いのちの風 bS45
12月1日(木)発信 石黒大圓(だいえん)
【Eメール・アドレス】 gytkm947@ybb.ne.jp
今回のテーマ 台湾人支援者/連帯感/信仰か社会活動か/布施/無防備地域宣言/義挙
いつもありがとうございます。 さあ今年も最終の月師走12月となりました。 皆様お元気でしょうか。 多くの方にカンパや衣類をいただき感謝申し上げます。 2月まで寝袋配布がんばります。
今年からmixiというインターネット・サイトに、この通信の下書きのような文章を書くようになって、ますますあっという間に日が経つようになりました。 前回に還暦のことをいいましたが、いのしし年は再来年なのに気の早い、おかしなことを書いてしまいました。
差別なき連帯感が生む絆
先日大阪駅前にやって来て事情を聞いてくれていた台湾人4人が、先週初めて支援物資を運びこんでくれました。 グゥバジュースと竹の子煮込み具のレトルト、そしてオートミールの3種を百人分くらい持ってきてくれました。
野宿のオッチャンたちは大満足で帰っていきました。 掃除にも10人以上参加してくれて満足が感謝の奉仕に転化するのがわかります。
炊き出しでおにぎりを渡して「ハイ、サヨナラ」ではこうにはならないでしょう。 衣類やおにぎり、掃除道具で満載の私の車が着くと10人以上のオッチャンたちが迎えに来てくれて運ぶのを助けてくれる。 そして手分けして順番待ちの人々を整理したり、衣類を配る手伝いをしてくれる。
一緒に炊き出しをしているという連帯感が生まれています。 掃除を一緒にしてきた効果がそれを可能にしたと思います。
何でも一緒にする、一緒に飯を食う、上下関係なく話す。 これは日本独特の人間関係であり、戦前に身分階級差別や人種差別がひどかった欧米人には不可能だった。 民族差別や階級差別の少ない日本人はこの点で大東亜戦争当時にアジアの人々の心をとらえ、「我々を差別しない日本人は立派だ」として尊敬された。
そのような実際の体験談は日本では教えられていなくて、悪い例ばかり教えて、「アジアでひどいことばかりした日本人」という洗脳となってしまっている。
日本の心の底にイエス見る
台湾でも戦前の日本統治のおかげで近代的精神としての日本精神を学び、人間としての自覚を得られたと感謝している戦前経験者の老台湾人が多い。 その恩返しであろうか。 その子孫が日本の野宿者支援に来てくれている。 大阪城公園でこの台湾人たちは暖かい煮込んだ食事を野宿者たちに手渡し支援してくれているらしい。 ありがたい。
釜が崎にもある多くの韓国系キリスト教教会では集まってミサを聞いたら、パンや弁当をあげるという形の野宿者支援をしているが、このエサで魚を釣るやり方はどうかと思う。 これは無償の愛の実践ではない。 釜が崎の日本のキリスト教会では信者獲得のための宣教活動はしないと誓約をむすんでいる。 それが正論と思う。
「信仰か社会活動か」でいつも多くのキリスト教会では議論があるらしい。 神を取るか人を取るかという馬鹿げた議論をしているらしい。 この論争に嫌気がさして、所属している教会から離れて釜が崎の教会に来る信者も多いと聞きました。
イエスが2000年前にされたのと同じことをするのが当たり前だろう。 イエスは常に「貧しく小さくされた人々」のそばに寄り添い励まされた。 師の姿のあとを追うのが信徒の務めだろうが。 その実践活動をする時にこそイエスの魂にふれることができる。
釜が崎のリーダーの1人、本田神父は「聖書を読む必要はない。 聖書ばかり読んでいては頭の硬い人間になる。 イエスがされたように貧しく小さくされた人々に寄り添って生きることこそクリスチャンとしての資格がある。 洗礼を受けなくてもそのような行動をする人はクリスチャンである」といわれた。
元に戻って、台湾人と違って韓国の一般の国民は日本にまで来て支援はしないだろう。 「戦前の恨み」というウソの愛国的民族主義の洗脳を刷り込まれているからだ。 台湾も朝鮮も日本統治時代に経済的発展の離陸を果たし教育的恩恵も受けたにもかかわらず、台湾は感謝し、朝鮮は未だ憎しみの底にある。 憎しみからは報恩感謝の気持ちは生まれない。
仏教の布施の心は今も生き
今週の大阪駅前の炊き出しのときに野宿のオッチャンたちに長袖肌着とパッチを配りました。 昨年はクリスマス・プレゼントとして年末にアンゴラ混の上下の肌着を配ったのですが、今年は早く配ってあげようと1ヶ月早くしました。
近所の卸問屋で百枚セット上下組にして1組355円也。 卸問屋街にいるので本当に助かります。 クリスチャンの人々が半分負担してくれました。 しかし最近は大阪駅前の炊き出しではクリスチャンより仏教徒の方が勢力優性になってきました。 うれしい限りです。
今週は先週ジュース缶などを差し入れしてくれた台湾の人々が再び来てくれて、肌着の配布の手伝いもしてくれました。 彼らの素性がわかった。 チベット仏教系の宗教団体らしい。 台湾の支部らしく信者数は全世界に700万人もいて「慈救会」という名前といっていました。 チベットでのラマ僧との集会の写真も見せてくれた。 慈悲行為として全世界で貧民救済活動をしているらしいです。
また以前から参加してくれている坊主頭で赤い僧衣を着ている日本人女性は、英国でチベット系の別の仏教教団に入ったそうです。 昨年に應典院の瞑想イベントで知り合ったのですが、仏教修行を今大阪でやっています。
ここでの炊き出しは今までカトリック信者が中心でしたが、私が参加してから今では彼女を含めて普通の市民、仏教徒が中心になりつつあります。 別に宗教差別をしているわけでもないのですが、この野宿者救済活動はカトリックがやればいい、ではすまされない大阪市民の問題です。 大阪の一般市民の参加が多くなって本当にうれしいです。
毎回のお願いになりますが、すこしでも善意の寝袋カンパをよろしくお願いいたします
殺される同胞尻目に命乞い
ここに来ていたカトリック信者たちは例の「無防備地域」宣言への署名運動をしていました。 私がそれに関心を向けなかったこともあって嫌われて離れてしまったよう。
昨年在日朝鮮人の大学講師を呼んだクリスチャンの例会で、私と講師が強制連行や従軍慰安婦のことなどで対立して、私はウヨクと見なされるようになったようです。 多くのカトリックの人はここには来ず、昼間に教会でおにぎり作りをしてくれています。 それはそれでありがたいことです。
この「無防備地域」宣言への署名活動は、ジュネーブ条約で有事の際に攻撃が禁じられている「無防備地域」の宣言をするのですが、今全国に広がっています。 要するに市民が勝手に国防協力を拒否するということ。
しかし(1)すべての戦闘員や移動兵器、移動軍用施設が撤去されている(2)固定された軍用施設や営造物が敵対目的に使われていない(3)当局や住民による敵対行為がない(4)軍事行動を支援する活動がない ―― などが必要条件。
自治体が宣言してもこうした条件を満たせない場合は背信行為とみなされて攻撃からはまぬがれない。 国が攻撃を受けて国土防衛している時に、我が市は戦闘放棄すると宣言しても政府の法律の方が優先されて、平和宣言した自治体だけのいわば反乱となり、実際の実施は不可能である。(1)から(4)までの条件を、住民一人ひとりが守ることなどありえない。
もし1人でも住民が侵略軍に対して敵対すれば、この条件は消滅して攻撃を受けるのではないか。 全員の住民の意思を束縛する権利などないはず。 一人でも鉄砲を打ったらこの宣言違反となる。 全住民に抵抗を止めよと反戦住民が触れ回らないといけない。 そんな自由意志抑圧など民主主義に反する。
またこの条約無視で攻撃してきた場合は(たとえば終戦間際に日ソ中立条約を無視して侵略してきたソ連のように)、世界のどの国がそれを撃退してくれるという約束の条項があるのだろうか。 終戦間際に北方領土で白旗を揚げても侵攻してきたソ連兵は無差別殺戮をしたという歴史を知らないし、知ろうともしない左巻きのやることでしかない。
他の地域の市民が侵略軍と戦っているのに、自分たちだけは白旗をあげて侵略軍を歓迎して命乞いをしているようなものです。 卑怯の極みです。 要するにこれは共産主義者と非武装中立主義者の売国的な運動なのです。
いのち捨ていのち輝く義挙こそ命
日曜日には朝から三つのイベントを掛け持ちで見てまわりました。 3つから共通に感じたもの、それは義挙。
朝は豊中駅前の「すてっぷ」会場で映画「学び座」を見る。 10年以上前に
1人の人間として、学校を野獣のような世界にしている番長たちの不正に対して怒りを感じ、自分と相手の命をかけてでも修復しようとした義憤による義挙。 それが学校の生徒や先生、そして稚内の人々の目を覚まさせた。 たった1人の行動でも社会を変えることができるのです。 しかしそれはおのれの命をもかえりみない無私の魂を持たなくては、人々を感動させ立ち上がらせることはできない。
(詳しくは縁の花さんのページに記載の「いのちの風」bR85「大阪メチャハピー祭」をご覧下さい)http://www.geocities.jp/ennohana/enisiguro385.htm
映画「学び座」http://www.groove.or.jp/KinemaTokyo/film/film.html
南中ソーランhttp://www.ecpla.net/nantyuu/nan_rekisi.html
もう1つの義挙は「釜が崎でのカレーの炊き出し」
鍵山秀三郎さんの「日本を美しくする会」「掃除に学ぶ会」の精神から学び、釜が崎での掃除に取り組んでおられる樋口順三さんや佐藤弘一さんたちの活動。 行政・政府からも、企業・会社からも捨てられ、大阪の人々からも見捨てられ、職もなく家もなく家族もなく路上で寝ざるを得ない野宿者の人々。
その人々に月に1度だけかもしれないが、救いの手を差し伸べて1200食のカレーの炊き出しを10年近く続けておられる。 キリスト教の支援は多いが彼らの活動はまったくの市民の活動。 政治色もない。 これこそ「貧しく小さくされた人々」を支援しようとするこころざしある人々の義挙である。
この日初めてmixiの私の記事を見て1人の女性がこの炊き出しの応援に来ていただいた。 ありがたかった。
最後は大阪護国神社での「三島由紀夫・森必勝両烈士・追悼35周年慰霊祭」。 慰霊祭には列席できませんでしたが、講演「戦後60年と日本の誇り復活運動〜三島義挙の精神を受け継ぎて〜」には間に合いました。 三島由紀夫は昭和45年に自衛隊東京・市谷駐屯地において自衛隊員に決起を呼びかけた後に割腹自殺して果てた。
しかし三島が危機感を持って日本社会に問いかけた「占領憲法である現日本憲法が生み出しつつあった戦後の日本社会の退廃」は、彼の死後35年の現在に真実のものとして徐々に日本国家崩壊に導きつつある。 彼はその予言を死をもって世に知らしめようとした義挙であった。
この日に私がめぐり合った3つのイベントは私の目指している活動をすべてカバーするものなのでした。
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