いのちの風 bS40
10月26日(水)発信 石黒大圓(だいえん)
今回のテーマ 戦前の日本の評判・3
いつもありがとうございます。 今回は通信を書く時間がなくて「反日マスコミが伝えない親日の話」のホームページの韓国編から感動的な話を抜粋しました。
1 閔元殖 「朝鮮騒擾善後策―鮮民の求むる所は斯くのごとし」 (「3・1独立運動」総括)
日本政府は併合以来十年近く、朝鮮人の生命財産を保護し、国利民福を向上させる点に於いて用意周到であった。 運輸交通、金融機関の整備、農工各種の産業の発達等、旧韓国時代の悪政から朝鮮人を解放し、夢想もしなかった恵沢をもたらせた。 にも拘わらず朝鮮人の性情が偏狭・我執に傾いているためか、口では感謝しながら、心では淋しさを感じ朝鮮人の自尊心を傷つけるなどという者が多い。 更に朝鮮人は米国を世界の自由郷を現世の楽園のように思っている者が多い。 しかし、そこは白人の天国であって、有色人種の人権はほとんど認められない。 パリ平和会議で、日本が人種差別撤廃を提案したが、オーストラリアのヒューズ首相が強硬に反対し、それを真っ先に支持したのはウィルソン米大統領ではなかったか。 米 国の庇護に頼って栄光ある独立ができるなど不可能の事である。 日本統治下の朝鮮人は、米国に比べてはるかに幸福であることを認識し、穏当な方法によって民権を拡大していくことを講ずべきである。
2 「おかげで朝鮮も独立できます。」
(インドネシアでオランダ軍に無実の罪で刑死させられた朝鮮人少年兵)
再度インドネシアを植民地にしようとするオランダ軍によって不当極まりない軍事裁判の中に朝鮮人兵士朴成根少年が無実の捕虜虐待の罪で被告席に立たされていた。 裁判とは程遠いものだった。 馬渕逸男司令官代理が気の毒に思い裁判の合間に面会に行った。 「真に気の毒な結末となって相すまぬ」というと「なあに運命ですよ。ここでは正邪曲直は通りません。覚悟は決めていますから平気です。 堂々と戦います」ときっぱり答えたという。 単なる復讐劇だからまともな判決が出るはずもなく朴少年も死刑の判決を受けた。 父親の代理ということで馬渕少将が死刑の直前朴少年に面会した。 「戦争が負けたばかりに君にこんな目にあわせて何とも申し訳ない」と云うと少年は「何、仇に裁かれては仕方ない。 しかし、アジアは独立しますよ。日本の勝ちですよ。 おかげで朝鮮も独立できます」 最後に愛国行進曲を歌うといって少年は歌い始めた。 少将は聞いていて涙がこぼれたという。 そして少年は「私は一人息子で姉一人妹一人。 親にかわいがられて育った。 父は亡くなり姉は嫁いだ。 母は私の死を悲しむだろう。 妹に私に代わって孝行して呉れと、(少将に同行した朝鮮の友人に)遺言を頼みました」と云った。 制限時間はとっくにすぎたので千万無量の手を握り合って訣れたが。 彼の瞳は澄み、「もう、これで思い残すことはない」と云った。 処刑にあたっては卑劣なオランダ人の兵士達の前で威風堂々とした態度であったという。刑木に縛られる前に見物人を一わたり見渡し、「大韓国独立万歳、万歳、万歳」と偉大なる祈りを三唱した。 ときに昭和22年1月、朴成根少年享年19歳。
3 「岩田さんが水田の草を取る」韓国農民の父・岩田平之助
(原始貧農・赤貧だった韓国の農業・農家を近代化したのはだれだったのか!)
日露戦争が終わって間もなくの明治39年春、岩田平之助は朝鮮に渡り開墾事業に取り組んだ。 (慶尚北道金泉)23年後、彼は郷里和歌山からこの地方の水田の条件に適合した品種の「早生神力」という種籾を持ってきて、自分の農場に植えたばかりでなく、採種田を作り、その地方一帯の農場や農家に対してまで広く普及させ、米の品種改良と増産に尽くした。農機具の改良や正条植(等間隔に整然と苗を植えること)を教え、2毛作による増収もはかった。 農民の生活の安定と向上のために率先乗範すること、実に30数年に及んだ。 やがて「岩田公(アムジュンクォン)」と呼ばれ、「農民の父」敬慕されるようになった。 今でも金泉地方には「アムジュンノンメンダー(岩田さんが水田の草を取る)」という言葉が残っている。木片を投げて競う子どもの遊びの中で、最高点になったときに喜びを表す時に使われる言葉で、岩田公が田の草を取る時の姿が蒲鉾の背中に似ているところから来たものだそうである。 昭和50年頃、長男の岩田健吾氏が彼地を訪ねたところ、「岩田公の御曹司来る」として大歓迎を受けたという。
4 伊藤博文暗殺
衝撃が走ったのは、韓国の王室ばかりではありません。11月4日の国葬(日比谷)には、韓国の勅使はじめ政府代表者らが多数参列しました。 同じ日にソウルの奨忠壇では、李完用首相の主催で、官民1万人が参列して追悼会が催され、追悼会は全国各地に及びました。 1ヵ月後の11月26日には漢城府民会、その翌日は大韓商務局総会、12月13日には永道寺がそれぞれ主催して、追悼式が持たれました。 当時、旅順監獄に繋がれていた安重根の所に面会に行く者はなく、伊藤博文に対しては「東洋の英雄」「朝鮮の大活仏」等の賛辞が続きました。 そればかりではありません。 朝鮮民族の罪科を謝罪するために、全国13道に呼びかけ、「渡日謝罪13道人民代表臨時会議所」を設ける団体も現れました。 また一方では、伊藤公を閔帝廟のように、神として祀る運動やら銅像や頌徳碑を建立する運動も起こりました。 (略)皮肉にも、伊藤総監暗殺によって日韓併合は一挙に早まってしまったのです。 ( 1〜4まで 「日韓2000年の真実」名越二荒之助 著より)
5 それまでの日本はアジアのホープであった
戦前派の良識ある韓国人が述べる「歴史認識」
現在の日本人の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。 平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。 それまでの日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。 最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。事態ここに至る。 座して死を待つよりは、戦って死すべし、というのが、開戦時の心境であった。 それは日本の武士道の発露であった。 日本の武士道は、西洋の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。 それは大東亜戦争だけではなく、日露戦争もそうであった。 日露戦争と大東亜戦争ーこの2つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。 この意義はいくら強調してもし過ぎることはない。 「日本文化研究所」設立者 朴鉄柱
6 現代韓国人が知らない日本統治以前の韓国は奴隷社会 金完燮 SAPIO 03/02/26
死亡当時、すべての朝鮮人にとって呪いの対象だった閔妃が、今になって自主独立の殉教者として華麗に復活した現象は、韓国人が直面しているアイデンティティーの混乱を端的に示すものだ。 韓国人が朝鮮王朝を慕い、日本の統治を受けず朝鮮王朝が継続したならもっと今日良くなっていると考えるのは、当時の朝鮮の実態についてきちんと分かっていないためだ。 特に子供と青少年は、きれいな道ときれいな家、整った身なり、上品な言葉遣いのテレビの歴史ドラマを観ながら、朝鮮もそれなりに立派な社会で、外勢の侵略がなかったならば静かで平和な国家を保てたろうと錯覚する。 しかし日本が来る前の朝鮮は、あまりに未開で悲惨だったという事実を知らねばならない。 朝鮮は典型的な奴婢社会であった。 全人口の30パーセント以上が奴婢であり、首都漢城の場合は人口の70%以上にも及んだ。奴隷は物のように売買され、主人のために生涯奉仕しなければならなかった。 平民や中人階級は奴婢に比べて若干自由があったが、貴族や官吏たちに略奪される立場にあるのは同じだった。 両班とも呼ばれる貴族たちは無為徒食しながら、下の階級に対し無慈悲に権力をふるった。 ある学者はこのような朝鮮を、20%のヒルが残りの80%の血を吸う社会構造だと喩えた。 朝鮮は当時、世界中で最も未開で残酷な社会であり、このような社会が自力で改革を行って近代化するということは到底考えられなかった。 だから、日本が朝鮮に進出しなかったら、朝鮮は文明の恩恵を受けられないまま世界で一番遅れた地域として残ったことだろう。 したがって、今日韓国がある程度、民主主義の実現と経済開発に成功し、他の開発途上国から羨望される水準に発展したことは、全面的に、朝鮮のために働いた日本人のお陰である。 当時の朝鮮人はこのような事実を熟知していたために、独立以降も朝鮮王朝に対しては何の郷愁も恋しさも持たなかった。 だから今日朝鮮の王室を再建することによって自分たちのアイデンティティーを獲得しようとする一部の韓国人の試みは、まったくもって間違ったことなのである。 このような行動の背景には、韓国と日本を離間させることで利益を得ようとする集団の意図も存在しているのだろう。 韓国は日本が生み育てた息子のようなものである。 韓国人は日本との同質性を回復し、心のこもった友好関係を追及することに自らのアイデンティティーを求めなければならない。
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