いのちの風 bS54 

月2日(木)発信 石黒大圓(だいえん

 

 Eメール ishiguro@a1.hey-say.net

 

今回のテーマ 寝袋配りの放映/ペイ・フォワード/人の死と国の死/アメリカインディアン

 

 

いつもありがとうございます。 先日の寝袋配りのTV放映はうまく構成されていて、感動しました。 涙にむせいでいる私と、チューインガムを噛みながら歩いている姿がテレビに映されて、少々恥ずかしかったです。 しかしガムは頭が冴えてガッツが出るので私の必需品なのです。 

 

映像はホームレスの実情と彼らの思いがうまく表現されていました。 強制撤去の暴力シーンだけだったら、ホームレスへの偏見のみが残ってしまう。 彼らが何故ブルーテントに住まなくてはいけなくなったか。 地獄のような路上生活に戻りたくないためです。 その声を1人のホームレスの姿の映像から読み取ってもらえたら有り難いです。 

 

肩落とし消え入るような後姿

 

その地獄へ暖かい寝袋を届けている私たちの姿をどう皆が見てくれたか。 甘えさせていると見るか。 路上生活を肯定して野宿するように仕向けていると見るか。 人さまざまでしょう。 しかし彼らの生活を垣間見て、いかに我々が恵まれた生活をさせてもらっているかを考えてほしい。 

 

「毎日食べられて、横に家族がいて、毎日仕事に行けて、それがどれだけありがたいか。 それは当たり前ではない。 それが失われた時にどれだけつらい思いになるか。 家族を二人も病気で亡くしているから切実に感じるのです」と涙の筋を見せながら語った部分が放映されました。 私の涙声の訴えを納得して聞いてくれる人がいたら、あの涙も無駄ではなかったと思います。

 

 

この日は寝袋の使い方を知らない人が特別多かったです。 もし寝袋の使い方を知らない人がいても、寝袋で寝ている周りの人が教えてくれると思っているので、簡単に「知っていますか」と聞くだけにします。 熟睡している人に長居は迷惑だと思っていますから。 

 

裸足の人に寝袋をあげるのは今回が初めて。 しかも撮影の日に。 本当に気の毒なこの、足も不自由な人とめぐり合い、私もその時に2枚靴下をはいていて、それをあげた。 偶然とはいえすごいシンクロニシティです。 やはりこれは神事と感謝しました

 


  「俺はあんなホームレスには絶対ならない。 がんばって働いているんだから」という人がいます。 しかし自分の努力だけで本当に不幸にならずに済むのでしょうか。 いつもプラス思考で生きているから大丈夫、という人もいます。 そうでしょうか。 人生にはまさかの坂というものが、ある日町角を曲がった時に待ち構えていることがある。 上り坂、下り坂だけの人生ではない。 

 

ある日突然不渡りを食らい倒産、失業といった人生もある。 私たちのように子供が難病にかかり毎月百万円の治療費が請求される地獄を見る時もあります。 幸い私たちの時代には苦労された先人の努力で子供の難病治療に国家補助が出ていて無料となっていました。 しかし昔同じ病気の子供をかかえた人々は、子供は亡くなった上に、一家破産か借金に追われる人生に転落したはずです。  

 

手を握り共に歩まん無常の世

 

人生何が起こるかわからない。 お釈迦さまはその民衆の姿を悲しみ、何がこの世の真理かと、それを求めて出家された。 生老病死の苦が渦巻くこの世は無常に変化しつづけている、と見抜かれた。 いろは歌はこう説く「色は匂えど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔いもせす」 

 

この世に同じ物は一つとしてない。 永遠に変わらないものはない。 時の流れとともに移り変る。 すべてのものが変化し実体がない。 どこまでも移り変り変化するが、他のありとあらゆるものが、からみあい、つながりあっている

 

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす、おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし、猛き者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」と平家物語の冒頭に吟じられる句も同じ。 その変わりつづけるこの世で自分の人生がこのまま同じ安泰のままで過ごせると思うのは甘すぎる。 自分の会社が不渡りを食らわなかった代わりに、他の会社が食らわされているかもしれない。 自分の子供が難病に侵されなかった代わりに、他の家庭の子供が代わりに病に伏せることもある。 

 

そのようにすべてはつながり補い合っている。 他の人の代わりに苦しみの谷を歩んでいる人は、仏さまの仮の姿だとは思えないのだろうか。 人は一人では生きられない。 多くの人々のおかげでこの諸行無常の世界で生かされている。 そのおかげとそのご恩を、見えないその人に返すだけでなく、目の前の薄命の人生を歩んでいる人にプレゼントする。 

 

           

ペイ・フォワード・可能性の王国という映画を見ました。 11才の少年トレバーは、社会科の授業で「今日から世界を変えてみよう」という課題を出されました。 トレバーは奇想天外なアイデアを考えつく。 人から受けた厚意(親切)をその相手に対して返す、恩返し「ペイ・バック」するのではなく、 他の誰かに違う形で先贈りして善意を広げていく「ペイ・フォワード」する。 しかし決して相手に善意の見返りは求めない。 少年の死後、彼の遺志は ペイフォワード「次へ渡そう」運動となって実を結んだ。  

 

実話ではないですが「あなたにも世界は変えられる」という希望の光が、映画を見た人の心に灯ったと思います。   この不条理の世界で悲しい思いをすることは多いです。 「自分ひとりに何ができる?」とただ私たちはこの状態を諦めきってしまっていいのだろうか。 

 

だが、たった一人が変わり、まわりの人にペイ・フォワードすることで、やがて世界も変えられるかもしれないという可能性はないでしょうか。 私の活動は妻や次男が受けた厚意をペイ・フォワードしていることだと信じています。  そして生きる姿勢が変わった人の姿を見てまわりの人も変わる。 そんな淡い思い。 これが本当のペイ・フォワードです。


奇跡奇跡よ起これと神にひれ伏す


  いつも夜中四時からのNHKラジオ深夜便「こころの時代」を自動録音して朝から聞いています。 ここでは宗教や人生、病い、歴史、教育、自然などの話が毎回人々によって語られ、まさに心の話の宝庫です。 そのなかで毎月月末の日曜日には五木寛之氏のわが人生の歌語りがあります。 すでに10回目が終わりました。 ここで彼は学校の先生として北朝鮮へ渡った両親と一緒に生きてきた半生を、その時代に流行った歌と共に語っています。戦時色真っ只中でも明るい、また色気のある歌でさえ人々は歌っていた。

     

戦後の歴史が伝える戦時中は暗黒の時代ではなかった。 そのことを戦後民主主義の時代にもてはやされた作家の口から出るとは驚きでした。 一緒に話を聴く女性アナウンサーも驚いていました。やはり我々は戦後の歴史教育で洗脳されていたのです。 それでも左巻きの芸能評論家は言います。 「いや民衆は明るい歌を歌って政府に反抗していたのですよ」と。 何でも人民と国家との闘争というマルクス主義史観で説明しようとする定番の解説。 我々はそれに戦後長くだまされてきました。 


  彼は愛国少年として皇国日本が負けるとは絶対に信じられなかった。 これは末期患者家族がその人の死をなかなか受け入れられないのと同じだと思いました。 私も「5歳前の子供の次男が死ぬ」なんて考えられなかった。 医者が何度も「覚悟してください」といわれても、きっと奇跡が起こると信じていました。 

 

戦前の日本国民と同じように、彼も神風がきっと吹いて、奇跡が起こって日本は不敗の皇国として再びよみがえると信じ込んでいた。 ルバング島で30年間戦った小野田・元・少尉も先日の講演でそう言っていました。 まさに私たちと同じように国家が死ぬ(敗戦)なんて受け入れられなかったのです。 私には実感としてすごくわかります。 

 

 

敗戦後、彼は他の大人と同様に北朝鮮という異国で、国家を失った難民として茫然自失となっていました。 そして侵攻してきたソ連軍人が病床にあった彼の母を暴行し、結果、自殺されたようだ。(ラジオでは語らなかったが、そのことについては彼が本に書いているらしい)そして母を守れなかった罪悪感から、剣術の達人でもあったのに父は廃人のようになってしまう。 この惨状はまるで非武装中立国家がいかなる運命をたどるかの見本みたいなもの。


  そして文学少年だった五木さんは弟・妹と父という3人の家族をかかえる一家の大黒柱となった。 タバコを吸ってヤクザな大人のように振る舞いながら、食料の確保など、大人社会と渡り合って生き残るサバイバル生活が始まった。 

 

そして祖国への帰国までの絶望的な逃避行のなかで、多くの日本の子供たちが捨てられた。 残留日本人子女は満州だけでない。 北朝鮮にも1万人はいたと彼はいう。 満州以上にその子供たちは日本人としてどれほどの迫害を受けて殺されてきたことか。 今の拉致問題の前にそのような悲劇が北朝鮮で行なわれていたのです。 知らなかった! 胸がかきむしられる思いで慟哭しました。 

 

インディアン誇り失い亡国の民

 

日本民族はアメリカインディアンと同じような偏見と誤解におとしめられているのではないかと最近になって思い至りました。 戦後のハリウッド映画によって、いかにインディアンが残忍な種族かと洗脳されました。 インディアンが西部開拓民幌馬車を襲い、殺し、犯し、焼き尽くす。 これなど中共が宣伝する、日本軍がしたというウソの三光作戦とまるで同じです。 頭の皮を剥ぐのは白人が先にしたのに、インディアンの所業として宣伝され、残忍な種族との偏見を世界中に植えつけてしまった。

 

しかし真実はインディアンは侵略者に勇敢に戦った勇者であり、精神的にも霊的民族であったと評価されつつあります。 また最近はアメリカインディアン復権の映画も多く現れてきました。だが過去の誤った情報操作による民族偏見によって、インディアンは誇りを失い、人口も激減し、酒におぼれた哀れな存在におとしめられてしまいました。 

 

まさに現在の日本国民も同じで、かって勇者であり霊的民族であったことさえ忘れられています。 そして自信を失い、自己卑下したインディアンそっくりの状況に陥っています。 その結果アメリカインディアンと同じように、先祖への感謝と祈りと誇りを失ない、霊的民族としての魂も失いつつあります。 

  

 

頭の生皮を剥ぐような残虐な民族性は中国人の方がもっているのです。 最近は毛沢東がヒットラーやスターリン以上にいかに残忍な支配者であったか。いかに数千万人を殺戮した革命の歴史を生み出してきたか、について書かれた本が書店に山積みされています。これを可能にしたのは狩猟牧畜民族の血を引いている中国人だからこそです。 

 

反共産党とみなされた同胞を中国人自らが、どれだけ残虐な方法で大量に屠殺していったか。 死んだ者の墓でさえ中国じゅうで暴かれ、死体がさらし者にされていた。 HPで見ましたが、世界の動物の毛皮の大部分が中共で作られます。 泣き叫ぶ動物を業者は笑いながら、ほとんど生きたまま皮を剥いでいる。 共産主義者の彼らの心には生きとし生けるものに対する畏敬の念はない。

 

 

そんな中国人と違って喧伝されるような悪魔的な残虐行為を日本人がなすはずがない。そんな真実の歴史が知らされず、日本に対する偏見によって東京裁判で日本に対する冤罪が確定してしまった。 その後も朝日新聞の「中国の旅」連載以来再び日本国民は自らを残忍な民族だと自己卑下する洗脳を植え付けられてしまいました。 

 

いま日本でも「男たちの大和」など過去の日本歴史の復権をめざす多くの映画がヒットを飛ばしています。また書店店頭には数十年前とは見違えるほど多くの過去の日本歴史を好評価する書物や雑誌が積み上げられています。 うれしい限りです。 今後日本でも日本復権の情報がどんどん発信され、日本再生の神風が吹くことを乞い願います。

 

(終)



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