いのちの風 bS30
8月18日(木)発信 石黒大圓(だいえん)
今回のテーマ 迎え火/戦没者慰霊祭/先祖との心の絆と縦の関係/靖国問題/百人斬り裁判
いつもありがとうございます。 お盆も終わって仕事に戻られていて、いかがおすごしですか。 左記はパソコンのmixiのサイトに書いた文章です。
「さっき迎え火の火をたきました。 おがらに火をつけて炎を見つめ、空を仰いでいました。 今年もご先祖さんや亡き人々は戻ってくるのでしょうか。 「ヤッホー!」と言って妻が、「腰を振りながら」茶目っ気たっぷりの次男が、そばに帰ってきているようです。
お盆の提灯に今年は4つも火を灯しました。 たくさんの光と、中で光が廻る提灯もあって仏壇のまわりは煌々としています。 明るいのが喜ばれるかと思って4日間は、めー一杯部屋を明るくします。
キュウリにおがらで四つ足をつけ「早くこの馬に乗って帰っておいで」。 そしてナスビに足をつけて「帰りはこの牛に乗ってゆっくりお帰り」が年中行事です。 昼にお坊さんが来られました。 猫の佐知子と邦之が横で物珍しげにちょこんと座っています。 4人で一緒にお経を唱えられたらいいのに。
私が幼い頃に大和郡山の祖父母の家へお盆で帰った時に、祖母が井戸で冷やしてくれたスイカを妹たちとはしゃぎながら食べた思い出。 いつもおだやかな笑顔だった祖父。
晩年は寝たっきりだった祖母の面倒を見ていてくれた叔父。 親戚と仲が悪く、次男が末期の時に長男と一緒にお百度のようなつもりで墓参りしていた時に、久しぶりに叔父に会いに行き、初めて見る甥をいとおしそうに眺めていた叔父。 あの叔父も妻が入院する2ヶ月前に実家で一人老衰死していました。
夫が中国戦線で軍医として戦死し、乳飲み子を一人で育てながら医学校へ入り女医となり、次男を亡くした私たちを我がことのように遠くからいつも心配してくれていた叔母。 あんなに元気一杯でゴルフにもしょっちゅう行っていた叔母も、妻の死後1年であっという間にガンで亡くなった。
もう一人の叔父は私たちが若いときに西式健康法とかいって生ネギを一杯食べ、板の上で寝ていた。 その健康第一の叔父が難病にかかって寝たっきりになり一番早く亡くなりました。 「健康、命」だった人が。 皮肉です。
皆んなそれぞれの人生を懸命に生き、あの世に旅立っていきました。 その人々がお盆になって戻ってきて、また仏壇のあるこの家で見えない姿で集って、四方山話で盛り上がっていることでしょう。
このパソコンを打つ横からのぞき込んで「何書いてんや? 恥ずかしいこと書かんといてや」と言ってることでしょう。 亡き人との思い出がまた明日の活力になる。
過去ではなく現在未来をどう生きるかというのが現代の若者の意識のようです。 しかし今あるのは過去の人々の汗と涙の結晶のおかげ。 それへの感謝の思いを忘れて、その人々との心の絆を失ってしまっては、結局根無し草のアイデンティーのない人間になってしまう。 人間はそんなに強い存在ではない。
過去を見ずに未来志向ばかりがもてはやされているが、結局は羅針盤のない船に乗ってあらぬ方向に迷い出るだけ。 過去の自分の根っこをしっかり知って、感謝の気持ちで過去の人々との心の絆を大切にする生活をしていれば、きっと「変化(へんげ)の人をつかわして、これがために衛護となさん」と守護霊が姿を変えて護ってくれる、と法華経にもある。
終戦記念日に大阪護国神社へ参拝しました。 慰霊の祝詞のあとに雅楽と白装束の巫女さん2人が優雅に舞う神事が行われました。 今年は500人は参拝者はいたでしょか、本殿に入りきれないくらいで、外から拝んでおられる人々もおられました。 毎年増えてきているようです。 日本が普通の国になってきた証拠です。
そして日本のために命を捧げられた戦没者の方々との心の絆を確認する式典。 世界中の国が戦没者の慰霊をしているのに、日本だけが「ウヨクの行事、軍国主義の復活」と左巻きのマスコミや言論人に洗脳されて日本国民をおじけつかせて来ました。
毎年
しかしバブル崩壊で豊かさへの感謝の気持ちが目覚めたのと、ソ連崩壊で祖国への感謝の気持ちが盛り上がってきた。 そして拉致で決定的に左巻き崩壊が始まった。 もうウソで日本国民をだますことは出来なくなってきました。
お盆にNHKで「靖国問題」についての番組がありました。 戦後占領軍が廃止しようとしていた靖国神社は結局、戦没者遺族の請願で存続したようなものです。 あの当時の国民の総意であった。
日本国民は決して祖国の英霊、戦没者を殺人者などとは考えもしなかった。 人殺しと考えさせたのは占領軍であり、戦後の左巻き勢力であり、中韓朝である。
戦争は勝ったり負けたりで喧嘩両成敗。 どちらにも正義はない。 どちらにも言い分がある。 ただ強い方が勝つのである。 勝った方が相手国を領土にしてもいい、というのが当時の国際法であった。 勝った方が相手国に入って戦うことを侵略というのならば、負けずに追い返せばいいのだ。
日本は攘夷から開国に転じて西洋の技術を学び、西洋からの侵略に負けないように必死で富国強兵を急いだ。 その精神的技術的準備を怠った中韓は当時の政治抗争から日本に戦略で負けた。 日本が弱ければ彼らの方が日本を侵略していた。 自らの非を日本に押し付けて、今になって愛国軍国主義の旗を振っている。
サンフランシスコ平和条約に調印して日本が独立を達成した直後、A級戦犯も含めて「戦犯釈放」を求める四千万名にものぼる国民署名があった。 ほとんど全国民の総意でした。 またその後国会でも「戦争犯罪者赦免決議」がなされたように、日本人は当時、戦争犯罪人という考え方をしていなかった。 A級戦犯なども含めて、皆が戦争の犠牲者と見なしていた。
誰が悪い彼が悪いと戦争責任を追求する精神構造を日本人は持っていなかった。 それこそが「江戸城無血開城」や「神話の国譲り」の伝統をもつ争わない日本人の知恵であったのです。 占領中の占領軍の洗脳を日本国民は跳ね返した。 今に至るも日本国民の祖国への誇りを失わせているのは、朝日新聞などの左巻きによる「日本国家との闘争こそ人民を救うというマルクス主義」の思想洗脳によるものです。
以下の文章は「百人斬り裁判」のホームページに載っていた日本政策研究センターの岡田邦宏氏の文章からの要約です。
『8月15日を前に思うこと』
【靖国の英霊への慰霊は、父祖と「縦の関係」を確認する行為ではないか】
『(略) この「百人斬り」事件とは何かというと。 昭和12年の11月末、上海から南京攻略に向かう部隊のなかに、向井と野田という二人の少尉がいた。 常州というところで、東京日々新聞(今の毎日新聞)の浅海という従軍記者から何か記事になるおもしろい話がないかと聞かれ、2人で何人斬るか競争する話ならおもしろいという冗談を言ったという。
それなら記事になるから名前を貸してほしいと持ちかけられ、その冗談がさらに脚色されて、2人が「百人斬り」競争をしたという記事になり、続報も書かれた。
ところが、そんな記事など忘れられていた敗戦後、この記事が証拠とされ、中国・南京の軍事法廷で、2人の少尉は死刑になる。 そんなものは戦意高揚のために当時どこの新聞も書いていたことなのだが、中国の戦犯裁判では無関係だった。 たった1回の公判で、唯一の証拠はこの新聞記事。 残された家族が辛い戦後を過ごしたことは言うまでもない。
しかし、問題はそれだけでは終わらなかった。 戦後も27年たってから、その話が事実として朝日新聞に報じられたからだ。 本多勝一という記者の記事でそれが『中国の旅』という本になって出版もされた。 遺族の心は今度は日本人から傷つけられたのである。
遺族は訂正や出版の差し止めを願ってきたが、もう我慢ができないということで、昨年、著者や出版社、さらには最初の第1報を未だに虚報だと認めない毎日新聞社を相手に、損害賠償を請求する訴訟を起こした。 これが百人斬り訴訟のあらましである。
事実関係から言えば、軍刀で何人もの人を斬ることは不可能だし、そもそも野田少尉は大隊長の副官で作戦命令などを伝達するのが任務であり、向井少尉は歩兵砲中隊の小隊長。 ともに第一線で敵と白刃を交えることのない立場である。 とても「百人斬り」をしている暇などない。
向井少尉の方は、南京への途中で足を負傷し、「百人斬り」の終盤と報じられた時期には隊列を離れている。 「百人斬り」報道は明らかに虚報であり、絵に書いたような「えん罪」である。 (略)
それを見ながら、判決後に書かれたという2人の遺書を思い出した。少し長くなるが、そのまま引用したい。
まず、向井少尉の遺書である。
《辞世
「我は天地神明に誓い、捕虜住民を殺害せる事全然なし。 南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い、日本男子として立派に中国の土になります。 然れ共、魂は大八州島に帰ります。 我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り、日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。
中国の御奮闘を祈る 日本の敢奮を祈る 中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳
死して護国の鬼となります」 12月31日10時記す 向井敏明》
そして、野田少尉は遺書にこう書いている。
《死刑に臨みて
「此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき、厚く御礼申しあげます。 只俘虜、非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。 お断り致します。
死を賜りました事に就ては、天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最期の如何なるものであるかをお見せ致します。 今後は我々を最後として我々の生命を以て、残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願ひ致します。
宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みを晴さんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。
我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても、貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。
卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願致します」
中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳 野田毅 》
(略) なんとすがすがしい、それでいて気高い覚悟なのだろうか。 読み返すたびに、こんな文章を書き残してくれていたことを誇りにも思い、ありがたくも感じる。 と同時に、2人の名誉はいま生きているわれわれの名誉と同一のものとも感じられ、問題の出版によって傷つけられているのは何か自分の名誉のような思いすらしてくる。(略)
あえて話を広げると、国のために亡くなった英霊と現在の自分――この縦の関係の回路がつながったような感じがしたのである。 父祖とのこうした縦の関係を切って、人間は正常に存在できるのかという、もっと普遍的な問題にもつながるとも思えた。 その意味で、靖国の英霊への慰霊はまさにこうした縦の関係を確認する、心の底からの人間的行為だと思うのだ。
それだけに、現代の醜さ――未だに虚報を認めない毎日や「百人斬り」はあったのだと言ってのける本多勝一と朝日の傲慢――が以前にまして際だって感じられた。 (略) 父祖との関係をたち切ったり、あえて無視したりするところにこそ、「時代の病」の実態があるように思える。 父祖との「縦の関係」をどう感じ取るのか。 現代の日本が問われている極めて根本的な問題はこの点ではあるまいか』
【この2人の遺書を読んで涙ぐんだ中国人もいたという。 そのような感性さえ自らの政治信条で消しているのがこの裁判の被告たちである。
この記事を捏造した浅海記者は自分に危害が加わることを恐れて黙殺し、その後は中国礼賛の記事を書き続けて毎日新聞の花形記者となった罪深い男だ。 当時2人の写真を撮った佐藤カメラマンはあれはホラ話だったと法廷で証言している。
中国人の証言を聞いて書いたという本多記者は「事実かどうかは確認していない。中国が言ったことを書いただけ。 ウソというなら文句は中国に言え」という記者としてあるまじき態度である。 そのうえ「捕虜を殺しあう競争までした」とウソ話まで後にでっち上げた。 またその彼を守るために左巻きが応援団を組織しているという破廉恥。
また日教組の教師が百人斬りの記事を生徒に教えて「人間のくず。日本人の恥」と書かせている。
東京裁判では証拠不十分で却下されたのに、最近になって騒いでいる南京大虐殺。 その象徴がこの百人斬りです。 この新聞記事だけが証拠の虐殺がウソなら、南京大虐殺全体の捏造ぶりがわかるのです。
この裁判に取り組んでいるのが稲田朋美氏。 日本弁護士会という左巻き組織に挑戦している若き女性弁護士である】