきました。
大阪はお祭りの最盛期でテキヤや警備の仕事が幸い回ってくるので多くがそちらの方へ出勤となる。
仕事をする気は皆あるのに不定期の仕事がたまに来るだけ。
アパートに入るだけの金にはならない。 だから野宿となる。
朝早くから1日中歩き回って缶集めや雑誌集めしか収入のあてがない。
野宿となるのは誰でもあっという間になってしまうが、抜け出すのにはすごい努力がいる。
先週でやっと忙しいスケジュールも一段落。
私がスタッフをしていた心斎橋商店街の「延宝330年祭」は、ライブや外人の大道芸などが3日間行われました。
のぼりや横断幕がアーケードを飾り、道行く人もいつもより多かった。 買い物客や着物姿の人も普段より多い気がしました。
心斎橋商店街は昔は心斎橋より北が繁盛していて、西区の
南にしかなかった出入りの門が東にもできて心斎橋方面へ流れる人が増えていったのです。
私が小学校の時までいた順慶町あたり(今、100円ショップがある)が一番にぎわっていたとのこと。
そして私の通っていた近くの芦池小学校のあたりに芝居小屋もあってにぎわっていたという話を今回知りました。 わが町にこんな歴史があったとは、誇りに思います。
そして昔は荒れ野で刑場があった千日前の方が開拓されて芝居小屋ができたりして、だんだん南心斎橋から戎橋方面のほうが賑わうようになって行ったそうです。
昔35年ほど前に千日デパートという百貨店(今、ビッグピーカンになっている)があり、全焼して多くの人が亡くなりました。
あれは刑場の浮かばれない亡霊の仕業という話がわいて出たこともありました。
昔と今は何か歴史の糸で結ばれているということもあるのでしょうね。
そして22日の「花金夜市」イベントへの出場者募集係としては終わるまで気が抜けない時間の連続。 また、よさこいソーラン踊りへ出場することもあり、緊張もしていました。
見てもらっている方々に喜んでもらおうと「よっちょれ」と「メチャハピー大阪万歳」を一生懸命踊りすぎました。
踊りを大きくして元気よく見せようと、サービスしすぎて少し間違ってしまった。
多くの通信仲間の方が見学に来てくれていました。 有り難かったです。
また以前に私が踊り子隊の隊長をしていた踊り連のメンバーも見に来ていて、少し気になっていたこともあります。
この「メチャ」の歌詞にある「大阪の商売人、負けたらあかんで。 子供たちに夢と希望を。 大阪の文化は日本一や」という言葉を大阪中に伝えたい。
私は単に踊りを楽しんでいるのではない。
このメッセージを伝えて大阪の町おこしをしたいというのが私が踊りに取り組んでいる理由です。
「大圓さん、ぶっ倒れるのと違うか」と皆が心配してくれていたそうです。
皆に笑顔を振りまいて踊ったつもりが、あごが上がって笑顔で口が開いて苦しそうに見えたようでした。 ぶっ倒れても本望と思いましたが。
町の繁栄のために皆がボランティアで働き、町の勢いが盛り上がっていく。
この人々の奉仕の精神こそ、町のさらなる活性化につながると思いました。
またこんな風に毎日充実して暮らさせていただけるだけで私は感謝一杯です。
オッチャンの必死の姿見つめる目
先週の「いのちと出会う会」で野宿者が路上で販売している雑誌ビッグイシューの代表の佐野章二さんのお話を聞きました。
佐野さんはエネルギッシュな方です。 そのお話には感銘を受けました。
日本での路上販売の難しさ、警察や行政との戦いも教えられました。
そして生き続けていくために必死で販売するオッチャンたちの姿や、それを懸命に支援する佐野さんたち支援者の姿。 感動でした。
とくにビッグイシュー販売を20歳代の女の子が中心になって支えているんだという話。
販売員のオッチャンたちも、うきうきしているという話は印象に残りました。
若い女の子が買ってくれるということがどんなにオッチャンたちの励みになることか。
「やってよかった」と思うと言う。
買ってくれる常連の人に「いってらしゃい」「おつかれさま」という言葉を出せるようになった。
彼らは彼らで「ホームレスに励まされた」という思いにうれしくなる。
路上での新しいコミュニケーションが始まっている。
肉体労働しか経験がなくて、うつむきかげんで恥ずかしそうに小さな声で販売する素人のオッチャンたち。
その彼らにやさしく女の子が声をかけて買ってあげる。 自分の娘に助けられたような思いがしたことでしょう。
路上販売という未知の販売形式に挑戦して、野宿から立ち上がろうとする人々にやさしい眼差しを向ける人々。
日々感動のドラマが今この日本の路上で起こっているのです。
人生での敗者復活戦を戦っているオッチャンの姿を見て、ある若いフリーターが「僕は恵まれていたと実感した」と語った。
オッチャンたちが暑い時も熱い日差しの下で、寒風吹きすさぶ寒い日にも身を凍えさせながら、1日中生きるために必死で頭を下げて売っている姿。
就職問題で悩み、人生の問題で悩む若者にとって、その姿から学ぶものは多いはずです。
簡単に人生に絶望してしまわずに生きて行ってくれ、とオッチャンはその路上の姿から、若者に生きつづける上で大事なメッセージを送り続けている、とこの日私は感じたのでした
授かりしいのち殺すも権利なり?
一方先日聞きました。 日本人の死因のトップはガンですが、20〜39歳までの死因のトップはなんと「自殺」。
ああーなんということか。 日本人の若者の心の病の深さ。
簡単にポキッと折れてしまう抵抗力のなさ、精神力のなさ、なのか。 日本の国家的問題です。おぼれるものでも泳ぎ方を知っていれば助かる。
その人生での泳ぎ方を知らない、教えられていない、この時代です。
心の教育や宗教的情操が教えられていない、心を鍛錬することの必要性が認められていない日本の教育の悲劇ではないでしょうか。
なんでも目にするものは、何か自分に訴えかけるメッセージを発信していると思います。
苦しいことも天からのメッセージと受け取れば、がんばれるはずです。
それを受け取る感性を育てる教育が家庭でも学校でもなされるようになれば、自殺も少なくなるでしょうに、残念です。
自殺はやはり殺人です。
自分を殺すのは自分の体だから勝手でだろう、罪ではないでしょう、と人は思うでしょうが。
やはり自分の体は自分だけのものと思うのは間違っている。
「いのちを作る」という考え方と「いのちをさずかる」という考え方の違いが自殺を生んでいるのではないかと思います。
いのちを自分の所有物と見なして自分のものを勝手に処分して何が悪い、他人には文句は言えないと思うことが間違っている。
人間の体には60兆ものの細胞があって、皆が日々働いて私を生かしてくれている。
その1つ1つの細胞のいのちを自分のものと思って殺していいのか。
親や神仏からいただいた、授かったいのちを自分だけのものと思っていいのか。
自分が、自分だけで育ててきたこの体と思っていいのか。
多くの社会の人々の働きの中で生かされてきたのではないのか。
そのような多くのご縁の中で生かされてきて、苦しいからと言って死を簡単に選んでいいのか。
やはり現代の文科省や日教組の教育がこころをおろそかにしているのが原因と思います。
けっして経済苦や人間関係だけが原因ではないと思います。
まわりから来るメッセージを自分本位にしか受け取れない。
ひ弱な心。 強く鍛えられていない。 このような精神力のない人々、国でいいのでしょうか。
これを治さないと日本は沈没してしまいます。
自殺者が3万人以上、野宿者も3万人近い。
この世界の人が腰を抜かすようなことが数々起こっているわが祖国に絶望してしまいます。
いつかこの悲劇から日本国民が学ぶ時がきっと来ます。
その人々はその踏み石になっている貴い犠牲者です。
ただ私には自殺した人をとがめる資格はありません。
自殺者は死後に永遠に続く煉獄に閉じ込められるとキリスト教ではいう。
自殺した臨死体験者も二度とあんな苦しい思いはしたくないという。
しかし神仏がそのような人生をその人に歩ませた面もあるとしたら神仏にも責任がある。
事実自殺者の地獄などはないらしい。
苦しい懺悔の時はあるが、次の世には自殺しようとする人を押しとどめて、心のケアをすることを目的に生まれ変わってくるといわれる説を私は信じたい。
悪人でさえ救うという神仏である。 そんな無慈悲な存在ではないと信じたいのです。
殺してもいのちは物なり唯物思想
殺人についてですが、先日教えてもらって改めて驚愕したこと。
人工妊娠中絶数が平成14年で約33万件、実際はその2〜3倍はあるとのこと。
30万人以上の殺人事件が毎年この日本で起こっている。
母体保護法、優生保護法という名の下に胎児殺人事件が何のお咎めもなしで起こっている。
今の豊かな時代に子供が多いので生活できないから、と殺す人はほとんどいないでしょう。
ほとんど親の勝手で殺している。
いのちは作るものと考え、さずかるものであるという感覚がなくなっているから殺してもなんの罪悪感もない。 次々と殺していく。
戦後四十年間で殺された胎児は7100万人。
その二〜三倍が実数としたら1億4000〜2億1000万人の日本人が殺されてきたのです。
少子高齢化という時代にこの子供たちが生きていたら、そんな心配もいらなかった。
なんという民族なのか。
そのくせ「殺すな」と外国の国民のいのちの心配だけは、けたたましい。
バカもいいかげんにしてくれ!
胎児が産婦人科医の器具で引っかかれて殺されされようとする時に、逃げ回ると聞いて、涙が出ました。
指の上に乗るような小さな幼いいのちが生きようと、必死でもがいている。
胎児はお母さんの声も理解できている。
両親の仲の良さ、不仲も知って胎教を受けながら成長している。
ほとんど脳細胞のない段階で見聞きができている。
霊的魂がすでにその時にはさずかっているからこそ感知できている。
その胎児と同じ思いが自殺する人の60兆の細胞でしょう。
「殺さないで!」と叫んでいる。
その叫びを聞けないのは、いのちは作るもの、殺してもまた、作ればいい、と考える唯物思想に染まった日本人に育てられているからです。
それを進めているのが左巻きの連中のジエンダフリー教育です。
だから私は日本の将来のためにそのような唯物思想と闘う決意をしているのです。
唯物的共産主義は日本のガンです。 それが撲滅する日まで戦い続けます。