「いのちの風」通信仲間の皆様へ
以下長くなりますが私が入っているインターネットサイトのmixiに載った「反日マスコミが伝えない親日の話」の一部をご紹介します。 いかに日本国民が情報鎖国のなかに置かれていたかが、このHPからわかります。 数々の感動の話をこのHPのなかに見て、胸熱くして祖国と祖先の偉業に思いをはせてください。
戦前、世界で唯一白人の支配から逃れた有色人種の主権国家であった、タイ王国と日本。
このふたつの国家間には、当時から現在まで、どのような友好関係が築かれてきたのか、あまり日本では知る機会がないと思います。
Web上にて、とても読む価値があるHPと、上記に関する文章を見つけたので、ぜひ読んでみてください。(少々長いですが、読書の秋のつもりで!(笑))
なおHPのリンク先では、これから紹介するような長い文章以外にも、沢山のショートストーリー・体験談等が載っています。勇気と元気が沸いてくること請け合いです。お勧め!
個人的には『プリンをもう一つ〈ベトナム〉』のなかの、ガム売りの少女の話が好きです。
◇参照HP
http://mikomo.hp.infoseek.co.jp/menu00.htm
◇以下コピペ
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■1.英語の通じない国■
タイの最初の印象は、「英語の通じない国」であった。空港について、会社の差し向けてくれた車に乗ったのだが、まずその運転手がいっさい英語を話さないのに面食らった。同じ東南アジアでもシンガポールやマレーシアとは大違いだ。あとで現地の日本人駐在員と一緒に車に乗ると、彼らの方がかなり流暢にタイ語を話すのである。
ホテルでは、朝エレベータで現地人の客から「サワディーカ」とにこやかにタイ語で挨拶をされた。これには逆に好感を抱いた。
考えてみれば、東南アジアで、日本人と現地人が話すのに、なぜわざわざ地球の裏側の英語を使わねばならないのか、そちらの方がよっぽどおかしい。外国人がタイに来たのだから、タイ語で挨拶するのが、本来の姿だろう。当方も外国に行くときは、かならず「こんにちわ」と「ありがとう」は現地語を覚えていくので、「サワディーカ」と挨拶を返す。朝から清々しい気分となる。
■2.王室と独立維持■
タイで英語が通じないのは、この国が植民地になったことがないという単純な理由からである。この点、英語下手な日本人と良く似ている。英明な君主のもとで、植民地化の危機を乗り越え、自力で近代化を図ったという点もそっくりだ。
東南アジア諸国の王たちが、過度の外征、下手な外交、ぜいたく、無為などによって、次々と独立を失っていったなかで、タイのバンコク朝だけが独立を保ちえた事実は注目にあたいする。もちろん運のよさもあるが、歴代の王たちの賢明な統治をまず原因の一つにあげなければなるまい。
現在、世界に君主制の国家は28カ国ある。このうち、人口1億2千万の我が国は、世界最大・最古の君主国であるが、それに次ぐ
のが、英国(5700万人)、タイ(5500万人)である。日本とタイとはアジアの大国の中で、植民地とならず、君主制を維持し得た、たった二つの国なのである。
■3.王室への深い尊崇の念■
独立を維持しえたのは、王室の英邁な指導者のお陰だという事を知っている国民の王室への尊崇の念は深い。
空港に出迎えに来てくれた会社の車には、バックミラーに、国王の写真入りのペンダントがぶる下がっていた。会社の正面玄関受付には、天井近くの高いところに、国王の「ご真影」が飾られている。オフィスの女性たちの机の上には、王室の方々の写真入りデスクカレンダーが置かれていた。
バンコクの歴史博物館では、現在の国王ラーマ9世がいかに民生向上につくされているか、写真入りで紹介している。国王は、精力的に国土を廻られて、農業振興などにつくされている。
国民が王室を敬愛し、そのもとでよくまとまっている姿というのは、和気藹々(あいあい)とした家庭を見るようで、何とも心の暖まるものである。
■4.西洋植民地主義との闘い■
西洋諸国の侵略との闘いは、1851年に即位したラーマ4世モンクット王に始まる。王は27年間、僧として生活し、自ら一つの宗派を開かれたほどの碩学だ。欧米の宣教師達と交際し、英語、ラテン語、数学、天文学などを修めた。英語の知識から、西洋文明を取り入れて近代化しなければ独立は危ういと、大勢の外国人を雇った。
ミュージカル「王様と私」は、この時のイギリス人家庭教師の手記を脚色したものだ。映画ではユル・ブリンナーがタイ国王を演じていたが、西洋諸国の侵略を前に、「近代化に賭ける王の悲願はこの中に描かれたような面白半分のものではなかった」という。
ラーマ4世は1868年にマラリアで急死する。ちょうど明治元年である。16歳の王子チュラロンコーン王子はただちに即位し、ラーマ5世と称する。「王の生没年および在位期間は日本の明治天皇とほぼ重なり、国の近代化につくした役割においてもよく似ている」。タイの明治天皇と言われる。
■5.国民の一致団結■
幕末から明治にかけて、東南アジアは次々と欧米の植民地となっていく。
1819 シンガポール(イギリス)
1826〜86 ビルマ(イギリス)
1862〜84 ベトナム(フランス)
1863 カンボジア(フランス)
1898 フィリッピン(アメリカ)
1909 マレー(イギリス)
フィリッピンやマレーが植民地になったのは、明治に入ってからで、20世紀初頭の第一次大戦前まで欧米帝国主義は猛威をふるっていた事が分る。
タイは、東のベトナムから攻め寄るフランス、西のビルマ、および南のマレー半島から忍び寄るイギリスのちょうど中間に位置した。
英仏両国は、直接対立を避けるために、タイを緩衝国家(バッファー・ステイト)として、手を出さないでおこうという取り決めを交わした。これはタイにとって非常な幸運であった。この点も、日本が極東に位置して、侵略勢力が来るのが遅かったという運の良さに似ている。
しかし、フランスは東から、イギリスは南から領土の蚕食を続ける。
タイ国の地形は象の横顔によく似ているが、現在インド象くらいしかない耳はもとアフリカ象の耳ほどに大きく、また鼻ももう少し長かったのである。
こうして領土を失いながらも、独立を維持できたのは、ラーマ5世のもと、国民が一致して団結してきたからだろう。外国勢力を引き入れて、自ら権力を握ろうという野心家がいたとしたら、一挙に独立を失っていたであろう。この点も、幕府と薩長が対立しながらも、外国勢力を引き入れることのなかった日本とよく似ている。
■6.近代化への道■
西洋勢力の侵略を防ぎながら、タイは国内の近代化を急ピッチで進めなければならなかったのも、明治日本と同じである。1883年の郵便事業の開始、94年の市電の導入(これは多くのヨーロッパ都市よりも早い)、1914年の水道設備建設、等々、日本と同様の文明開化が試みられた。
アジアで残されたただ二つの独立国として、我が国とタイは、早くから交流を始める。明治15年に東伏見宮殿下が、バンコックを訪問され、国交関係樹立について会談された時がその始まりである。
タイが欧米各国から招いた20数名の法律顧問の首席だった政尾虎吉博士は大正2年までの16年間、タイにとどまり、新法制と法典編纂の事業に取り組んだ。博士が大正10年に亡くなられた時は、タイ政府は国葬の礼を持って遇した。
また、近代女子教育のために設立されたラーチニー(皇后)女学校では、国王の意向で、イギリス人教師を雇う従来の習慣が変えられ、日本人女性、安井てつが事実上の校長として招かれた。1904年から、3年間、安井は当時の貴族名門の子女約200人ほどを教えた。それから再度のイギリス留学の後、帰国後は東京女子大学学長、東洋永和(現・東洋英和)の校長を務め、日本とタイ両国の女子教育に大きな足跡を残した。
現在の日本では、発展途上国の法律顧問首席となったり、女子大の学長になったりする人はまずいない。開国したばかりの明治期の日本は、国際貢献が叫ばれている現代日本よりも、はるかに、スケールの大きな人的貢献をしていたのである。
■7.日本との同盟■
タイとの友好関係は、昭和に入っても変わらない。欧米植民地主義に対してともに戦ってきたという立場からは、日本の行動に対して、欧米諸国とは異なった見方をした。
満州建国で、真っ先に満州国を承認したのは、タイであった。その後も、タイ政府は国際連盟の日本非難決議に唯一棄権をして世界を驚かせた。
シナ事変が始まった時に、38歳で総理の座についたピブン首相は、日本がABCD包囲網で軍事物資の不足に悩んでいる時に、タイで生産される生ゴムと綿の全量を日本に供給してくれた。
大東亜戦争勃発後、ピブン首相は日本との同盟条約を結ぶと同時に、蒋介石に対して、「同じアジア人として日本と和を結び、米・英の帝国主義的植民地政策を駆逐すべきだ」という勧告電報を打っている。さらにタイ国内のインド人、ビルマ人にそれぞれの祖国の独立運動を奨励している。ボース率いる自由インド独立連盟も、オン・サン率いるビルマ独立軍も、バンコックで編成される。
昭和17年1月8日、米英はタイが日本と同盟したというので、タイの地方都市の空襲を始めた。そこでピブン政権は、米英両国に宣戦布告する。
東条首相が開いた大東亜会議には、王族であるワンワイタヤコン殿下が出席され、その返礼もあって、昭和18年7月に東条首相はバンコックを訪れ、イギリスやフランスにもぎ取られた旧領地をタイに戻した。タイ国民は躍り上がって喜んだという。
第二部
■1.巧みな外交手腕■
日本が敗れると、同盟国タイにも英印軍、オランダ軍、豪州軍が進駐してくる。イギリスはタイ領土の割譲を要求し、フランスは終戦のどさくさに越境するなど、白人帝国主義の本領を発揮したのだが、タイは国連の安保理事会に訴えるなどして、難を逃れている。
連合軍は、戦争犯罪人を裁くと主張したが、タイは自国ですると主張し、ピブン元首相以下10名を逮捕して裁判にかけたが、その後、容疑者全員を釈放している。驚くべき事に、戦犯として逮捕されたピブン首相は、すぐに釈放され、戦後また首相に返り咲いている。そして反共親米政権を作った。
日本で言えば、東条首相が東京裁判後、すぐに釈放され、再び首相となって、今度はアメリカと組んで、共産主義と対決したといった所である。いわば、戦争には負けたが、爆撃や原爆攻撃は受けず、王制はびくともせず、開戦時の首相がアメリカと仲良くやっていく、という手品のような事が起きたわけである。自虐史観など起こりようがない。
我が国の政治指導者が大正期以降失ってしまった巧みな外交手腕を、タイはずっと維持して、第2次大戦の荒波もかいくぐってきたと言える。
■2.コボリを死なすな■
タイの人々の対日感情を反映し、また形成するのに映画やテレビは影響力が大きい。日本軍将校とタイ女性との悲恋物語、トムヤンティ原作の「メナムの残照」は、タイで人気が高い。すでに3回も映画化され、いくつもの賞を受けている。
大東亜戦争中に、日本人将校小堀と、美しいタイ娘アンスマリンが出会う。彼女は日本への反感に心が揺れながらも、やさしく誠実な小堀にひかれ、やがて二人は結婚する。小堀の子供を身ごもったアンスマリンは、戦火の拡大でバンコクが空襲を受けた夜に行方不明の小堀を探しに行く、というストーリーである。
テレビ化された時は、コボリを死なすな、と大量の投書が寄せられたそうである。
■3.こんな気の毒な日本を見ていられるか■
戦時中、タイは進駐していた日本軍に20億バーツ(30億円)を貸与していた。その返還交渉に使節団が来日した。顧問のソムアンは戦前、日本で過ごし、頭山満などにかわいがられた人物である。池田蔵相は、日本の経済事情を説明して、返済の値引きを求めたところ、即座に了承した。
「国に帰ったら、殺されるかな」とフッと思った。けれど、「まあいいや、友邦日本は悲惨な状態なんだから」と自分に言い聞かせました。
ソムアン顧問は、さらに次のように語っている。
日本国民は餓死寸前の時でありました。日本中が焼け野原でした。そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。アメリカはそっくり返って威張っている。団員は口々に「こんな気の毒な日本を見ていられるか」と言いましたよ。だから、私に向かって池田勇人蔵相が熱心に払えない理由を釈明していたけれど、全然聞いていなかったのです。
ソムアン顧問とその父で戦前に経済相をつとめたプラ・サラサス氏は、さらに「あまりにも日本の少年少女がかわいそうだ」と言って、私費で象の「花子さん」と米10トンを贈ってくれた。子供達ばかりでなく、当時の大人も花子を見て、敗戦後も変わりないタイの好意に、心暖まる思いをしたのではないだろうか。
プラ・サラサス氏はまた、マッカーサーと直接あって、「将来、アメリカはソ連とかならず対決する日が来る。その時、力になるのは日本である。日本をいじめる事は、アメリカのためにも、アジアのためにも、ならない」と進言している。
■4.身を殺して仁をなした日本というお母さん■
1973年にタイの首相になったククリット・プラモード氏は、「サイヤム・ラット」紙の主幹だった頃、「12月8日」と題した次のような記事を書いている。
日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったがためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して、重大な決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。
このお母さんとは、現代日本の核家族の母親を想像しては間いであろう。戦前の日本のような、そして現在のタイのような、子供を7人も8人も生んで一生懸命育てている母親を想像すると、この「お母さん」の比喩がさらによく分かるだろう。
■5.仁魚■
仁といえば、次のエピソードも忘れがたい。
今上陛下は昭和39年、皇太子時代にタイを訪問された。その時、山奥の苗(ビョウ)族のタンパク質不足の問題をタイ国王からお聞きになり、魚類学者としてのご研究から、飼育の容易なティラピアという魚50尾を国王に贈られた。
この魚はタイ国内でさかんに養殖され、国民の栄養状態改善に貢献するばかりでなく、73年にはバングラデシュへの食料支援として50万尾も贈られたという。
ある日本人は、魚市場でタイ人から、「この魚は、日本のチャオ・ファー・チャイ(皇太子)が持ってきてくれたんだ」と聞かされたそうである。
この魚の漢字名は「仁魚」という。華僑系市民がこの話に感動して、陛下のお名前(明仁)をとって命名した由である。
■6.両国民の思いやりと志の積み重ねの上に■
社民党の土井たか子氏は、平成7年、戦後50年の戦没者慰霊式で衆議院議長として式辞を述べ、「日本はアジアの人々のまことの和解を手にしていないのであります」と語った。
この短い言葉の中には、これからの国際派日本人が犯してはならない誤りが二つも含まれている。
第一の誤りは「アジアの人々」という概括の仕方である。隣り合わせのタイとマレーシアでも、歴史、言語、文化、政治体制、対日関係とすべての面で大きな違いがある。それらを十把一絡げに「アジア」と呼ぶ姿勢には、相手の民族・国家の個性をきちんと理解して、交際していこうという誠実さは感じられない。
第二の誤りは、「まことの和解を手にしていない」というような、口先だけの態度である。タイから見れば、そんなセリフで一人格好をつけている暇があったら、もっと汗をかいて現実の問題の解決に手助けをして欲しいというのが、本音であろう。
前号で紹介したタイの新法制制定を指導した政尾虎吉博士や、女子教育の草分け安井てつの努力を思い起こすべだ。政尾博士が亡くなられた時に、タイは国葬の礼をもって遇したのである。
土井党首率いる社民党は今まで「アジア」の国々のために一体どのような汗をかいたのであろう。社会党時代にカンボジアのPKOにすら国会の牛歩戦術で反対した事しか筆者の記憶には残っていない。
タイと日本とは今回紹介したように120年以上の友好と同盟の歴史を持ち、それは政尾虎吉や安井てつのような人々の志によって、築かれてきた。また敗戦時に好意を寄せてくれたソムアン氏、プラ・サラサス氏のようなまごころによって培われてきた。このような両国の人々の具体的な志と思いやりの積み重ねを思い起こしつつ、その友好関係をどう継承・発展させていくのか、ということを考えなければならない。
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